[未校訂]卷の上
安政二年乙卯十月亥二日壬辰十月亢宿。
一、早旦下總國成田の山にて見し人の噂に、日輪紫色、しか
も濃くして宛もゑんじもて色どりたる樣に見え、人々怪し
く思ひしに、同夜此大地震あり。雪提子話、成田近は江戸よりは地震少よわし、石燈籠
の類は覆りたるよし、是は雪旦子門人旦齋の話なるよし。
一、地震の少し前に洋の方に四斗樽といふものの大さなる物
ありて左右へ分る。一つは房總の方へ趣き、一つは江戸の
方へ趣くと見えしが、間もなく大地震あり。品川沖の御臺場にて怪しき大砲
を放ちけるよしなり。
一、地震の前宮戸川御厩河岸の船頭舟にありしが、巽の方よ
り大風吹起るが如き音聞えて、やがて兩岸の家震動しける。
此時同し方より一團の大さ九尺餘りと云烏雲虛空を渡りしが、福山
侯御下屋敷の表門に當ると見えしが、そのうちに其門倒た
り。其雲船頭の頭上を過り駒形より淺草のあたりと思しき
方へ飛去たりとぞ。此船頭家に歸りしにはや家潰れ二人の子を失ひたるよし。
一、又柳島の鰻かきも天神橋の畔にて此烏雲の鳴渡りしを看
たり。懼しと覺えて小舟の中へうつふしに成し時、其舟覆
りしにより、およぎて陸へ上りし時、はや家は潰たりとぞ。
一、此日は旦より細雨あり程なく止、終日曇れる。夜は村雲
ありて、亥子の方より風吹て微風なり。故に數箇所より火
出たれど、飛火は散し、曉方に至り少しく風出たり。大川
は甚靜にて汐は常よりも早かりし由也。同年六月より七月に至り、炎旱旬を涉り
♠庶雨を思ふ事頻なりしが八月にいたりては屢雨あり氣候別にかはりし事を覺えず。
一、二日夜亥の一點、或二點大地俄に震出し、家は犇々と鳴
響き、逆浪に船のたゞよふ如く、即時に家屋を覆し、間もな
く頽たる家々より火起りて、同時に燒上りたり。其内最初
に燃え立たるは吉原町なるべしと思へり。吉原町の末に記す。此夜
武家町共自己の家にかゝづらひて、火消の人夫馳集る事な
く、水を注火を滅すべきもの更にこれなし。
一、御城内石垣多門等所々崩、御番所傾、大手御門、西御丸、
二重御櫓損、桔梗御門等大破、兩御丸御殿は却て無別條、
外廻石垣見付壁等も皆崩たり。下勘定所潰、竹橋御多門崩、
辰の口御疊藏潰、見附の内半藏御門、四谷御門石垣殊に崩
多し。十月四日夜大手内腰掛先の潰し所より出火直に消る。
一、御曲輪の内甍を並べし諸侯の藩邸一搖に崩れ傾き、直に
所々より火起りて、巨材瓦屋の燒頽るゝ音天地を響し、再
震動の聲を聞く。曉方に至りて灰燈となれる家、數宇左に
略を擧ぐ。
酒井雅樂頭殿上中屋敷ともに燒、上やしき表門殘る、森川出羽守殿、松平内藏頭
殿、林大學頭殿、右大厦潰れ出火ありて燒亡、阿部伊勢守殿
潰多し。八代洲河岸定火消屋敷潰、櫓は屋根計り落下は其儘殘る、西御丸下
は松平肥後守殿幷添屋敷燒亡、松平右京亮殿、永井遠江守
殿燒亡、松平土佐守殿中屋敷燒亡、日比谷御門御番所燒亡、
土井大炊頭殿潰れ、本多中務大輔殿燒亡、增山河内守殿潰れ、
遠藤但馬守殿、松平時之介殿、伊東修理太夫殿、薩州裝束屋
敷、鍋島肥後守殿、毛利殿、南部美濃守殿、有馬備後守殿、
北條美濃守殿等各燒亡、亀井隱岐守殿長屋少少燒込、朽木近江守殿、
松平丹後守殿殘る。大名小路或は燒、或は潰れ、都て全き所
なし。大方燒出たるは類火にあらず、潰れたる家々より燃走りたる由なり。
一、神田橋の内より常盤橋、呉服橋、鍜冶橋内等の筋は格別
の損所見えず。
一、小川町一圓に潰家多し、左に燒亡の家々のみを誌す。但
出火は外より見渡したるさへ三所なれば幾所より燃たるか
知れず。大厦高樓片時に烏有となりぬ。
小川町燒亡の家々は
本鄕丹後守殿添屋敷小普請小笠原彌八郎組北村季元、御醫師峯岸禧
菴殿、御番醫師塙宗悦殿、御書院番酒井肥前守組大岡鉞二郎殿、内藤
駿河守殿火出る表殘る御書院番酒井肥前守組三宅勝太郎殿、小普請、間下助
次郎殿、奧御醫師佐藤道安殿、御小姓組秋山主殿頭組河内勇三郎殿、
奧御小姓新見内匠頭殿、兩番の内池田甲斐守組曾我久左衞門殿、御側
衆右河美濃守殿少燒、御使番大久保八郎右衞門殿、寄合佐藤金
之丞殿、同 中井出雲守殿、高家中條兵庫殿、松平駿河守殿
少々計りの燒邊なり、御書院番大岡〓後守組本馬平兵衞殿、御書院番頭津田美濃
守殿半燒中奧御番一色次郎殿、長谷川民之助殿、田安御用人
高井八十之丞殿火出る、御使番新庄壽三郎殿、小普請組、大久保筑前守組
山本幸之丞殿、御書院番花房志摩守組鷲集定五郎殿、本多豐後守殿半燒、
高家戸田日向守殿、戸田大炊頭殿表長屋殘る、榊原式部太輔殿半燒、
寺社御奉行松平豐前守殿、定火消屋敷米津小太夫殿火出る、御側衆
岡部因幡守殿、兩番の内戸川播摩守組荒井仙之助殿、小普請世話取扱奧田圭馬組高島
紀二郎殿、御留守居支配御廣敷番頭餘語金八郎殿、新御番松平信濃守組町田孫四
郎殿、御使番本田丹下殿、小普請組小笠原順三郎組近藤小六殿、御小姓組、久
永岩見守組荒井常次郎殿、御小姓組德永伊豫守組神織部殿、小普請組大島丹波守組柘
