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項目 内容
ID J0500808
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1026/06/10
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1026/06/16
和暦 万寿三年五月二十三日
綱文 万寿三年五月二十三日(一〇二六・六・一六)石見
書名 〔柿本人麻呂と鴨山〕
本文
[未校訂]上述「清岩茶話」の伝説は、万寿三年1026断層地震のため、大
津波に埋没したと言う、鴨島説を述べておるが、この鴨島
説としては、多分に誤り伝えられておる。鴨島説を早くか
ら、真実に伝えたものに、「柿本明神縁記」がある。この
説は当柿本神社に、古来から伝わる縁起を、卒直に述べた
ものである。
高津の洋に、昔は鴨島といへる大なる島山ありて、人丸
も是におはせしなり。後一条帝の御宇万寿三年丙寅五
月、海上に高浪起て、彼島をゆりこぼちて海中に没せ
り。人丸御廟に二穂の松とて、名木ありけるが、此浪に
根を絶けり。其の後松枝に神像をかけて、近き浜に打よ
せたり。因て其処に、再び社を建立す。これを松崎と言
と。「茶話」の説相違あり。何れにしても道理に害なけ
れぽ、余が碑文には縁起の説にしたがふ。
とある。
元来高津の鴨島が、万寿三年の大津波に、湮滅したと言う
この伝説は、根強く地方民に信奉されて、今日まで経来っ
たのである。
高津鴨山説は、上掲「柿本明神縁起」が語るように、高津
の沖に人麻呂の終焉地たる鴨島があり、そこに人麻呂を祀
る小社があったが、平安朝期後一条天皇の万寿三年丙寅五
月二十三日の真夜中、突如断層地震のため、一朝にして鴨
島を陥落させ、押しよせた大津波のため、人麻呂の社をも
同時に流失、神体は波に押されて、松崎の松の枝にかかっ
ていたのを、地民がこれをその地に奉斎した。これが松崎
の人麻呂神社であり、間もなく別当寺として、[人丸寺|にんがんじ]が建
立された。これが高津の柿本神社の起源を物語るもので、
今日の神社は江戸期になって、松崎の地からさらに、移転
建立されたものである。
鴨島の埋没
一、万寿の大津波
後一条天皇万寿三年1026、丙寅五月二十三日の、真夜中亥ノ下
刻、高津沖の石見潟が、一大鳴動を起すとともに、鴨島が
水中に陥落し、思いもかけぬ大津波が襲来して、石西沿岸
を中心とする、全石見の沿岸各村々に、大惨害を及ぼした
と言う。とりわけ、益田市内の高津・中須・遠田、及び那
賀郡の江田・渡津・黒松等、高津川・江川の川口に当る方
面は、後世の文献や伝説に徴し、甚大な打撃を被ったこと
が知られる。
二、高津・中須の災害伝説
万寿の大津波で、最も大きな打撃を被った地所は、高津川
口にあたる、益田市内の高津・中ノ島・中須の、諸海岸で
あった。中須や下本郷あたりに散在していた、専福・安
福・福王・妙福・蔵福の、いわゆる五福寺は、この度の激
浪により、おし流されてことごとく潰滅に帰した。
古伝説によると、中須沖の鴨島にあった人麻呂神社は、元
聖武天皇の勅願により、神亀年間建立されたもので、その
後別当寺として[人丸|にんがん]寺が、これに附属していたと言う。
が、この陥没地震のために、鴨島全体は近接の鍋島ととも
に、海中に陥没し、人麻呂の神体は、対岸の松崎に漂着し
た。災後そこを相して一宇の社を建立、これに別当寺を添
えて、松霊山と号したと言う。「島根県史」に
此寺(安福寺)はもと、本郡中洲村(今の中須)に在り
て、天台宗に属し、安福寺と称し、世に所謂五福寺の一
なる巨刹なりき。然るに万寿年中大海嘯のため、堂宇を
悉く流没したるを以て、爾後小庵を結び、僅に寺号を存
したり。
県社柿本神社社殿は、聖武天皇の勅命により、神亀年間
高角港口鴨島に建立し、別当人丸寺之に属したり。然る
に後一条天皇の万寿三年五月、海嘯鴨山全面を、破壊し
たるを以て、その神体の漂ふ所を相して一祠を建て、寺
を松霊山と称せり。爾後六百年鎮座ましますに、後世尚
洪波の殃あらんことを恐れ、延宝九年藩主亀井滋政、現
今の社他に移動せり。
とある。(中略)
三、遠田の災害伝説
益田市遠山では、大地をゆする大津波のために、海竜山遠
田八幡宮背面一帯の砂丘は、一たまりもなく崩れ、砂土は
前浜一帯の、原野や田地を埋めかくし、八幡宮の社殿も倒
壊のまま押流された。同社はこれよりわずか八年前、後一
条天皇の寛仁三年1091
