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項目 内容
ID J0601257
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔山城・大和・河内・和泉・摂津・丹波・若狭・近江・美濃・伊賀〕駿河・三河・信濃・伊勢・武蔵→十二月まで余震
書名 〔行方久兵衛の浦見川開通〕
本文
[未校訂](前略)
寛文二年五月朔日、地大に震ひ、三方郡其の害最も甚しか
りしに依り、藩主(諱は忠直空山と号す)即ち久兵衛をし
て之を視察せしめしに、気山川(三方湖より久々子湖に通
ずる河川なりしが今は之を存せす)口塞りて水下らす。湖
水横溢して、沿湖十一ケ村土高四千三十石余悉く水を被り、其の惨
状実に名状すべからざるものあり。久兵衛具に之を藩主に
復命す。藩主謂へらく、我治下十一ヶ村の困難を顧みす、
且若州古来の土高を減少するか如きは、実に国主の耻辱な
り、救はさるべからずと。偶城中普請中なりしが之を中止
せしめ、久兵衛及松本加兵衛を召し、命するに湖水排除工
事の計画を以てす、両人直に気山に至りて之が方法を調査
し、㈠気山川を改修するか ㈡浦見坂を開鑿して新に疏渠
を設くるかの二点に就きて、其の利害得失を比較攻究し、
遂に両様の設計書及絵図面を作りて、藩主に裁決を仰げ
り。
是より先、京都の人角倉某、後藤某、浦見坂開鑿の意見
を立て、屢之を藩主に聞して、遂に其の免許を得、万治
三年八月頃、一時開鑿を試みたりしも、微力にして到底
成功を期し難しとて、空しく京都に還れりと云ふ。
抑も浦見坂は、水月湖(三方湖と久々子湖の中間に在る最
大なるものなり)と久々子湖とを隔つる一の地峡にして、
彼の准后回国雑記中に
三方の海、こひの松原うちすぎて、浦見坂といへる所に
ておもひつける。
問ははやな、誰か世に誰れを、うらみ坂、
つれなく残る、こひの松原。
とあるもの即ち是なり。而して此浦見坂は、当時に於ける
長さは、其の最狭部分にて、約百八十間前後に過ぎざりし
が如しと雖、最も峻坂にして、加ふるに奇巌怪石各所に起
伏し、地勢甚険悪なり。故に二百余年以前の往事に於て、
之か開鑿を試むるが如きは、実に容易の事業にあらざるな
り。然れとも気山川は、河口塡塞せるのみならず、元来河
身屈曲して疏通に便ならざるを以て、仮令之を開疏する
も、両湖の溢水を排出する上に於て、遺憾なきを期し難
し、久兵衛深く♠に顧慮する所あり。断然苟息の計画を排
して、永遠の計を立つるを必要とし、博く湖畔の老農等の
意見を徴し、主として浦見坂の開鑿を決行せられんことを
建策したるものの如し、藩主亦之を可とし、更に久兵衛及
梶原太郎兵衛に命するに、此の工事の奉行を以てし、且親
しく慰諭する所あり。久兵衛等感泣して、粉骨斎身必す成
功せんことを誓ひ、直に浦見に赴きて、普請小屋を建て、
工事に要する器具等を小浜鍛冶職に命じて、急速製作せし
め、人足を集むること千七十五人、外に鍛冶、大工、下奉
行、杖突等五十一人を加へて、人員千百二十六人を注せら
る。仍て各部署を定めて、♠に本工事の鍬初を為しぬ。
是れ実に寛文二年五月二十七日辰の刻なりき。
爾来工事の進行するに従ひ、意外にも坂の南方約四十間の
地下に於て、極めて堅緻なる大巌石に衝突し、次て四十間
の北方にも、亦巌石を露出しければ、工事頓に困難を告
げ、遂に人足の力の企及する所にあらすと為し、甲罵り乙
駁し、或は俚謡を作りて之を唱和し、夥多の人足は互に相
喧伝して、一時大に世上の嘲笑を受けたり。
藩の老職等之を聴きて、深く憂慮する所あり。其年七月
二日、普請見廻として、小泉某を気山に出張視察せしめ
たりと云ふ。
然れども久兵衛等の志は、牢乎として抜くへからず。更に
石工を越前及京都白川より招きて、各其の受持区域を定め
て、巌石の開鑿に従事せしめ、九月十七日、始めて渠口の
狭少なる部分を切りて、水を落せしに、水勢甚急にして、
渠底左右の土石を流下したる為坂の西方大に崩る。
乃ち直に石工をして、此の崩壊したる岩石を砕き取らしめ
たり。蓋し此の崩壊は、却て大に人足の労力を減少するの
因となりしを以て、久兵衛心密かに之を喜び、以て天祐に
して工事成就の瑞兆なりとせりと云ふ。
是より湖水の氾濫は、漸次減少し、当初海山の如きは、水
深を加ふること九尺一寸に上り、其の民家は悉く床を浸さ
れ、又鳥浜の住民は、三方の路傍に小屋掛をなして、纔か
に雨露を凌ぎ、田名、向笠は舟にて往来する等、具に艱難