植三四郎殿、御小姓組酒井備中守組伏屋七之助殿、中奧御番溝口八十
五郞殿、堀田備中守殿、高家土岐出羽守殿、小普請組大鳥丹波守組本内久之永殿、御賄頭山本新十郞殿、寄合大森雄三郞殿、渡邊
卯兵衞殿、其餘燒ずして潰たる家多く、燒亡の家と合すれ
ば、小川町のみにて凡貳百宇に餘るべし。凡小石川御門内より原の御厩手前、蜷川家後
の方迄なり、魚枚橋手前の方は火なし、岩城侯の邊も殘れり大久保筑前守殿屋舗殊に惣潰也
小川町邊即死怪我人何百人ありや知るべからず、小川町火消屋敷の火の見櫓は火中にして殘る、駿河臺火消屋敷の火の見も別條なし、
長屋等は損したり、此夜は常の火事にかはりて見物人其外無用の往來人はなけれど、所々出火して逃道を失ひ、或は大路に橫はれる潰
家に爪突き怪我過ち等なす人數へがたし、此邊の輩は漸に僅の財を脊負或は主君にかしづき、妻子を誘引し、護持院の跡明地へ逃退た
り、老たるは稱名題し、或は泣さけぶもありて、其夜の苦しみ筆紙に盡し難し。
丸の内其外所々武家方
假の小屋を營、幕を引めぐらし野宿する輩多し。
一、南北兩町御奉行無別條、北御奉行所は長屋のみ潰れる町年寄三軒無事
也。
一、町會所無事也、籾藏は何れも痛強し。小菅村籾藏尤大破のよし也。
一、水道橋土手、三崎稻荷神社拜殿無難、本社土藏壁落、金
毘羅權現社潰る。
一、小石川隆慶橋手前、江戸川續清水樣御用人野中鐵太郞殿
より出火して、家數五軒にて凡四十間計り燒亡、牛込御門
外其外大地割たる所あり。
一、江戸川往還之路河岸行に隨ひ中程割る。又石切橋へ寄り
し方は、河岸付の方半分程、段違ひに成りて貳尺程下る。
一、そなれ番所後の方石河家の北武家地一丁計、又牛天神下武家
地等潰る。一、水府樣御藩大破、長屋三十餘棟、御殿御玄
關は瓦落たる迄て潰れず。一、傳通院無別條、裏門潰 山内學寮長屋
二ヶ所 寺中門二ヶ所潰る。
一、牛天神社無恙。一、牛込南藏院前大路二筋の割れ出る。
同寺銅鳥居倒る。
一、大塚護持院、護國寺大破なし。雜司ケ谷鬼子母神堂、高
田八幡宮無別條。此邊大破尠しとぞ。一、巢鴨大井大隅守
殿下屋敷より出火少々燒る。
一、俗に川勝前と唱ふる武家地大方潰る。一、富坂下小笠原
信濃守殿、松平丹後守殿二家共惣潰なり。一、小石川柳町
戸崎町邊潰家多し。一、改代町邊潰家多し。一、駒込邊却
て地震弱し。されど駒込染井の植木屋は、石燈籠植木鉢を
損ふ事夥しとぞ。一、駒込片町養昌寺其餘二ケ寺程潰。
一、根津權現の後より千駄木へ通る崖道の内、團子坂へ近き
所道幅七分通り谷へ崩墮、往來纔に四五尺許り成る。同所
花園紫泉亭宇平次の庭中、涯の茶亭は谷へ頽れ落、三階の
家は却て崩る事なし。
一、同所坂下町惣潰。怪我人多し、即死五人計と云。一、光源寺大觀音堂
元より大破に及びたれど倒れず。一、同寺の向側に太田攝
津守殿下屋舗内に、山の中にあり在りし九尺に壹尺の焰硝藏二戸
いかにしてか破壞に及び、梁桁礎石中に收し合藥厥外飛散
て一物もなし。是は石と石すれあひて火を生じ燒けたるかと云。
一、根津權現社無別條。惣門町中に在るもの、瓦のみ落て恙なし、境内辨財天の社のみ潰たり。
一、三崎法住寺俗新幡隨意院と云本堂無事。玄關庫裡等潰る。門番
所潰れて五人即死す。
一、同所大圓寺元瘡寺稻荷社拜殿のみ潰る。一、同所大聖院
聖天宮拜殿のみ潰れ。一、吉祥院小破。
一、谷中の町屋古けれど大方小破なり。
一、谷中天王寺毘沙門堂無事、五層塔九輪計り折れて落る。
一、根津より下谷茅町の通殊に震動甚しく、人家潰れたる事
軒每に洩るゝ者尠し。厥上七軒町より出火して松平備後守
殿下屋舗、松平出雲守殿下屋敷等類燒す。亦些し阻りて茅
町二丁目境稻荷の邊より、此いなりの社は危くして殘れり。同町壹丁目ま
で燒亡す。心行寺、永昌寺、淨圓寺、宗源寺、光王寺等各
潰る、右寺院門前町屋各潰れたり。茅町富士淺間社潰る、
稱仰院殘り、教證寺際にて鎭火す。柳原侯中屋敷長屋燒込。
此邊死亡のもの多くしてはかるべからず、根津門前に駒込片町酒店 高崎屋長右衞門が別莊ありしが、潰れて其妻死す、その外同
人所持の地面長屋或は諸所出店等皆つぶれたり。
一、下谷坂下は家每に潰たり。同三丁目より出火して二丁目
殘らず壹丁目三分の一燒る。迄燒亡。坂本村へ燒込。左右寺院大方殘る、了源寺
其外潰たるもあり、松下亭とよ
べる近頃出來し蕎麥屋は殘る。
小野照崎社は拜殿潰れる。御
數寄屋町潰家甚多し。山崎町同斷。一、下谷仲町の邊もと
もに強し。近頃燒けて新しき家なども大破多し。錦袋園舗土藏新た
に建、土塗前無事なり。
一、上野町壹丁目裏、森川久右衞門殿組御徒士組やしきより
出火、跡へ同二丁目廣小路常樂院六あみだ五番目なり、本堂僧房やける。並同
寺門前町屋北大門町、上野御家來屋舗、新黑門町、元黑門
町、下谷同朋町、南大門町等廣小路東側一圓に燒、長者町
續車坂町代地、下谷町貳丁目、代地長者町貳丁目、同一丁
目。一丁目は少し殘る、仲御徒士町御先手美濃部八藏殿よりも火出る、此邊明方消る。〓田佐久間町 同所隣町店人數並藤堂
