Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0502080
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕遠江・三河・駿河・甲斐・相模・伊豆・京都・奈良・会津⇒十一月二十九日
書名 〔松阪市史一〕
本文
[未校訂]宇治山田市史 大地震あり海哺を起して海辺の被害夥しく
大湊領塩屋村の如き百八十余戸殆んど全滅して生き残っ
た者僅かに四五人であったと云ふ(神宮大綱)
東海道沖 震度の強かったのは紀伊より房総に至る沿海の
諸国並甲斐であった、紀伊熊野に於ては本宮の社殿倒
潰、那智の坊舎も崩れ湯峯の温泉は十月十八日迄湧出を
止めた。(「三重県災害史」)
津市史稿 明応三七年五六月七十一日両度の大地震に安濃津十八九
町沈没すると申伝う、安濃松原此の災に海となりたるな
ん、遠州今切の大変も明応八年六月十日の事と云う、明
応は後土御門院の御世なり今を去る事三百五十年前な
り、安濃津の湊口より十町許漕ぎ出づれば忽ちに海深き
界に入る、竝までは遠浅なり、潮の退きたる時に波の底
を窺ひ見れば其の界絶壁の如く険しく北乙部浦の前より
南鳥浦の方にさして続きたり、俗に檀と云う、是れ彼の
松原の基なりと云う、斯くの如く海中にさし出てあらば
丹後の天の橋立などの如く実に絶景の名称なりけること
宣なり此の松原失せたるに依りて古より名にし負う港も
跡なくなりて今は風を避くべき舟がかりの便なく云々。
(伊勢考古録)洞津の海は至っての遠浅也、昔は今の海
の中に町ありて往来なりし由、今に海中に一段深き所あ
りて其の辺に昔町屋の前なりし溝の跡なりとて石の列べ
し場所ありときけり、其の頃は安濃松原などもありて今
立町の半に掛かる板橋も其辺に渡せるよし。(九畹堂随
筆蘭塵)
(備考)伊勢考古録は明応三年五六月七十一日と書くも諸般
の文献を考察するに明応七年六八月十一二十五日の両度か(「三重
県災害史」)
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 119
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 松阪【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.002秒