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項目 内容
ID J0600021
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 慶長元年閏七月十二日(一五九六・九・四)〔豊後〕薩摩・ 京都⇨豊後府内は津波襲来、瓜生島は沈没する。
書名 〔瓜生島研究〕「豊府古蹟研究 六」
本文
[未校訂] 瓜生島
 位置 今は既に海底に没し去って影も形も留めない、
謂はゞ幻の島の様であるが、往昔の大分の海には瓜生島・
久光島等と名づける一群の島が、緑の影を映して浮んで居
たと信ぜられて居る。
 今此に瓜生島のありし日の俤を写したといふ古地図が三
種吾々の前に繰広げられて居る。一は曾つてその島の住人
であったといふ幸松氏所蔵のもの(「豊国小史」や「大分
市史」等に載せられたもの)、二は「豊陽古事談」といふ
古書に附載されたもの(本誌所載)、三は植樹円平氏の所
蔵で、明治十四年頃に写したものである。此の三種の古地
図に依って当時の瓜生島その他の模様を考へて見るに、
 唯今の大分市を中心として、東は東大分村大字萩原の
沖、西は八幡村字白木の沖にかけて半島入江の多い稍東西
に細長い瓜生島の主島が浮び、その北東に今の別府市大字
浜脇の附近から、高崎山の沖合にかけて細長い久光島が浮
んで居る。而して此の久光島は幸松氏地図では島といふよ
り寧ろ半島といふべきで、浜脇の東の辺から細長く海に突
き出し、基部は狭く陸続きとなって居るが、「豊陽古事
談」所載の地図は本土との間に一葦帯水の隔りがあり、植
樹氏のものは、全く独立した島となって居る。又此の二図
は共に別府・石垣の沖に、久光島に隣って小久光島と他に
一小島があるが幸松氏の図にはそれがなく、大久光・小久
光共に久光島内にある一村となって居る。次に瓜生島の東
南には、本土との間、中津留の沖に大洲といふ一小島を伴
うて居る。又幸松氏記録には、瓜生島として左の如く見え
るが、果して地図上の何れと何れを指すか明かでない。
康永四年ノ記ニ曰、此跡部島ハ島四ツノ荘名也、則瓜生
島、此瓜生四島ト云フハ、
 瓜生島 久光島大久光小久光真崎島 志満島
右元弘ノ記、跡部島五島トアリ、康和四ノ記、跡部島四
島トアリ、何レモ是非知難。
江戸期豊後の碩儒脇蘭室は、その著「菡海漁談」に、豊
後の古地図を見るに、瓜生島といふのを載せてないから、
『此図を作るとき既になかりしにや』と疑って居るし、又
現に伝はる大友氏時代の府内の図と称するものを見るに、
一向それらしい島もなく、瓜生島に在るべき筈の沖ノ浜町
や蛭子社等はすべて勢家の地と地続きになって居るので、
中には瓜生島の存在を疑ふ人もあるが、然し此の大友時代
の府内図なるものは、既に「雉城雑誌」の著者も言って居
る通り、その原図は恐らく日根野吉明が古蹟を聞き合せ
て、抱絵師前田等修をして描かしめたものらしいから、此
の島は既に吉明の時代には海中に没し去って居たからし
て、その辺が曖昧になったものであらう。又此の島の位置
に就て「雉城雑誌」の著者は、此の島が今の勢家町の北二
十余町、北の方速見郡の地に十九町余あったといふ里民の
聞書を挙げて考証して居る。即ち―
按ニ当代今ノ勢家町ノ海浜ヨリ北ノ方速見郡深江ノ港及
日出城ノ港口迄ヲ海上三里余トス、然ルニ聞書ニ載ス処
ノ説ハ、此瓜生島ト勢家町トノ間二十丁余、島ノ幅員南
北二十丁余、此島ヨリ北速見郡ノ地十九丁余ト記セリ、
此丁数通計六十丁程ニシテ二里ニ近シ、恐ラクハ件ノ丁
数ニ書写ノ誤脱アリテ、速見郡ノ地ニ三十九丁余ノ三ノ
字ヲ脱スルニヤ、又彼地モ此水災及ビ当代ニ至テ海岸没
入モアリテ里数ノ違ヒモアルベシ。(雉城雑誌、巻八)
 又更に、此の島が地図に依れば、余りに西に寄り過ぎ、
久光島との間の余りに近過ぎるとし、種々の例証を引用し
て、(一)此の島と久光島はずっと離れ、(二)高崎山の沖
は今見る如き洋中であった。(三)又外船の頻りに渡来し
たといふ神宮寺浦は瓜生島の港口であって、その島の西端
が白木の沖に迄到るといふ様な狭い海ではなく、(四)此
の島の西端は少くとも、生石・駄原の海の辺で、島は地図
に見るよりもずっと東に寄って居たと考証して居る。これ
が例証として引用したのは、瓜生島が没入した時久光島は
沈没しなかったこと、天正の乱に春日社の大宮司寒田右衛
門太夫が高崎沖で遭難沈没したこと、住吉社の祭礼の神幸
の路順等を挙げて説明して居るが、一々引用することは余
りに煩雑であるから、すべて省略して置かう。
 地勢 元来別府湾の沿岸は、東に鶴見・由布の両火山
聳え、海岸に一個の寄生火山と目すべき高崎山が屹立し、
山脚直に海に入り、西岸一帯温泉の湧出多く、土地の変動
常に絶えざる処といふ。南岸は大分川・大野川の二河海に
注ぎ、稍広濶なる大分・鶴崎の平野を形成し、北岸亦国東
半島の基点に八坂川の流入あり、此の南大野・大分二川と
北八坂川とを繫ぐ線は、水深著しく浅く殊に北岸に近き辺
にあっては十六・七尋を出ない有様であるが、それより西
部湾内に入りて次第に深く、湾の西南隅高崎山の沖合に於
ては、四十尋に達する所もあって、湾内の海底は恰も一盆
地の如き観を呈して居る。而してその周囲の海浜は、西南
隅高崎山の沿岸が山脚海に没して荒磯となって居るが、そ
れ以外の部分は多く砂浜を形成して居る。
 周囲の地勢は大体この様な状態であるが、往時の瓜生島
は此の別府湾の南岸に近く、最も本土に近き処で渡し二町
半に過ぎなかった。尤も「雉城雑誌」には現今の勢家より
北の方二十余町として居るが、これは既に「雉城雑誌」の
著者も指摘して居る如く、今の勢家は殆んど海岸真近であ
るが、それは次第に海水に浸蝕せられたのであって、往時
にあっては勢家の北はずっと広い地続きであったらしく、
地図を見るに、勢家附近の海岸線はずっと北に突き出て居
る。
 地図を閲するに、此の島は南は海岸線単調であるが北及
び東は余程複雑となって居る。即ち東に神崎と恵悦崎の二
岬に包まれて可成広い入江があり、北に磯崎に抱かれて細
長い潟入があり、又それに隣って西に毛利崎の擁する小入
江が見られる。島の大さは「雉城雑誌」の引用せる「雑
誌」には、東西三十六町、南北二十一町余あったといひ、
又周囲凡そ三里許であったと伝へられる。更に此の島の性
質は今にして推定することは困難であるが、地図に依る
に、別に山らしいものも認められないから、恐らくは極く
低い一種の洲浜様の島ではなかったらうか。伝へる所に依
ると、此の島からは一種の礫岩様の岩石を産し、それを切
出して井戸側とか墓碑等に使用され、瓜生岩と称せられた
とのことであるから、島には多少さうした岩石質の地もあ
ったらうと想像される。その瓜生岩なるものは、恰も人工
的な三和土に似て、小さな礫を含有した様な粗脆な石質で
ある。
 北の島の西北渡し八町で久光島に達する。此の島は前述
の如く地図に依って、或は半島とし、或は嶼島とする等区
々であるが、恐らくは今の浜脇辺より細長く延び出で、そ
の狭き所に於ては、満潮の時海水を通ずる程度の洲崎では
なかったらうか。而して大久光・小久光の同一島であった
か、但しは別島であったかも、これと同様な消息であった
らうと思はれる。
 名称此の一群の島の内最も大なる主島を瓜生島とい
ふが、又一名を跡部島(又は跡辺島に作る)とも言った。
それ等の名称に就ては、各一種の地名伝説と思はれる説
がある。先づ瓜生島の名の起源に就ては、「豊陽古事談」