佐竹竹駒三家の人數にて鎭す。
一、井上筑後守殿長屋、德大寺一乘院、其外長者町續家地中、
御徒士町西側燒る、東側少々燒、呉服店松坂屋伊藤は土藏
殘らず燒失ふ。其跡空地と成、夫より板圍して、當分御救米焚出し所に成る。三枚橋向池
の端料理茶屋松坂屋源七奧の方損じ、同蓬萊屋大に傾損す。
無極庵蕎麥屋表二階家惣潰れ。無極庵よりは少しく火出でたれど即時に消したり。料理
屋河内屋潰れる。山下料理屋濱田屋潰る。近頃流行五條天神手前の雁鍋と
いへる貸食店幸にして無事なり、地震の後食店多く休みたればこの家彌繁昌せり。
一、東叡山諸堂無別條、宿坊少々の損所あり。大佛は御首落
る。〓髮の所損す、堂前の石燈籠石地藏皆倒れ損す。一、不忍辨財天社別條なし。石
橋崩燈籠碑碣等倒る。銅鳥居無事。聖天宮潰。新造の一切
經堂傾く。境内田樂茶屋惣潰。潰家とともに地中へ落人たる者返て怪我なし。一、
下谷車坂町潰家多し。一、下谷稻荷無別條、門倒れ石鳥居
笠石落る。
一、寺町百觀音拜殿計潰る。一、[與胸|ゴフムネ]仙太夫構内大破之由。
一、上野御成道殊に潰多く、小笠原伊豫守殿中屋舗大破、黑
田豐前守殿半方燒亡酒井安藝守殿、堀丹後守惣潰、石川主殿
頭殿惣潰燒亡、大關信濃守殿、松平伊賀守殿中屋敷大破、
建部内匠頭殿長屋潰、板倉攝津守殿、内藤豐後守殿潰多し。
其外天神下通小役人寒士の弊屋潰たるが多し。各露眠の困
苦おもひやるべし。
一、御成道東裏手永富町、松下町代地、山本町代地等の家々
夥しく潰れたり。
一、本鄕新町屋の邊潰多し。糀室所々崩れ落死人あり。又一老夫
穴へ落入て怪我なし。
一、本鄕石町日本橋向の邊より大傳馬町、橫山町、小傳馬町、
馬喰町の邊、去冬と當春の災に罹り家作あらたなる故させ
る痛なし。土藏の壁は皆震ひ落たり。この内富澤町の邊は
少しく強しと聞ぬ。
一、一石橋臺小損往來止む。
一、小網町、伊勢町、本船町、小舟町、堀江町、茅場町、新
川新堀等の如き河岸、地に土庫を以て垣となせるも、悉く
壁墮て下地の竹をあらはせり。一、箱崎橋損る。
一、内神田町々、西の方は去冬火災の後、普請せし故潰家少
し。土藏壁落たるは外にかはらず、平永町の邊は潰家多し。
所により強きと弱きと格別の違ひあり、おのれが家はさせる痛な
し これは板葺にて瓦を上ざる故 且普請の新らしきと地震のよ
はきなり、搖止て後も行
燈の火も消へずしてあり。
一、外神田の町々も大抵無事なり。一、町の火の見櫓、土中
を掘て立たるもの何れも恙なし。
一、神田社は本社、拜殿、樓門、天王三社其外大方別條なし。
石鳥居表と裏門に在る物、二つともゆがみし迄にて損なし、末社末廣稻荷の本社、土藏潰、猿田彦明神並拜殿、塩土大神の社潰れたり。
一、本鄕の邊大破なし。
一、湯島天滿宮御社の柱と前の屋根崩落、本社全し。石鳥居
笠石落る。笹塚稻荷社潰、崖の水茶屋講釋場等覆る。石垣
損す。坂の下、聖天宮辨財天社無別條。料理屋松金屋古き家作なれど無事なり。
一、聖堂無別條、學問所大破。逼留の輩止宿なりがたく、皆の家々へ退く。
一、吉原町は地震一度に大廈潰れ、壓に打れて死する者算ふ
べからず。間もなく京町貳丁目、江戸町壹丁目より出火し、
其餘潰れし家々より次第に火出で、一廓殘らず燒亡しけれ
ば、燒死するもの又枚擧に遑あらずとぞ。大門外五十軒道
は北側計り燒殘りたり。日本堤少し割れる。吉原町は弘化二年巳の多や
けて翌午年普請成就し、今年迄十年に成る。一、五日の調に死人六百三十人とあ
りしは彼地の人別によりて大略しるのみ。客の人數其外諸
方より入込しを加へなば、千人にして猶足らずといへり。
海老屋、玉屋、大黑屋は潰れず故に怪我人少し、其外潰れずして燒たる家々は怪我人なし。一、廓中、土
藏燒失百八十八戸、殘れるもの僅に四戸。一、非人頭善七
構内燒失す、怪我人多し。
日はくれて野にはふすとも宿かるな吉原町の潰れ家のう
ち
一、同時淺草寺地中より出火、又田町壹丁目より出火、又二
丁目よりも火出で、聖天町少々同橫町、山之宿町山之宿は西之裏手
少燒る。齋藤門前、常音門前、金龍山下瓦町、天王寺門前、山
川町、猿若町三丁目、二丁目、一丁目、三座芝居茶屋幷歌舞伎役者等の宅燒る、
但し壹丁目入口の所は殘る、森田勘彌、尾上梅幸、坂東彦五郞、同竹三郞、市村羽左衞門 中村福介故人秀隹の伜坂東吉彌、片
岡我童等が家々、又茶屋二三軒 其外商家共幸にして殘る。南北馬道町、花川戸町兩側ばかり燒る、
等類燒に及べり。田町は兩側の潰家且出火にて死亡人こと
に多し。これも一つの出火にはあらず。所々より燃出たる
よしなり。田町は往來にも死亡多し。一、花川戸町河岸の角六地藏尊の
石燈籠稀有の古物也。少しも傾く事なく全し。
一、眞土山聖天宮無別條。
地震の時いつしか扉開けたり、此扉十八重也しが悉く明きたり、常より
秘佛にして更に明る事なし、堂守迄始て拜みたる由なり、木鳥居笠木落、石鳥居は表門方坂中途に在るもの全く、裏門の方石坂の
