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項目 内容
ID J0500807
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1026/06/10
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1026/06/16
和暦 万寿三年五月二十三日
綱文 万寿三年五月二十三日(一〇二六・六・一六)石見
書名 〔石見国名所和歌集成〕
本文
[未校訂](石見名所方角図解)
鴨山―〔新清云、一説に浜田城山を云と有共、風土記に
よれぽ、益田の城山也と云々〕鴨山は高角浦の沖に有。今
は鴨島と云。此嶋昔は大き成る嶋にて、人丸の社、木像等
有けるが、人皇六十八代後一条院の万寿三丙寅年大波起
て、都て此辺の浦山おびたゞ敷崩れける。鴨山、鍋嶋等
も、悉く崩れ、木像も失せさせ給ひたるが、其後木像は、
浮木に乗て高角浦に上り給ふにより、再び社を宮つくり、
今の所に鎮座ましませぽ、高角山、即鴨山なり。高角山の
西に、なべ山八まんと崇祭れるは、昔のなべ嶋をうつせる
也。なべ嶋の跡は今鳴かみ瀬と云鴨嶋の東に有。かもしま
をはなるゝ事、十五歩斗。横三歩斗。立九歩斗。浅き所は
或は四尋、深き所は十弐三尋斗立とぞ。海上壱歩は七十尋
にて、間にして、五十四間程也。形は波に沈み、底の岩瀬
のみなりといへども、其名は千歳の今にくちずして、諸人
のよく知る所也。新清は神道の達人一流を立程の人成る
に、いかなれば、此集を撰ぶに至りては、高田山、石川、
かもやま等の慥なる所を誤りけんぞや。是成に所ひゝきと
やらんの俗言をはなれ得ず。たとへぽ、伊勢物語に♠の使
を第一とせし類ならんかと云。
7万葉人丸
鴨山の岩根しまける我をかもしらでや妹が待つゝあらん
(角鄣経石見八重葎)
○江川渡り山近辺の絵図委しく認め相添置。是ハ往古の図
也。当時と言、地所ハ引合がたき処も在之。後一条院万寿
三年丙寅五月二十三日の大津浪に玉江の里川向ひ渡津、長
田海辺の風景も大に変ず。其時高津の沖、水嶋鴨山益田の
岡の今寺垣と申村どもハ五宝寺と俗に申ほうの字付たる五
ケ所の大寺迄潰れ弐間半四方のみかげの石十三の塔迄崩れ
し程の大変なれバ此玉江の渡りの左右江津、渡津などの事
も思ひ廻したまへ。また川より土砂を突出し、海辺多分陸
地と成り。地理の姿もかわり、返す〳〵も古跡のむなしく
ならん事を思ひ絵図面にしるしぬ。
鴨山 景物〔岩根小松・掛り船・塩焼煙・鮑貝・千鳥・磯
打浪・かもめ・日晩山読合・打歌山読合〕
新清広貞評 浜田にてハ城山とも、風土記之説によれバ、
美濃郡益田の町の頭七尾の城山といふ。
津和野御評 高津の沖に有。人皇六拾一代後一条院万寿三
年丙寅大津浪によって崩れ、今ハなし。
小篠大記評 浜田にてハ城山といふ。高津ニ而ハ鴨山とい
ふ。
石田春律愚評右鴨山御評品々有といへども、愚老ハ柴山
卿菅公津和野御評に同意せん。其中に菅原朝臣為璞卿御評
并ニ柴山大納言卿御評賢者学士の歌聖の仰宣成かな。恐れ
ても可恐御評なり。誠に中津村之辺より磯方ひきぐして西
の沖へ今の鴨嶋の辺へ続く嶋なり。大略高サ嶋山と思ハれ
たり。地方より、つゞかずしてハ鴨嶋と可云哉。嶋と山と
の儀ハ国号考其外神代書に?前たり。申スも中々愚かな
り。此山地方へ縁続故に数々の書にも皆鴨山としるせる
也。されども又、大方ハ縁をはなれ、少し地方へ続く所有
故に山嶋と歌聖の宣ふや、御賢慮ふかき御事、愚老不及な
がら、伏して奉感公所なり。去共此嶋并ニ水嶋ともに、人
皇六十八代後一条院御宇万寿三丙寅年五月二十三日の大高
浪に崩れ、御社を始人丸寺民家ともに、皆退転いたし漸々
御神体斗り、此嶋の二タ俣の松にのらせ給ひて、今松崎と
いふ所へよらせたまひ、故に此処を松崎といふ。人丸公卒
去神亀元甲子より、万寿三丙寅の年まで、三百三年におよ
ぶ。夫より延宝八庚申迄、又六百五十四年ニ成ル。右松崎
に天和元年辛酉ノ年より鍋嶋山近辺、今の高角山へ宇多天
皇の末葉、当国津和野三本松の御城主亀井因幡守源滋満
公、又の高浪を恐れ給ひて、只今の高角の山へ奉迁給ひて
より、天和元より文化十年迄、百三十五歳におよぶ。神亀
元子より文化十二乙亥迄、千九拾一年ニ成ル。
28
万葉二巻四十二丁柿本人丸
鴨山の岩根の小松我をかもしらでや妹が待つあらん
29
同同
鴨山の岩根の小松我をかもしらでや千代の身とぞ栄ん
30
同二巻二十三丁人丸妻依羅娘子
あまざかるひなの荒野に君を置ておもひつゝあれハいけ
りとも無
(石見海底能伊久里)
○鴨山 那賀郡浜田
方角集云、一説に那賀郡はまだの城山也といへど風土記に
よれぽ美濃郡益田の城山也と。
名所記にもしるし、事跡考弁云、鴨山は高角の沖にありて
今鴨島といふ。昔は大成島にて柿本神社木像等ありけるが
人王六十八代後一条天皇の御宇万寿三年丙寅五月大津浪起
りて、此辺のうら山夥く崩れ、鴨島、鍋島等も悉く崩れ
て、木像も失させたまひけるが、其後浮木にのりて高角浦
に上り給ひしより、再急造りして鎮座ましませぽ高津山即
鴨山也。今高津山に高角山西鍋島八幡宮と崇め斎るは昔の
鍋島の跡をうつせる也。鍋島の跡は今鳴神瀬といふ。鴨島
の東のかたにあたりて鴨島の地を離るゝ事十五歩許、横三
十歩、竪二十歩。〔海上ノ一歩ハ七十尋也。間ニシテ二十
五間ニ中ル〕むかしの鍋島、鴨島は波瀾にしづみて底の岩
瀬と成ぬれど、其名は千歳の今に朽ずして諸人の知処也と。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 39
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 島根
市区町村 浜田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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