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項目 内容
ID J0600018
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 慶長元年閏七月十二日(一五九六・九・四)〔豊後〕薩摩・ 京都⇨豊後府内は津波襲来、瓜生島は沈没する。
書名 〔沈んだ島〕
本文
[未校訂](注、この地震については『沈んだ島』を参照されること
をすすめる)
㈠ 第一群(“沖ノ浜”史料関係)
⑴ 大友史料(大分市金洋堂書店・昭13)
(天正十四年九月)
仙石秀久帥師、発讃岐、渡海、豊後着船於沖浜、
入府内、面于宗滴、義統、伝秀吉悃命件々、且、
議軍事、実十八日也、二十日、義統、寄書於秀久、
奉謝之、沖浜往来、為地震潰、沈海底今○○、
(註)沖浜は、現今、大分市字勢家の一部也。此
時、仙石秀久の府内に入るを歓迎する意味を以
て、橋を作り、仙石橋と名付く。其橋、今に、
大分市勢家住吉神社の傍に在り。
⑵ 中川史料集(人物往来社刊・昭44)
文禄五年丙申 御年二十七歳
一、閏七月十二日或は九日また十三日。暮頃より大地震、御舩着沖の
浜洪波上り、陥りて海となる。溺死する者十に七、
八。舩奉行柴山勘兵衛重成は、稀有にして死を免る。
⑶ 岡藩小史巻之一(写本・大分大学図書館所蔵)
文禄五年 丙申 改元慶長
……○閏七月十二日地大震豊後海溢沖浜崩隤(ママ)死傷多……
○日欠移舶岸於今津留
⑷ 金城秘鑑・智勇の巻(写本・大分大学図書館所蔵)
勇の巻
一、文禄五丙申年日本国中大地震ニテ一天下洛中洛外家不
残皆々ユリ崩ス、伏見御城之内之家数一軒モ不残倒伏
ス、人多ク死ス、其上東西南北国々シカイ浪アカル、豊
後之沖之浜五百間計悉ク震沈ス、則深海ト成テ跡モ像モ
ナキ也、府内皆シカイ浪アカリテカサワダイ(笠和台?)ノ野辺夕迄
船ヲ乗ル、府内家皆海ニ流入テ人皆死ス、大野郡田中抔
ハ夫程ニハ無之ケレトモ、紺屋大桶ニ一升アル藍共弐合
三合ニユリコホス、人皆腰不立シテ遁回ル也、同十二月
慶長ト改元ナリ
智の巻
一、文禄二年十一月秀成豊後国岡之城ヘ所替被仰付翌三年
二月九日三木ヲ発シ三月二日豊州岡ノ城ニ入部ス豊州之
内知行高目録乏(之カ)写
一、五千四百八十三石二斗三升直入郡
朽網郷
一、五百二十四石四斗九升〃
和泉郷
直入郡合三万四百十八石八斗
一、四千百四十石六斗二合大野郡
宇目郷
大野郡合三万九千六百六十四石九斗四升
一、三百五十六石四斗三升大分郡
三佐五ケ村
一、百五十四石余三佐郷
一、百八石余海原村
一、二十三石余仲村
一、八石余 秋岡郷
大分郡合三百五十六石四斗三升
一、百五石大分郡
今鶴村
外ニ三百五十九石二斗二升 地震崩
一、二百三十八石九斗 同 萩原村
外ニ六百五石三斗五升 地震崩
一、二千八百六十六石八斗 同 田北村
今市村分ヲ引残御蔵入ニ成合六万六千石也、右三郷地震
崩ニ而今鶴村御差上今三佐ヘ替ヘ則三佐五ケ村之分ニ而
書込之
右如本知被進之候、御仕置等可被仰付候、重テ御朱印申請
可進之候、以上
加藤喜左衛門正次
在判
四月十六日
(慶長六年)大久保十兵衛
在判
彦坂小形(ママ)部
在判
片桐市正
在判
中川修理殿

一、御家中譜代侍知行高此者
秀成摂州茨木播州三木ヨリ豊州岡之城入部迄分
三百石 小林新助
三百石 柴山了可
三百石 菅野五右衛門
