[未校訂]古川与志雄「近江第三号」(一九七三)近江考古学研究会
湖西、特に高島郡における諸事例
先述の如く、従来の研究の多くは湖東或は湖北の特定地
域にのみ集中しており、当地域の研究は皆無に近い。しか
し、当地域に於ても先記一欄に見られる如く湖面上昇の事
実を物語る多数の湖底遺跡が存在するとともに、次に示す
如き興味深い事例を見い出し得る。
一、誓行寺(海津西浜字江端に所在)の伝説に「もと寺域
今の湖中にあり」と伝う。
(1)二、「近江輿地志略」白髭大明神の項に「土俗伝云、当社
の鳥居は前汀湖中にあり、昔は陸地にありしに湖水増し
て今水中となる」と記されている。
(2)三、「高島郡誌」北舟木の項には口碑に云として、かつて
舟木千軒と称したことを述べると共に、「某年洪水氾濫
して湖辺水底となり、殊に南浜(舟木南浜)の一部甚し
く陥落したり」と記されている。
四、安曇川町藤江附近の湖中には「藤江千軒」という村が
水没しており、石垣等が見られるという。(地元の人々
による)
この藤江千軒について「高島郡誌」四津川の項には、
「口碑に云、往古は藤江千軒と称して今の民家より東方
に数百軒の人家ありしが、豊臣秀吉が大阪築城に当り、
勢田川の下流鹿飛米淅の地に湖水の流れを堰止めしか
ば、湖水氾濫して沿湖人家多く流失し、今は僅かに其一
部を残せるなりと云ふ。南北の二大沼松木梅木も豊臣時
代まで田地なりしが、藤江千軒水害の際に共に水底に没
して二大内湖となりしなりと伝ふ。」とある。
また、藤江には、慶長七(一六〇二)年八月二十二日
付の「江州高島郡藤江今在家村御検地帳」が伝えられて
おり、それは現在の内湖の部分をも含んでいるといわれ
ている。
(3) (なお、内湖はかつて二つ松ノ木・梅ノ木両内湖が存
在したのであるが、後者は戦時中干拓され、現在では水
田と化している。)
五、藤江千軒とならんで、当地には三矢千軒が存在する。
三矢千軒については、小谷氏が若干の報告をされている
が、(4)「高島郡誌」永田の項には次の如くある。「鯰川は元
は大三ツ矢村と称す。古、大三ツ矢、小三ツ矢とて湖辺
に二村あり。大三ツ屋は船間屋もありて、永田村より寅
卯にありて葭島より百間許も沖に在りしなり。其村址は
水底に石垣一町斗もあり、石橋もあり、旱水の時は五尺
許の水底なり。(これは、小谷氏報告中のFig.41三矢
千軒の湖底石堤に相当しよう。筆者注)某年今の地に移
りて鯰川と称す。小三ツ矢は青柳村大字下小川(現在の
安曇川町下小川)の三ツ矢なり。」と。
(5)六、新旭町付近の条里地割の分析よりすれば、饗庭昌威氏
所蔵文書中の宝徳三(一四五一)年霜月二十六日「比叡
之本庄二宮神田帳」中に記されている二坪、各二反の地
及び「木津庄引田帳」(応永ころか)に示されている十
二坪、六十二反五十歩の地は、今日では水没或はそれに
近い状況にあることになる。
(6)七、永田村(高島町永田)及び下小川村(安曇川町下小
川)における慶長七年検地(「古検」)と延宝七年検地と
の石高及び面積を後者の検地帳の奥書により比較してみ
ると、延宝七年の方が検地竿の差等より増加しているの
が一般的である。しかし、永田村にあっては八町九畝二
十五歩、石高では九十一石七斗五升九合減少しており、
下小川村にあっては二十四町三段九畝二十四歩、石高に
すると三百石七斗五升七合減少している。そして、その
主たる原因は、前者では古検の内の「十町六段九畝十九
歩海成」石高にすると百十七石六斗五升九合に、後者で
は古検の内の「二十七町四段四畝歩永荒海成」石高にす
ると三百一石八升六合にその多くをよっている。
(7)八、海津郷土誌に「寛文二(一六六二)年五月一日大地震
あり沙洲湖中に水没す」とある。
(8)九、 「高島郡誌」寛文二年五月朔日の大地震の項には「志
賀高島両郡の内小野惣左衛門代官所の高一万四千八百石
