[未校訂] 慶長元年丙申閏七月十二日晡時(申ノ刻―午後四時)天下大地震、豊
府(内府)所々地裂け山崩る。故に高崎山巓の巨石悉く落ち、
その石互に磨して火を発す。既にして震止み、府内の民、
皆心身を安んじ、或は浴する者あり、或は夕飯を食する
者、未だ食はざる者あり。時にまた鉅海動響し、諸人甚だ
之を[奇|あやし]み、東西に走り南北に逃る。或は海辺を視るに、村
里の井水皆悉これを尽す。時に巨海より洪濤忽ち起り来り、
府内及び近辺の邑里に洋溢し、大波三時に至る。神護山同
慈寺の薬師堂一宇、廟然として独り之を存す。然れども其
の仏殿は大傾斜し、同境内の菅神社は流れて行方を知ら
ず、又その大殿の前に旅舶一艘流れ来り、大豆を積むこと
其の船に半ば、而して一人もなし。是の如き大地震洪波に
罹り、府城の大厦小宅民屋等、大半倒破し、人畜の死する
者、その数を知らず。(以下略)
⑿ 「福寿寺鐘銘」
豊府之東高松郷有一梵刹寺。曰福寿山号海岸追繹其性昔
獅独芳派下之末裔也。雖然、慶長元丙申暦七月大地崩烈。
波浪奔騰。陸地変滄海。
院宇無悉存矣。厥後雖易地草作亦復毀敗不知兵火之所致
歟止舟此(以下略)
惟時寛文六丙午暦 霜月吉祥日
主盟 体安
願主 諸檀那
冶工 駄原安倍弥兵衛尉貞治
作者 安倍市兵衛尉貞久
彫刻 国友彦九郎尉重利
金獅山雪径隻謾誌焉
(解説)
これは現在大分市高松にある福寿寺で梵鐘を大正九年拾
月三日に改鋳したが、その時旧梵鐘の銘を“加嶋屋”氏が
書写したものである。
㈢ 第三群史料(“笠祖・笠縫グループ”)
⑶ 大日本地名辞書(吉田東吾著・冨山房刊・明治44年)
[瓜生|ウリブ]島址 豊後遺事云、慶長元年七月十二日、地震海
溢、沿浜尽く其災を蒙る、瓜生島亦漂没す、瓜生島は大分
郡北の海中に在り、東西一里南北廿町、大分海岸を距る廿
丁余、速見郡を距る十九丁、居民千余戸、人口五千余あ
り、此災死者八百七人、初め文禄三年早川長敏の府内に封
せらるゝや、兵火の余城塁荒廃、居民流離す、因て城塁を
修築し、人民を賑恤し、漸く其旧に復す、是に至り再び災
害に逢ひ、因て又茅屋を沖浜に構へ、瓜生島の余民を置
き、衣食を散与し、人民頼り以て生を得たりとぞ。
㈣その他の関連史料
⑴ 藩祖中川秀成公三百五拾年祭典誌(北村清士編・中川
秀成公三百五十年祭典奉賛会刊・S37年)
文禄五年丙申。御年二十七歳
一、閏七月十二日(或は九日、または十三日)暮れ頃よ
り、大地震御船着の沖ノ浜、洪波上り陥ちて海となる。
溺死するもの十に七、八船奉行柴山勘兵衛重成は、稀有
にして死を免る。
一、十一月欠日。沖ノ浜崩るるにつき今津留浦に御船着
かわる。
一、二十七日。年号改元
⑵ 勝山歴代・豊城世譜(写本・乾・坤・大分大学図書館
所蔵)
乾の巻
慶長元年七月十二日当イワウ灘より津浪起り、海辺郡を
沈没す。奈多宮本社拝殿楼門鳥居残なく沈没す。神場洲と
いうは、文禄年中迄は、今の洲崎より南の沖の方へ十町斗
り洲有て、並木の松原茂り栄え、其末に観音の有て、此辺
の士農工商歩みを運び、依之、此洲の内は沈浪なく旅泊の
大船小船も碇を入、纜を結事なく、天下無双の湊なりし
が、津浪に沈没して水底と成。今十町斗り沖に立たるミヲ
木は、観音堂の跡水底に残りし岩尾の上に建る。是は土人
の船の為に建置かし也。其外沈没みからず。……
坤の巻
府内城 大分郡 号荷揚城。
………
(早川主馬首長敏)同郡家島に居住。