中途に在るは倒たり。末社手水屋潰れ、戸田茂睡が詠歌の碑倒しまでにて缺けず、手水屋潰れたり。別當本龍院
は座敷向殘り、庫裡の方幷練塀等崩れたり。西方寺大破。
一、今戸畔料理屋玉屋庄吉金波樓が家一圓潰れ、同家より
出火して此邊後へ二十間計り燒る。同後料理茶屋大黑屋
大七と云類燒せり。同所向角慶養寺本堂破損、潮江院全し。本
龍寺本堂潰れ庫裡損す。此邊寺院等損す。同所八幡宮本
社。○原本ノマヽ
一、橋場町金座下吹所鑄錢座と云。より出火、構内死亡人四人怪我人多し。十五間
許燒る。銀座下吹所潰家多し。料理屋川口は殘る。此邊潰家多し。
一、眞崎稻荷社は全く、石鳥居二笠石落損、神明宮、鹿島
香取社、末社不殘無恙。前の大鳥居二つも全し。一、新鳥越邊潰多し。
一、山谷寺町は淨生院本堂、毘沙門堂、安盛寺本堂、妙見堂、
瑞泉寺、常福寺、圓常寺、源壽院、理昌院、易行院、其餘
潰多し。念佛院本堂殘る。本性寺本堂幷自運靈神全し。玉
蓮院、正法院本堂全し。山谷東禪寺潰、六地藏の一體全
し。正法院、毘沙門堂潰る。新鳥越料理茶屋八百屋善四郞
破損。一、橋場妙高寺本堂全し。長昌寺本堂庫裡潰る。
一、石濱總泉寺、法源寺全し。一、淺茅原渡邊九郞兵衞享保中立。石
地藏尊崩る。
一、山谷淺草町惣潰、一軒も殘らず死亡人多し。此邊夜々大人小兒集り
て潰家の間に席を設け、百萬遍の念佛を唱ふ、あはれ成事也。
一、淺草寺本堂無恙。西之屋根少し痛む。本尊花屋鋪へ御立退あり。
仁王門、風雷神門共に無事也。本坊、玄關表屋鋪等殘る。
奧向潰る。別當代幷小姓潰死といふ。境内潰たる堂社は、太神宮拜殿、
金毘羅權現社、松の尾宮、おたふく辨天堂、出世不動堂、
西宮稻荷社、以下南谷西側淮泥觀音堂、秋葉權現社、丹見宮、出
世大黑天社、老女辨天堂、以上南谷東側。熊谷稻荷社拜殿、銅鳥居は
二つともに全し。熊野權現、韋駄天社、錢塚地藏堂、荒澤堂、御供
所、手水屋等なり。濡佛内一軀あをのけに成の寺内町屋も破損多し。
一、五層塔婆九輪のみ西の方へ曲る。夫より下は別條なし。
一の權現、顯松院妙音院の邊少し燒殘る。奧山揚弓場、活人形の見せものの小
屋、花屋敷の座敷等皆類燒 人の假居と成。寺中類燒の分左の如し。各門前町裏長
屋等悉燒たり。
西側
田町側
吉祥院、
愛染堂
德應院、
庚申堂
延命院、
文筥地藏堂
誠心院、
大師堂
無動院、
不動堂
教善院、
猿デラ
東側
北向西側
遍照院、
馬頭觀世音
善龍院、
辨才天宮
泉凌院、
百觀音
泉藏院、
御靈宮
修善院、
富士別當
妙德院、
宣藥師堂
中谷醫王院、
藥師堂
金剛院、
廿三夜
覺善院、
靈府宮
法善院、
曼茶羅堂
富士社は本社土藏殘り、拜殿幷門前町屋燒る、
同向
自性院、
經讀地藏堂
壽德院、
庚申堂
等なり。勝藏院の邊は殘れ
り。
一、駒形町西側より出火。火元は照降町豐田の出店葉茶屋の由。駒形堂殘り少く
傾く。諏訪町、黑船町、三好町迄燒亡す。何れも兩側並河岸迄燒る、此邊は三
日晝四時に火鎭る。榧寺正覺寺門前迄燒て當寺は殘る。
一、御藏前八幡宮、閻魔堂、婆國尊無別條天王社何れも無別條。
一、淺草御藏大破。
一、東本願寺御堂無別條。巽の隅屋根少し崩れ、後の方少しつゝ損る。表門無事。左
右の裏門倒れたり。寺中損、副地の寺院潰多し。潰寺院八宇也。
一、門跡前菊屋橋西角、行安寺門前駒形川博といへる食店の出見せより出る。よ
り出火。同寺本堂殘り、門前町屋壹丁程燒亡。又同所向側
正行寺本堂幷門前町屋本立寺門前町屋等燒亡。龍光寺門前
玉宗寺よりも出火、隣り本智院、聖天宮類燒。此邊古き家作多し。
潰家多し。一、堀田原加藤遠州侯下屋しき惣潰れ。
一、新堀端永見寺石の門倒れる。一、日輪寺の方丈、門前町
屋潰大破、天嶽院本堂幷寺中潰、稱往院本堂寺中潰、東光
院本堂潰る。
一、田圃慶印寺本堂其外潰、幸龍寺本堂少し傾、方丈潰。萬
隆寺知光院等潰る。一、田圃六鄕筑前守殿御殿向、其外共
惣潰なり。表長屋殘る。西德寺太子堂全し鐘樓潰る。正燈寺、大恩寺住職潰死等潰る。一、中田圃鷲明神社潰る。俗に言、酉のまち石鳥居無事なり。
一、龍泉寺町料理茶屋駐春亭田川屋大破。一箕輪町眞正寺秋
葉權現社潰る。
一、小塚原より出火、娼家殘らず潰燒亡。橋際の諸商人は殘る。箕輪町
迄燒込。
一、千住宿破損多し。三昧の寺院は恙なし。小柄原刑罪場、
石巨像地藏尊全し。一、三圍稻荷社潰、境内末社、額堂手
水屋、其外不殘潰れたり。大手際石大鳥居倒れ微塵に碎る。
長命寺潰、牛御前本社は全く、少し傾く。額堂、其外潰、石鳥
居門前なるは少しゅがみ、中なるは崩る。弘福寺は本堂鐘
樓殘り、其外方丈庫裡共潰る。牛御前の前料理茶屋平岩潰
る。一、小梅常泉寺潰。一、蓮華寺本堂大破。一、請地秋
葉權現社は無事。別當滿願寺潰る。普請尤古し。
一、隅田川堤所々裂る。木母寺本堂庫裏共全し。境内料理茶
屋武藏屋、植木其外共全し。一、本所牛島の邊所々大地割
れ、赤き泥水を吹出したり。
