[未校訂]船田、八幡神社の上梁文によるに、役人代々船津氏也、昔
船津氏の開きし故に船田の名あるか、或いは云、[海立|つなみ]の時
船を比処迄打ち上げし故名づくと(「増訂豆州志稿」)
寺田、丸子宿の東南につづきたる村なり(中略)又此村の
山にさしむ山という所あり、此山の半腹に海浜の小石多
し、古老の伝に、昔大津波の荒ありし時、此山まで波をう
ちあげし事ありて、其時の石なりしと云へり(中略)いず
れの年の事にや考えべからず、もしくは益津郡坂本の条に
いふ明応年間の洪波の事にはあらざるにや((「駿河国新風
土記」)
明応七年六月 地震津波の為流失、現在の地に移転(昔ハ
西北ニアリ)ス、(「愛知県・神社に関する調査、渥美郡」
所収の渥美郡牟呂吉田村大字牟呂字大西 素戔鳴神社に関
する伝承)
明応三年五月七日、同七年六月十一日両度の大地震に安濃
津十八九町沈没すと申し伝ふ、安濃松原此の災に海となり
けるとなん。遠州今切の大変も明応八年六月十日の事といふ(中略)此の松原失せた
るによりて古より名にし負う湊も跡なくなりて、今は風を
避くべき舟かかりの便なし(「勢陽考古録」)
安濃松原は海岸と共に十八、九町海底に崩れ、松の木末は
海面に浮草の如く、洪水後七十余年まで海中に松木多く残
りあり(「雑集記」)
観音寺略歴によると、暦応元年(一四三八)大和より伊勢
に移り、明応の大地震に堂宇倒れ、同十年北畠七代、材親
の時知行主、玉井兵部当地に寺領を寄附して堂宇を再建し
た(「三雲庶民史」)