或人曰。此家島は鶴崎と三佐の間に有て、慶長元年洪水
の節流失なるべし。当時は聊の島にて臼杵侯の領地也。人
家も有之候得とも、諸侯の居館にすべき所にあらず、早川
氏洪水の節、此家島の漁民を撫育せし事情成る申伝へ有
之、府内の城主たる事明白也。其後、府内城へ入部成べき
云々。慶長元年丙申、太閤秀吉公豊後国を以、七人に配
当、府内城は早川主馬首長敏壱万七千石拝領。御預ケ地以
前之通。此城天正の兵火に罹り廃墟のみ也。早川修補、或
は再造せしむ。同年閏七月十三日或曰、九日洪水人民七百
八人、牛馬数を知らず。此時瓜生島悉く沈没海底と成。瓜
生島は沖の浜より向地の辺迄、長さ東西一里、南廿丁。今
の勢家町の北、廿余丁にあり。町三筋、南を本町、中を裏
町、北を新町といふ。速見郡の地に拾九丁余といへり。一
名は沖の浜と称す。漁家千余軒、居民五千余人、今の沖の
浜町は多くは、其時の居民の子孫也。今の沖の浜は、其時
早川氏建る所の町也云々。溺死せざる者僅七分一也。(溺
死七百八人云)同十三日早川長敏飢民を憐み衣食米銭を与
ふ。茅屋を結びて居住せしむ。慶長二年丁酉正月中旬、石
田三成の沙汰として、早川長敏府内城返上。
⑶ 玄与日記(「雉城雑記」巻八より引用、原本・写本未
見)
……閏七月廿三日前略豊後国ノ内カマヘト申ス浦ニ着船云云
中略八月三日保戸ト云処へ着玉フ云云中略夫ヨリ佐賀ノ関迄御
着船被成候云云七月十二日ノ地震ノ時カミノ関ト申ス浦里
ハ大浪ニヒカレテ家[竈|カマド]モナシ命ヲ失フモノ数ヲ知ラス哀
成事共ナリ……
⑺ その他未見資料題名(別府市南石垣加地武義氏提供の
新聞切抜より)
(ロ) 「豊府最要記」「海門寺由来記」
海門寺は、別府市海門寺に現存している寺で、「瓜生
島」海没の翌年(又は翌々年)別府湾に没したとされる久
光島に所在していたという云い伝えが残っている。
「抑も久光山海門寺は、人皇八十八代後深草天皇の御
宇、建久三年の創立にして元久光島にあり、久光島は別府
湾の西南隅に方り、瓜生島と並びて風光佳絶、二島合せて
一千有余戸の部落をなし、島民淳朴、海門寺は久光島にあ
りて殿堂荘厳を極めつつありしが、人皇百六代陽成天皇の
御宇慶長元年閏七月十二日地震海嘯のために瓜生島は終に
海底に陥没したり。続いて翌年二年七月廿九日また大地震
ありて鶴見破裂し、洪水氾濫大河を成し海に注ぐに臨み
て、朝見の庄を流失したり。此時久光島も忽ち崩壊して又
々海中に沈没して、嶋影跡なきに至る。此に依りて吾海門
寺も久光島と共に、一朝水泡に化するの不幸に遭遇するに
至りぬ」
㈤ 地震・地質関係資料
⑴ 「別府市誌」(昭和四十八年刊)
「大分県と地震・噴火」理学博士大森房吉氏の大正五年
十二月廿六日の論文掲載。(論文略)
第七章 地質 第一節 別府地史 として理学士鈴木政
達氏の論述あり(本文略)
第一節 別府地史の第七 有史時代に於ける地変
第七 有史時代に於ける地変
別府四近には歴史時代に入りて起れる地変少なからず、
然れども其主要なるものは鶴見岳の噴火と別府湾内に於け
る瓜生島及久光島の陥没なり、之等に対する史料は其数多
く、而して其大要は已に周知に属す可し、依って記者は之
を此所に収録せず、唯学術上より見たる自己の考察を述
べ、読者の参考に資せんとするに止まるものなり。
イ 鶴見岳の噴火
鶴見岳は今より千五十余年前即ち貞観九年に噴火したる
以来、噴火の記録を欠けり、実際に於ても亦其形跡を認め