右侍合百四拾二人知行高四万六千六百九拾石
一、豊州岡へ御討入之後知行拝領之分
如左
一、慶長五年十月臼杵太田飛驒守との合戦のくだり
………此時中川平右衛門等七人今津留浦ニ着船ス。此今津
留浦ハ則秀成船着也。秀成船着始メハ中島(ママ)ナリシカ慶長元
年十月(ママ)大地震ニテ大波上リ港悉ク海中トナル。依テ当年十
月ニ今津留ニ船着替ル。依之兼テ柴山了可子勘兵衛ヲ差置
キ……
(解説)
「金城秘鑑」は智・仁・勇三巻から成っている。いずれも
中川家関係のことを記述しているが、智・仁・勇各巻で記
述の方法・扱っている内容が相違している。智の巻が最も
詳細で中川家の中心的な歴史を記録している。記述は必し
も年代を追っていないが、中心をなす智の巻の記載年号が
寛政で終っているので、文化年間頃書かれたものと推定さ
れる。ここに掲載した部分に就いては、第一部を参照され
たい。
⑸ 柴山勘兵衛記巻之一(写本・大分大学図書館所蔵)
慶長元年二月、亦、高麗ニ諸国ヨリ加勢渡リケル。九州ヨ
リモ過半人数渡ル。両賀モ亦望デ渡リケル。重成ハ中川家
ノ船着、沖ノ浜ト云所ニ、両賀ノ屋宅有リ。留守居トシテ
居ケル也。居所ヲ此沖ノ浜ニ定ケル事ハ、本来両賀ハ討死
ノ望故ニテ、能キ将ノ手ニ付テ、討死ヲスベシトテ、能キ
将ヲ択ムニ上方ニテハ中川清秀公ナリト見聞シ及テ頼申ケ
ルハ、御請ケ申サセ給ヒテ、偏ニ御念比ニ被仰ケルニヨ
リ、亦、如何ナル縁ニカ、中川家ノ御事ハ両賀一心ニ思ヒ
入テ忠ヲツクシタク被思ケルニヨリテ、豊後迄下リテ竹田
ニ居ケル時、両賀申ケルハ「某ガ儀ハ、窂人者ノ事ニテ候
ヘバ、御家中ノ士衆、同前ニハ竹田ニハ居申マシク候。堺
ニカヘリ居申候テ、御出陣ノ時ハ何時ナリトモ、堺ヨリ馳
参リ御供イタスベク候」ト申テ有ケレバ、秀成公被仰ケル
ハ、則、堺浦ニ居申様ニ、当地ニテ心ノマゝニシテ居申様
ニト、宣ヒケレバ、両賀申ケルハ、「当地ハ筑紫遠島ノ儀
ニテ候ヘバ、イクタビモ渡海ノ軍ハカク多ク御座有ベク候
程ニ、舟軍ノ儀ハ、某ガマゝニ被仰付候テ、海辺ヲ御知行
ノ内ニ、替地ニ被成テ、某ハ窂人分ニテ海辺ニ居申候テ、
諸事ハカマイ不申シテ、御出陣ノ時バカリ御供イタス筈ニ
被成被下候ハ、当地ニ居可申候」ト申ケレバ、則、山口玄
蕃頭殿ニ御申有テ、此沖ノ浜ヲモラハレケル。扨、両賀ニ
ハ、千石ノ知行ヲ被下ケルヲ、両賀申ケルハ、「被下候此
千石ハ、水父ノ兵糧ニ下サレ候ヘ、某ニハ此内三分ノ一ヲ
クダサレ候ヘ、何程某金銀多ク持テ候トモ、今ハ商売ヲモ
イタサズ、金銀モ少クナリ可申候。某ハ是非ニ討死可仕
候。勘兵衛ニ此三分ノ一ハ被下候」ヘトテ、三分ノ一ヨリ
内、三百石勘兵衛拝領イタシテ残ル七百石ハ、水父ノ兵粮
ニシテ、水父ヲバ七人両賀方々ヨリ買寄テ、水父トモニ
ハ、トラセケル也。船頭ニハ、柴山与三兵衛、柴山清兵
衛、柴山加右衛門。此者ドモハ、両賀、堺ニ居申候、商売
船ヲ諸国ニ乗行テ、何国ノ海上ヲモ能ク存シタルモノドモ
ナリ。然ルニヨリテ、此者ドモニ小知百石ヅゝモラヒテ取
ラセケル。扨、両賀、慶長元年正月ニ、沖浜ニ移リテ、亦
自分ニ舟ヲ十艘作リテ中川家ノ御用意ニシケルナリ。此外
屋宅ヲ立テ土倉ヲ作リ堺ノ居宅ニ劣ラヌ様ニ行ヒケルナ
リ。本ヨリ金銀数多在之ニヨリ、思フ様ニ諸事ヲ叶ヘケル
ナリ。慶長元年二月ニ、高麗ニ渡リケル。アトニテ、重成
普請ヲシタル也。同四月ニ、六右衛門ヲ両賀見回ニ、高麗
ニ渡シケル。
 同閏七月五日ニ、重成内室、始テ平産有リ。同九日大地