一、本所の北は震動甚しく、家々兩側より道路へ倒れかゝり
て、往來なりがたし。死亡幾百人なるを知らず。號哭の聲
巷に滿て囂しく、野宿の族風雨に犯され、其困苦目も當ら
れぬさまなりとぞ。其内燒失する町々は、
一、綠町壹丁目、貳丁目間を阻て、同四丁目五丁目花町上村
靱負、德右衞門壹丁目、貳丁目、龜戸町半丁小木瓦町料理茶屋
小倉庵より出て同家燒亡近邊も燒たり。南本所、荒井町、五の橋町、南天所出村
町、南本所瓦町、同番場町、中之鄕竹町、同町續武士地、
松平周防守殿下屋舗、成就寺前なり。北本所、茅場町、石原町其
外新町組屋敷武家地も潰、燒失あり。中の鄕如意輪寺太子
堂潰る。延命寺本堂潰る。中の鄕元町八軒町潰家甚多し。
去年冬店開きせし中の鄕在五庵とよべる料理茶屋二階潰
る。瀧の仕掛も潰たり。一、押上春慶寺普賢堂大破、最教寺潰る。
一、柳島法清寺妙見堂小破、額堂潰る、近頃建改たり。門前橋本
といへる料理茶屋、去年新たに建たる二階座鋪潰て十間川
へ落る。一、萩寺龍眼寺本堂僧坊潰る。同年新建の太子堂
拜殿潰る。光藏寺、長壽寺、本堂潰る。
一、龜戸天滿宮無別條。石鳥居二つ損す、末社金山彦明神社、頓宮神信看靈社等潰る。別當所潰る。
一、普門院大破。門番人の家三人死。一、梅屋敷清光庵潰。料理屋
巴屋潰る。畫人豐國家小破。
一、時の鐘屋敷鐘無事。俗に鐘つき堂といふ。一、靈山寺、法恩寺、本
堂無別條。寺中潰、其餘寺院或は潰或は傾く。本佛寺諸堂
僧坊悉く潰れたり。
一、五ツ目五百羅漢堂三匝堂破壞に及び居たれど幸に潰れず
と聞り。
一、御竹藏前武家大潰、其外武家町共潰家多し。
一、回向院此春正月下旬燒て未成らず假建なり。鐘樓潰れ、六字名號の碑各一丈餘也。
皆倒れる。地藏堂潰れ石佛體恙なし。茶屋潰る。
一、尾上町川端料理茶屋中村屋平吉二階潰る。
この夜踊の集合にて人多く
集り即死のもの多し。同所同柏屋喜八二階座鋪潰る。中村柏屋は數人の集合を催す家にて、
風流の家造に柱尺角にて一間每に立たり 然れども普請古し。
一、高野旅宿大德院大破、一、一ツ目橋損ず。往來停る。一ツ目
辨天社拜殿潰。本社土藏壁落。境内金毘羅權現拜殿潰。石鳥居銅
鳥居惣門潰れ、岩屋は崩れず。當時玉川。
一、御船藏前町より出火、此邊町屋一圓潰れてよく燒亡。武
家地類燒多し。即死怪我人多しと聞り。西光寺と初音稻荷
拜殿石鳥居二つの内一つくだけたり。此邊殘り、齒神社南都東大寺勸進所、慈
雲院、中央寺、大日堂遠州秋葉山旅宿を合して壯麗の社立たり。深川八幡宮御
旅所拜殿潰 木の鳥居火中に殘れり。此邊一圓に燒たり。此邊より六間堀
邊の火と一つに成れり。夫より井上圖書殿へ燒込。其隣り
牧野鐵二郞殿。木下圖書之介殿まで燒込、木下氏火の見計
殘る。此邊燒の外潰多し。小役人多く燒る。町人會所建添
地、籾藏大破れ少し燒込。
一、兩國橋は春中より御普請にて未出來上らす、十一日に至
りて落成す。
一、柳橋料理茶屋梅川忠兵衞宅二階共無事なり。其餘この邊當春
燒後の普請故、大破れこれなし。
一、深川の地も本所と等しく、震ふ事甚しく、潰家多く隨つて
出火も多し。深川の内火元十二ケ所程といへども未詳ならず。燒亡の町々は、
一、熊井町、相川町、中島町、蛤町、黑江町、大島町、永代
寺門前仲町、同山本町、伊勢崎町、龜久町、富吉町、三間
町、西町、諸町、元町、常盤町壹丁目貳丁目、六間堀町、
八名川町、森下町、半燒半潰、六間堀續井上河内守殿、太田備
中守殿御下屋敷、其餘組屋敷小役人寒士の宅第、潰家より
出火亦類燒多し。西念寺、正源寺燒亡。一、六間堀神明宮
火中にして本社拜殿とも恙なし。一の鳥居燒る、二の鳥居殘る。
一、永代寺八幡宮無別條。本社修復昨年成就。別當永代寺大凡潰る。
普請古し。尤境内には額堂潰る。京の南岳源巖が筆の韓信市人の跨をくゞるの圖いかに成けん 其餘
はよしと見ゆる額もなかりし。辨財天社、鐘樓、太子堂、宿禰社、手水屋
等潰る。六地藏地藏坊建立。の一軀恙なし。一の鳥居木燒る。門
前石の鳥居柱全く右の方折れる。門内石鳥居笠落る。釋迦ケ嶽
丈くらべの碑は無事なり。金毘羅權現社聖天宮は拜殿計潰る。松本料理屋。
は少破也。東仲町平清料理茶屋。惣潰。普請古し。此邊潰家多し。
一、三十三間堂三分の二潰る。三十三間堂は京間二間を柱の間一間として三十三間なれば、合
せて六十六間椽側を入れて十間なり、此内南の方七間餘にして十五六間計り殘り、其餘潰る。
一、洲崎辨財天社無事、境内茶屋の内潰損したるあり。
一、寺町は玄信寺、海藏寺本堂潰れる。淨心寺は中門潰れ微
塵になる。門前よ在し一丈餘の題目の碑石三段よ碎る。寺
町通り都て寺院町屋とも大破なり。
一、靈岸寺本堂中門無事、惣門倒るゝ、寺中潰多し。六地藏
の一軀全し。本誓寺觀音堂並寺中潰る。法乘院、不動尊拜
殿潰、法禪寺潰、雲光院本堂は先達て燃たり。寺中潰たり。一、彌勒寺
全し。一、深川猿江土井大炊頭殿御下屋敷類燒なし。
一、猿江の邊、寺院町屋其外潰損多し。重願寺本堂無事、鐘
