[未校訂]我紫雲寺新田由来記を読みても貞観年中の変動は推考出来
るのである次に一句を示そう
凡千五百年余りの其昔今の加治郷新発田領内一円共に大海
にて所々の郷村に種々の跡のこり居れりこれある場所には
先づ田貝村の岩には今蛤の附居る事諸人の知る処也虎丸と
云ふ大船破損いたし候は則其名を虎丸村と号すとかや其船
の梶の流れ寄し所を加治といふ船の道具巻揚げたる所を小
松村と申也破損の船ふさがり候所を船中山といふ船の帆柱
今に田の中に有其船頭を船山嘉右ヱ門と申也今横岡村の庄
屋なり貝塚村の浜を浜崎と云又守護職の金山修理大夫と申
し殿様の御座船の着候処を殿湊といふ商ひ船着岸の津を舟
戸村といふ又塩船破損の所を塩谷村と申也今に此河より塩
出候岩に船あたり破損せし所を岩船と名つくとかや
其後五百年程経て如何なる転変いたし候や陸地となり田畑
邑里多く出来阿賀川、加治川、姫田川、今泉川、赤川、胎
内川、荒川此七筋の落合所を七湊と云ふ(享保十八年記紫
雲寺潟新田由来記参照)又船長船山嘉右衛門と名のり代々
横岡村に住し白山権現を鎮守し奉る五百年程経て一片の津
波にて陸地と成り田畑村里出来紫雲寺と云ふ真言宗又其末
寺に高山寺といふ寺あり云云(同上)
之を見れば貞観の大地震と後年の寛治の大津波とを混同し
て居るのであるが其意味は充分了解することが出来る即ち
享保十八年代より凡千五百年前は大海であつたが其後五百
年程経過して俄然陸地となつたと云ふのである之れ貞観の
大地震にあらずして何ぞやである然れども陸地となつたと
は汀線に移動を来し内海の沿岸陸地となりし部分多きのみ
ならず加治川河口川尻附近より真野附近に至る海底も水面
上に現はれ陸地の多くなりしを意味せるものである紫雲寺
潟沿岸も陸地に変ぜし部分多く吾郷土は田螺山白山線を沿
岸とし聖籠村の真野山大谷地山に連続して居る此く陸地の
増加に従ひ各地に村里も田畑も生じたのである
併しながら紫雲寺潟全部が干揚り陸地となりしものではな
い康平寛治の古代地図によりても明かなことである