[未校訂] この地方では、中世以前の遠い昔の地震記録がありませ
んので、語ることができませんが、江戸時代になって次の
三大地震がありました。すなわち―
寛文五年(一六六五)高田大地震
宝暦元年(一七五一)宝暦大地震
弘化四年(一八四七)善光寺地震
松平光長時代の寛文五年十二月二十七日七ツ時(午後四
時過ぎ)、突然大地震が起こりました。おりから高田は積
雪四メートルほどの大雪で、そのうえ地震により火災が起
こり、手のつけようがありません。『高田市史』は―
本城の建物残らず破損し、その他米蔵石垣及び士分の家
七百戸町家社寺の破損算なし。圧死する者、侍三十五
人、その余の男女百二十人、町人の死傷その数を知らず
と述べています。家老小栗五郎左衛門、荻田隼人の圧死し
たのはこの時です。高田町以外の在方の地震記録がないの
で、郡内の被害はわかりませんが、直江津の福永家文書に
は「十二月二十七日七ツ時、高田御城下死人潰屋不知数」
とあるだけで、人びとは雪の上に小屋を掛けて震えていた
ということです。
父五郎左衛門に代わって高田藩家老となった小栗美作
は、早速罹災者の救援にのり出し、幕府へ申請して翌年三
月、米三千俵を見舞いとして受取り、町民へ施しました。
また五万両の大金を借り出して、五千両は城の修理に、二
万五千両を町家のため間口一間につき一両づつ、裏町は二
分づつ貸し与えて復興をはかりました。
高田の森平さんに「寛文六年関町中御拝借金之留帳」と
いう一冊がありますが、これこそその当時のなまの史料で
貴重なものです。小栗美作はこの大地震を機会に町の区画
整理を断行して、現在の町並みを作りました。ほかに寛文
大地震の記録をご存じの方は教えてください。