樓潰玄關方丈大に傾く。摩利支天社少破、泉養寺本堂鐘樓
等潰。
一、深川邊地震強き事甚しきが、中にも相川町の通りは搖出
すと等しく、西側の家狹き小路へ倒れ懸り、それが下にな
りて動く事ならざるもの、各聲を上て叫べ共更に助る人な
く、其間に火燃立たれば、適身體自在なるも、迯道を失ひ
てともに燒死したるもの尠からずと聞えし。此内辛くして一命援りしも
あれど家財持運びしもの一人もなしとぞ。
一、靈岸島鹽町潰家より同所四日市町日銀町貳丁目大川端
町等燒亡す。長壹丁餘幅平均五十間程なり。此邊曉方の火事にて地震よ
り少し時刻移りたれば、人々集りて水を運けれど、潰家の上にて足並自在ならざるが故に滅る事を得ずして類火數多に及べりとぞ。
靈岸島八丁堀の邊却て地震弱く潰家尠し。よつて怪我人も
少し。佃島も又同じ。稻荷橋稻荷社無別條。
一、萱場町藥師堂無事、山王御旅所遙拜二社之内一宇大破、
天滿宮潰る。
一、濱町水野出羽守殿中屋敷内燒失長五十二間餘なり。此邊武家
大破潰れ多し。
一、蠣殼町續銀座役所大破、銀座の人家多く潰れ怪我人多し。
家作古き故なり。大坂町續同新屋敷にも潰家あり。怪我人多く松島
町潰家多く怪我人多し。
一、鐵炮洲松平淡路守殿より出火、十軒町少々燒込長一丁半
餘幅平均四十間程なり。
一、南鍜冶町壹丁目より出火、同貳丁目狩野探原屋敷、五郞
兵衞町、疊町、北紺屋町、白魚屋鋪、西の方南傳馬町二丁
目過半燒込。同町三丁目、南大工町、半町燒込、松川町壹丁目、
鈴木町、因幡町、常盤町、具足町、柳町、本材木町六丁目、
少々燒込、同町七丁目、八丁目以上二十箇町なり。長五町幅平
均貳丁餘燒亡す。三日の朝五時頃火鎭れり。この町々土藏の燒たる殊に
多し 何れも壁震落たるが故、扉を掘り庫を塞に及ばず、資貨を他所に運んとて灰燼となせるもの多かりし、されど邂逅に殘りし
藏もこれあり。
一、兼房町の自身番潰たるより出火して隣なる松平兵部殿御
屋敷へ少々燒込、兼房町は大方潰たり。伏見町、久保町、
善右衞門町等却て此邊地震強し。此邊去年十一月の地震にも強く 兼房町には土藏の壁
落たるもありし也 今年も又外より強し、是等の町々の輩眷屬に分れ悌泣悲哀し 或はなきがらを携へて本鄕代地の後なる馬場に
集り 夜すがらなきあかしけるとなん。
一、伏見町料理茶屋清永樓惣潰。亭主即死。
一、尾張町、滝山町、加賀町、山王町の邊穏にして潰家少
し。よつて怪我人なし。
一、愛宕權現假建にて山上恙なし。山下石鳥居表門恙なし。
此邊武家方大破なし。
一、西本願寺御堂無別條、寺中大破あれど潰たるはなし。
鼓樓ゆがみ惚會所九間四方傾く 外廻り練塀皆崩れたり。
一、柴井町木戸際より出火して壹町燒亡す。會津侯中屋敷大
破、有馬侯藩長屋潰る。怪我人多かりしとぞ。
一、宇田川町、三島町、神明町、日蔭町邊大破潰家甚多し。
一、神明宮無別條。末社殊に恙なし、境内町屋無事也。一、西久保より三田の
邊穏なり。瓦落たる家も稀也。
一、增上寺諸堂宇無別條、寺中各別損所なし。御成門邊寮二宇潰る、芙蓉
洲辨財天の廻り石の玉垣崩れ鳥居燈籠倒る。
一、高輪太子堂稻荷社庚申堂潰る。石の門少し崩る。東禪寺
惣門潰れ、薩州侯御物見長屋土藏潰る、南北高輪町屋所々
潰家あり。
一、伊皿子藥師堂潰る。
一、品川宿驛舍聊傾るもありしが潰家なし。怪我人も又なし
とぞ。妙園寺題目石折る。一、品川沖二番の御臺場建物潰
れて土中へ埋込出火あり、會津侯の藩士此所にありて、凡
即死するもの五十人、僅に助りしもの海を涉り辛ふじて逃
のびし由。幸にして合藥には火氣移らずして止ぬ。此内の
火四日燒て臭氣甚しかりしとぞ。
一、永田馬場山王御社無別條、石鳥居一の鳥居也。倒れ石は碎け
ず。
一、赤坂氷川明神社無別條。
一、四ツ谷は御門並御門外御堀端少し強し。其餘大方穏な
り。一、内藤新宿無別條。
一、麹町市ケ谷邊穏なり。一、九段上番町邊穏なり潰家なし。
一、都て湯島、麹町、駒込、牛込、小石川、四谷、赤坂、市
谷、麻布等の邊、高き所は動搖少く、されば潰家も尠し。
凡山の麓川添の町々は別て強しと見ゆ。
一、右に誌るは親戚知己の安否を繹ねて履歷せる所に親しく
看、且人にも問ひて記しつけぬる也。其餘は踵をめぐらす
に遑なければやみつ。
七十一番職人炎歌合壁塗 ふるさとの壁のくづれの月影は
ぬる夜なくてぞみるべかりける
建保三年職人歌合同 しのべとも下地よはなる古壁のたゞ
こほれなるわか泪かな
一、江戸中倉庫の壁落ざるは稀なり。大抵壁落。鬼瓦鉢卷に當れる者も
有。右にふれて即死せる者も夥しく、潰たる家よりは出火
し、其中に挾れて燒死たるもの數ふるに遑あらず。火事あ
る所の土藏は大槪燒亡びたり。武家寺院の土塀全きはな
し。神社の石鳥居石燈籠寺院の石佛寳筐塔墓碑戒標石の類、
或は倒れ或は碎けたり。
一、市店の内本家全ふして庇のみ離れ、大路へ頽落たるが多
し。逃出る時頭上より落來りて怪我をせしものまゝあり。此夜搖卸しを怖れ、貴人は庭