の元慶四年の条に、
頃有慶朝、権僧正遍昭之弟子也、嘗崇信住吉神、一時有
故見擯、謁摂之住吉祠、至心祈赦、神告焉使西遊、路過
豊後、慈寓大分郡笠和郷、時游沖浜、慶朝恒怡瓜、偶植
瓜於沖浜、甘美不可謂、遂久竣於此、因奉住吉三神、建
祠祭之、因名島曰瓜生島、仁和三年得免帰。(豊陽古事
談、巻中)
又跡部島の名に就ては幸松氏記録に見えて居る。
天徳元巳年ノ記ニ曰、此跡部島ノ五島ハ六神ノ魚取ノ時
造レル島ナリ、故ニ神ノ御跡ナリト言故ニ号スト、一言
主ノ神ヲ島ノ神ト祭ルナリ。
此の幸松氏記録の地名考も随分怪しく、且つ「古事談」の
説も果して何に依ったものか詳かでないが、共に地名縁起
の一伝説に過ぎなからう。
 瓜生島又は跡部島の名称は余り古い史書には見えず、古
くは沖ノ浜なる名称が多く用ひられて居る。これは元来瓜
生島内の一町名であるが、これが此の島の港であり、且つ
中心をなす市街地であったので、此の町名を以て島の名の
如く用ひられたのであらう。
 島内の町村 瓜生島は幸松氏所蔵記録に依れば、文禄二
年の検地に宮部法印高入をなし(恐らくは山口正弘の高入
ではなからうか。宮部継潤の検地は、国東・速見・玖珠・
日田の四郡であり、大分郡は山口氏の検地であった)、幸
松荘の調査として、次の如くある。
 荘内旧社 四ケ所 姪子社 住吉社 宇那大明神 三
 社天神
新社 一ケ所 道祖社
寺 三ケ所 阿弥陀寺 阿含寺 称名寺
館 一ケ所 則幸松丹次郎勝忠 同幸松左門丸
信重居宅也
村 十二ケ村 森崎村 申引村 中津村 松崎村
大久光村 小久光村 浜村 村
村 村 村 村
 町 一ケ所 沖浜町 北裏町 中本町 南町
 賀来荘笠和郷幸松荘 右三郷ノ海岸ニ十二崎在、俗呼テ
三郷之崎故三崎ト曰、又十二ノ三崎トモ曰。
 地図を按ずるに、瓜生島の略中央南岸に沖ノ浜の町があ
り、三筋の町筋が東西を縦として並んで、家数約千軒と伝
へられるから(雉城雑誌)、相当繁華な街区をなして居た
らしい。
 其町縦于東西竝于南北、三筋成町、所謂南本町中裏町北
新町、農工商漁人住焉。(豊府紀聞、巻四)
此の町名は南町・中本町・北裏町とも伝へる。此の町を中
心として、西に[申引|さからつ]村・森崎村の二村、東に中ノ津村・浜
村・松崎村の三村があり、久光島に大久光・小久光の二村
がある。前記の幸松氏旧記に、十二ケ村とあるから、此の
他に尚五部落があったものと思はれる。尚幸松氏の館は沖
ノ浜町の西に当って[埴|はに]屋敷として記され、此の島の漁長で
あった。
 道路は府内の町から、一は生石を経て高崎山の裏側銭瓶
峠を越えて浜脇に出るものが近世迄本道となって居たが、
瓜生島の存在せる頃には、此の他に、府内の町から勢家を
経て北進し、二町半の渡場を渡って沖ノ浜に入り、瓜生島
を横断して、八町の海峡を久光島に渡り、浜脇に達する道
もあったらしい。
 社寺等 次に神社新旧四社の宇那大明神は島の西部に在
り、三社天神は埴屋敷の附近に、道祖社は沖ノ浜町に、蛭
子社は東部浜村に、住吉社は同じく東部松崎村に見える。
此の内宇那大明神に就ては、「豊陽古事談」の元慶四年の
条に、その祭祀の起源が見えて居る。
 同年(元慶四年)九月、向崎在沖之浜漁人瞻国造神降臨之霊
兆、立宇那大男神祠于瓜生島、(割書)宇那大男即豊国
造宇那足尼宿禰也。(豊陽古事談、巻中)
蓋し祭神[宇那足尼|うなのそこね]は、成務天皇の朝に始めて豊国造となっ
た人である。
 又地図には塩竈祠といふのを記してゐるのもあるが、こ
れに就ては「豊陽古事談」に創立のことが見える。
 仁和四年戊申十一月建塩竈祠于瓜生島、居民森崎氏有神
託之事、勧請焉、以十二月中旬成。(豊陽古事談、巻中)
尚其の他の神社の由緒に就ては、便宜上後章遺蹟の項に一
括しよう。
 偖て島の寺院としては、前記の三ケ寺が挙げられるが、
阿含寺・称名寺の位置は明かでないが、阿含寺の創立に就
ては幸松氏記録に次の様に見える。
 享徳三年之記曰、京師之僧慈良ヲ為開基、十念山阿含寺
建立ト成。
又阿弥陀寺といふのは、或は地図に沖ノ浜の附近に道場と
記せるものか、但しは蛭子社に近き西応寺を指すものか、
その何れかであらうと思はれる。西応寺は地図に依っては
記せるものと記さないものがあるので、果して此の島に在
ったものか否かは詳かでない。若し阿弥陀寺を以て沖ノ浜
の道場とすれば、これは明かに後の威徳寺でなければなら
ぬ(阿弥陀寺の山号も威徳寺と同じく瓜生山とある)。此
の寺は幸松氏記録には、天正十六年の創立とある。又「豊
陽古事談」の地図には島の西端に垂井寺といふのがある
が、これも疑問視すべきである。
 又久光島には大久光村に道場と記せるのがあるが、こ
れは恐らく今の別府市なる海門寺の前身であらうと思は
れる又「豊陽古事談」の地図には、小久光村に久光寺と
いふのも記されてある。久光島は家数五百軒あって、こ
れ等の寺院の他に、火王宮もあったといはれる(雉城雑
誌)。これ等の寺院に就ても後章に詳述しなければなら
ぬ。
 尚沖ノ浜の東には勝久塚といふのが、地図に見えるが、
これは此の島に謫居中に歿した島津勝久の墓と称するもの
であるが、又別にその居館も此の島に在ったといふ(雉城
雑誌)。
 慶長元年の豊後大地震と瓜生嶋の低下 瓜生島の低下は
全国的にも有名で、その地震の性質等に就ては、中央の学
者中にも、既に之を発表せる人がある。併し瓜生島の全般
的な研究はまだ其の綜合には達してゐない。向後の学者の
研究上の参考にも供したい考で、やゝ煩雑且は重複する点
もあるが、原文のまゝの文献を列記することにした。先づ
地震の概況に就て、
 (注、「豊府紀聞巻四」、「豊陽古事談巻下」、「威徳寺由
来書」を引用するも別掲と同文なので省略する)
 慶長元丙申歳閏七月十一日十二日天下大地震、豊後の国
殊に大地震、山崩れ川溢四極山 木綿岳 鶴見山霊仙山々等山頭巨石悉落大地裂て十二
日申の刻止む、人民安心す、此時十一日十二日の驚動筆紙
に尽しがたし、時に一人の老翁白馬に乗て馳廻り告て曰
く、此島今崩るゝ故早く陸路に船を押て立去れと高声に
[触歩行|ふれありく]或人曰此翁は当府の宗廟春日大明神なり、と、又或人曰く此島の住吉大明神なりと于時島長勝忠ま
た馬に乗りて今神明の告ぞ早く立退き可申、遅滞せば神託
に背くの罪ありと、島中を走り廻り、嶋中の老若男女周章
一方ならず、思ひ〳〵に陸に立去る、島中の人半は死し半
は生る位歟。(長松寺仙玉、瓜生嶋考)
 尚此の他「雉城雑誌」等にもあるが、殆ど内容同一であ
るから省略して、次に遭難の状況を記した記録として、幸
松氏記録(一篇の小冊に纒めて、「瓜生島崩の由来」と題
してある内藤平四郎といふ人の編、無論写本)と「柴山勘
兵衛記」(碩田叢史中に収む、柴山勘兵衛重成は岡藩中川
家の臣で、慶長元年朝鮮役に養父重祐―此の人は両賀と
もいふ―が従軍した時、留守居として両賀の居宅沖ノ浜
に住して居た。因みに当時沖ノ浜は中川家の船着であっ
た。同年十一月今津留に替地となった)の二書に詳述され
てある。先づ「勘兵衛記」から、
(注、 「勘兵衛記」は別掲と同文なるを以て省略する)
慶長元年七月三日地震、同十六日十七日地震、又廿三日
ヨリ廿八日迄地震、一日ニ五度ヨリ十度ニ至ル、然ルニ
心有ル者四十六人立退テ荏隈村ニ仮小屋ヲ建ル、其月モ
過テ閏七月ニ成、四日五日地震、右ニ付迯退者甚多シ、
閏七月十一日未刻ヨリ大小地震数不知、翌十二日豊後国
高崎山木綿山鶴見山霊仙山等悉ク山崩レ川溢レ、………