震シテ、沖浜ノ浦ヨリ潮ヲビタゞシクセキ上、大波立テ、
両賀ノ屋敷海中ト成ル。重成イソギ家ノ系図ト度々ノ感状
ノ入タル挾箱ト持鑓バカリヲ取出シテ、内室トタゞ二人、
家ノ屋根ヲ脇差ニテ切ヤブリ、二人共ニ屋根ノ上ニ居テ有
リケル所ニ、七尋バカリ有ル舟板、家ノ上ニ流シカゝリタ
リ。是ヲ幸ノ事ト思ヒテ、二人共ニ乗テ有ケルバ、引潮ニ
沖ニ引出サレテ、危キ事度々有リ。暫ク有リテ、波モ風
モ、鎮マルト思フ時ニ、小イサキ船ヲ押シテ来ル者有テ、
「此船ニ乗ラセラレ候ヘタスケ申スベシ」ト云ケレバ、二
人ナガラウレシクテ、急イデ舟ニ乗リタリ。書物ノ箱ヲモ
鎗ヲモ取ノセテ、此者ニタスケラレ行ケルナリ。暫シノ間
ニ、今津留ト云所ノ島ニ著ケルニ、此所モ大波ニ崩レテ、
人家モ見ヘズナリケル。此所ノ氏神ニ天満宮有リ、二人共
ニ爰ニ休居テ、ツカレヲハラシケル。内室ハ産ヲシテ、五
日目ノ事ナレバ、取分労レテ有ナル。同十日ニ沖浜ヨリ吉
右衛門、与右衛門、九良兵衛ナド、云家頼ノ者共尋テ来ル
ナリ。「汝等ハ、何トシテ助リタルゾ」ト重成問ヘバ「崩
レタル家ニトリ付テ、南ノ山ギハ迄、大波ニ打寄セラレタ
ルニヨリ、則、山ニ上リ申テ候」ト申ス。「残リノ者共ハ
如何ニ」ト問ケレバ「大方助リ申テ候」ト云。「女ハ誰々
コソ助リタリ。亦タレダレコソ見ヘ候ハズ」ト申ス。「金
銀ノ倉、武具、諸具ノ倉モツブレ候ヘドモ、金銀モ武具モ
不失申」ト云。重成先仕合ヨシトテ、其日、沖浜ニ帰リ
ケル。先、カリヤヲ立テ居ルニ、世間ノ体ヲ聞ニ、諸国皆
一度ニ大地震セシナリ。扨重成危ク命助リテ、世間モシヅ
マリテ、小舟ヲ乗リテ来テ助リタル者ヲ尋ルニ、我コソ夫
ト云モノナシ。是ハ今鶴村ノ天満天神ノ加護ニテ助リケル
トテ、是ヨリ重成天満宮ヲ信仰イタシケルナリ。
 同年霜月ニ、今津留村ニ舟着替地ニ成。
 同二年正月廿八日ニ、両賀高麗ヨリ帰朝。
⑹ 日本において一五九六年に起ったいくつかの奇蹟の概
説=豊後の国について(大分県史料⒁第三部切支丹史料之
一)
イエス会のルイジ・フロア(フロイス)神父の報告
イエス会のローマ人フランチェスコ・メルカーテイ神父
によってイタリア語ニ飜訳
豊後の国について
 この地震と同時に、豊後において起った事件は非常に重
大で且つ恐るべきことで、これを報告した彼の地から来た
キリスト教徒の口からその報せを受けなかったら信用出来
ないでしょう。
 豊後の最も古いキリスト教徒の一人が到着するのを待っ
ていました。その男はビアジオと呼ばれ、立派な男で、神
を畏れ、めぐり合った大きな危険から逃れた男で、この地
に到着するや、あの場所で過したことをわれわれに物語り
ました。そして現在でも(そのことが起ってから既に二ケ
月にもなるのに)自分自身をとり戻していないし、自分の
生国の瓦解の驚きを取り除くことが出来ないと言っていま
す。
 府内の近くに、三里離れたオキノファマ(沖ノ浜)と呼ばれる大き
な村があります。多くの船の寄港地であり、揚陸地です。
この立派な男は、この地名にちなんでオキノファマのビア
ジオと呼ばれ、豊後では良く知られていますが、それはこ
の男の家が各地から来る多くの人たちの収容所になってい
るからであります。この男の言うには夜間突然あの場所に
風を伴わず海から波が押しよせて来ました。非常に大きな
音と騒音と、偉大な力で、その波は町の上に七ブラッチョ
(一ブラッチョは〇・五九四米)以上も立上りました。
