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項目 内容
ID J0601284
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/10/30
和暦 寛文二年九月十九日
綱文 寛文二年九月十九日(一六六二・一〇・三〇)〔日向・大隅〕⇨二十日、津波あり
書名 〔郷土誌青島〕○宮崎市
本文
[未校訂]3 寛文二年の大地震
 寛文二年(一六六二)九月十九日[子|ね]の刻(夜中の十二
時)の地震は日向の史上空前の大地震であった。このころ
は一か月ばかりは雨ひとつ降らず、海面も毎日気味の悪い
程穏やかで、特に十九日の夜は、暑苦しかったと言われて
いる。この[未曾有|みぞう]の大地震とともに、大津波が打ち寄せた
ので、那珂郡の下加江田村・本郷など所々の地が陥没して
海となってしまった。
 日向纂記に「古老の話によると、青島なみに東に出た村
七つ、(1)[殿所|とんところ]村などと云った所があったが、寛文の地震に
よって海となったということである。しかし寛文以前の検
地帳では、ただ上加江田村・下加江田村・本郷・郡司分
村・本郷南方村・本郷北方村等の名があるのみであるか
ら、[所謂|いわゆる]七村とは、下加江田および本郷の中にある小区の
名なのである。
(2) この地震によって海となったのは、周囲十粁・田畑八千
五百石余に及んで、米粟二千三百五十石余が流失した。
[潰|つぶ]れた家千二百十三戸、うち海に入ったのは二百四十六
戸、人員二千三百九十八人、そのうち溺死者十五人牛馬五
頭に及んだ。
 飫肥城も石垣九ケ所百九十二間破壊し、城の堀二ケ所が
埋まった。その外諸士屋敷・土蔵・石垣等の破損等あげて
数うるいとまがないほどで、まことに古今未曾有の大災で
あった。
 外の浦下中村の新堤は、その前慶安三年(一六四六)築
いたのであるが、幾程なくこの地震によって、清武八千五
百石の損失となったので、世間の人々は外の浦に無理な工
事をして、わずかばかりの利を争った[報応|むくい]で、このような
災害が起こり、莫大な損害を招いたのだと風評した」と記
してある。
○殿所地震余話
 加江田村は、当時上下に分かれていたのであるが、下加
江田村の大部分は海に没してしまったのである。青島神社
の社家長友家の邸宅は、青島のうしろ西北の下加江田にあ
ったので、海没して多くの古文書を失ったと言われてい
る。
 郡司分村も東西に分かれていたが、東郡司分村は海中に
没した。また田吉村は元福島村と田吉村の二村であった
が、福島村は海中に没したので、その住民が今江に移っ
て、現在の福島町をつくったと伝えられている。
 この地震の被害は大淀川南地区ばかりではなく、北岸地
区にも著しかった。小戸神社は、はじめ下別府にあった
が、この地震のため橘通二丁目[三城|みしろ]食料品店南付近に[遷座|せんざ]
し、昭和十七年橘通り拡張で鶴之島の現位置に移転したの
である。佐土原では、[城廓|じようかく]の石垣が壊れ、庶民の家一、
八〇〇戸が破損した。遠くは延岡の[県|あがた]城をはじめ、周囲
の地域で莫大な被害があったと伝えられている。
 延宝三年(一六七一)橘三喜一宮巡詣記に「熊野原を過
ぎ行きタサシ(現在地名なし)という所を通りけるに、入
海広く見えたり。近き頃まではトントコロと云う村ありし
かども、大地震に津波来りて今は今江となりたりと聞き
て、初潮にトントコろびて家もなし云々」とある。
 かくのごとく大被害が各地にあったので、中心に近い郷
土では、惨胆たる被害であったことは推察に難くない。記
録はないが、今その跡を尋ねて見る。
 堀切峠付近にある宮崎交通のドライブインの北方約百米
付近の山々に、物凄い地[辷|すべ]りや断層が見られる。これはこ
の地震によって生じたもので、ドライブインのある所は、
このとき三つの池ができた所であると伝えられている。ま
たここの海岸線は大きく海へ張り出している。
 当時郷土の人々は、一夜にしてかくも大変化を起こした
天地異変を神業と信じ、おののき恐れて三池神社(3)を建立
し、その由来を書いた記念碑を建立した。
 その碑に左の通りある。
 「寛永十八年辛巳九月三日夜に及ばんと空俄に曇り雷電
震動爆発暴風雨起り地を[穿|うが]ち山を崩し水[溢|あふ]れ浪高くその音
烈しく辺村の万人耳を[掩|おお]ひ面を伏せて驚怖怪居せり漸く夜
明に及び内海折生迫両津のものは震動の地を尋ね[述|もと]むるに
廻り[巌|いわお]高く重り中は清水の大池となりて外には海水溜り
内には河海の遊魚浮沈せり誠に巌石畳々たる平地一夜にか
くのごとく[霊地|れいち]となりたること[神通|じんつう]不思議[慎|つつし]み謹んで拝
すべし
天明四年甲辰年暦三月令日」
 この碑には寛永十八年(一六四一)となって地震のあっ
た寛文二年(一六六二)とは二十一年の開きがあるが、天
明四年(一七八六)では、百二十四年前のことなので、誤
り伝えられていたものと思われる。なお飫肥藩重要事項年
表には、寛文二年の地震の外、貞享元年(一六八四)の地
震の記録はあるが、寛永十八年に地震のあった記録は全く
ない。
注(1) 殿所は外所との記録もある。
(2) 供養碑 木花島山の入口国道二二〇号線の西側
に、この地震によってなくなった人々の霊を慰める
供養碑がある。
五十年毎に一基ずつ建てることになっている。昭
和三十二年三百年目の供養碑が建てられた。
(3) 三池神社 無格社、天明四年の建立と思われる。
明治三十九年十二月三日野島神社に合祀した。その
際記念碑も同境内に遷した。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 295
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 宮崎
市区町村 青島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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