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項目 内容
ID J0601432
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1666/02/01
和暦 寛文五年十二月二十七日
綱文 寛文五年十二月二十七日(一六六六・二・一)〔越後〕八王子⇨二十九日
書名 〔江戸時代の上越後の三大地震〕「広報じょうえつ」
本文
[未校訂] この地方では、中世以前の遠い昔の地震記録がありませ
んので、語ることができませんが、江戸時代になって次の
三大地震がありました。すなわち―
寛文五年(一六六五)高田大地震
宝暦元年(一七五一)宝暦大地震
弘化四年(一八四七)善光寺地震
 松平光長時代の寛文五年十二月二十七日七ツ時(午後四
時過ぎ)、突然大地震が起こりました。おりから高田は積
雪四メートルほどの大雪で、そのうえ地震により火災が起
こり、手のつけようがありません。『高田市史』は―
本城の建物残らず破損し、その他米蔵石垣及び士分の家
七百戸町家社寺の破損算なし。圧死する者、侍三十五
人、その余の男女百二十人、町人の死傷その数を知らず
と述べています。家老小栗五郎左衛門、荻田隼人の圧死し
たのはこの時です。高田町以外の在方の地震記録がないの
で、郡内の被害はわかりませんが、直江津の福永家文書に
は「十二月二十七日七ツ時、高田御城下死人潰屋不知数」
とあるだけで、人びとは雪の上に小屋を掛けて震えていた
ということです。
 父五郎左衛門に代わって高田藩家老となった小栗美作
は、早速罹災者の救援にのり出し、幕府へ申請して翌年三
月、米三千俵を見舞いとして受取り、町民へ施しました。
また五万両の大金を借り出して、五千両は城の修理に、二
万五千両を町家のため間口一間につき一両づつ、裏町は二
分づつ貸し与えて復興をはかりました。
 高田の森平さんに「寛文六年関町中御拝借金之留帳」と
いう一冊がありますが、これこそその当時のなまの史料で
貴重なものです。小栗美作はこの大地震を機会に町の区画
整理を断行して、現在の町並みを作りました。ほかに寛文
大地震の記録をご存じの方は教えてください。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 320
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 上越【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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