[未校訂]一、慶長十九年の津波
慶長十九年の津波は十月廿八日に起ってゐるが、此の十
九年説には異説が非常に多い、梅内祐訓の「聞老遺事」、
児島大梅の「梅荘見聞録」、葛池悟郎稿の「南部史要」には
慶長十六年十月廿八日と元和元年十月廿八日の二回に起っ
たといひ「古実伝書記」には慶長十六年説をとり小川孫兵
衛の「大槌古舘城内記」及び伊能嘉矩氏の「上閉伊郡志」
には元和二年十月廿八日とし、三浦宗喜の「宮古由来記」
「宮古風土記」には慶長十九年十月廿八日説を採ってゐる。
殊に伊能氏は「上閉伊郡志」に於て「元和二年十月廿八日
の市日に海嘯あり、潮水古明神下(今の小槌神社の前
身)にまで浸入し、人馬死する者多かりしとぞ、之を閉伊
浜海嘯の記録に見ゆる嚆矢となす」と云って居られる、何
に仍て斯く論じられたかは不明であるが、恐らくは前述の
「大槌古舘城内記」に拠られたのではあるまいか、私は♠
に慶長十九年説を採ったのは別に確たる理由を有ってゐる
のではない。只閉伊郡地方の最も古い記録として信憑すべ
き「宮古由来記」に一先拠ったのである慶長十六年と元和
元年の二回に起ったと記してゐるのは明に一度起ったもの
を重複して記したものである。♠では主として「宮古由来
記」の記述に従ふ事とする。
此の時の津波は十月廿八日の昼八つ時とあるから今の午
後二時頃であった。やはり沖でどん〳〵と大音響がすると
間もなく大津波が三陸一帯を襲ひ多くの生霊を奪ひ去っ
た。「宮古由来記」(1)に
「慶長十九年十月廿八日昼八つ時に大津浪にて門馬、黒田、
宮古、以の外に騒動にて、小本助兵衛御朱町御証文並御用帳
共取為持、後の舘山に遁登り候、同七つ下刻の頃大方に水
引申候、海辺通は一軒も無洩波にとられ人死多く御座候、
家とられ候ものは路道にまよひ申候に付、小本助兵衛見分
に廻り見届の後森岡へ申上候て、身帯相応に御助金被下候」
大槌村では此の日丁度市日で男女群集し取引の真最中であ
ったから最も死傷者が多かった。「大槌古舘城内記」(2)に
「天和丙二酉辰年大つなみ、其日十月廿八日八日町市日に
て朝より度々地しん、波押上候、前沖の方どん〳〵となり
候と、大波山の如くにて参り、川には塩水上げ、引塩には
大杉古木家共を引きつれ申候、市日なれば、よくにはなれ
候者は命助かり、大よくの者老若男女大分死」
と言ひ「梅荘見聞録」(3)にも
「閉伊郡大槌村は市日故、在々浜々より市遣の人々寄集り
たる男女大勢流歿、又尚大槌より鵜住居までの間数百人溺
死之れあり」
とあり、惨害の如何に甚大であったかを物語ってゐる。殊
に津波はさし潮よりも引潮の恐るべき教へ、大慾にて物に
執着した者の多く死んだ事等後人の誡とすべきであった。
「梅荘見聞録」には
「山田浦八房ケ沢(山田町ノ西十町半ノ所)マデ、織笠村
礼堂(織笠ノ西十数丁)マデ来襲、人死数知レズ、鵜住居
大槌村横沢ノ間マデ二十人、津軽石マデ男女百五十人、大
槌津軽石ハ市日ニテ人数多ク死ス、浦々ニテ人馬共其数知
レズ」
と云ひ梅内祐訓の「聞老遺事」には「南部津軽ツナミ男女
溺死三千余人」と言ってゐるからかなりの被害であったら
しい。人口の状態から見ると今日の約四分の一位であった
のに、今年位の被害があったのだからかなり激しい津波だ
った事が想像される。之に対してどの程度の救済に当った
かは不明であるが、地方村役人の申請に依って「身帯相応
の救済」のあった事は宮古由来記に依っても明である。♠
に注意すべきは此の津波の起る前年鮎鰯の大漁であった事
で、今年の大津波の起る前鰯が大漁であった事と考合し意
義深いものを感ずる。
注1 三浦宗喜著「宮古由来記」南部叢書第一冊 三二
一頁
注2 小川孫兵衛著「大槌古舘城内記」岩手教育会輯
注3 児嶋大梅著「梅荘見聞録」宮古村検断弥七著「古
実伝書記」宮古町伊香弥七氏蔵本に依れば、
「慶長十六年十月廿八日大地震三度仕行而、夫より大
波出来、山田浦関屋村房之沢迄なみ先参候、右波寺
沢に而折申候、織笠は礼堂迄なみさき参候、浦々に
而人死申事夥致、鵜住居大槌横須賀之間に而八九百
人余、船越に而男女五六拾人山田浦外二人津軽石に
而百五六拾人大槌津軽石は市日故人余余(マヽ)死申候、宮
古町家寺等も被取候上人死候事百人余くわが崎之事
相知不申候、なみ先小山田千徳迄参候由小山田より
八十沢へ参候道柿沢と申所有之候、右之所へ仙台よ
り参り候五大刀船おし上、かきにても積候哉、其之
所破船くしがゆ沢中に有之候付、其之節より柿沢と
申伝候由に御座候、そげい高浜之義知不申候、牛馬
人共に確と知れ不申候」