諸人恐怖シテ東西ニ奔走スル事筆紙ニ難記シ、別テ瓜生
嶋ノ事ハ人民愁歎ノ声天ニ満ツ、然ルニ十二日申ノ刻ニ
至テ地震暫ク止ム、時ニ瓜生嶋ハ申ニ不及、別府浜脇ニ
至ル迄大ニ喜悦シテ浴スル有、食スル有、食セザル者モ
有、時ニ又々天変生ジテ海中大ニ鳴響ス、甚奇異之思ヲ
ナシ諸人東西ニ走ル事実ニ筆上ニ難記、時一人ノ老翁白
馬ニ乗リ鞭ヲ揚ゲ、此嶋只今崩ルベシ、早ク陸地ニ舟ヲ
寄テ迯去ルベシト高声ニ申タマヒ鳴中ヲ走廻ル、嶋長幸
松丹次郎勝忠ハ今老翁ノ御沙汰ヲ得テ、甥幸松左門丸信
重ヲ供シ馬ニ乗テ、今明神之御告グヤ早ク立退ヘシ、遅
滞セバ神明ノ御告ゲヲ背ノ罪有ト、勝忠信重島中ヲ走廻
ルニ嶋ノ人民周章シ、若ハ老ヲ助ケ親ハ子ヲ助ケ、各小
舟ニ乗テ迯ント実ニ大混雑也、此時村里ノ井水悉尽大海
汐干ル事不常、依テ海底五尋ノ岩砂顕ル、然ルニ又々東
ニ声有、百雷ノ落ルガ如シ、忽洪濤起リテ府内及近辺ノ
邑里ニ大波至ル事頻也、此時幸松丹次郎勝忠ハ小舟ニ乗
テ、左門丸信重ハ何国ニ有ル哉ト呼バヽルニ爰ニ在リト
手ヲ出スニ、勝忠信重ガ右ノ手ヲ握ルニ、波濤来リテ行
先ヲ不知、只忘然ト而波上ニユラレナガラ信重ガ手ヲ握
テ不放、又佐門丸信重ハ両足共ニ波上ニ乍在漂ヒ行ニ、
大空ニ声在、勝忠手ヲ出ス可ト言ニ付眼ヲ開キ見レバ、
老翁来リテ一丈計ノ竹ヲ出シ、此竹ヲ可持ト言、勝忠嬉
シク弓手ニテ彼ノ竹ヲ持、馬手ニテハ信重ノ腕ヲ握リテ
居ルニ、暫時ノ間ニ山ノ端ニ着船ス、亦老翁ヲ見レバ老
翁ハ見エズ、只山計ニテ、此時勝忠人心ニ復シ、誠ニ神
明ノ加護ニ依ツテ不思議ノ命ヲ助リシト思、又信重ヲ見
ルニ早息絶テ不答、勝忠周章シテ信重ヲ抱キ起シテ頻ニ
声ヲ掛ルニ、漸ニ夢覚メタル心地シテ蘇生スル時ニ、雨
ハ頻ニ降テ車軸ヲ流スニ不異、両人共ニ松ノ樹ニ在、陸
地ニ行ニ則加似倉山也、然ルニ難有ハ此山ヲ始向大宝山
大平山ヲ見ルニ数百ノ灯燈アリ、悉ク由原宮善神王宮ト
記シ在御神燈也、如何ナル人ノ立タルヤラント奇異ノ思
ヲナス、斯テ勝忠信重ハ加似倉山ニ在テ其夜ヲ明スニ、
暁ニ至リテ右ノ御神燈消失ケリ、誠ニ由原宮加来善神王
宮之御守護也ト、両人共ニ難有伏シ拝シケル、………勝
忠、信重ハ慶長元年閏七月十三日朝ニ至テ加似倉山ニ忘
然ト而海上ヲ見渡スニ、数代住馴シ瓜生嶋十二村ハ跡形
モナク、只漫々タル海上ト成、実ニ夢現之界ヲ不知、余
リノ大変ニテ涕モ不出シテ在ケルニ、大分郡浄土寺四世
ノ住職馨誉上人来リテ、不取合我寺ニ来リ給トテ、則丹
次郎勝忠多門丸信重両人共ニ浄土寺ニ寓居スル。(瓜生
嶋崩ノ由来)
 地震の性質 此の地震に就ては、「大分市史」に委曲を
尽して述べてあるから、長文ではあるが、先づそれを引用
しよう。
(注、 「史料」第一巻五九〇頁下四行目以下と同文なる
を以て省略)
と、慶長地震の震域並に津浪の区域を説明してゐる。然る
に又「大正五年大分県気象報」に『大分県と地震噴火』と
題する理学博士大森房吉氏の論文が掲載せられた。是より
先二十余年前佐藤順一氏は大分在任中、瓜生嶋に関する史
料を蒐集し、之を大森博士に提供されたが、是等に基づく
博士の意見は権威あるものと考へる。次のやうである。
地震ト地面ノ変動 地震ハ其ノ震央附近ニ於テハ強クト
モ震央ヨリ距離ヲ増スニ従ヒ微弱トナル、故ニ広大ナル
地域ガ全般ニ深ク陥没スルコトハ有リ得ベカラザルコト
ナリトス。天武天皇十二年ノ土佐国大地震ノ時田苑五十
余万頃没シテ海トナリシハ正史ニ載スル所ニシテ事実ナ
ルモ、此ノ時土佐湾ガ陥没セリナドヽ想像スルハ大ナル
誤ニテ、頃ハ[代|シロ]即五歩ノコトナレバ五十余万頃ハ僅ニ約
二十六町平方即一平方里ニ足ラザル地積ニ当ル。土質弱
キ国府附近ノ田苑ガ少シク低下シテ海水ニ覆ハレタルニ
過ギザルヲ知ルベシ。………大分別府地方ニテ最モ顕著
ナリシ地震ハ慶長元年閏七月九日ノ地震ニシテ瓜生嶋ノ
低下セルハ此ノ際ナリキ。此ノ地震ハ同年月十二日ノ彼
ノ有名ナル伏見大地震トハ別ニシテ三日ノ時差アリ……
即チ瀬戸内海西部ノ強震部類ニ属シ、別府湾海岸ニ最モ
接近シテ発セルモノトス。瓜生島ノ地震ハ閏七月九日ノ
午後八時頃ニ起リ津浪ヲモ伴ヒタリ、旧記ニ瓜生島陥没
シテ海トナレリトアルモ、勿論同島ガ数十尋ノ深キ海底
ニ沈ミタルニハ非ズ、斯カル事ノ有リ得ベカラザルハ既
ニ前記セル所ニシテ陥没トハ誇張ニ過ギタリ。元来築堤
ノ類ガ強キ振動ノ為メニ落チ付ク結果十余尺モ低下スル
ハ稀ナラザル所ナルガ、瓜生嶋ノ中ニテモ土地柔弱ナル
市街地浜辺等ハ数尺ノ低下ヲ受ケ水ニ覆ハルヽニ至リシ
モ岩石地及堅碍ナル台地ハ当時ノ水上ニ存セシナラント
推セラル………尤モ此ノ地震ニ際シテ多少海底面ニモ昇
降変動アリテ津浪ヲ誘起セルモノト考ヘラル。(猶大森
博士の論文「震災予防調査会報告、第八十八号乙」本邦
大地震概表も殆んど同一趣旨につき省略した。)
 即ち「大分市史」の論と、大森博士の意見とには多分の
相違がある。吾々は穏健な後者に従ひたい。元来地質学的
に研究すれば高崎山沖の方はたしかに陥落地帯に相違ない
(佐藤伝蔵氏大日本地誌)であらうが、併しそれは慶長元
年の地震の時に生じたものではない。海図を按ずるに日出
杵築の方面に比し高崎山の沖合一帯は海が平均二十尋も深
くなってゐる、之だけの大変化が慶長元年の地震によって
生じたのではない。さうなったのはもっと昔のことであ
る。瓜生嶋は山あり谷ある島嶼の類ではなく、現今の弁天
島の如き砂洲であったことは既に「雉城雑誌」の著者の説
けるところであって、大きい津浪が引けば大部分は洗ひ去
られる質である。それに多少海底の隆起沈隆等が伴って、
遂に瓜生嶋低下といふことになったとの断定は蓋し当らず
と雖も遠からずであると信ずる。
 地震の時日 さて慶長元年の地震津浪のあった日時は大
森博士の九日説は前掲の論文に見えてゐるが、併し多くの
記録を点検すれば、その前月にも地震はあり、閏七月は初
旬から引き続きの震動で、結局十二日に至り総決算的に地
震津浪瓜生嶋低下といふことになったと考へられる。全く
十二日が代表的な地震の日である。前掲記録の外一二の傍
証をあげると、群書類従の紀行部「玄与日記」に、
夫よりさがの関迄御着被成候、去七月十二日の地震の時
かみの関と申浦里は大波にひかれて家かまともなく、命
を失ふもの数を知らず、哀なる事どもなり。
と見えるかみの関とは、佐賀関の上浦の別名である。又
「佐賀関史」に、
 (注、「史料」第一巻五九七頁下十行目以下と同文につ
き省略)
ともある。大森博士は亀川の幸松嘉作氏(後に記す幸松家
の主人)に、『伏見の大地震が十二日であるから、豊後の
地震は九日頃とするが当然である、三日位の間隔を置いて
波及を考へねば説明が成立たぬ』と話されたとのことであ
るが、十二日以前からの引続いた地震で、此の日高潮に達
したと説明は出来ぬだらうか、吾々は記録の方面から考へ
てどうも十二日と論断したいのである。
 災後の手当 抑々豊府の地は天正十四年薩軍乱入の兵焚
に罹り奪掠に遭ひてより、年を経ること僅に八年である。
此の八年間は大友義統の治世ではあつたが、義統は府内城
の天正落城後は直に秀吉に随って島津征討に出軍し、引き
つゞき征韓の役に服し、韓地に於て封土没収の悲報に接し
家臣離散したる程である。其の治世中に於ては府内城の修
築等は思ひもよらず当時府内は城塁街衢唯廃墟のみ、居民
流離して惨状は目もあてられなかった。文禄二・三年の検
地の際も山口玄蕃頭は駄原浄土寺を其本陣とした。かゝる
有様の文禄三年十月早川主馬首長敏が府内城主に任じ入府
したのである。長敏は郡内高田の庄家島に寓し金銀を与へ
