Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0601278
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/10/30
和暦 寛文二年九月十九日
綱文 寛文二年九月十九日(一六六二・一〇・三〇)〔日向・大隅〕⇨二十日、津波あり
書名 〔宮崎市史〕
本文
[未校訂]寛文の大地震
 今より凡そ二百九十年前の寛文二年九月十九日夜半、日
向灘断層による大地震のため、日向沿岸一帯に可なりの被
害を見た。最も惨状を呈したのは青島附近で、[殿所|とんところ]村は
海中に陥没した。「一ノ宮巡詣記」には、
熊野原を過行き、たさしと云所を通りけるに、入海
広く見えたり。近き頃までは「とんところ」と云村
ありしかとも、大地震に津波来りて、今は入江に成
りたりと聞て、
とあり、「延陵世鑑」には
中にも、宮崎・那珂の両郡甚しく、山崩れ、谷埋
れ、民屋の破損は数を知らず。海辺の田畠、海とな
る事凡そ七八千石に余れり。常に潮の満に、岩の頭
をひたす所、地震後は、岩頭三四尺海底になり、是
を以て見れば、地の陥る事、三四尺余なるべし。前
代未聞の大地震なり。
と見え、「佐土原地震集記」には、
伊東領内、本郷の一在所、田地九千石揺り沈め、海
となる。某村々の人家屋敷々々の囲ひ、竹木までゆ
り沈め、木も竹も柱も、海中より立てり。
と記している。尚「日向纂記」に従えば
那珂郡の内、下加江田・本郷所々の地陥つて海とな
ること周囲七里三十五町、田畑八千五百石余に及
び、米粟二千三百五十石余流失あり、潰家千二百十
三戸の内、陥つて海に入るもの二百四十六戸、其人
員二千三百九十八戸の内、溺死十五人、牛馬五頭に
及へり。飫肥城にも石垣九ケ所百九十二間破壊し、
と叙し、清武八千五百石余の損失と計算している。
 宮崎地方では大淀河口北岸の下別府が陥没した為め、そ
の地の住民達は全部西方上別府に避難移住して上野町と称
し、後日の宮崎市開発の基を成した。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 295
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 宮崎
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