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項目 内容
ID J0502061
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕遠江・三河・駿河・甲斐・相模・伊豆・京都・奈良・会津⇒十一月二十九日
書名 〔林叟院五百年史〕▽
本文
[未校訂]林双院は文明三年創立以来、賢仲禅師は道風を四海に宣揚
したが、早くも二十七年の星霜を経て明応六年を迎えた。
ある日異叟――普通とは異った僧が――林双院を訪れた。
そして賢仲院と談笑したが、恰も長年交際した友達のよう
に親しかった。賢仲禅師が時どき目を上げて異叟を見る
と、顔色には威厳があって、眼光は人を射るようである
が、言葉は軟くて、しかも低い声であった。この時異叟が
顔色を正して言うには、惜しいことにこの地は厄難があ
る。願くば尊師よ、私の言を信じて、移転するのがよかろ
うと忠告した。賢仲禅師は、その言葉を不思議に思った
が、異叟をつれだって適地を探がすため、門を出た。足は
自然と高草山麓に向っていた。杉や松の密林の中を進ん
で、山の曲り角に出た。異叟はここに立留って指さして言
うには「此の処こそ寺として最適の地である、もし此の言
を信ずるならば私は師のために永く護法の山神になろう」
と告げた。賢仲禅師が首を廻わして、四囲の情況をみるに
山には松杉が生い繁り、二つの渓流は集って一水となり、
静寂な霊域で、寺を建つには絶好な土地であった。賢仲禅
師が欣然として振りかえると異叟の姿は無く一片の石を遺
すのみであった。師は護法の神であることを信じて、合掌
低頭して帰院した。
 事の次第を法永居士に告げ、間もなく寺をこの地に移
し、林双を改めて林叟とした。思うに法永居士の実父加納
彦右ヱ門は、今川義忠に仕え、諱の一字を賜って義久と名
乗った人物で、坂本村の地頭をつとめ、方の上城を守衛
し、坂本に居館を持っていた事実を考え合せると、坂本の
地を選んだこともうなづける。
 果せるかな、翌明応七年八月には大雨があり二十五日は
大地震、駿河の海は津波が起って異叟の予言通り、林雙の
旧地は海となった。この時不幸にも溺死したものは二万六
千人と言われている。この二万六千人は二百六十人を草体
で書いた文書を読み誤ったもので、他の記録に溺死者数百
人と記されていることを参酌すれば二百六十人が正しいと
言えよう。
 林叟院は異叟の忠言によって、この難を逃がれ明応九年
になって諸堂が設備し、小川の旧観に勝るようになった。
(都司注)「西駿曹洞宗史」にもほぼ同一の文がある。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 112
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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