[未校訂]第三章 地震
霊元天皇寛文五乙巳年(紀元二三二五年)
十二月二十七日(新暦翌年二月二日)申の刻過大地震起
る。高田城市は例年大雪の積る土地なるが、此時も深雪に
て軒端を埋め自由ならず、殊に古今無之大地震故、城郭藩
士邸内、市街、神社、仏閣、民舎に至るまで、潰家大破圧
死人夥敷く、古今未曾有の大変にて(他国に往古より地震
なきにあらずと云へども、深雪の中、大地震災は高田の此
変が始めならんか)当時の景況を伝て云ふ、大地震にて市
街連家大破、殊に大雪にて皆雪下となり、城下の出口々々
には高田此下にありと云ふ建札を建て道印となせしと伝
へたり。又当時町屋に居りける者は、外へ出るや否や雪に
圧せられ雪氷(ツララ)に貫かれて死したるもの多かりし
為に当時より雪下止(ナデトメ)を城門家屋共に附るの習
慣と成たりと伝ふ。翌春幕府より金五万両を城主松平越後
守に賜り、市在住民を救助せりと云ふ。
寛文五年
極月廿七日大地震初春中迄大雪にて御座候へ共、土下よ
り地震い割候て雪上まて青土出惣而在辺ハ石すへの家はた
をれたり、立家少々残り、人民皆々雪上に小屋立てゝ年過
申候、此節大ふん(分)に人足当り人民難儀仕候(所山田池松繩
氏文書)