て市民を呼び、上野丘なる大友家形の修理を命じ、応急の
工僅かに成りて後府内に移り住んだ。大に人民を撫育して
府内やゝ生気を発せんとする折柄、恰も此慶長元年の災厄
に遭遇した、上下の困惑は想察に余りがある。
 於是沖浜町流免死之人、漸々到于彼地来此境、雖然皆裸
程無衣且飢食、故同十三日昧爽求親属及交隣之好、来于
勢家村之民家、於是時勢家之民人育之、又勢家名主往于
府城曰此事、於時城主早川主馬首憐愍其民人飢裸之難、
即賜衣布米銭以扶持之、於勢家境内屢結茅屋使居之、再
名沖浜町。(豊府紀聞、巻四)
かくして出来たのが今の沖ノ浜町で、当時はもとの瓜生島
のものに対して新の字を冠らせて呼んでゐた様である。猶
避難民は津留・萩原・三佐等にも茅屋を結んで移り住んだ
ことが、諸記録に散見してゐる。其他神社仏閣に関するこ
とは後章に項を立てゝ之を詳述するから、♠にては省略す
る。
 瓜生嶋と幸松家 相当年輩の人は市内堀川町に酢屋と称
する豪家のあったことを記憶するであらう。是が即ち歴代
瓜生島の嶋長であったところの幸松家である。府内城主日
根野織部正吉明の承応二年五月七日、造立の功成った仙石
橋(此時土橋を改めて木橋となす)の渡初を堀川町長幸松与
右衛門が、子孫一属及僮僕奴婢等凡八十余人を率ゐて行っ
たことは有名なことである。同家譜に交易を以て産をなす
とある。山弥長者、竹中侯あたりと連絡あり、外国貿易で
もやったのかもしれぬ。幸松家は今数家あり、直系は今も
堀川に住居してゐる。♠に瓜生島低下前後までの同家のこ
とを記すは、同島の事情を闡明する上に必要のことゝ考へ
たからである。以下幸松氏所蔵記録「瓜生島崩の由来」の
要点をとった。この書は明治初年に内藤平四郎といふ人
が、同家の古記を基として組織的に編んだものであるが、
内藤氏は平田流の国学者であったと見えて、その意見往々
独断に失する点なきにしもあらず
一、幸松氏の遠祖は[宇那|のきな]宿弥に出づ。景行天皇十二年始め
て豊国造に任ず。
一、宇那宿弥の子川辺宿弥十三代の孫[和仁多気馬|わにのたけま]京に在り
て物部守屋に属し仏寺を焼き、其後皇子の乱に討死す。
一、更にそれより十五代の孫[埴久満足|はにのくまたり]養老三年碩田の大領
に任じ、直野山に那岐浪の神を祀り、久満寺の神社と称
す。
一、五代の孫埴[広薫|ひろか]元慶五年跡部島を賜はり、権領に任ず。
一、豊後国司藤原忠輔の頃、埴三郎喜平あり、強力剣法衆
に勝れたといふ。
一、建久七年大友能直入国、文禄元年十二月廿五日跡部島
地頭幸松左膳重忠に旧地を賜ふ。
一、大友六代貞宗の時、延元元年二月十一日足利尊氏跡部
島の恵悦崎に着船、島長瓜生兵衛尉貞村(幸松氏の祖)
出迎、此の時田原・利根・竹中・吉弘・清田・田口・松
岡・日吉・麻生・俣見・亀山・臼杵・大神の各氏出迎へ
たといふ。尊氏は大友氏の別館鶴の館に入る。
一、文禄二年大友氏闕国、山口玄蕃頭豊後検地、瓜生島長
幸松丹次郎勝忠は大友幕下なれど、由緒ある家に就き山
口氏より秀吉に申出で、島長たること旧の如く許さる。
一、慶長元年閏七月地震。(此時の当主幸松丹次郎勝忠及
び甥左門丸信重のことは前出。)
幸松左門丸信重は、幸松家が一旦瓜生島低下と共に覆没し
たるを再興したる人である。信重は災後頗る零落したが浄
土寺の住侶馨誉上人の救助を受け漸次家運の再興を見たの
である。信重の前代は幸松系図に初代幸松仁右衛門兼直と
記され、その註に、
一年大友義統君当上洛之時被擢代官供奉、従太閤秀吉公
於泉州堺之浜賜米五百俵於大友侯、石田治部少輔奉行之
………奉契書其契中書大友之姓名高於石田、於此石田与
幸松及争論、訟太閤秀吉公、太閤使山口玄蕃允守府城、
各出於旧館離散于東西、此時託居於瓜生島渾于民間復不
仕也、同四年福原右馬助直高主府城、為石田三成之婿…
……憤而益避世乎………義統君従中国興師来与黒田如水
戦于石垣原、兼直………夫君臣以義合、義不在此則不仕
………臼杵君稲葉典通頻招而為師友之交、兼直亦能謡舞
………某年剃髪号休自、嘗好連歌………寛永十四年卒諡
敬誉休白信士。
二代幸松与右衛門藤原信重
母某妙栄娠而漸有〓、慶長元丙申年正月四日於瓜生島
産、信重同年閏七月十二日大震地割山崩亦滄海鳴動、畏
之而避干[世家|せいけ]邑、忽焉大波起洋々為海、同七年竹中伊豆
守重隆君移民家於今之府中、此時吾族移于堀河町盖浩濤之後数年託
居於世家邑昔蔣山万寿寺也為九州第一之伽藍天正之兵火悉灰
塵、其時衆僧携於大仏之頭臚而去、信重蔵之己久矣、寛
永八年丹山再建之時送之、亦屢参于丹山師、或時乞異
称、答之曰、
幸松氏信重頃就予需異称諱之、云休意字之云敬心所謂格
物致知也、順敬正心誠意也、順敬脩身斉家治国平天下也
順敬、敬者一心之主宰万事之根本矣、聊賦一偈証二大字
義云、
忽参主一無適意 自得逍遙絶喜憂
此是精神貴礼本 直随万境実能幽
 今♠寛永戊寅仲秋吉辰
野釈丹山叟宗昆漫書
 嘗好連歌往来于東井坊寛佐法印、
寛永九年十一月廿五日
賦何人連歌
浦風にさくや冬木も波の花 信重
雪をあさ戸のこもり江の里 寛佐
 承応二癸巳年五月七日(仙石橋渡初めのことなり、前に
出づ。略す)
 貞享二乙丑年七月廿三日卒、諡本法幸与居士。
慶長二酉年二月福原右馬助直高入国の節、駄原浄土寺の馨
誉上人が、幸松家を沖ノ浜漁長として復興の歎願をなし福
原直高より秀吉に伺出の上許可せられたる由の記録が幸松
家文書の中に見えた。幸松嘉策氏の談によれば、幸松信重
は馨誉上人の扶助を受くること甚大であったので、其の後
上人が西応寺を開くや其の檀越となり、爾後幸松本家の当
主の墓は総て西応寺にある由である。筆者は一日西応寺な
る寺松家の墓を訪れた。本堂前面の墓地内東向に歴代の墓
が並立してゐる。初代と二代は同一の墓碑に納められてゐ
る。石は花崗石、台石高さ八寸、穂長四尺七寸、表面の文
字は、中央に『一法□□(不明)休白信士』右に『本法幸誉信士』
左に信女の法号がある。
 瓜生嶋陥没伝説に就て 兎に角周回三里もある島が一朝
にして海底に沈没して了ったのであるから、一寸不思議に
も感ぜられる訳で、其処に色々と伝説を産むことになる。
それで前述の如く、或は神罰に依るとか、但しは仏堂を島
に建てたからだとか、色々に伝へられて居るが、此の島の
沈没に就て、最も当地方の人口に膾炙して居るのは次の様
な話である。
島には恵比須の社があって、島民の言伝へとして、その
神像の顔が赤くなると、島が波間に沈むと伝へられてあ
った。そして朝夕島民はその社に詣でゝ無事を祈って居
た。然るに慶長元年七月或日、一人の島民が、神像の顔
の真赤に染まってゐるのを見て、大いに驚き、早速村々
に告げて一騒ぎをした。或者は船を出して本土に遁れ様
とし、或者は予言を信じないで、島に留まらうとした。
その時島に住む真斉といふ按摩は、皆の周章て騒ぐのを
見て、苦々しく思ひ、『神像の顔の赤くなったのは、俺
が紅殻を塗ったからだ』と言ひふらした。島民は半信半
疑で去就に迷ってゐると、やがて海が騒しくなり、……
 一夜の内に全く島は海中に没して了った。(豊後伝説集)
かうした伝説は可成古くからあったと見えて、既に幸松氏
記録にも見えて居る。
慶長元年……然ルニ六月廿九日柞原社御祓会嶋中参詣
ス、此時申引村之医師加藤良斎ト言有リ、此嶋今日休
日、潮ヲ竹ノ筒ニ入テ御祓会浜ノ市ニ詣テ是ヲ奉幣ス、
良斎是ヲ見テ大ニ訛言曰、神ハ心也、何ゾ其所詣不及、
神ニ不思議無キ也、其故ハ此島皆人共言伝ヲ以恐レトス
