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項目 内容
ID J0600186
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1605/02/03
和暦 慶長九年十二月十六日
綱文 慶長九年十二月十六日(一六〇五・二・三)〔東海・南海・西海諸道〕⇨大津波伴う
書名 〔私説 勝浦史〕
本文
[未校訂]二六 慶長の大地震
 慶長年代安房上総に大地震があり、続いて大海嘯に襲れ
たとは子供のときから父祖の寝物語にきいており、その被
害は元禄の地震津波よりも更に大規模であったといわれて
いる。しかし、何故か被災地とみられる勝浦地方には何の
記録も見当らず、中央(江戸)でも信頼すべき記録がな
い。
 徳川幕府編纂の徳川実紀(徳川氏の正史というべきも
の)は、江戸開府以来の地震は漏れなく記載している如く
で、地震の記録は多いが、この年代とおもわれる地震につ
いては何も記していない。若し伝えられるような大地震で
あれば、地震の地域は当然江戸府内に及んでいる筈なの
に、その記事の無いのはまことにおかしい。他方当時のこ
とを伝えるという房総郷土史、例えば房総治乱、房総軍
記、武江年表野史(第八巻)関八州古戦録等々は、驚くべ
き大地震で被害は甚大であったとして、それぞれ長文の記
述をして其被害地も詳しく挙げている。然し正史とみられ
る史書に何の記録がないのは何か納得のできぬ所があり、
又郷土史の記述は表現が誇大に過ぎるものとも疑がわれ、
被害の実際は判定しかねる。
 右の郷土史記述のうち房総記のものを記すると次の如く
である。
(他書は総て省略)
慶長辛丑年十二月十六日大震 山崩海[埋|ウズミ] 或[成|ナ]岳 房総
海上 俄然潮退 殆一里、而為乾斥者 二日一夜
同十七日至夜半海澳大[嘯|ウツブ] 而高濤如山起莫然
忽来[衝|ツ]臨海岩額瀕村人民溺没不可[算|カゾ] 凡為遭
潮害之民、[在|アリハテ]本郡勝浦、沢倉、新官、部原、御
宿、岩和田、岩舟、矢指戸、日在、小浜、渋田(中略)
在長柄郡(村名略す)総計四十八ケ村也
按 凡[井水|セイスイ] [無|ユエナク]故 [遽凋|ニワカニカ] 海潮[不時|トキナラズ] 大[乾者|カワクワ] 皆
為大震海嘯之兆可知也鳴呼当年沿海諸地未開蒙
昧之民不知其災害避於未然 茫乎二日間 [竟|ツイ]使
幾多生霊葬魚腹也 豈可堪憫惻乎
と感慨をこめて記している。
 海の水が急に一里も引いて二日一夜なのは異常のこと
で、津波の前兆であるのに、ボンヤリ時を過した。その頃
沿海の民が無智で災害を避けることを知らず、多くの人々
が溺死したのは誠に憫れむべきである。後の人を警しめ
る、というのである。
 この記事は誇張もあると察せられるが、房総記の筆者に
はこのように受取られたのであろう。災害は忘れた頃に来
るというが、この記事は地震と災害の真偽は別として房総
沿海の人々によき警めを与えていることは今も昔も変りは
ない。
 一方当代記によれば「前文略―地震ハ所ニヨリ大小有リ
関東モ同然上総国小田喜領海辺、取分ケ大波来テ人馬数百
死、中ニモ七村ハ跡無シト云フ」とあり。朝野旧聞も「上
総小田喜(註、小田喜領を指す)はこと更濤勢強く人馬数
百死し七村みな流失す」とある。
 其他本朝通鑑三災録にも同様に記しているが、長文なの
で転載は略す。これらは皆慶長九年のこととしてあり、さ
きに挙げた郷土史が悉く慶長六年としているのとは年代を
異にしている。
(中略)
 なお、従来千葉県下の郷土史家は郷土史上のこの記事を
鵜呑みにして慶長六年説をとっているが、それは誤りであ
ろう。この地震津波について勝浦にはいろいろの伝説があ
る。例えば今のお千代が嶋、平島は当時陸続きで、平島に
ある神社があったが土地が津波で崩壊したので神占を得て
移転したという類である。このような伝説があっても一度
や二度陸地へ海水が侵入したとしても、土地が忽ちにして
溶け去って海と変ったとは考えられない。これは総て嘘と
みるべきである。
 ついで乍らこのお千代が島についていえば、この島は徳
川時代では旧名槌島または打瀬島或は宇都江島といい、陸
地に近い方は遊び島といったが、それは往昔の文献で明か
である。浪打つ島の意であろう。明治初年には宇都江島で
あったが、明治三十四、五年私の子供の頃には宇都江島を
訛って、おつちよじまと呼んでいた。この地が海水浴場と
して都会の人々が入込むようになり、いつの間にかお千代
が島と変化した。そして昔御千代という女海士がいて、こ
の島で大蛸を見付けて蛸の足を一本づつ切り取ったが、最
後の一本を切り取らんとした時、蛸にすい込まれて死んだ
というのである。この説話は東北の沿海にもあるという
が、明治の中期にこの地にも出来た話らしい。
 なおさきに挙げた勝浦之郷水帳屋敷帳は慶長の地震津波
の以前に書かれた古文書であるが、此書類が慶長九年の大
津波に流失を免れて久我家及び岩瀬家に残されていたこ
と、並びにそれより以前の天正年代の植村土佐守の筆蹟が
同じく岩瀬家及び串浜土屋家に難を免れて所蔵されている
ことなどから、慶長の地震津波も郷土史に伝えられる程の
ものではなく、元禄の地震津波と似た程度のものとおもえ
る。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 89
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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