[未校訂]寛文二年五月の地震は領内一般に亘り、城壁破壊し三方郡
の沿岸数里に亘りて干上り、殊に三方湖畔に地変を生じた
りき。(中略)
偶々寛文二年五月領内地震ひ気山川の口崩壊閉塞して隆
起するもの丈余、為めに湖面の水準増すこと一丈に及び、
沿湖の諸邑三方以下の各村水を被る田圃千七百余石に達し
住民皆難を避くるに至れり、忠直即ち検使を派しその状を
視察せしめ救助策について審議せしが、気山川の鑿掘は容
易ならざるを以て行方久兵衛の議に従ひ、浦見坂の掘割に
決し、久兵衛に命じ梶原太郎左衛門と共に総奉行として事
に当らしむ。久兵衛等直ちに浦見に到りて部署を定め先に
領内の士民百人につき二人の所課になれる人夫、並びに鍛
冶大工等千百余人を以て五月下旬鍬初めをなし、工事頗る
進捗したりしが坂の南北各四十間許にして磐石横はるあ
り、即ち山城・越前両国より石工を召し九月に至りて細狭
なる川道を通ずるに至れり。而も人夫倦怠して奉行嘲罵の
歌唱を作り冬季中徴収の薪に未進多くして百姓の怨嗟漸く
盛なり、久兵衛等屈せずして三年正月工を紹ぎ五月に至り
て通渠前年より深さ一尋を加へ、浸水の田圃悉く復旧し田
井の地に干拓一町二段を見るに至れり。忠直入部の途次そ
の地を巡視し、更らに久々子・三方両湖の水準平均に至る
迄工事を継続せしむ、四年二月久兵衛等京都白川の石工を
召して掘割を改鑿し、又久々子湖の排水口たる早瀬川を修
めて排水量を増さしめ、同湖畔に新田を得るもの十二町
余、斯くして両湖の水準漸く平衡を得たりしが猶渠底浅く
して舟楫に便ならざりし為、更らに一尺を深うして五月そ
の工事を完成するに至れり。使用の人数総べて二十二万五
千余人・扶持米三千余俵工事費銀積り九十九貫余匁を費せ
り、その工程切通しの長さ八十間・高さ二十三間・河底幅
四間・川の長さ百八十間なり。干拓の新田三年なるを卯ノ
干と字し、四年なるを辰ノ干と字す、七年に至りて久兵衛
等に命じて新田を検地せしむ両年分合せて三百九十五石
余、因て三方・鳥浜・気山・佐古の邑民を分ち各高二十石
を給して一村を成さしめ、称して成出と云ふ。又田井野・
河内・世久津・海山・北前川・気山等の邑民を分ち同じく
二十石宛を与へて生倉村を成さしむ。生倉・成出の名は蓋
し領地増殖し猶「イクラモ成出デン」の意なりと云ふ。
寛文二年の地変は猶湖畔に干上りを生じ邑民之を新田に
開きたるもの多し、久々子村の庄屋孫三郎の如きも卯ノ干
の内島崎に砂島出来せるを村中に購ひ、之を普請して九年
十月四石の田地となし島新田と云へり。