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項目 内容
ID J0502434
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道諸国〕⇒津浪も襲来・翌年十二月まで余震続く。
書名 〔鷲見伝右衛門文書〕「高鷲村史」
本文
[未校訂]「(前略)天正十三年酉十一月二十九日亥子の刻の大地震
にて、内ケ島氏理の城地ゆう崩し候急難に東常堯、落命
早去□云々。」
これによってみるに向鷲見城主鷲見朝保は此の時遠藤方に
味方しているが飛驒勢も何回か進出しているので鷲見郷も
相当戦禍をうけたことは、言うまでもない。この天正十三
年の大地震というのがかの有名な飛驒の帰り雲、郡上西洞
村の折立、明方村のみぞれの三ケ所一時に亡びた大災害で
あって庄川郷黒谷の池仏様も此の御難にかかられたのであ
る。この時の大地震は翌十二月二十五日まで震(ふ)るい
止まず、帰り雲では城主内ケ島氏理以下死者五百余人とい
われた。長滝の長滝寺では一山の衆徒をあげて日夜読経し
て平安を祈り参拝者も多かったが近郷は被害が少なかった
という
 【西洞村折立の長者】天正十三年の秋、飛驒国白川郷帰
り雲の城主内ケ島氏理(うじただ)は家臣と共に村の猟師
を勢子につれて一行数人が大白川谷へ猪(いのしし)狩り
に出かけた。終日獲物(えもの)もなく其夜は大白川湯の
辺に露宿して翌日も獲物の見当らぬままについに別山(べ
っさん)の頂上近くまで登ってしまった。今日も鳥一羽と
れず一同力をおとして家に帰ろうとして不図(ふと)思い
ついたのが頂上社殿に安置してある黄金仏のことであっ
た。これは平重盛が寄進したと伝えられる黄金の聖観音像
(しょうかんのんぞう)である。これをおろしで一もうけ
しょうと金体に手をかけたがなかなか動かない。勢子ども
が鎗の石づきでこぜたりしたがビクともしない。一同断念
して「明日は別山谷で狩ることにしようと尾根づたいに大
日ケ岳を経て鷲見郷西洞村へ下山した。麓の谷間へ下ると
短かい秋の日はとっぷり暮れてしまった。あかりの見える
のをたよりに一軒の家にたどりついて宿を乞うと(旧記に
は「埴生(はにう)の小屋あり。これ釜ケ洞の与右衛門な
り」とある)。此の南八丁に長者の家があるからと案内さ
れて一行は折立長者弥左衛門の家へ入った。夕食後別山頂
上での話をしたところ台所で聞いていた老婆は「そんなこ
と何でもない」とつぶやいた。そこで老婆にたずねると
「神様のたましいを抜くのじゃ。これをかぶせなされ」と
いって自分のユモジを解いて与えた。翌朝一行が出かける
時老婆は「分けまえのこと大丈夫じゃろうな」といって指
でまるい形をしてみせた。そして昨夜つくっておいたイリ
マメのはいった袋をわたした。
 一行は足どりも軽く、いつしか別山の頂上についてい
た。老婆の教えた通り金体はやすやすと動かすことが出来
て、一たん白川村へおろし当時美濃国で名高い明方郷のミ
ゾレの鉱山に持っていって熔鉱炉(ようこうろ)に入れて
熔(と)かすこととなった。夜昼休まず、七日七夜の間タ
タラにかけたが少しも熔けない。七日目の真夜中(まよな
か)天正十三年十一月二十九日(一、五八五年)亥子(い
ね)の刻一大音響と共に白山火山が大爆発(ばくはつ)し
て、大地震が起り折立、ミゾレ、帰り雲の三所一時にゆり
くずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。この
時、大水で長者の馬がどろ水におし流されて淵にうず巻い
ていたというウマノマキの跡も長者屋敷の下に残ってい
る。イリマメのタタリで折立には豆がみのらないなど明治
のころまでいわれたものであった。(なお折り立長者のこと
は第十二編二章村の伝説のところにかかげることとした)
 【ミゾレ鉱山のつぶれたこと】ミゾレでは鉱山のヨウコ
ウロ、その他の設備をはじめ、飯場(はんば)、鉱員の住
宅は勿論地元の部落もほとんど全滅した。山崩れで、ミゾ
レ川がせき止められ東池と西池と二つの池が出来た。これ
が名高いミゾレが池である。
 大地長の時七日七夜が間、天が暗がっていたというので
今もナナクラガリなど地名が残っている。
 【黒谷の池仏様】天正十三年八月金森長近は飛驒の三木
氏を討つため荘川郷へ進出したことは、次の第三節で述べ
るが、此の時荘川郷黒谷村の浄念寺では寺宝の本願寺八世
蓮如上人染筆の真草二幅(しんそうにふく)の六字名号並
に九世実如上人御裏の阿弥陀如来一幅を戦禍をのがれる為
め郡上郡気良の庄、ミゾレの道場へ預けておいた。ミゾレ
は荘川との間にエボシケ岳の険をへだて、明方川の奥地で
最も安全であると考えたからである。天正十三年十一月二
十九日白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し道場も
山くずれのためおしつぶされて浄念寺の三幅の仏も、この
難にあわれた。そこで浄念寺の第十世道隆は仏を求めて一
百二十日の間、日参して山くずれの跡をさがし求めた。天
正十六年四月二十日にふしぎにも三幅の仏をミゾレの池か
ら上げることが出来た。今は池仏如来といって寺の宝物と
なっている(浄念寺縁記による)
 【帰り雲城の全滅】帰り雲は白川郷の保木脇と木谷部落
の中間にあって当時は内ケ島氏の城下町として相当繁栄し
ていた所と伝えている。城は荘川に面した要害にあったが
大地震と共に対岸の猿ケ馬場山(標高一、八二二米)の西
の尾根が崩壊(ほうかい)して長さ千数百米にわたり土砂
が押し出し幅百米の荘川を押し切り対岸の城地並に部落は
またたく間に壊滅(かいめつ)して内ケ島氏理も一族と共
に亡びてしまった。押し出した土砂はさしもの荘川の水をせき止めて後久しく湖のような淵をたたえていたという。
対岸山崩れの跡は三百七十余年後の今も長さ千余米幅七百
米の無毛のハゲ跡を残している。郡上八幡東殿山の城主で
あった東常堯も内ケ島氏と運命を共にしてここに亡び郡上
回復のことは遂に失敗に帰した。
天正十三年十一月二十九日夜の白山大爆発による大地震
は飛驒、越前、越中、加賀、美濃等数ケ国の地が大いに震
い白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東
帰り雲の裏山つづきに天に向って倣牙(ごうが)の如く突
きそゝる三方崩(さんぼうくずれ)という一高峯が大崩壊
(ほうかい)したのもこの時であった。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 161
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 高鷲【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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