、斎藤中務丞と藤原重基とが、改築を加
えたぽかりの、檜の香も真新しい社殿であった。高波の余
波は、南西に方向を変えて、下遠の郷をさらい、中遠田の
山野や草原を洗って貝崎に迫り、更に南進して、上遠田の
低地を這い、黒石の崎角、及び[滑堤|なめらつづつみ]の堤防までおし迫っ
た。
ために引潮の際、低地住民の資材は、ことごとく流失埋没
し、原野や耕地の被害は、目もあてられぬ惨状を呈し、昔
のおもかげは全く、夢と消え失せて、この世ながらの、生
地獄を再現した。夜半のこととて、波にさらわれて行方不
明となったものも、相等の数に上った。残留した住民とて
も、家財を失って生計の途を絶たれ、塗炭の苦に陥った。
当時上遠田では、坂上[利兵衛|りひようえ]と、その子の[喜兵衛|きひようえ]、芝家の
[右兵衛|うひようえ]らがいたが、彼等はこの惨状にもめげず、敢然とし
て立ち上り、率先災後の復旧に努力した。ことに右兵衛
は、この災禍に妻を失って、悲嘆にくれていたが、今はそ
んなことに、くよくよとしておられないほどの、重大な時
期であり、危急の場合であった。彼等の刻苦精励は報いら
れて、さしもの惨禍も、昔の美田に回復することが出来、
鼓腹謳歌の平和境を、ここに再現することが出来た。爾来
この大津波に懲りた右兵衛は、祖先の祠堂を黒石の丘に移
し、家を流失した居民にすすめて、居宅を小高い丘の上に
改築させた。「沢江家文書」には、この間の事情を述べて
万寿三年丙寅五月二十三日亥ノ下刻、大海嘯掩襲田疇。
民竈悉流埋、山野摧裂、亦不留昔日之蹤跡。残存民庶、
瀕塗炭、利兵衛・喜兵衛等、軈以身勗孜々畋均。右兵
衛亡災禍於妻、能持鰥。従自宗家久平入而襲之。既
罹禍遷♠丘崎黒石祠、移衆庶居於阜頃邇宗家轗軻
衰頽、遂絶裔胄。(沢江家文書)
とある。
前浜に奉斎する、海竜山遠田八幡宮社地は、災後土地の豪
族斎藤某が、賦役をわりあて、修築工事にあたり、いせき
を堅固に築き、補成の任務を全うし、社殿を元通りに復興
の上、遷座を終った。「遠田八幡宮由緒」に
謂伝有村老本大故者。臨海岸有杉山森々竜岩乎。
高角鴨島洪波暴浪砌、成空虚白砂。斎藤氏償此賦否、
築工乎堰乎其後、写之。云々。
とある。斎藤氏補成の址は、今日でも境内において、認め
ることが出来る。
尚遠田の伝説として、柏島が高津の鴨島と、共に陥没した
ことが、大島小助の記になる、「翁小助問答記」(元文年間
記)に記され、鴨島の破壊後、その土砂が遠田湾に流入し
て、沼沢のようになり、漁船の出入が、困難になったこと
は、口碑として残され、「安田村誌」に記されておる。
尚、益田市[乙子|おとこ]にも、同所にそばだつ、鳥帽子山の麓まで
波がさか上り、麓の井には三尾の鰯が泳いだと言い、鎌手
地区本部には、この津波のために二艘の舟が、海から数町
を隔てた、丘の山に打ち上げられ、二艘船の地名伝説を遺
しており、同地区金山にも舟がついたと、大賀周太郎記
「鎌手村史」に出ておる。
四、江田・渡津附近の災害伝説
三隅町三保にも口碑を残しておる。木村晩翠著「三保村
誌」に
此地(湊浦)往古は、人家稠密良港をなせしが、六十八
代後一条天皇の万寿三年五月、美濃郡高津町の海嘯と同
時に、人家全滅し、現今の福浦に移転したるなりと伝ふ。
とあり、那賀郡では三保以東、折居・周布・日脚・長浜・
浜田までは、何等の伝説を持っていないが、下府に至って
記録を存しておる。下府の泰林寺(国分尼寺)は、この津
波により流没したと言われ、また「石見名所集」による
と、下府の井について、「只今は川底となりて、其所を知
らず。然れども神祭の度ごとに、河にて水を汲み用ふ。万
寿三年の高波に埋りし由。」と記し、都野津町に湾入して
いた角の浦は、この津波のために、砂をうちよせ、一朝に
して埋没して砂浜となったと言い、和木の馬島にも伝説を
のこしておる。
江田(今の江津)・渡津附近の伝説は、石田春律著「石見
八重葎」に、詳しく記されておる。江東駅の北にある長田
については、「万寿三年丙寅五月二十三日、古今の大変に長
田千軒、此江津今下の古江と申す所なり。民家五百軒余、
寺社共に打崩す云々。」とあり、同東向寺の条に、「下の入
江の渡り有りし時、地内に千体地蔵と申して、其数千体あ
り。万寿三年の大高波に、堂ともに崩れ、皆砂の底となる。」
又、星島の条にも、「万寿波濤に崩れ、今は三つとなる。
今ほししま(星島)と言ふ。」とあり、渡津に関しては、
然る所万寿三年の波濤に、長田千軒の家ども一時に崩
れ、この浦の沖に今の加戸辺、はなくり島・でんかふ