中に席を設けてこゝに夜を明し賜ひ、庶人は家潰又は傾き
て住居ならざる者大路へ疊を敷て野宿する者小路〳〵に滿
つ。夫より引續戸障子疊等にて圍ひ、假そめの小屋をしつ
らへてこゝよ住する者多し。又傾きたる家は丸太を以て押
へとし、往來の道に橫たへ土藏の壁土等を積て自在に通行
なりがたし。是は中分の所のさまなり、本所深川の地は兩側へ大路へ倒れかゝりし家あり、又潰れて道路へ落重
りたるあり、行人はやうやくに屋根の上を步行したり。一、往還に水トンといふ物を售
ふもの多し。溫飩の粉を汁に入たり。一杯價八文或は十二
文位。
一、諸侯の妻室男女共此禍に罹られし儔もあまたありとぞ。
附ては重代の名器刀劍甲冑書畫茶器の類、富豪の珍藏せる
もの、寺院神社の交割等、世に稀なる財寳此時に當りて一
片の烟となりし事嘆息すべし。寺院の本尊は大方恙なしと聞り。
一、火災に遇たる所の質屋は悉く倉庫を失ひ、活業に離れた
る輩數多ありとぞ。
一、二日夜より地震屢〻ありて止事なし。其夜より翌朝へかけ三十餘度迄はかぞへ
しが、其後は覺へず。七日暮時過と十二日夕八時頃搖しは其内少し強
し。翌辰正月に至りても折々少しの地震あり。一、此節鶏
宵啼多し、又烏も啼く事繁し。
一、町會所より握飯、三日より十九日迄日々町々へ運送、野
宿等の賤民へ被下、又御救小屋を五ケ所在。建て貧乏の輩を賑
給あり。掛り名主五十三人なり、十月五日より追々小屋入始る。
一、幸橋御門外御普請方樣火除明地、一、淺草東仲町廣小
路。田樂茶屋の向側なり。
一、竹垣三右衞門殿御代官所、武州葛飾郡海邊新田百姓松五
郞所持地面。深川高橋の東なり、一町に一町二間の所なり。
一、上野山下火除明地。啓運寺の舊地にして、こゝに在る名水を穿て再用ふる由也。一、深
川永代寺境内。本社前東の方。以上五箇所也。
一、御小屋入の者へ施として金錢或は菜蔬の類諸方より送る
事いつもの如し。御救小屋十二月六日より追々元住居の町々へ退しめらる、上野深川二ケ所を残し、外二ケ
所は殘らず引拂ふ、其後海邊新田引拂ひて永代寺のみになり、辰の正月廿六日引拂ふ。
一、町會所御用配り飯焚出し所は、一、上野大門町。家持呉服屋松
坂屋新兵衞尾州住宅に付店支配人幸兵衞類燒跡の宅地なり。一、牛込神樂坂穴八幡御旅所
内。一、芝神明宮境内。一、深川永代寺。合四箇所也。
一、上野御門主よりも山下へ、山王下へ寄りたる方にて、町會所掛り御小屋に隣る。御救
の小屋を建賜ふ。是は御領分の貧民賑給の爲とす。
一、嚮に信州地震の時、貧民は措き有德なるも俄に財を失ひ
糧も盡て路頭に飢死したる由なれど、轂下の輩は厚御仁惠
にあひてさせる窮迫なし。寔にこれ治化の隆なる仰尊むべ
し。
やくと見て思ひの門は出しかとぞ煙たえては住かたもな
し 契冲
一、江戸中の豪商所持地面地借店借の者、或は近隣の貧乏人
へ米錢金銀等を施し與ふるもの多し。各官府へ召れて御褒
美あり。又深川の邊には假屋を建て、こゝに憩しめ日々扶
食を與へて、養育せるもの多くありし。
一、近在にて殊に甚しかりしは龜有にて凡三萬石の潰なる
由。田畑の内小山の如き物一時に出來、側に大なる沼の如
きものを生じたり。人家潰怪我人多しとぞ。
一、新宿中川屋敷藤屋といへる旅舍も潰れて、旅客も倶に死
したりとぞ。
一、逆井邊にて土中裂け、七石餘の麥土中へ落入て出す事あ
たはず。
一、深川にて米藏へ押入數俵を盜取し強盜、北町奉行所へ九
人追々に被召捕。無宿にもあらで店持の溢れものゝよしなり。
一、千住其餘三昧の寺院死骸山の如く、荼毘の事届きかね、
多分斷りに及びしかば、止むを得ずして素人にて燒く事は
やる。死人を寺院へ措て逃るものあり、寺院にても據なくこれを葬る。すべて戒號は亡者の來らぬ先に男女の戒號を拵へ
置、來るに隨ひて順々に渡すよしなり。されば同じ戒名はいくらも有るべし。
一、丸の内武家方には雜人の死骸斃馬等車に積、出す事夥く、
夫々寺院へ送らる。酒井侯には一夜に十二車の屍を送られし日もありとかや。其餘の家々も又右の類なり。
一、本所回向院より此處の變死人取置の事、回向料布施等を
受ずして取置度し、永世供養いたし度旨願出しにより、市
中へ其旨ふれらる、よつて當院に痤藏する物、幾千人とい
ふ事を知らず。
去る子年より火の用心の爲、天水桶に四斗樽を用ひ、家々の前へいくつとなく並べ置しが、今度の凶變に野邊送りの棺桶出來あへ
ぬによりて、天水桶を用て寺院へ送れるが多し。四斗樽にあらずして人樽なりと云々。回向院靈巖寺と小石川上水戸橋法花宗長光
寺、此處橫死の者弔ひ方取扱ひ宜しき由にて寺社奉行所より御賞美ありける由なり。
一、此度の地震南は小田原の邊を限りとし、北は信州邊に至
れり。高遠は城下の邊も同刻に道路等損しけるといふ。越後新潟御奉行組北山惣右衞門殿文通に二日四時彼地にも少しの地
震あり、長くゆりたるよしなり。
一、吉原町娼家、馬喰町の旅舍を借、こゝに寓し竊に客を迎
ふる由。赤坂、麻布、谷中、根津、其外へ立退しも又しか
