[未校訂]五 地震と津波
今を去ること壱千八十年前貞観五年六月十七日越後の国
を中心に開国以来未曾有な大地震が有りました。古事記に
曰ク、戊申越中越後大震災陸谷易処水泉湧出壊民盧舎圧死
者衆と天下の大事として朝廷の記録に残さるる程でありま
すから其の被害の甚大であつたと云ふことは申すまでもな
いことであります。要するに沖積層より成れる我が郷土は
一度地震起らば危険至極なのであります。前出紫雲寺潟由
未記に凡そ壱千五百年余り其の昔加治郷芝田郷領内一面共
に大海にて云々、其の後五百年程経て如何なる♠化致し候
や陸地となり田畑邑里多く出来云々、との文句がありま
す。壱千五百年前は海抜十五メートルが汀線であったので
あります。夫れが五百年後の貞観の大震災に際して海が変
じて陛となるの天変が起ったと云ふのであります。之れは
東部に於ける変化の一例に過ぎないが以って他の一般を想
像し得るであろうと思います。夫れより二百四十年を過ぎ
た寛治六年九月越後を襲ふた大津波がありました。此の時
の被害程度に就ては前出紫雲潟由来記の外に何等の文献が
見えないのであります。即ち紫雲潟由来記に風吹き立ち震
動雷雨車軸の如く流すこと六七日五百年来の田畑皆埋没是
れ如何なる悪魔の障りかと書かれています。兎に角此の大
津波は大暴風雨にして洪水を伴うた大海嘯であったと云ふ
ことが想像さるるのであります。
次に伝説の一二を申上げますれば其の大海嘯が出湯山又
は二王寺の山麓にまで折け(ママ)附けたと云ふことであります。
如何に滅世的な大津波であったか筆紙に書き尽せないので
あります。越後全土に於て海抜五十メートル位の処より皆
此の被害を受けたのであります。生ある者人間は勿論地上
に活動する動物は言ふまでもなく植物として大木までが全
部死滅したのであります。近年に至り葛塚町嘉山村から地
下五六尺の処より欅の大木が堀り出された。又紫雲寺郷に
も此の様な大木が堀り出されています。是れは皆貞観の大
地震に地殻の変化から来たものであるか若しくは寛治六年
の大海嘯の齎らした結果で有るのであります。吾が郷土に
は壱千年以前に住める人の古墳神社仏堂寺院其の他の文化
財も沢山あったのでありましたが悔むべし此の二度の大天
災の為め地殻が大変化した為めに全部が無くなったのであ
ります。次に日本国誌に次の記事が見えました。寛治六年
九月諸国に海波打ち上げ人多く死す上皇吉野に幸す。以上
の記事より考察しますと寛治六年の大津波は越後だけの津
波ではなかった様です。勿論中心は越後では有るが全国的
に大暴風雨有り京都迄も危険となったので上皇が吉野へ避
難せられたのであろうと思われます。然し越後の津波は勿
論ですが大海嘯も有った様です。由来記に震動と云ふ記事
があります。暴風雨丈けでは地は震動しまいと思います。
故に越後には海嘯と山津波が同時に来たものと思ふのであ
ります。