 その後、高い古木の頂から見えたところによると、大変
気狂いじみた激烈さで、海は一里も一里半以上も陸地へ這
入りこみ、波がひいたとき、沖ノ浜の町の何物をも残しま
せんでした。その町の外にいた人々は助かったが、あの地
獄の巨人がつかまえた人々は、すべてのみこまれ、伴れ去
られました。男、女、子供、老人、牡牛、牝牛、家その他
無限の品物が持ち去られ、あらゆる物が、そこにかつて陸
地がなかった如く、深い海に代えられました。ビアジオは
何としても、そのようなことは想像もしませんでしたが、
その時刻に妻息子、召使いたちと家にいましたが、木造の
彼の家が一瞬の中に波の上に浮ぶのを見ました。妻と息子
はおぼれました。彼は少し泳いだあと助かりました。しか
しその上に、どうして、どのように逃れたのか知りません
が、その町から波で遠く運ばれてしまいました。くづれ始
めていた家にいたビアジオは、何れもキリスト教徒である
家人たちと大声でイエスとマリアの聖名を呼んでいまし
た。一方彼の近くで善良な女たちがアミダ(阿弥陀)の助けを求めて
いましたが、彼女らは心から頼みこみ、危険から彼女らを
助けるようビアジオに願いました。しかし善良なキリスト
教徒(ビアジオ)はあなた方が助かるよう悪魔の名を唱え
ていては、どうして私があなた方を助けられるかと彼女ら
に答えていました。そこで善良な女たちは、彼と共に強く
イエスとマリアを祈り始めました。そしてその困惑の中で
大急ぎで目の前にあった家屋の材木を彼女らに差出して、
イエスやマリアを祈っていた女たちの幾人かを助かるよう
にしました。多くの善良な女たちは、さし迫る危険の中で
キリスト教徒になる誓いを立てました。同じ海岸のオキノ
ファマの近くの四つの村、即ちハマオクイ・エクロ・フィ
ンゴ・カフチラナロ及びサンガノフチエクイの一部は同様
に水中に没したと言われています。ハマオクイではキリス
ト教徒は一人だけだったので、多くの中でこの人だけが助
かりました。
 これら港の中で沖ノ浜には非常に多くの船隊が泊ってい
ました。その大部分はタイコウ(太閤)のもので、これらの船は王
国(現在彼の持っている)の徴税のため豊後に来ていまし
た。これらの船の多くは既に積荷を終って出帆の時を待っ
ていましたし、他の船は積荷を始めていました。その外多
くの商人の小舟がいましたが、これらの船についてビアジ
オは、確かに聞いたこととして次のように断定していま
す。即ちこれらの船は一隻さえも助からず、同一場所で破
け、全部が沈んでしまったと。
 府内の町は常に敵意を持ち、頑固でした。四十三年も神
父が、修道会の修道士、教会及び貧しい良民のための病院
があり、病気の際に救援し、教義を教え、説教し、神聖
なつとめをし、また教会の儀式を行っていました。そこ
にはその土地で生れたわづかのキリスト教徒がいました
が、その中にわれらの教会の近くに住む人がいました。
フランチェスコ(宗麟)王は若し彼等がキリスト教徒になったとし
たら、彼にとり大変な喜びであり、また彼自身、彼等の代
父になったであろうと述べました。そういうことで、一方
僧侶たちは彼等を迫害し、他方同じ町の人々は、日本中の
町の中で、この町から修道会が公然とより多くの危害を、
特別の恥辱をうけた町でした。それだから大人のみならず
青年及び子供たちは両親から教えられ、悪魔から煽動され
