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項目 内容
ID J0502429
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道諸国〕⇒津浪も襲来・翌年十二月まで余震続く。
書名 〔越中国名跡志〕
本文
[未校訂] 庄川大川也、天正十三年十一月二十九日大地震にて木船
の城をゆり沈めし日、此ひびきにて此川上の山一ぬけて庄
川へ崩入り水口を塞ぎければ、二十日計水留りて山々は水
溢れて庄川は河原と成、鮭の魚其外の魚も拾ひ取金沢高岡
へ掛運ける、老功の者申様此水一度は流来るべし。其時川
縁にて押流れん事必定にて去は立退て水を遁よと云儘に増
山森山佐ケ野の方へ立退山に家居せしが、水は自然に流来
る無難に家に帰りけり、其水口へ弁才天を勧請して山は弁
才天山と云、此地震にて他国の事ながら飛州白川と云所は
民家三百余の家の上へ落懸て、家は三丈許の地の下へ沈み
ければ数百の男女も地下へ沈で、白川の村は枯葉もなき荒
山と成、霜月下旬の事なれば白川のもの六人富山へ売物に
行命助り、白川へ帰りて見ればあとの形はかはり何れは古
里のあとならんと泣々又また富山へ戻りけり。」
 阿古は天生のこと、保木脇の地を云ふ、而して此の惨状
を国人記載する所には、〔飛驒鑑の兵庫降参の続文に〕
「兵庫も即刻在所へ帰宿領分之者共出合悦申事難尽申
候、兵庫も不慮に二度面々へ逢候事大慶不過之候、然者
祝儀に能申付面々へ見物為致此中之苦労払させ可申由に
て越前より猿楽共呼寄領分之者共も内ケ島へ揃、明日能
興行之前夜九ツ過内ケ島之前大川有之候、其向に高山御
座候而亦其後に帰り雲と申高山御座候、右之帰雲之峰二
ツに割、前之高山並大川打越内ケ島打埋申候、人一人も
不残内ケ島之家断絶、家老之内山下大和同修理両人は内
ケ島より三里下鳩谷と申所在所故罷越能興行之朝未明に
出仕申首尾にて右之難にのかれ申候。」(以下略)
 この日益田郡竹原郷の威徳寺も地震にて潰滅し、吉城郡
高原郷の奥硫黄岳麓の中尾峠は噴火で被害あり、兵庫氏理
が方に寄食せし元郡上城主東七郎常堯も御逝去。
(飛驒史壇四ノ九)
 被害跡より察するに白山の爆裂であろうと、岐阜県誌に
伊東午次郎が述べている。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 158
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 富山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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