ルハ何故ゾヤ、此島ニ寺ヲ建ハ此島崩ルト言説、次ニハ
蛭子之顔赤ク成ル時ハ此島崩ルトノ寓言不可信、………
我今為島人其虚実ヲ示サントテ、蛭子社ニ往古ヨリ祭リ
奉ル御神体ノ蛭子様ノ御顔ニ丹粉ヲ塗テ真赤ニ成シ、高
笑シテ村中ノ老若ヲ罵ケリ(次に島沈没の記事あり)。
此の伝説の主要部分は、人をあざむかうとした悪戯が、遂
に大災害を引起して、島が陥没したといふ所にあるが、こ
れに似た伝説は他にもある。而もその血塗モチーフを同じ
くして居る。一例として阿波小松島港外のお亀磯の伝説が
それである。嘗て喜田貞吉博士が筆者に書を寄せられて指
示された処に依ると、此の岩礁は昔はお亀千軒といふ繁昌
な漁村を有する島であったが、狛犬の目(又は石地蔵の目
ともいふ)を赤く塗った悪戯から一夜に陥没して暗礁を止
めたと伝へるさうである。菊池寛の戯曲の「亡兆」といふ
のは、或は此の島の伝説を取材したものであらう。又既に
「雉城雑誌」の著者の引用せる如く、「本朝故事因縁集」
薩州野間御崎明神の条に、唐土万里島の陥没の故事がある。
 かうした血塗モチーフを有する陥没伝説は恐らく「今昔
物語」に採録した『嫗日ごとに卒塔婆に血の付くを見る
語』(巻十第三十六章にある。「宇治拾遺物語」には『唐卒
都婆に血つくる事』といふ題で載ってゐる)等を基として
全国的に拡まり瓜生島の如き特異な事情ある場所に附着し
て語り伝へられたものではなからうか。而して「今昔物
語」の此の話の出典は「捜神記」等にあるといふことだか
ら、恐らく支那種であらう。(かうした話が地方に触れ廻
られた伝播者としては、中世の京下りの神人や[遊行巫子|あるきみこ]等
の力が働いたことゝ思ふ。)
 尚瓜生島の地名伝説や沈没当時の神異伝説等は前項に出
た所であるから、此にはすべて省略しよう。
瓜生島関係遺蹟
 嘗て瓜生島一町十二村の地には、前述の如く四社三道場
が建立され、島民の信仰をあつめて居たが、一朝海底に没
するに及んで、それ等の社寺も亦島と運命を共にしなけれ
ばならなかった。其後島民にして難を遁れて本土に移住し
た人達に依って、漸次さうした社寺古蹟が本土に復興され
る様になり、以て現在に及ぶものが尠くない。吾等はさう
した種類の遺蹟として、神祠に浜町蛭子社・住吉神社・春
日社内天神社を、仏院に威徳寺・西応寺・称名寺を主とし
て、その他勝久塚・霊雲寺・海門寺等に就て略述しようと
いふのである。
沖浜蛭子社
現在の大分市大字勢家沖ノ浜の町筋を北に
海岸に出ると、丁度町端れ西側の海岸に、一
廓の神社がある。これが浜町鎮守の村社蛭子社(又恵美須社
にも作る)で、八重事代主命を祭神とする。此の社地は大正
五年頃に移転したもので、それ以前は現在よりもずっと南
で、現に同町平松重太郎氏の宅地となって居る場所に鎮座
されてあったといふ。而して更に溯って、勢家の地に勧請せ
られない以前は、即ち瓜生島鎮守の神社であったのである。
 此の神祠を島に勧請した由来は詳かでないが、地図に依
れば、島の東部浜村内に在った様であるが、「恵美須神社
縁起」(明治二十八年写)には、沖ノ浜町の北町に在った
としてゐる。
其町(沖ノ浜町)東西に縦し南北に並び、三筋の町を為
す所謂南本町、中裏町、北を新町といひ、農工商漁人之
に住す、恵美須神社其の新町に斎ひ鎮ありて、島人等が
産土神と尊崇奉り………。
何れにせよ、前述の如く此の島沈没の時には、此の社の神
像に朱を塗った為にかうした異変が起ったのであるといふ
伝説を有して居る。
 島の沈没後、この社を再び祀るに至ったのは、災後の勢
家の地に神像が流れ寄ったので、村民祠を建てゝこれを斎
き祀ったといはれて居る。而してその復興の年は災後直後
であるとも、又は正保年間とも慶安年間とも伝へて、明確
なことは判らない。
蛭子祠 雑志曰、相伝、瓜生島中所祭ノ神ニシテ、慶安
四年再営ノ棟札及ビ縁起等漁師日名子氏ノ家ニ収ム、或
云、正保二年祭ル処ニシテ、神体ハ利光自休ノ作也トモ
云ヘリ。(雉城雑誌、巻八)
瓜生島一時に沈没して澥底となり、其時恵美須の神璽勢
家の海岸に漂着す、勢家村の名主此由を府主早川主馬首
に告げ、即今の沖ノ浜に殿宇を創立し、其神璽を鎮斎し
て之を祭り、別して漁人等は海幸を得んがために神徳を
仰ぎ、厚く敬ひ尊み奉る。(恵美須神社縁起)
「雉城雑誌」に所謂慶安四年の棟札及びその当時の縁起な
るものは現伝しないらしい。(中略)
住吉神社
現在の沖ノ浜町の南、仙石橋の西詰に郷社住
吉神社がある。この社が元瓜生島松崎村に鎮
座せる住吉社の後身であるといはれる。
住吉祠 在笠和郷勢家村地方沖浜、此祠旧在瓜生島、歴
年最久、慶長之災湮滅、寛永二年更立祠于此。(豊後国
志、巻四)
若し然りとせば、此の神を瓜生島に勧請したのは随分古
く、「豊陽古事談」の記す所は、既に陽成天皇の朝元慶四
年(一〇五二年前)に創立があるといふ。即ち、
同(元慶)四年庚子、建住吉祠于沖之浜。
而してこれを勧請したのは、僧正遍昭の弟子慶朝といふ僧
で、偶々西遊の途次此の島に寓して、日頃尊信せる住吉三
神を祭ったといふのであるが、余りに遼遠にして、その信
偽判定し難い。尚当社の滝山社司の蔵する「住吉社御祭礼
記録」(明治六年旧記を基として写せるもの)には、『往古
大友二十代修理太夫義鑑公天文元壬辰年宮殿を造営し玉
ひ、同六月祭礼の式初め玉ふ』として、近古の奉祀なるか
の如く記して居る。果して如何にや。且つ此の記録には、
此の住吉社が元瓜生島に在ったことは毫も記してない。殊
に「豊府紀聞」には次の如く記されてある。
豊府城北沖浜住吉宮者、国人伝説、往昔摂州住吉宮之勧
請、而社廟儼然而不違祭祀時、所然罹天正兵乱、荒廃瑞
籬破壊華表、其宮地為阡陌、或営民家、故其地之民人恐
壊朽住吉神像、営禿倉安奉之、然無知其神名者、既而有
歳、時慶長年中沖浜町住河田氏助左衛門語西応寺住侶
曰、我旧居瓜生島、前歳免洪濤之急難、今住沖浜、予之
居地境内於藪林中有禿倉、名一之宮、正雖其一宮為旧
地、今既民屋之際而非浄境、是故請使一之宮遷西応寺之
境内、住侶応之、即営禿倉於西応蘭若之境内成遷宮、今
一宮是也。(豊府紀聞、巻七)
此の文にいふ沖浜はすべて新沖ノ浜で、勢家地内である。
今此の文を読んで気付く点を挙げると、(一)社は一時盛
大であったが、天正兵乱(慶長水災以前)に荒廃し、名も
なき小祠となったこと、(二)元瓜生島に住居せし河田氏
が慶長水災後勢家の新沖ノ浜に遷った処、その新宅の地内
に此の小祠を発見し、住吉神社の址と知ったこと、(三)
此の祠を此の儘にして置くのは恐ありとて、西応寺住侶と
相談して西応寺内に遷したこと。即ち此の文中には何等住
吉社が瓜生島から遷されたといふ意味はないのである。然
るに「豊後国志」の著者唐橋世斎は此の文を読んで、河田
氏が瓜生島より遷れる時、住吉社をも改めて西応寺境内に
遷祀したと解したと見え、「紀聞」の上欄に、『瓜生島住吉
地震海溢之後遷西応寺』と註記し(大分図書館本)、採っ
て以て「国志」に編み込んだ訳である。であるから、前記
「国志」の元瓜生島に在りとする説は根拠なき説である。
 然りとすれば、瓜生島の古地図に明かに住吉社として載
せられて居るのは何故であらうか。此に於て次の疑問が起
る訳である。
一、瓜生島の住吉社と勢家の住吉社とは、前身と後身の関
 係であるか否か。
二、若しもさうした関係であるとしたならば、何時勢家の
 地に祀られる様になったか。
三、若しこの二社全く別のものとしたならば、文献に屢々
 現はれる住吉社は果して何れであらうか。