て、道路にわれわれの仲間が姿を現わす度毎に、突然大声
でののしり始め、われらの神、神父たちに恥辱を与えまし
た。その後キリスト教徒になったフランチェスコ王から彼
等のこんなにひどい、邪悪なやり方をはげしく禁止されて
いたが、何れにしてもキリスト教徒及び教会に対して彼等
が持っていた反感を取去ることは出来ませんでした。時
に、夕方われわれの家に火をつけたり、また家に矢を射た
り、また教会や家に石を投げました。その上、教会に向っ
て死人や子供の手足を投げました。その際に坊主たちは公
然と、われわれは人肉を食べるため人間を殺しているのだ
と宣伝し、われわれに反対するにせの証人を立てました。
このため、数年に亘ってわれわれの家の周囲を夜番する必
要がありました。しかし最高の神、そして正しい裁判官、
そして『余は罰し且つ賞を与う』と申された神は、先づ彼
等を重分なさまざまな苦難で見舞ったのです。この町はブ
ンゴ王国の首都であり、富裕な商人が住んでおり、偶像の
多くの寺があり、この町で大きな権力を持っていた坊主た
ちが出入りしていましたが、数年のうちに戦争、疫病、
飢、火災その他数多くの惨害で衰えて行きました。そこ
で、この町でヒエレミアがエルサレムの町について言った
『多くの人々が住んでいた町が何んとさびれてしまったこ
とか』という言葉がここで十分実証されました。王国の一
般的破壊によって、かつて、この町も非常に破壊されまし
たが、それでも、最近数年間において、改めて人が住むよ
うになりましたが人口は激減しました。そしてさまざまな
王国に逃げていた賤民たちは、その状態で帰り、ここに居
ついたので、既にその町に五千の家がありました。今や神
のかくれたる判断により、この地震によって五千の家屋が
あったと言われる町が、やっと二百になったと言われてい
ます。また悪魔の二つの寺院しかなかったものが、いづれ
も崩潰しました。そしてバスティアーノと呼ぶ徳のあるキ
リスト教徒の小さい家は、この家にわれわれの神父が使い
に行ったときはミサを唱えていましたが、崩潰した良民の
家の中で立っていました。
 フアカタ(高田カ)の地においては四千人以上のキリスト教徒がお
り、善良な老人イオランが殉教したところですが、この地
震のとき大河を通って、海が三里も這入りこみました。こ
の騒音が聞えている間に、その河の近くに住んでいた人た
ちは、家を棄てて、安全な山や田畑の方へ逃げて行きまし
た。しばらくすると河はもとの河床に帰りましたが、大き
な破壊をもたらしました。即ち多くの家が崩潰し、多くの
人が死んだのです。しかしフアカタの善良なキリスト教徒
が語ったところによると、むしろ良民に対して神の膺懲が
向けられたようです。そのキリスト教徒は、子供に洗礼を
授けたり、死人を埋葬したり、キリスト教徒たちに神のこ
とに関して道理をのべ、説得をしていた人ですが、彼の言
うには、その地には多くの村があり、その村のあるものは
全員キリスト教徒であり、他の村ではキリスト教徒が良民
に交って住んでいました。この中で良民の家が崩潰し、死
人を出し、キリスト教徒の家は何等の損害も受けず立って
いました。崩潰が全般的であった最初の地震が終ると、数
名の善良なキリスト教徒及び神を畏れる人たちが翌朝、直
ぐその村に行き、大声をあげて、そこで死んだキリスト教
徒がいて埋葬する必要があるか、手当をする負傷者がいる
