[未校訂]一 同月(壬七月)十三日昼頃より大地震ニ而(1)、大波ゆり上、居宅海
中となる。重成室出産以後六日目の事なれハ、血も未治
らす、出生の小児を抱て、夫婦共に天井に上ル。天井に
も水上るゆへ、[脇指|わきざし]にて屋萱を切破て二人共に屋の上ニ
上ル。系図并感状の箱と鑓を持て上ル。最早屋根も流ん
とする時に、[兼而|かねて]船を作らんとて調置たる船板の七尋
斗なるか流れよりけれハ、是を幸に弐人共ニ乗移り、鑓
をも箱をも放さす持去れとも、引塩(汐)に沖に引出さ
れて、幾度も波に打込れんとす。此時男壱人小船を漕来
て、是に乗給へ、助け申さんと云。弐人なから嬉しく
て、此舟に乗り移り、系図の箱も鑓も取乗て、南を指て
漕行。暫く有て或ル渚に漕寄セて、[爰|ここ]に上り給へ、と云
置て[彼|かの]男ハ見へす。此所も大波に崩れて、人家もなし。
陸の方へ向て暫く行に、小き社有、此辺には人家もなく
有ゆへ、此所ハ何といふ村ニ而、此社ハ何の神を祭そ、
と問ハハ、爰ハ今津(2)留と申所ニ而、社ハ天神なり、と申
ス。扨ハ我を助けしハ此神ならんとて礼拝し、暫く爰に
休ミ居てつかれをはらし、人家に入て休息す。村の者共
此事を披露しけれハ、沖浜より吉右衛門・与右衛門・九
郎兵衛[抔|など]家頼の者共尋来ル。重成悦ひ、汝等ハ何とて助
りたるそと問ハ、崩れたる家に取付て南の山際迄大波に
打寄セられたりにより、則山に上り申て候、と申す。残
りの者共ハいかに、と問は大方助り申て候、男は誰々、
女は誰々こそ助り、又誰れ〳〵ハ見へす候、と云。武具
倉并其外の倉々ハと問ヘハ、皆崩れ候得共、武具も金銀
も其外の諸道具も失ハ致さす、と云。夫より迎の者共を
具して其日沖浜に帰る。山際の少し残りたる土地に、先
ツ仮屋を立て居る。此時、女四人・男弐人は不見。去
ル八日ニ出生の小児も死ス。諸道具も[能々|よくよく]改れハ大分見
へす。
一 慶長元丙申年十一月、当夏沖の浜地震崩レニ付(3)、
秀成様御船着として今津留浦御拝領也。
秀成様御上洛ニ付、未土地御受取無之、沖浜より往来
して持。
注1 柴山勘兵衛記は九日、他の多くの書物は十二日。
2 中川家史料では沖の浜は今津留村沖の浜とある
が、これで見ると勘兵衛は今津留は不案内の土地ら
しく、今津留と沖の浜の距離が感じられる。
3 「島」の一部が五ケ月後も残っていたらしい。