[未校訂]若狭国三方郡慧日山に安置し奉る干潟の観世音と申すは
国主酒井氏修埋大夫源忠直朝臣干時従四品先考左近衛少将兼
讃岐守忠勝従四位上の家を嗣国を知たまひしより、七かへり
の春を送りて、寛文壬寅年夏五月一日巳刻、五畿内大に
地震し施て北海諸国に及べり。此の時にあたり、三方の
湖水傾き艮の方八尺余淘上、坤の方数尺淘下る。これに
よりて湖水気山村の方一町余干上る。しかのみならず湖
のほとり一百余町或は五反或は一町、干潟となる。人皆
地震によりて大地山川共に斯く淘上しを知らす、往昔海
辺潮干あかりてのちに大濤きたり人家損亡せし事を聞つ
たふるによりて騒動し、悉山上へ逃登りぬ。然りと云へ
とも浪曾てきたらす、湖水亦満ることなくて其まゝ干潟
となる。同夜寅刻に至りて山上より国広山と光島(湖岳)
の間の湖水の西を見渡せば、湖上に光あり、怪しみて気
山一村の長熊谷氏某往てこれを見るに、果して如意輪大
士の霊像水中に光明赫変として南に向て立たせ給ふ。即
ちとり上け奉りて是を拝めば、其像は金銅にして御長八
寸余、法相甚そなわり給ひぬ。驚感し是をもたらし来り
て郡の奉行に物せらるゝ松本氏貞保にこれを捧ぐ、貞保
すゝろに信心瑞喜の思ひをなし、則国主に献す。君亦深
く尊み篤く敬ひ給ひて、貞保に酒肴及里の長にも黄金を
与へ給ふ。
扨はじめに云ふところの湖水の海へ流るゝ河筋を寛文二年
五月国主酒井忠直浦見坂を開鑿せんとす、正成、梶原安重
を惣奉行として命を受て之に従ふ。工事半ならずして一面
の岩石蟠屈し開鑿容易ならず。即ち越前及白川より石工を
招き且人夫の督励厳なり。人夫等大に倦み奉行を嘲る。曰
く
堀かけて通らぬ水の恨みこそ
底行方の仕業なりけれ
浦見坂横田狐にだまされて
堀るに堀られぬ底の行方
浦見川普請永川道里なり
いらぬ行方さし出るより
かゝる有様なれば工事甚だ進捗せずして費用の嵩むのみな
れば或は中止の評議にも及びたれども正成肯せず、堅忍不
抜の志を以て刻苦経営す。思へらく兎角神の盟助を祈るに
如すと、毎夜宇波西神社に参籠したり。或日嵩高の霊夢を
感せりとて、少しく北に寄せて開鑿せば必ず成功すべしと
告て工事を督す。人夫或は信し、或は疑ひつゝありしが岩
石先の如くに堅硬ならずして工夫を励み、終に功を了るを
得たり。時人全く正成が才略にて莫大の普請出来たりとて
その功を称したり。