かを尋ねて行きました。この人たちは、良民の家で、死人
の側で大声で叫んだり泣いたりする声をききました。そし
てキリスト教徒については死人も負傷者も見当らず、それ
どころか、少しの損害も受けずに立っている家を見まし
た。
 タイコウ(太閤)の徴税代理人で、良家の出であるが、性質極悪
の男が府内に住んでいて、妾を持ち、この妾から男子をも
うけていました。この妾の家が崩潰し、妾と子供を殺しま
した。そしてこの男にもう一人の家の子がいて、過去にお
けると同じ懲罪をうけるのを恐れ、またこの子を預、ける安
全な場所が見付からなかったので、フアカタのキリスト教
徒にたのみに来ました。キリスト教徒たちはこの怖害が通
りすぎるまで、彼等の許に子供を預りました。
 イゥノイン(由布院)と呼ぶ地には(この地にわれわれの神父がい
て、数年間この地の人たちの改宗にたづさわっていまし
た。また府内から一日の旅程にある村の洗礼を受ける人た
ちを助けていた)過去の戦争のため王国の破壊のあと、あ
る山麓に残っていた村が一つあり、魂の浄化に冷淡になっ
ていた幾人かのキリスト教徒がいました彼等は他の善良な
キリスト教徒たちから良い状態に帰るようすすめられまし
たが、それを良く聞きませんでした。今、こんなに恐ろし
い地震のため、その地にある山の一部が崩れ落ちて、その
村を埋め、ほんの数名しか助かりませんでした。
 これらが現在まで、われわれの神父及び、この辛苦を体
験した信頼するに足る人たちから寄せられた報せです。神
を畏れ、愛し、神の聖なる掟を完全に守った人々の心に起
ったこれらの奇蹟のかずかずが、われらの神のおぼしめし
にかなうように。
⑽ 日本王国記(「大航海時代叢書」Ⅺ・岩波書店刊・昭
和40年)
 九月四日、非常に激しい地震が始まり、幾時間が続い
た。その後弱まったり、強まったりして幾日か続き、こう
して、強弱の差はあれ、毎日毎夜ゆれ止まなかった。それ
は日本全土にわたる地震であった。もっともところによっ
て、他の土地より一層はげしく、被害を被るということは
あったが、なぜなら、日向の国では、上浜Humfama(8)とい
う一つの町は水びたしになって、人家は跡形もなくなった
ばかりか、その後海まで湖ができたので、そこを船で往来
したし、現在も船が往来しているからである。
注8 「日向の国ではなく豊後Bungoの国であり、町
の呼名もこうではない。海がそこに入ったのは事実
である」(モレホン、イエズス会本、六六)。(原注)
Humhamaは本浜ともとれる。
㈡ 第二群(“瓜生島”関係)史料
⑴ 「豊府紀聞」
 慶長元年丙申閏七月十二日晡時天下大地震。豊亦所々地
裂山崩。故高崎山顚巨石悉落。其石互磨発火。既而震止。府内民皆安心身。或有浴者或有食夕飯者有未食者。時又鉅
海大鳴動響諸人甚驚奇之。走于東西逃于南北。或視海辺。
村里井水皆悉尽之。尓時従巨海洪濤忽起来。洋溢于府内及
近辺之邑里。大波至三時。神護山同慈寺之薬師堂一宇巋然
独存之。然其仏殿大傾斜。同境内菅神廟社不知流行方。又
其大殿之前流来旅舶一艘十端帆也積大豆半其船而無一人。如是
罹大地震洪波。府城大厦小宅民屋等大半倒破。不知人蓄死
者其数。又府城之酉北二十余町勢家古世家也邑其地高。故民人
歩行瀉洪波半体(ママ)。勢家名(主境)内有禅寺之旧跡名法蔵寺。
不知開基境地高故不鉅浪。且勢家村二十余町北有名瓜生島。或