のところ田畑八十五町余ゆり込み、在家千五百七十軒倒
潰せり、本郡の分詳ならず。湖北(主にマキノ町・今津
町の方面を指したものか)田地もゆり込みて低下し、河
川の流れ緩くなれり。……」とある。
以上九つの事例を紹介したわけであるが、これらを若干
なりとも整理してみょう。
一~三などは、そのものとしては単なる伝説或は俗説と
しか考え得ぬものであろうが、諸湖底遺跡の存在より必然
的に出てくる湖面の上昇といった現象の事実を見るなら
ば、かかる現象の一つの反映として根拠のあるものとして
理解されよう。ではその時期について四以下の事例により
見よう。
四によれば、口碑は豊臣秀吉が大阪築城の時(一六世紀
後葉)としているが、後半の慶長七年の松ノ木・梅ノ木両
内湖の検地帳と伝うるものの存在(3)に注目するとともに、次
のような史料を加えてみる。即、北舟木共有文書中の古地
図、元禄二(一六八七)年及び同五年のものによれば、南
舟木と横江浜との間は湖水により断絶し、両内湖は一つの
入江と化しており、更に南の横江浜より北の方(北舟木の
方)に向って細い砂洲が伸びている。(9)これよりすれば、両
地図と現在との差は概略順々の砂洲の発達としてとらえ得
る。このことは、湖面上昇がそれ以前、一六八七年以前に
生じたことを示している。もし先の検地帳が真に内湖の陸
化の事実を示すものであるならば湖面の上昇は、一六〇二
年~一六八七年の間に求められることになる。
次に、六によれば十五C中葉以後に、七は一六〇二年~
一六七九年の間に、更に八・九は寛文二(一六六二)年五
月一日に求めているのである。
以上の諸事例が同一の湖面上昇を示しているとするな
ら、一応それは一六六二年五月一日に求められるのではな
かろうか。少なくとも、その可能性が大である。しかし、
ただ―、事例四の秀吉の大阪築城時(一六世紀後葉)に求
める事例については、未だ他に史料を見ず、はなはだ疑問
と言わざるを得ない。事例七よりすれば、一七世紀代に
二・三メートル前後程度の湖面上昇を、下小川永田付近で
考えざるを得ない。そして、この時の湖面上昇の現象は、
決して極地的なもの(たとえば、一村単位前後のそれ)と
は考え得ないであろうことは、先記諸事例を見るならば明
らかであろう。とするならば、それに近接する藤江近辺に
おいても、ほぼそれに近い程度の湖面上昇が一七世紀に生
じたと考えられる。一方、それ以前、一六世紀後葉に村落
が沈水するが如き湖面の上昇(二・三メートル前後にも及
ぶそれ)の事実を認めるならば、それが極地的なものでな
い限り(現段階では、そのような変化は想定し得ないであ
ろうが)、先の下小川・永田にも同等の上昇が生じたこと
となる。それは、とりもなおさず、永田~藤江付近の湖岸
で一六世紀後葉及び一七世紀代に二・三メートル前後程度
の湖面上昇を認めるか、或いは一度目と二度目の間に一度
目と同程度の湖面低下を認めることにより、説明せねばな
らないであろう。しかし、現実には認め得ない。即、一六
世紀後葉においては、湖面に大きな上昇は存在しなかった
ことになる。
(10) かくて、少なくとも湖西の地に於いて一六六二年五月一
日、相当な湖面上昇が生じ、湖に面する相当の田畑などが
水没したことを確認することができる。
「口碑に上古善積郡(高島郡の北半部を指したものであ
る。)の地は地変によりて湖中に陥没したりと言う。森川
許六(一六五六~一七一五)が湖水賦にも其事を載せた
り。是孟浪の言うなり。口碑の事実を失すること多き一証
とすべし。」と「高島郡誌」に述べられているが、単なる
孟浪の言でなかったことが知られよう。許六は、水没時わ
ずか六歳であったが、或はそのころの同時代人として感ず
るところがあったのであろうか、或は後に一つの伝説とし
て聞いたものであろうか。
(11)注(1) 高島高等学校歴史研究会「歴史研究」No.8,p.9
