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項目 内容
ID J0601256
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔山城・大和・河内・和泉・摂津・丹波・若狭・近江・美濃・伊賀〕駿河・三河・信濃・伊勢・武蔵→十二月まで余震
書名 〔干潟観音由緒〕
本文
[未校訂]若狭国三方郡慧日山に安置し奉る干潟の観世音と申すは
国主酒井氏修埋大夫源忠直朝臣干時従四品先考左近衛少将兼
讃岐守忠勝従四位上の家を嗣国を知たまひしより、七かへり
の春を送りて、寛文壬寅年夏五月一日巳刻、五畿内大に
地震し施て北海諸国に及べり。此の時にあたり、三方の
湖水傾き艮の方八尺余淘上、坤の方数尺淘下る。これに
よりて湖水気山村の方一町余干上る。しかのみならず湖
のほとり一百余町或は五反或は一町、干潟となる。人皆
地震によりて大地山川共に斯く淘上しを知らす、往昔海
辺潮干あかりてのちに大濤きたり人家損亡せし事を聞つ
たふるによりて騒動し、悉山上へ逃登りぬ。然りと云へ
とも浪曾てきたらす、湖水亦満ることなくて其まゝ干潟
となる。同夜寅刻に至りて山上より国広山と光島(湖岳)
の間の湖水の西を見渡せば、湖上に光あり、怪しみて気
山一村の長熊谷氏某往てこれを見るに、果して如意輪大
士の霊像水中に光明赫変として南に向て立たせ給ふ。即
ちとり上け奉りて是を拝めば、其像は金銅にして御長八
寸余、法相甚そなわり給ひぬ。驚感し是をもたらし来り
て郡の奉行に物せらるゝ松本氏貞保にこれを捧ぐ、貞保
すゝろに信心瑞喜の思ひをなし、則国主に献す。君亦深
く尊み篤く敬ひ給ひて、貞保に酒肴及里の長にも黄金を
与へ給ふ。
扨はじめに云ふところの湖水の海へ流るゝ河筋を寛文二年
五月国主酒井忠直浦見坂を開鑿せんとす、正成、梶原安重
を惣奉行として命を受て之に従ふ。工事半ならずして一面
の岩石蟠屈し開鑿容易ならず。即ち越前及白川より石工を
招き且人夫の督励厳なり。人夫等大に倦み奉行を嘲る。曰

堀かけて通らぬ水の恨みこそ
底行方の仕業なりけれ
浦見坂横田狐にだまされて
堀るに堀られぬ底の行方
浦見川普請永川道里なり
いらぬ行方さし出るより
かゝる有様なれば工事甚だ進捗せずして費用の嵩むのみな
れば或は中止の評議にも及びたれども正成肯せず、堅忍不
抜の志を以て刻苦経営す。思へらく兎角神の盟助を祈るに
如すと、毎夜宇波西神社に参籠したり。或日嵩高の霊夢を
感せりとて、少しく北に寄せて開鑿せば必ず成功すべしと
告て工事を督す。人夫或は信し、或は疑ひつゝありしが岩
石先の如くに堅硬ならずして工夫を励み、終に功を了るを
得たり。時人全く正成が才略にて莫大の普請出来たりとて
その功を称したり。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 282
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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