[未校訂]第一章 史蹟と伝説
2 貞観の震災
さてこの伝えられる震災は、それではいつ頃あったもの
であろうか。伝説では貞観の大地震ではないかといわれて
いるが、千余年前の昔にさかのぼるので立証もできないが
惨害の甚しかった点から見てこのときではないかともおも
われる。
全国に国分寺が建てられて仏教の隆盛をおもわせるころ
中頸城郡五十公野村には法華滅罪寺という尼寺も建てら
れ、板倉村寺野の猿供養寺に乙宝寺が建てられた。この乙
宝寺は後に山寺三千坊といわれて繁栄したと伝えている
が、清和帝の貞観五年(八六三)大地震があって、越後の
みならず、越中までも地貌に変化を生じ、人畜に夥しい死
傷を出したという。当地方は震源地であったらしく惨害は
最も甚しかったというのである。
時の変遷はこの時の被害で、前記の寺は天暦年間(九四
七―九五九)三島郡へ移転したといわれ、赤野俣の生き残
りの人々は、草根を食して露命をつなぎ、以後社寺の再建
も見られず、荒廃したと伝えられている。
伝説はこのように伝えているが実証の史料もなく推定に
まかせる外はないが、地中の塚の発掘で昔のいい伝えの一
端の知れたことは興味深いことで、今ではこの発掘物は貴
重な史料になっている。
(貞観の地震に関する史料は宇都宮大学教授、有恒高校名
誉校長文学博士清水泰次氏の著による。)
第八章 災害
2 貞観の地震
貞観五年(八六三)六月十七日の大地震は当地方が震源
地であったらしく、被害甚大を極め陵谷形を異にし、各所
に山崩れを生じ、山海を顚塞し、人馬の死傷おびただし
く、この時の被害は越後、越中両国に及んだ。
国分寺と並び山寺三千坊といわれた乙宝寺の壊滅もこの
ときであり、当町には赤野俣の地に今も当年の語り草をつ
たえて、この時の死者を弔うために建てられたといういい
伝えをもつ古い石塔が残されているが一千余年前の大震災
になるので実況を知る書き物の残されていないことを遺憾
とする。