(2) 「近江輿地志略」の成立は、享保十九甲寅(一七
三四)年三月十五日寒川辰清による。なお、同書中
には次のような記載も見られる。
「江源武録」曰く、永禄五(一五六二)年九月十
九日白髭大明神前海一汀に石の鳥居を顕はす。同
二十四日失せぬ云々。
これは、昨年(一九七三)夏の異状渇水の如き、湖
面の一時的低下を示すものであろうが、寛文二年の
湖面上昇(後述)時以前の状況を示すものとして注
目される。
(3) 同検地帳の分析は未だ行なっていない。今後早急
に行なわれるべきものである。なお、このような湖
辺の村における慶長七年、延宝七年等の検地帳の分
析は、事例七と関連して今後の課題の一つである。
(4) 小谷昌「琵琶湖の湖底地形およびその環境」(「琵
琶湖国定公園学術調査報告書」一九七一年滋賀県
観光課所収)
(5) 更に三矢付近の元禄期頃の絵図には、湖面の部分
にまで小字名が付されているという。このことは実
に興味深い。また、本誌饗庭氏稿も参照。
(6) 前者は、十六条六里十八坪及び同条七里十坪後者
については、同氏文書中に応永二十九(一四二二)
年「木津庄検注帳」が存在するが、これは「木津庄
引田帳」と書体、記載様式共類似しており、両者は
比較的近い時期に成立したものと考えられる。各坪
及び面積は次表の如くである。
位置
面積
一七条三里一九坪
一反三四〇歩
一七条三里二〇坪
六反三二〇歩
一七条三里二五坪
九反二七〇歩
一七条三里二六坪
六反二八〇歩
一七条三里二七坪
三反二四〇歩
一七条三里三一坪
七反一二〇歩
一七条三里三二坪
七反二二〇歩
一七条四里三三坪
三反二三〇歩
一七条四里一坪
七反三一〇歩
一七条四里二坪
三反一二〇歩
一七条四里三坪
一八〇歩
一七条四里四坪
四反三一〇歩
計
六二反五〇歩
当地の条里地割の分析は、新旭町に存する堀川遺
跡の調査結果の報告作成に当たり、条里制研究会を
組織し、小川充、吉田雅文等と共に研究した結果に
よる。詳しくは、同遺跡の報告書に拠れたいのであ
るが、同書の早期刊行を望む次第である。
(7) 「高島郡誌」検地及び石高の項を参照
(8) 前掲「歴史研究」No.8,p.9
この事実、殊に小野氏の支配地におけるかかる変
化は、「滋賀県市町村沿革史」各論中の各市町村に
おける行政区画の変遷を示した表における寛永十一
(一六三四)年と元禄十四(一七〇一)年を見れば
一端が知られよう。(後述)
(9) 前掲「歴史研究」No.11,p.6
なお北舟木共有文書は、同地若宮神社に保管され
ている。
(10) なお、この一六世紀後葉の時期に湖面の上昇が考
えられたのは、あるいは後述する如き、天正十三年
の地震に伴う湖辺の変化があったとするならば、そ
れに、一因を拠っているものであろうか。
(11) なお更に一事例について附言しておけば、新旭町
近辺の集落は一つ特異な立地をしていることであ
る。
即、湖辺の浜堤には、ほとんど集落の立地を見な
い。その理由は、一つにはかつて湖辺にあった集落
が、現在の位置へ移ったためであるという。それ
は、湖辺部の遺跡の分布よりして、まったく可能性
のないものでもない。そこでその移転が行なわれた
とするならば、先記「木津庄引田帳」及び「同庄検
注帳」によれば、応永二十九年頃には、集落は既に
今日のそれと、大略同様な位置に立地していること
が知られ、移転は応永二十九(一四二二)年以前に
行なわれたことが窺がわれる。また、一方、日吉二
宮社(新旭町深溝)も、湖辺よりの地より保延年間
(一一三五~一一四一)に現在の地に移ってきたも
のともいう。(「高島郡誌」一七八頁)このような事
実は、何よるか不分明ではあるが、その一つの大き
な可能性として、湖面の相対的上昇(陸地に対す
る)による低湿化といった事態が想定できる。とす
るならば、一五世紀前葉以前にも湖西において湖面
上昇の可能性が存在することになる。