を嘗めて生ける心地なかりしも、渠口を切開するに及び
て、其の功果空しからす、溢水流下すること頗る速にし
て、其の年十二月には、各村漸く家に還りて、越年するこ
とを得たり。
翌寛文三年正月十八日、久兵衛再び浦見に至り、同月二十
五日より工事を継続して、坂の西方より開鑿して水際に切
り下げ、四月十九日、渠口を堰止め、石工をして前年末竣
功の個所を切取らしむ、同月二十九日に至り、広さ渠底に
て四間、深さ前年より七尺を加へり。五月朔日、堰を除き
て、工事の竣功を告げ、久兵衛等は同月七日を以て小浜に
還れり。
堰を除きてより、水の流下すること愈急にして僅に十日間
にて、水を被りたる水田は、悉く露出したるのみならす、
三方、鳥浜、田井、気山、海山の湖汀干すること多きを加
へ、新に田地九町七反四畝歩を生ぜり。所謂切通新田なる
もの是なり。
同年七月、藩主上国の途次、遽に浦見開通の実況を視るべ
き旨の命ありければ、久兵衛之を佐田に迎へて案内をな
す。偶覆盆の大雨なりしに拘らす、藩主には頗る満足の体
にて、詳に之を視察し、三方、久々子の両水に高下あるは
渠底の鑿堀未た尽さざる所あるにあらざるか等の下問あ
り。久兵衛等の饗応を受けて、其の日小浜に帰城せられた
りと云ふ。
寛文四年二月十九日、久兵衛等藩主の命を帯びて、三たび
浦見に至り、三方、久々子両水に差異(六尺五寸の差あり
しと云ふ)なからしむる為同月晦日、更に渠口を堰きて、
約四十間の堀坪を堀らしめ、又京都白川の石工も到着せし
を以て、三月八日に其の丁場を受け取らしめたり。而るに
早瀬川(三方、水月両湖の剰水は久々子湖を経て、此の川
より海に注ぐ)は、其の両岸砂原にして、崩壊し易く、且
川口狭くして、排水充分ならさる為、湖水久々子湖に漲る
こと多し、久兵衛乃ち浦見坂の下奉行及人足を分ち遣はし
て、川の幅員を九間と為し(従来二間)且両岸に長さ百四十間、
高さ六尺の石垣を積み、之に橋を架せり。是より湖水を吐
出すること快速となり、久々子湖汀に於ても、亦新に十二
町余の新田を生ぜり。
斯の如くにして、三方、久々子両湖の水、水平を得たる
も、浦見渠内の水、深さ僅に一尺に過ぎることとなり、舟
楫の往来に便ならざるの恐れあるを以て、更に一尺を加へ
て、この憂を除き五月二日に至りて、堰を切落し、♠に全
く竣成を見るに至れり。爾後三方湖汀亦数百石の新田を得
たり。今の生倉(八村の内)及成出(西田村の内)是な
り。
 此等新田は、当時之を十人宛に配分授与せりと云ふ。
 其の他の新田も亦之を分授せしが如し。
竣功したる浦見川は、渠底広さ四間、長さ百八十間、深さ
二十三間、空濶八十間に及ぶ。両岸絶壁にして、殊に右崖
の一面は恰も大磐石の屹立せるものの如く、毫も鎚鑿の痕
なし。
石壁の中間下方に□の形を穿ちたる痕跡を存するは、当
時工時に関する記念的の文字を鐫刻するの意志ありし
も、故ありて之を中止したるものなりと云ふ。
上来叙ふる所の如く、浦見坂開鑿工事は、実に寛文二年五
月二十七日に始まり、同四年五月二日に大成したるものに
して、之に要せし人足及費用等は左の如くなりしと云ふ。
 人数二十二万五千三百四十九人
下奉行、杖突、足軽、扶持方奉行、
薪奉行、道具奉行、鍛冶奉行、御家
中出入郷人足(国中敦賀郡)、郷中
間、大工、鍛冶
扶持米三千八十二俵二斗九勺
瓦木三万六千九百九十八束七分七厘
此代米三百七十六俵二斗六升
合計三千四百五十九俵六升三合九勺
銀積リ 五十五貫七百六十九匁八分九厘
銀 四十貫六百五十七匁四分一厘
石切賃石坪六百四十四坪三合三勺五才
銀 一貫八十匁 日傭石切三百人賃
銀 二貫百四十匁六分四厘七毛
銕千四十一貫百十五匁代(普請道
具に作る)鍛冶炭二百九十六俵代
銀 百二十六匁九厘 万小買物代
銀都合 九十九貫七百七十四匁八分九厘九毛
金に積リ 千六百五十九両二歩
以上の顚末は概ね裔孫正敏氏所蔵の写本(享保三年加藤正
拡なるものの自書せしもの)を基礎として之を記述せり。
而して該書は単に工事の始末を略記せしに止まり、久兵衛
氏の苦心惨憺たる功績等に関して何等論評する所なきに依
り、所謂隔靴搔痒の嘆を免れざるものあるは、甚遺憾とす
る所なり。 (後略)
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 283
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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