此の疑問に対して、「豊後国志」や「豊府紀聞」のみにて
は到底解決することは出来ない。吾等は今これを解決すべ
き適確なる史料のないことを遺憾に思ふものである。(「豊
後史蹟考」等はすべて「豊後国志」に従ってゐるが、「国
志」の説は前述の通り「紀聞」の曲解と考へられる。(中
略)
春日社境内天神社
瓜生島地図に、幸松氏の埴屋敷附近
に三社天神といふ社が記されてある
が、現在春日神社境内東側に鎮座の天神社はその後身であ
ると伝へ、記録類に載せられてある。
沖浜之鎮守天神、漂流而到于勢家之境内、因勢家之名主
収之、以再建諸春日祠之境内。(豊府紀聞、巻四)
瓜生島天神(割書)祠有島之地、洪波後流来勢家村地、
即安置春日之境内。(豊陽古事談、巻下)
天神社瓜生島鎮守ニテ候処、慶長元年申七月津波之
節、春日宮エ打上ケ申候。(寒田家所蔵記録)
此の社は古老は酢屋の天神と称し、先年迄は酢屋即ち幸
松家から祭祠の費用等を献上して居たさうである。念のた
め明細帳を見ると、次の如くある。
天神社 祭神 菅原神
由緒 元瓜生島鎮座ノ処、慶長年中狂浪ノ為ニ沈没
シ、神像此浜ニ現出ス、依テ此地ニ鎮座ス、
神殿 竪四尺七寸 横三尺六寸
拝殿 竪二間二尺 横二間(中略)
威徳寺
市内浜町にあって、境内に鬱蒼として枝幹の蟠
って居る老松によって名高い寺で、浄土真宗本
派に属し瓜生山と号する。古地図に見る瓜生島道場は当寺
の前身で、慶長水災の際、堂宇尽く海中に没した後現位置
に再建今日に及ぶ、頗る数奇の運命におかれてゐるのであ
る。(中略)
 又由来書によれば、第二世道正は義正坊の弟で、実如上
人に給仕して、弥陀の尊像に印証を願ひ、御文の写しを賜
って帰国し本願の弘通につとめ、第三世道空、第四世道専
は元亀二年の大阪一向宗変の為め門徒四十一人と共に上阪
し顕如上人に穀物を献じ、帰国に際しては上人御自筆の請
取を所持、第五世道善を経て第六世周安の時(「豊府紀
聞」等には五世とする)、文禄丙申の年で瓜生嶋災害に出
会したのである。
閏七月十二日ノ晡時、大地震動スルニ海上澎湃トナリテ
潮水奔揚トワシリアカリテ、瓜生嶋ノ屋宇若干ク漂没シ
テ嶋ハ八分ハ海トナリ、其後ハ嶋漸々ニ崩レテ海路トナ
レリ、身命ヲ免ルヽ者纔ナリシカバ、波動シツマリテ迎
舟ニ依テ沖浜ニウツリケル。(威徳寺由来書)
此の時本尊、御文の写、六宇名号、顕如上人の請取書等は
いづれも流失したが、翌朝になって本尊と、六字の名号の
一片と、御文の一部分は今の仏崎の海辺に探し得、府主早
川主馬首の労によって勢家邑の東南の地を択んで仮庵を営
み、慶長八年上洛して寺号木仏を願ひ準如上人より免され
た。即ち威徳寺の号は此の時より起ったものと考ふべきで
ある。(中略)
霊雲寺
市内生石町の西大分駅南側、丘陵の直下に東面
せる伽藍、庫裡其他の堂宇数棟を有する。当寺
は旧名を垂井寺と称してゐた。垂井寺といへば豊府古刹の
一つとして、是非共吾等の研究をせねばならぬものである
が故に、巨細の問題は後章に譲るとして、今はたゞ此の垂
井寺、霊雲寺が、瓜生嶋と如何なる関係にあったかを、目
の前の問題として考へて見たいと思ふ。
 天徳元年天暦十一年十月改元也丁巳創瓜生山垂井寺于大分郡瓜生嶋。
(豊陽古事談)
即ち今を去る九百七十五年前空也上人、偶々豊州の笠和郷
瓜生嶋に来錫したが、此島はいづれも鹹水で、飲料水のな
いため島民の苦痛は一通りでなかった。上人は始めて同嶋
に井戸を穿って、清潔甘冷の水を得たので、♠に蘭若を創
立して瓜生山垂井寺といふものが出来たといふのである。
 寺旧在沖之浜、慶長災後移于此、更称霊雲寺。(豊後国
志)
「国志」は亦当山の旧沖ノ浜にあったことを認めて居る。
然し此に沖ノ浜にあったといふのは、垂井寺創立当時の問
題であるか、それとも慶長前暫くこゝにあったといふので
あるか、文意が本文によっては不分明であるといはねばな
らぬ。
 「雉城雑誌」は「国志」と同一の意見で、文も亦殆んど
同一である。「大分市史」に於ては、
文永年中大友兵庫頭頼泰の創始にして、………後沖の浜
に移して寺号を改め、慶長津浪後再び此の地に移りたり
と。
として、中古当山は沖ノ浜に移されたものゝ様に明瞭解釈
して居る。即ち問題は、
 一、元来沖ノ浜にあったものか。
 二、中古沖ノ浜に移したものであるか。
といふことになる。
 偖て「国志」「雉城雑誌」には、慶長災後、島より此方
に寺を移し、寺号を霊雲寺と改めたことを述べて居るのに
対して、「市史」に於ては沖ノ浜に移して寺号を改め、慶
長災後更に今の処に移した様に掲げて居る。これも亦やゝ
前書等と意見を異にして居るところで、此辺甚だ後学者を
して躊躇せしむるものが多々あるとせねばならぬ。
寺記に、
霊雲寺儀去年九月浜市出火ノ節、寺観音堂迄不残焼失仕
難儀仕候、殊ニ寺内儀数度之浪ニ打崩申候ニ付、此度南
之山際ニ寺ヲ立申度願候ヘバ、願通リ被仰候
元禄十七申年十月
此時御奉行 伴是兵衛
佐藤与兵衛
御代官 山本七左衛門
の一節を挙げて居る。是によると、現在の位置に寺を移す
前には、浜の市附近に寺地の在ったことを知るのである。
即ち浜の市附近に於ては数度の浪に被害あり、加ふるに元
禄十六年九月には出火の為めに諸堂烏有に帰し、止むなく
奉行に願って翌年十月に今の地に移転を試みたのである。
 これから考へると、当山は前記の一、二の問題外♠に新
しく浜の市にあった事実を附加せねばならぬことになるの
である。
 又現在の寺域に接して居る南側丘陵一帯は、古来垂井山
と称して、此処が旧垂井寺の旧址であると口碑にも称せら
れて居り、丘陵の到るところに塔の破片等を今尚発掘する
ことの多々あるのを見れば、此説も亦否み難いことゝせね
ばならぬ。さすれば又こゝに垂井寺址について一説を附加
ふることになる。
 結局霊雲寺所在の問題は、瓜生嶋にありし説と、瓜生嶋
に移転したる説と、浜の市にあったことゝ、垂井山にあっ
たことゝの四説を比較講究せねばならぬのである。
 過去帳の一部を見ると、
文永元年三月廿日
 垂井中興勧進願仏上人天台宗垂井寺中興大鐘諸堂建立也
明徳元年八月八日
一世禅開山独芳清曇大和尚 塔所不分明也
貞享三年寅十一月三日
 三十一世当寺檀家中興物外芸和尚顕密禅大山寺住後当寺中興云々
 これは当寺歴代中の中興住僧であるが、尚歴代住持等に
就ては後に譲らねばならぬ。兎も角も当寺が瓜生嶋と関係
あることは面白い。尚ほ詳細は将来の研究を俟つことにし
て、同寺の観音と鐘のことを挙げよう。
観世音菩薩縁起文
抑モ当寺本尊観世音菩薩出現ノ昔ヲ尋ヌレバ頃ハ文永元
年三月廿日大友頼泰公之時代某之勧請ニシテ今ヲ去ルコ
ト六百五十有余年也時ニ生石ニ阿部又兵衛ナル者漁猟ヲ
以テ家業トシ常ニ観音ヲ念ジテ信仰セリ比ハ瓜生嶋海嘯
ニ没セシ慶長元年七月朔日ヨリ七十余年ヲ経テ網ヲ海中
ニ降シ手綱ヲ引キ上ゲシニ魚ハ一鱗モナク半鐘ト観世音
ノミ也尊像光ヲ放チテ網ニ上リ給ヒシ時ハ延宝八年十二
月三日也漁父頓テ観世音ト半鐘トヲ舟ニ載セ我ガ家ニ帰
リ洵ニ不思議ナルヤ一夜正夢ノ告ゲニヨリ当寺へ奉納安
置セラレシ……。
これは現住河合舜岳師が古来の記録によって書写されたも
のであるが、今旧記録はなくなって居る。観音像が瓜生嶋
事変の際、海中に渫はれて後一漁夫の網によって上げられ
たことは、地方の口碑にも伝って居ることで、今寺域内南
側に北面して建てる観音堂に安置されて居る。十三年に一
度の開帳ある許りで、秘仏として一般には拝することを許
されて居ない。開帳の時は勿論、平常も参詣者夥しく火
