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項目 内容
ID J0601255
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔山城・大和・河内・和泉・摂津・丹波・若狭・近江・美濃・伊賀〕駿河・三河・信濃・伊勢・武蔵→十二月まで余震
書名 〔廻国雑記〕 准后道興
本文
[未校訂]こひの松原浦見坂といへる所にて思ひつゞけたる。
とはゞやなたが世に誰をうらみ坂
つれなく残る恋の松原
上瀬川
又気山古川と云う。今はなし。元三方湖の水はこの川に
よりて久々子湖に注きたり。気山切追の南に小谷浜と云
ふ所あり、此処より湖の水を導き宇波西神社の前を流れ
て久々子湖に注きたり。今の浦見川尻の東に瀬先と云ふ
あり。これその川尻なりし所なり
万治元年酒井氏都筑外記、武久庄兵衛、松本嘉兵衛を普
請奉行として此川を修む。因て湖辺干し気山に八十石、
田井に四十石の新田を得たり。後、浦見川開鑿して得た
る新田に対し、此時得たる新田を古新田と称す。
寛文二年大地震、川口閉塞して、湖の水流れず後に川跡
田甫となる。
河中神社
同区中村に鎮座す。もと河崎権現と称す。国帳に正五位
於瀬河中明神とあり。里人云往時上瀬河の河上此処を流
れたりし時、其川中にさし出たる崖に在りし社なるによ
りて上瀬川中権現、又川崎権現とも称せり。寛文二年五
月大地震の時河流塞り、地のさま変りて川中と云ふ由を
知れる人少なしと。或云式内於世神社なるへしと。祭神
詳ならす。
干潟観音堂
気山慧日山頂に在り。聖如意輪観世音菩薩を安置す。堂
宇は寛文五年十一月国主酒井忠直の創立にして霊像は寛
文二年五月の大地震に水月湖に得たるなり。干潟観音と
は、林春斉の名くる所、忠直、亦僧玄光佐賀人字蒙山及ひその
臣井上貞則をしてその縁起を記さしむ。延宝元年八月五
日燈油料田十石を寄せられ、貞享三年三月酒井忠隆鳧鏡
一口を堂前に掛けらる。紀伊金剛峯寺末に属す。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 281
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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