[未校訂]こひの松原浦見坂といへる所にて思ひつゞけたる。
とはゞやなたが世に誰をうらみ坂
つれなく残る恋の松原
上瀬川
又気山古川と云う。今はなし。元三方湖の水はこの川に
よりて久々子湖に注きたり。気山切追の南に小谷浜と云
ふ所あり、此処より湖の水を導き宇波西神社の前を流れ
て久々子湖に注きたり。今の浦見川尻の東に瀬先と云ふ
あり。これその川尻なりし所なり
万治元年酒井氏都筑外記、武久庄兵衛、松本嘉兵衛を普
請奉行として此川を修む。因て湖辺干し気山に八十石、
田井に四十石の新田を得たり。後、浦見川開鑿して得た
る新田に対し、此時得たる新田を古新田と称す。
寛文二年大地震、川口閉塞して、湖の水流れず後に川跡
田甫となる。
河中神社
同区中村に鎮座す。もと河崎権現と称す。国帳に正五位
於瀬河中明神とあり。里人云往時上瀬河の河上此処を流
れたりし時、其川中にさし出たる崖に在りし社なるによ
りて上瀬川中権現、又川崎権現とも称せり。寛文二年五
月大地震の時河流塞り、地のさま変りて川中と云ふ由を
知れる人少なしと。或云式内於世神社なるへしと。祭神
詳ならす。
干潟観音堂
気山慧日山頂に在り。聖如意輪観世音菩薩を安置す。堂
宇は寛文五年十一月国主酒井忠直の創立にして霊像は寛
文二年五月の大地震に水月湖に得たるなり。干潟観音と
は、林春斉の名くる所、忠直、亦僧玄光佐賀人字蒙山及ひその
臣井上貞則をしてその縁起を記さしむ。延宝元年八月五
日燈油料田十石を寄せられ、貞享三年三月酒井忠隆鳧鏡
一口を堂前に掛けらる。紀伊金剛峯寺末に属す。