防、除難の仏として霊験あらたかなるを以て名高い。二重
厨子内の像は蓮台上に坐せる木像で、総高一尺五寸余の正
観音、宝冠を戴き、相好極めて端麗、船形の光背には鏡を
鏤め、殆んど全てが金泥塗を施してあるが、これは中古手
を加へたものであることは明かである。
 鐘については寺記中に、
 公辺向品目 文化六年三月日
延宝八庚申十二月三日朝、生石浦ニテ又兵衛ト申者網打
ニ罷出釣鐘見付出取上申候、其段申上候得ハ又兵衛ニ被
下置候霊雲寺ニ上ゲ申度奉願候得バ、願之通リ被仰付
候、同寺始而釣鐘出来、
此時御奉行 吉田平兵衛
岩下五太夫
御代官 平野九郎兵衛
此の文書に於ては同釣鐘は、元々いづれの寺のものなりし
かを明にしてないが、現在の梵鐘の銘によれば慶長の時巨
浪の為垂井寺の鐘も亦海中に圧沈し、其後延宝中、漁人に
よって引揚げたことを認めて居る。観音像、鐘はいづれも
慶長水災の為めに被害を蒙ったことを物語るものである。
なほ問題は寺が瓜生嶋にあったか否かといふことが残って
居る。
西応寺
勢家住吉神社の東南方に塀を廻らし、東面して
本堂、庫裡あり、山号を広度山といひ、浄土宗
鎮西派に属し、本尊阿弥陀如来である。
雑志曰、当寺ハ浄土宗鎮西派ニシテ浄土寺ノ末也、其始
ハ西音寺ト呼ブ、禅宗ノ支院、ソノ開基詳ナラス、文禄
ノ水災ニ殿宇傾壊シテ住侶モナク廃寺ト成、唯本尊弥陀
仏儼然トシテ有、雨ノタメニ銷磨セラレシヲ庵甫ト云僧
アリテ小庵ヲ結ビ住ス、人是ヨリ此横小路ヲ安甫ノ小路
ト号、慶長四浄土寺々記三年ニ作以上。寺記年浄土寺四世馨誉再建シテ、庵甫
ヲ以住侶トシ西王寺ト改メ、馨誉ヲ以テ開基トス、其後
寛永十五年浄土寺信誉今ノ名ニ改ム(雉城雑誌)
在笠和郷勢家村沖浜、号広度山、慶長災後、惟本尊弥陀
仏像儼在、為風雨所銷磨、四年、浄土寺四世馨誉上人立
堂安之、使庵甫住焉。(豊後国志)
于此有禅僧名安甫、勢家村境内営小庵住之、故其地云安
甫小路、然西音寺成無住破壊、浄土寺四世之住馨誉上人
修補之、安甫改禅成浄家、令住其寺、於此改名西応寺、
名広度山。(豊陽古事談)
「大分市史」には「雉城雑誌」を其まゝに引用してゐる。
 然るに「豊陽古事談」には、当寺の創立として、応徳年
間に暹覚法師瓜生島に創建の説を記してゐる。他書に見ざ
る所である。
暹覚法師姓壬生氏、豊後速見郡大神郷人、承保二年自祝
髪………応徳中還故里、創満願寺于川崎村、西応寺于恵
悦崎大分郡笠和郷瓜生島薬王寺于蓑崎。(豊陽古事談、巻中)
更に当寺を訪ねて「由緒沿革」なるものについて見るに、
一、本尊 阿弥陀如来
一、由緒 伝説に依るに当山の本尊仏は元瓜生島にあり
慶長元年閏七月十六日全島海中に陥没せし時
浜辺に打上りたる阿弥陀如来を安置し、当山
の基をなせりと、以後記録なし。
一、沿革 慶長四年開山馨誉上人(浄土寺七代)本堂建
築す、次で安政地震中諦誉上人大修繕をな
し、以て現今に至る。
とある。
 当山の沿革果して瓜生島に在ったものか、否かの点、又
西王寺が西音寺となり、更に西応寺となった時期等、諸説
に一致点を見出さないことを遺憾とするが、これは尚ほ後
日の研究に譲るとして、今尚ほ伝説に著しき当山の本尊、
阿弥陀如来のことを窮めたいと思ふ。
 「雉城雑誌」に『永禄の水災に殿宇傾壊して』云々とい
ひ、「国志」に『笠和郷勢家村沖浜に在り、慶長災後本尊
儼在して、風雨に銷磨せらる』云々といふは、恐らく両書
共に当山が最初瓜生島に在ったことをいったのではあるま
い。然るに植樹氏所蔵地図に、西応寺を記入してあること
は前掲「豊陽古事談」と一致して居るが、果して何れであ
らうか。
 伝説に当山の本尊には海中に漂沈してゐたゝめ蠣が附着
して居るといはれて居る。
 「当山由緒沿革」に本尊像は慶長水災の為め瓜生島にあ
ったものが、浜辺に打上げられたことを載せて居るのは、
全く同書の示す如く伝説を其まゝに根拠としたものであら
う。
本尊阿弥陀仏如来或曰、阿弥陀弘法大師作、相伝フ、此
ノ尊像ハ旧府中今津留邑ノ地天神島ニ阿弥陀寺ト云ルア
リ、文禄丙申ノ洪濤ニ漂没ス、其後此尊像体夜々光明ヲ
放ツ、漁人怪ミ網ヲ入レテ是ヲ取上当寺ニ収ムト云リ。
(雉城雑誌)
の意見も亦今日残って居ることは、複雑な問題を含むもの
といはねばならぬ。
 此処に賽し本尊阿弥陀如来像を拝するに、木彫立像台坐
を除いて高さ約三尺。足、手、右袖は中古補修したるもの
ゝ様であるが、其他は殆んど文字通り銷磨甚しく顔貌等は
殆んど其の相好を認むることが出来ない位になって居る。
蠣の痕跡は認め得ないが確かに古き年代を有し、曾つては
海水に漂没したといふ歴史を裏書するに十分なものといひ
たい。
 然し思ふに本尊像は、今津留のものでなく、瓜生島か但
しは現在の地かに在った西応寺に慶長前に安置してあった
ものが、同水災の為めに、風雨に銷磨され、後安甫の時に
再び本尊として礼拝することになったものであらう。
 境内には開山馨誉上人の碑あり、其の背後には幸松家累
代の墓碑列立、当寺と幸松家の関係の深きことを思はせら
れる。
 尚庫裏内安置の住吉小祠に就いては、別項に記述したか
ら、此には一切省略する。
海門寺
別府市の海門寺浜に永平寺直末の曹洞宗に属す
る禅刹がある。
抑々久光山海門寺(後に宝生山海門寺と改む)は人皇八
十八代、後深草天皇の御宇建久三年の創立にして元久光
島にあり、久光島は別府湾の西南隅に方り、瓜生島と並
び風光佳絶、二島合せて一千有余戸の部落をなし、島民
淳朴、海門寺は久光島にありて殿堂荘厳を極めつゝあり
しが、人皇百六代陽成天皇の御宇慶長元年閏七月十二日
地震海嘯のために瓜生島は終に海底に陥没したり、続い
て翌二年七月廿九日亦大地震ありて鶴見嶽破烈し、洪水
氾濫、大河を成し海に注ぐに臨みて、朝見の庄に流失し
たり、此時久光島も忽ち崩壊して又々海中に沈滅して、
島影跡なきに至る、此に依りて吾海門寺も久光島と共
に、一朝水泡に化するの不幸に遭遇するに至りぬ。
と当山由来記に「豊府最要記」を原拠として載せてある。
又「速見郡史」古くは「国志」等にも殆んど同意見を記し
て居る。
 久光島は瓜生島の西に接し、地図には渡八町と註してあ
る。瓜生島低下の翌年の水災に沈滅したと知ることが出来
る。瓜生島と久光島との関係の浅からざるを以って、当山
に於ては毎年旧七月十六日を期し、瓜生・久光両嶋の災害
者追弔の為めに、回向袋の志納によって、大施餓鬼を執行
して居る。
称名寺
瓜生嶋に称名寺なる寺院があったことが、前掲
幸松氏記録中に見える。此の寺の開基に就ては
同じく幸松氏記録に、
文明十六年ノ記曰、讃岐国羽重村三治之次男三次郎、京
師ニ至リテ僧ト成号済念、三月此島ニ来ル、依テ寺ヲ立
一向山称名寺ト言。
これに依れば、山号を一向山といふのであるから、浄土真
宗の寺なることが知られる。然るに「雉城雑誌」では、瓜
生嶋に在った称名寺は、現在大分市長池町なる真宗善巧寺
塔中の称名寺であるとし、且つ島津勝久追福の為に建立さ
れたものとして、幸松氏記録の説より大分後のことゝなっ
てゐる。
称名寺善巧寺塔中寺記曰、勝久卒去ノ後、沖ノ浜瓜生島に葬
リ大友義鎮冥福ノ為ニ当寺ヲ建立、然ルニ文禄丙午ノ水
災ニ墳墓並ニ当寺モ漂没シ、古記録卒死ノ年月詳ナラ
ズ。
且つ同寺内には勝久の位牌なるものが保存されてあると見
えて居る。
 然るに今此の善巧寺の塔中称名寺は既に三・四十年前廃
寺となり、本尊其他すべて処分して了った為、位牌等もな
く、建物は普通の民家となってゐる。又善巧寺現住に尋ね
