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項目 内容
ID J0601258
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔山城・大和・河内・和泉・摂津・丹波・若狭・近江・美濃・伊賀〕駿河・三河・信濃・伊勢・武蔵→十二月まで余震
書名 〔行方久兵衛〕「我等の郷土と人物」
本文
[未校訂]若狭三方郡の五湖ある中で、久々子・水月・三方はいわ
ゆる三方三湖で、小浜線河原市駅から三方駅までの車窓か
ら眺められる景色のいい静かな水郷である。万葉の歌にも
若狭なる三方の海の浜清みいゆきかへらひ見れど飽か
ぬかも
とある通り、「この若狭の三方湖の清い浜辺は、何度往き
つ戻りつしても、見あかぬいい景色」だとほめ称えてあ
る。夏休みに久々子の浜へ海水浴に出かける人達は、更に
小舟を雇い湖水廻りをして三方の石観音様に参詣する時、
久々子湖から水月湖に舟が進むと山の切通がある、これが
即ち三方の郡奉行[行方|なめかた]久兵衛氏の非常なる努力によつて、
沿岸の農漁村を救われた浦見阪開鑿事業で、永遠にこの地
方民の生命の安全と増産の業績を遺された。
 古人も「甚しいかな、水の利害をなすや」というている
通り、水はよく人を益するが、又よく人を害する。治水と
いうことは古来為政者の重要な行政である。久々子湖と水
月湖との間は丘陵があつて、水月湖の水は吐き口がないた
め、大雨が降りつづいて水嵩がふえると、三方・水月両湖
沿岸の民屋・田畝は古来被害が多く、人民は迷惑していた
が、誰れも排水工事即ち吐き口を計画したものがなかつた
ところ、今から三百三十二年前の寛永三年、京極氏時代
に、一度この浦見阪開鑿が計画され、又同五年にも京阪の
町人で計画されたが、時の家老達の意見が纒らぬので着手
しなかつたことがある。藩祖酒井忠勝公時代に、又また計
画されたが御許しがなく、二代目忠直公の時代になつて、
時なるかな、今から二百九十七年前の寛文元年に、京都の
後藤治兵衛の手代と嵯峨[角倉|すみのくら]の手代が小浜藩に願出で
て、この浦見阪の開鑿を企てて着手したが、天候が不良に
向い成績があがらず、終に工事を中止してしまつた。翌寛
文二年五月一日には大地震があつて、三方郡の[気山|きやま]川がふ
さがつて湖水があふれ、沿岸の各村は水にひたり、田畝は
収穫がなく甚しい惨状になつた。因つて小浜藩では農漁村
を救うため、ふさがつた気山川開鑿工事を企てたが、工事
の成功が見込のないのを見て、この浦見阪の方の開鑿に決
した。
 さて、この大任を引受け、幾多の艱苦と非難と怨恨とを
切りぬけてその目的を達した偉人は何人であつたか、即ち
三方の郡奉行で、工事の総奉行を勤めた行方久兵衛氏その
人であつた。
 久兵衛氏は父の代から藩祖酒井忠勝公に仕え禄二百石を
いただいていた郡奉行の家で元和二年に生れ、父の歿後は
家督をつぎ禄百四十石をいただき、浦見阪工事には普請奉
行梶原太郎左衛門と共に総奉行としてこの難工事に着手し
た。今日の進歩した機械力による開鑿工事の時代から見れ
ば、僅か八十間位の切通は朝飯前のようであるが、この時
代としては容易ならぬ大土工である。
 工事を始めたのは寛文二年五月二十七日で、人夫・石工
など千人以上の人をつかつたが、工事半ばで一面堅固な大
磐石があらわれ、工事が遅々として捗取らぬので、越前及
京の白川から多数の石工を呼寄せて工事を督励したが、何
分労費が嵩み、人夫等は囂々と普請奉行を非難し、工事は
一時中止せねばならぬようになつた。それはこの年の九月
であつた。その時の人夫等の奉行を嘲けつた[落首|らくがき]に
掘りかけて通らぬ水の恨みこそ底行方のしはざなりけ

浦見阪横田狐にだまされて掘るに掘られぬ底のなめか

浦見阪、聞くもものうき梶原や永川と早く流れゆけか

 久兵衛氏はいかにもして初志を貫きたいと、毎夜今の県
社[宇波西|う は せ]神社に祈願をこめたところ、或日「少し北に寄せ
て掘れば、必ず成功する」という夢のお告げがあつたと人
夫共を励ました。人夫共は半信半疑、翌三年正月十八日か
ら少しく北に寄せて掘つたら、岩石は今迄のように堅くな
く、工事はどしどし捗取り、遂にこの年の五月朔日に一先
ず竣工した。その後更に改修したので、工事期間は前後三
ケ年に亘つた。この浦見川即ち切通は長さ八十間、川底の
幅四間、川の長さは百八十間、水月・久々子両湖の水嵩の
差は六尺五寸もあつたのが、この時から水準が全く平均し
た。当面の責任者久兵衛氏や沿岸の農漁村の喜びは大した
ものであつたであろう。
 斯くも難工事で、非難と怨嗟の雰囲気の中に、浦見阪は
切通され水月・三方両湖の水は吐き口が出来て浦見川にな
つて、久々子湖に流れ、それから海に注ぐようになり、♠
に千古沿岸の水害を免れるようになつた。当時久兵衛氏は
その始末を切通の岩壁に彫りつける積りで、方形に削らせ
た跡が今も遣つて湖水廻りする人達の注目する所である。
久兵衛氏は石工に向つて彫刻の文字は何百年位保つかと尋
ねたら、念入りに彫つても百年は請合いませぬと答えたの
で、遂にその彫刻を見合わせたという挿話がある。当年か
ら今年は二百九十五年にもなるから、仮令彫つて置いて
も、今頃は風雨に磨滅して見る影もないであろう。
 久兵衛氏が浦見阪開鑿の結果は、実に一石二鳥であつ
た。即ち沿岸の水害を除いたばかりでなく、新に九十余町
歩の田畝を得た。今の八村の[生倉|いくら]と西田村の[成出|なるで]の二部落
が出来、新田の竿入高は総計三百九十五石余、これを沿岸
の邑民に土高二十石づつを与えて移住させた。現今生倉の
世帯数は十八、成出は十七あるのは当年の新村である。
 又久兵衛氏はその功績で、寛文五年に知行百石を加増さ
れて勘定奉行に昇進し、更に荒井用水を改修して二百五十
余町の田畝を開き、又金山新田を開墾して五十余町の耕地
とした業績を遺し、今から二百七十年前の貞享三年八月十
二日、享年七十一を一期として小浜で歿し、日蓮宗本法寺
に葬つたが、廃寺になつたので、同地日蓮宗本行寺に改葬
された。
 去る明治二十六年十一月十八日には、荒川本県知事から
金五円追賞され、大正十年七月には県社宇波西神社境内
に、三方湖辺水害予防・荒井用水両組合で頌徳碑を建立さ
れ、又昭和三年十一月十日特旨を以て従五位を贈られた。
(追記 この稿は福井県文化史刊行会の依頼により父石
橋重吉の著述「若越の偉人」中の治水のいし文の
項より抜萃したものであり、尚新仮名遣に改め、
平易な文体に改作したことをお断りして置く。)
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 286
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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