又云沖浜町。其町縦于東西竝于南北三筋成町。所謂南本町
中裏町北新町。農工商漁人住焉。其瓜生島之境内皆悉沈没
而成〓底。因之不溺死者纔其七分之一或漂于小船。或乗于
流家。或付于浮木。或寄于流櫃。五倫離散于互。激然流浮
暫時而到西南山岸犬鼻辺。或又有到於蓬萊山等之高地免死
者。頃刻而大汐収如奮。於是沖浜町流浮免死之人漸〻到于
彼地来于此境。雖然皆裸程無衣且飢食。故同十三日昧爽求
親属及交隣之好。来于勢家村之民家。於是時勢家之民人育
之。又勢家名主徃于府城白此事。於時城主早川主馬首憐愍
其民人飢裸之難。即賜衣布米銭以扶持之。於勢家境内犀結
茅屋使居之。再名沖浜町。沖浜及府中等民人凢死者七百八
人。牛馬不与府之海辺村里皆如是。速見郡別府村沈没之。沖浜
道場尽没竜王宮裏。故其無量寿画像流浮于海上而不知行方
時道場五世之主周安。夢有僧告曰。道場尊像今在海岸。因
之周安速到海辺求之果得其絵像。大喜奉府主之許命。於新
沖浜結茅屋安置之道場復旧。勢家法専寺(ママ)堂宇破壊。因之法
泉(ママ)寺五世住侶善西営一宇於沖浜道場之西再名法専寺。沖浜
之鎮守天神漂流而到于勢家之境内。因勢家之名主収之以再
建諸春日祠之境内。長浜明神之神殿流来于春日山。渡(ママ)建諸
春日祠之境内。長浜明神祠及北浜明神並不知其開基。北浜
明神不知其行方。府中本願堂宇破壊。於是菴主比丘尼受府
主早川主馬首免許。営草屋勢家之村中住居之。再名本願。
松坂八幡宮不知開基年代神殿大破。故日野氏税所遷松坂神体於祗
園宮。同年七月下旬来旅舶于府。舟主云到洪波状地日海水
大半減予(ママ)之豊府民人聞感之。同年八月豊府主在府内城。問
府之名所於老夫。答曰生石、浦有島日笠結島。俗呼日生小
島。島廻百歩高数仭。頂有老松数株。遙望之則似右制結頭
笠。以故名笠結島。土御門院有御製之歌。是郡中名所也。
主馬首聞之即徃見笠結有詩曰
何世海翁遺棄去 傍汀漂泊竹及簦
旅舟今古徃来客 一聴其名笑首肯
 同月二十九日(慶長三年)大雨甚。因之鶴見嶽東北麓深淵大倍之。又
山頭崩落埋其深淵過半。是故淵水忽溢出成大河急流入于巨
海。時速見郡朝日郷久光村流没。人畜死者四十余人也。
⑵ 「豊陽古事談 全」
瓜生島道場
 府城之北一千九百余歩在瓜生島累世之住民植木氏深
信弥陀欲成道場永正六年七月付商船到大坂謁本
願寺之実如上人剃髪、成弟子名道正歓喜帰本国与
瓜生島之民人相議曰之府主蒙許命於瓜生島営道場
佳之俗呼云瓜生島道場。
大地震
 慶長元丙申閏七月十二日七ツ時諸国大地震当国府内従
巨海至三時神社仏閣大小民屋多流去于中同慈寺薬師堂
一宇存之又勢家村二十余町北有村名瓜生島或云沖浜
東西三筋成町農工商漁人住之今日此島悉沈没海底不
溺死者纔七分壱漸流家或浮木漂器取付免死者有之彼島
及府内等民人死亡者凡七百八人云。
威徳寺
 地震洪波沖浜道場之本尊画像漂没矣僧侶周安夢有一僧告
日本尊今有干海岸周安求海辺則得焉新沖浜建道場
置本尊曰威徳寺
法専寺
 此寺元有瓜生島町此時破壊営沖浜道場之西辺一宇
名法専寺。
瓜生島天神
祠有島之地洪波後流来勢家村地即安置春日之境内。
長浜社
長浜大明神神殿流来春日地因之境内安之。
本願坊
府中本願坊破壊受許命移勢家村。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 5
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