ても、此の称名寺がもと瓜生嶋に在ったといふ様なことも
又勝久追善の為の建立であるといふことの伝唱は全然ない
との話であり、善巧寺の由来記(寛政十二庚申年改之とあ
る)には、唯
 塔頭称名寺義者、古城名号小路町ニ而御座候所、開基浄
誓法印(これは善巧寺開山)を慕候て塔頭と成申候。
とあって、もと名号小路(今の名ケ小路)にあった旨を記
してゐる。これを信ずるとせば、善巧寺浄誓は天正中の人
であるから、慶長水災後瓜生嶋より名号小路に遷ったとも
思はれず、瓜生島のと、善巧寺塔中のとは同名異寺と見る
より他はない。果して如何なものであらうか、後考を俟
つ。
島津勝久の墓
については「雉城雑誌」に於て諸書を参
照して縷々意見を述べて居る。先づ「島
津家譜」を以て、勝久の前半世を叙し、当国に来って大友氏
に寄食する様になり、義鑑は殿営を沖ノ浜に設けて住せし
めたが永禄中に卒したことを記し、次に「筑紫軍記」によっ
て、勝久豊後に敗走して家亡びんとする次第を述べてある
が、吾々が勝久の人物を知らんとするにはいづれも較々疎
であるが故に、今「島津世録記」「近世国民史」等によって少
し許りそれを補って見たいと思ふ。島津氏十二代忠治、十三
代忠隆十四代勝久、此の三氏とも十一代忠昌の子で前二者
は二十七歳二十三歳にて逝き、大した功績もなかったらし
い。そのあとを継いで勝久が立ったが、父忠昌程の気慨も
なく島津氏歴代中劣等の君主ともいふべき人物であった。
且つ柔弱なる勝久は初めその夫人の弟島津実久に政を委ね
たけれども、実久は性放恣でやがては勝久に代って自ら世
子たらんことを求めた。勝久は遂に実久と反目し其夫人を
去り、止むなく忠良に頼ることになった。大永六年のこと
である。これより忠良は実久に代って政をとり、其子貴久を
その養嗣とした。大永七年には勝久家を貴久に譲り、忠良
をして後見役たらしめ、伊作に於て剃髪した。忠良も亦剃
髪したが、更に実久の党を攻め、全く島津家の実権を掌握
したが、一方実久の野心は痺まず、甘言を以って勝久・忠良
間の意志を割き、勝久の心をして再び己れのものとした。
実久は当時十四歳の貴久に向って守護職の返却をせまるの
で、貴久は勝久に面会し、事の次第を聞くが、勝久は其の
関知せざることを弁じ、伊作より鹿児島に入って再び守護
職となったので、♠に形勢は全く一変し島津家の勢力者は
実久のものとなった。享禄二年には島津の家臣等鹿児島に
会合し、国政を靖ぜんことを謀ったが、勝久はこれを快し
とせなかった。天文二年勝久は忠良に対つて、曾つて貴久
に与へた伝家の宝器の返却を促したが、忠良がこれを拒ん
だがために勝久・忠良の間は益々疎さを増したといはねば
ならぬ。忠良父子は其後南郷を恢復し、日置をとり、その
勢力を再び擡ぐることゝなった。此間勝久は末弘・小倉等
の新進者を寵幸し酒色を事とし、政務を忽にした。川上等
の重臣は勝久を諫めたが納れられず、末弘を殺した。勝久
は恐れて禰寝に奔った。これは天文三年十月廿五日のこと
である。翌四年四月には勝久は鹿児島に還り、川上を召し
て自殺せしめた。其翌年九月、実久は川上の党と共に鹿児
島を襲って之れを占領したゝめに、勝久は遂に此に留るこ
と能はず帖佐に奔った。実久は其後恰も守護職然として其
の権力を把握してしまった。勝久は爾来流浪の身となり、
帖佐より吉松に、都城に、遂に其の母の家大友氏を頼り、
豊後沖ノ浜に寓居し、天正元年七十一歳で逝った。
勝久同年(天文四年)十月十日向隅州帖佐去、而後託身
於祁答院、北原鹿児島為実久之所有也、翌年夏到真幸院
般若寺、居住者八九年、其後到庄内都城、留滞者八九
年、而去往豊後居住沖浜。(島津世録記)
 其後島津家に於ては、忠良・実久の権力争覇戦となり、
いよ〳〵貴久守護職となり、後見としての斡旋良しきを
得、時偶ま鉄砲の伝来あり、聖徒ザビエーの来るあり、内
政を整へ、外異国の文物輸入に務め、実に後代島津家隆盛
の基礎をなしたのである。
 思ふに勝久の凡庸は島津家にとっては凶の凶なるもので
あった。然し雨降って地固まる諺の如く彼の放恣は将来の
島津家をして発展せしむる一大鉄鍼となったといはねばな
らぬ。一屈一伸の一屈に相当するところといはねばなるま
い。晩年異郷の仮寓に於て彼の胸中には一抹の悲愁悔悟仄
めいたものがあったであらう。没年に就て「雉城雑誌」は
永禄年中説をとり或説として天正元年を挙げて居る。「近
世国民史」は天正元年説になって居る。「豊後国志」も同
説である。
 墓所については「雉城雑誌」に於て、
一、今の沖ノ浜町東裏新田の辺に島津の森とも大翁塚とも
唱へ来ったものがある。中古同処から三基の古墳を掘出
した。これは勝久に殉死したものゝ墓であらうといふ里
老の語。
二、文禄水災後岸の崩より五輪の石塔婆を掘出したのでこ
れを太平寺邑に遷した由。
三、当代沖ノ浜町西裏畑の中に二間四方の空地があり、其
の中に三囲許りの大榎があった。これを勝久の塚印の木
とも、或は大友の家臣の屋舗とも、或は春日の社司の墓
とも称へて居た。
四、称名寺の寺記を引き、勝久卒去の後沖ノ浜に葬り、大
友義鎮冥福の為めに当寺を建立した。然るに文禄丙午の
水災に墳墓並に当寺も漂没し古記録卒去の年月詳ならざ
ることをあげ、同寺位牌の法諱『称名寺殿島津勝久公大
翁大居士神儀』の文句は拙いから愚盲の後人の作為かと
いふ。
是等の説を列挙し、尚披見したる図について勘考するに、其
の墓所は現在の海中と思はれるし、又一説の沖ノ浜西裏の
墳所が是なるものゝ様にも思はれることを附説して居る。
 「豊後史蹟考」鶴谷翁は以上「雉城雑誌」説の後に、寛
永の頃製した旧府の図に勝久の墓とあるのは恐らく真の墓
ではなからう。瓜生嶋は慶長元年丙申の閏七月、地震海潚
の為め、陥没したもので、寛永は慶長元年を距る廿七八年
の後である。若し寛永の府内図に、勝久の墓が在りとすれ
ば、其の陥没後、再び仮設したものであらう。と附説して
居る。
 同人等思ふに、勝久が瓜生島で没したこと。卒年は天正
元年であること。墓所は瓜生嶋にあったこと。瓜生嶋低下
と共に海中に没したこと。其後現沖ノ浜町附近に墓所を仮
設したこと等。是等はいづれも肯定し得る。
 勢家の勝久の墓と称するものに就ては、高山通男氏の言
に依って所在を知り、電車にて浜町に下車し、七本木とい
ふ松林を南に入ること約二十間余で此れを詮索し出した。
北は高山英明氏所有の畑、南は是永寿平氏所有の畑、此の
両畑の境に方一間半余の壊れた玉垣中に一基の高さ一尺半
程の自然石が坐って居る。前には是永氏の篤志によって花
筒が立てられ、新しい花も生けられて居る。是永氏に就て
聞くに、
一、薩摩から明治二十年頃此の墓を訪ねて来た。時の大分
県知事が案内者であった。
二、玉垣は其の当時作ったものであらう。
三、当時発掘等した様だが遺骨等は勿論何等掘出したもの
はない。
四、現在此の墓の守をするものはない。
五、自分は縁りも何もないが、無縁の状態なので時々お花
とか、蠟燭等をあげて居る。
此の墓が後人の仮設したものであるとは謂へ、島津第十四
代勝久の霊は今当市高山・是永二氏によりて、時々寂しく
香花を手向けられるのみである。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 37
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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