島・雲居島・[高|かう]島より、百五六拾町沖の、江ノ瀬島其
外、塩山沖の小島数々、是も此時に崩れ、右の六ケ所の
津も皆埋り、其後今の塩田の所々に、田少々追々に出来
る故、今塩田浦大川水留る所にて、田畠出来る故、中古
嘉戸浦、又上の長田千軒の所も、山下に横幅狭き田有
り。故に往古より長田と申す。
とある。更に東して邇摩・安濃の両郡には、何等の伝説を
持たない。ついで「八重葎」には、江川をさか上った、邑
智郡三原郷川下村の条にも、「其の川本の南の地、万寿三
年五月二十三日、大海波濤渉り、川本の下故川下り村と申
す。」とある。
以上江津市江田・渡津一帯に打ち寄せた、万寿海嘯が、江
川の川口をはじめ、その東部砂浜の海岸地に、相等な被害
を、与えたことがうかがわれる。その災害伝説の範囲は、
東は黒松辺をもって、尽きていることを示唆しておる。
以上それぞれ列挙した、諸文献によって知られるように、
万寿の大海嘯は、東西三十里にわたる、石見地域に限られ
た地変らしく、その大災害を被った点が、二ヶ所あったこ
とに気付く。一は益田・高津両河の川筋であって、吉田平
野の中心地たる、高津・中須・益田・神田及び、その隣地
にある遠田地方、一は江川筋の低地を中心とする、江田・
川下一帯の地方である。そして、その災害程度は、後者よ
りも、前者の方が中心だけに、はるかに甚大であった。
五、五福寺と十三重の塔
益田・高津の両河によって形勢された、吉田平野の沖積地
帯は、その土地がきわめて低い関係上、万寿の津波に当っ
て、これ等の沖積地帯は、余す所なく浸蝕されたものと思
われる。
前掲遠田「沢江家文書」によって徴しても、上遠田の黒石
まで、高波が逆上しておる。これによって想像すると、益
田市内の激浪は、久城・山地・辻ノ宮・赤城・稲積・七尾・
滝蔵・椎山・峠山一帯山地の、陵脚を洗い、余波は遠く益
田川をさか上って、久々茂一帯を浸触し、一面高津川を逆
上った高波は、内田・安富・横田の低地を洗い、遠く四里
(一六キロ)を隔てた、[寺垣内|てらがいち]村(今の神田)まで洗った
(石見八重葎)ことが分る。ために人馬の災害も相等なも
ので、今日現存する大塚地蔵や、三百原の荒神は、この時
の残死者を葬った所だと言う。(吉田町案内)又、万福寺
にはその時死去した、髑髏一箇を蔵しておる。同寺の略縁
起によると、次のような因縁話が附随してある。
是レナルシャレコウベハ、万寿三年五月津波ノ際、溺死
シタル人ニシテ、或ル山田ノ底ニ沈ミ居リ。然ル所当山
第二代目住職、随音相尚(鎌倉)ニ或ル夜告ゲテ日ク、
「我等山田ノ土底ニ沈ミ居リテ、未ダ得脱セズ。何卒和
尚慈悲ヲタレ給ヒテ、我等両人ノ追善回向ヲシ給ヒテ、
長ク此等ニ納メ置キ、末世ノ人ニ物語リテ、信心起サシ
メ給ハバ、其ノ功力ニ依リテ、我等ハ得脱スルコト疑ヒ
ナシト、夢枕ニ告ゲテ、去リシ人ノカウベナリ。」
万寿年間中須・下本郷・久城の一帯には、文化が発達し、
[櫛代賀姫|くしろかひめ]神社(延喜式内社)や五福寺の建立を見せていた
が、この海嘯のために一溜りもなく、堂塔は潰滅し、礎石
は砂中に埋没した。そして五福寺中、妙福・蔵福・専福の
三寺は、永久に復原の機を失ってしまった。櫛代賀姫神社
は、災後[緒継|おつぐ]浜の原地から、現社地明星山に移転建立、安
福寺は災後、原地に小庵をわずかに結び、寺号を存してい
たが、後年花園天皇の正和二年1313
、遊行二代他阿呑海によっ
て、天台宗を時宗に改派した。これが今日旧益田にある、
雪舟庭園で有名な、万福寺の前身である。真言宗金亀山福
王寺も同様、原地に再建したまま、今日に及んでおるが、
百八十年前浄土宗、益田暁昔寺末に改めた。本尊阿弥陀如
来は、鎌倉期の作品である。(中略)
万福寺には万寿の大津波に漂着した、流仏三体を蔵してお
る。この流仏は、観世音菩薩・持国天・多聞天の三体であ
る。万福寺の説明書によると、「コノ仏像ハ往古、吉田町
大字中須ニアリシ、安福寺ニ安置セシモノナルガ、万寿三
年ノ海嘯ノタメ、流没セシモノニシテ、藤原時代ノ作ト云
フ。」とある。この藤原様式の仏像や、十一重の石塔を見
ただけでも、そのかみ安福寺の、荘大な建築がしのばれ
る。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 41
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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