此態はざるものなり、蓋し噴火は鶴見岳の最終の噴火にし
て、更に噴火の繰返さるべき徴候は、少くとも現在に於て之
れを認めず。さて貞観九年の噴火は、三代実録其他の記録に
よるに、熔岩を出せる真の噴火にあらずして、先成の爆裂
火口の一部を破壊したる一種の爆裂作用にあらざるかと思
惟せらるゝものなり、而して其結果は現在に於て見らるゝ
地獄谷を造れるものにあらざるか、此考察に対する理由と
しては、灰砂の噴出はありしも熔岩の流出なかりし事、已
に幾多の寄生火山を生成せし遙かの後に起れるものなる事
前寄生火山、記事参照山頂にありしという三池は浅間或は三原山等に
見らるゝが如き、熔岩を湛へたるものにあらずして、所謂
地獄の類なりし事、又著しき前駆の地震のなかりし事等を
綜合したるにあり。
ロ 瓜生島及久光島の陥没
本変動の状況に就きては、記録頗る多く今一々之を収録
するの遑なし、然れども其変動の性質及原因に関して深き
研究結果の公表せられたるものあるを知らず、然るに記者
は此所に、付近の地質構造を究めたる結果として変動の性
質及原因に関する一考察を有するものなり、今之を結論的
に記すれば次の如し。
一、変動の発生日時は記録によりて異なれども、慶長元年
閏七月十二日午後四時或は五時頃と称するもの最も多く、
記者は之を信ずるものなり。
二、同日に起れる伏見大地震とは、其時刻を異にし、五、
六時間の差を以て瓜生島の方早く、両者は全然別物なりと
いう今村博士の説に賛同す雑誌「地震」第。一巻第四号参照
三、瓜生島は当時の津波により洗ひ去られたるものなりと
の説あるを聞けども、如何なる理由に基づくものなるやを
知らず、海中火山の如きは其質極めて軟弱なる場合には、
海水の波浪の浸蝕により、その影を没することあれども、
瓜生島の場合は之れと同一ならざる可し、記者の推測する
所にては、瓜生島は元、現在に於ける別府湾の南壁をなせ
る低卑なる山塊と連続したりしものの、後に断層により切
断せられ、之に関係的に沈降したりしものにして水中沈澱
の火山砕屑岩層よりなり、記録より想像せらるゝ程度の津
波により、全島一時に洗ひ去らるゝが如きものにあらざる
なり、而して此所に瓜生島の陥没は、其原因に於て、地殻
変動の項に於て述べたる別府湾南岸に沿ひ、西々北より東
々南に走れる、域内に於ける最主要なる地質構造線に沿ひ
て起れる断層運動の一更新によるものと推想せらるゝもの
なり、然れども同日に於て伏見地震其他の大地震の発生を
見たるものにして、その発動に就きては、何等かの共通関
係の存在を想像せらるゝものとす。
四、翌々慶長三年七月二十九日の地震により前回取残され
たる久光島の陥没せるは、記者の見解に於ては、前記瓜生
島の場合と同様なる原因に拠れるものなる事勿論なり。
因に、別府湾内に起れる地変は、此の如くにして一段落
を告げ、現在に於ける別府湾の形状は、此期に於て生成せ
られたるものなり、次に現在に於ける別府湾海底の地形を
見るに以前に瓜生島の存在せし付近に於て、その深度最大
にして、一地溝状をなし、其主軸は構造線たる南海岸線に
平行し、海底の地形は此深所を境として南には急峻、北に
は緩慢なる極めて鋭き非対象的形状をなし、その構造上の
向は西々北、東々南なり、此状況は前に論ぜられたる別府
温泉地帯の前期噴出岩類よりなる基礎的構造に類似し、そ
の連続的なるを非認し難きものなり。