[未校訂]寛文の大地震
今より凡そ二百九十年前の寛文二年九月十九日夜半、日
向灘断層による大地震のため、日向沿岸一帯に可なりの被
害を見た。最も惨状を呈したのは青島附近で、[殿所|とんところ]村は
海中に陥没した。「一ノ宮巡詣記」には、
熊野原を過行き、たさしと云所を通りけるに、入海
広く見えたり。近き頃までは「とんところ」と云村
ありしかとも、大地震に津波来りて、今は入江に成
りたりと聞て、
とあり、「延陵世鑑」には
中にも、宮崎・那珂の両郡甚しく、山崩れ、谷埋
れ、民屋の破損は数を知らず。海辺の田畠、海とな
る事凡そ七八千石に余れり。常に潮の満に、岩の頭
をひたす所、地震後は、岩頭三四尺海底になり、是
を以て見れば、地の陥る事、三四尺余なるべし。前
代未聞の大地震なり。
と見え、「佐土原地震集記」には、
伊東領内、本郷の一在所、田地九千石揺り沈め、海
となる。某村々の人家屋敷々々の囲ひ、竹木までゆ
り沈め、木も竹も柱も、海中より立てり。
と記している。尚「日向纂記」に従えば
那珂郡の内、下加江田・本郷所々の地陥つて海とな
ること周囲七里三十五町、田畑八千五百石余に及
び、米粟二千三百五十石余流失あり、潰家千二百十
三戸の内、陥つて海に入るもの二百四十六戸、其人
員二千三百九十八戸の内、溺死十五人、牛馬五頭に
及へり。飫肥城にも石垣九ケ所百九十二間破壊し、
と叙し、清武八千五百石余の損失と計算している。
宮崎地方では大淀河口北岸の下別府が陥没した為め、そ
の地の住民達は全部西方上別府に避難移住して上野町と称
し、後日の宮崎市開発の基を成した。