[未校訂]嘉祥の地震(羽山羽懸記)
三代実録曰 去地震動而形勢変改既成雲泥加之海水激移迫
府六里所大川崩壊去湟一町余両端受害無塞湮没之期在且暮
云々
今の二個府の地是也 嘉祥以前は今の飛島と云ふ所まで
地続きにして琴柱の十三浦落伏の鳥井崎法体の滝か浦五百
所の在々里々十里四方皆悉く大海となる 是故落伏吹浦よ
り北の方出戸浜の所迄涌離の象潟となる此間十里余の海道
也故に延喜式駅馬の条にも 由理蚶方十疋とは十里を云ふ
此羽懸と名つく事は羽山有るを以て名つく 東の方雄勝の
山又懲父山共云ふ羽に東西の首尾あり
西の方囲炉の山又水母山共云ふ
東に□西に下院内
往古羽懸廃して和銅六癸戌年置羽刕
出羽郡府名ありて形なし 此郡は羽山とて二つの山有其間
十里許り 嘉祥三年五月二日の地震西の府西の方海上に出
たる鼻懸の地十里余の所悉く大海となる残る所僅かに二ケ
府五十三村也 御高五千石余三十二盛に直して一万石とす
東の方雄勝の里は乃位村より神宮寺迄の所も一万石余の所
なりしが小野寺殿の知行也しを今は雄勝郡に属す 由理の
蚶方と云へば落伏村吹浦より北出戸の琴が浦迄十里之海峯
駅馬の宿也滋が羽懸の形身に残せる地味と思ふべき也 何
時の頃よりや汐越の里をのみ蚶方と称へ来れるや其沖をば
十里の所奥の海と云ふ云々
又曰 鳥海山の北側に長さ十里幅二十里余の大沼あり其沼
の内に八つ島あり此所は昔神代よりウチモチの村の神跡也
嘉祥の地震に地涌き出で又山沢崩れ陸地となる其名□□□
八島の里と云ふ後改めて矢島と云ふ元来由理は万葉仮名に
涌離と書きしをいつの世にか由理と改め又涌離の象潟とは
海岸の名なりしを汐越の里の入江をのみ指して蚶方と云へ
りや云々