りしとぞ。
一、江戸市井の變死、最初書上にのせし高左の通なり。是は實事
にあらず、全くの人數は一倍になしても猶足らざるべし。
町家の分變死三千八百九拾五人内男千六百十六人女二千二百七十九人
同斷 潰家 壹萬四千三百四拾六軒、千七百貳十四棟
同斷 潰庫 千四百四箇所
一、町會所御調に付二度目に書上之高左の如し。しかれども
此後潰家潰藏の下を穿ち、或は溝の中より尸の顯はれたる
もあり、怪我人の内親戚の家に趣て療養して居りしもあれ
ば、此外洩たるもの餘多あるべし。
一、江戸町中變死人怪我人高吉原町は他所より入込たる人數多し、こゝに出たるは人別によりて
記る所とぞ。
壹番組 變死九十六人男四十七人女四十九人怪我貳十四人男十一人女十三人
貳番組 變死八十六人男三十一人女五十五人怪我七十五人女四十四人女三十一人
男二百六十九人女二百九十七人男女不知十二人三番組 變死五百七十八人怪我貳百七十
一人男百五十二人男百十九人
四番組 變死十七人男八人女九人怪我五人男三人
女二人五番組 變死貳十九人男十二人女十七人怪我貳拾九人男十六人女十三人
六番組 變死五人男四人女壹人怪我十九人男十一人女八人
七番組 變死六十九人男二十五人女四十四人怪我八十七人男五十一人女三十六人
八番組 變死八十一人男三十五人女四十六人怪我四十一人男二十人女二十一人
九番組 變死十八人男六人女十二人怪我八人男五人女三人
十番組 變死十人男六人女四人怪我二十一人男九人女十二人
十壹番組 變死七十五人男二十九人女四十六人怪我六十五人男三十八人女二十七人
十貳番組 變死二十四人男九人女十五人怪我二十一人男九人女十二人
十參番組 變死三百六十六人男百五十二人女二百十四人怪我百九十九人
男百二十一人女七十八人
十四番組 變死三十人男十六人女十四人怪我四十五人男二十三人女二十二人
十五番組 變死六十三人男二十七人女三十六人怪我九十六人男五十三人女四十三人
十六番組 變死三百八十四人男百六十四人女二百二十人怪我三百九十二
人
男三百三十九人女百五十三人
十七番組 變死千百八十六人男五百十九人女六百六十七人怪我八百二十
人
男四百六十一人女三百五十九人
十八番組 變死四百七十四人男二百十人女二百六十四人怪我五百八人
男二百六十八入女二百四十人
十九番組 變死怪我人ともに無之
貳拾番組 變死五人男三人女二人怪我十人男六人女四人
二十壹番組 變死六十五人男二十八人女三十七人怪我十一人男六人女五人
番外品川 變死六人男二人女四人怪我十二人男六人女六人
同吉原町 變死六百三十人男百三人女五百二十七人怪我人調行届
不申跡調怪我人二十七人
合變死人四千二百九十三人男千七百人 内男女不分十二人女二千五百八十一人是は淺草田町
往還潰家下燒跡怪我人二千七百五十九人男千五百五十六人より
出候分女千二百三人
右は坊間の橫死にて武家寺院等の死亡計知れがたし。他日
詳なるを得て誌すべきのみ。
一、燒亡の場所、江戸中武家地寺院市中を合せて、凡長二里
十九町の餘、幅平均にして二町餘りと聞えたり。最寄分の
間數左の如し。
一、大手御門前西丸下、八代洲河岸、日比谷、幸橋御門内邊、
燒失凡長十三町餘幅平均三丁程。
一、南大工町より燃立、京橋邊一圓燒失す。凡長五町餘、幅
平均二丁程。
一、築地松平淡路守殿屋敷より燃立、十軒町燒失、凡長一町
半餘、幅平均四十間程。
一、柴井町木戸際より燃立、同町燒失、凡長一町四十間餘、
幅平均五十間程。
一、靈岸島鹽町より燃立、同濱町、四日市町、北新堀、大川
端町等燒失、凡長一丁餘、幅平均五十間程。
一、淺草駒形町より燃立、同諏訪町外五ケ町燒失、凡長四丁
餘、幅平均三十間程。
一、淺草寺地中より燃立、田町、山川町、花川戸町、猿若町
燒失、凡長二町半程。
一、新吉原町不殘、五十軒道非人頭善七構内燒失、凡長三町、
幅平均二丁二十間程。
一、上野町一丁目武家境より燃立、下谷廣小路東之方一圓燒
失、凡長六町半餘、幅平均一町十間程。
一、下谷茅町二丁目より燃立、最寄武家燒失、池之端七軒町
より燃立、凡長二丁半餘、幅平均四十五間程。
一、下谷阪本町三丁目より燃立、同一丁目二丁目燒失、凡長
二丁二十間程幅平均四十五間程。
一、千住小塚原町より燃立、下谷三輪町飛火燒失、凡長一丁
半、幅平均五十間程。
一、橋場金座下吹所より燃立、今戸町庄谷方より同斷。最寄
燒失、凡長一町廿間餘、幅平均廿間程。
一、小川町邊燃立不知、一圓水道橋内迄燒失、凡長六町半、
幅平均四丁程。
一、濱町水野出羽守殿中屋敷長屋内燒失、凡長五十二間餘、
幅平均四間程。
一、小石川隆慶橋邊武家方燒失、長凡四十二間、幅平均十間
程。
一、永代橋向南之方深川永代寺門前仲丁邊一圓燒失、凡長十
町餘、幅平均三丁程。
一、深川伊勢崎町龜久町邊燒失、凡長三町餘、幅平均三十間
程。
一、新大橋向御御船藏前
町、六間堀、森下町邊燒失、凡長七
町餘、幅平均二町半程。
一、本所綠町より竪川通り中の鄕五の橋町邊燒失、凡長六町
餘、幅平均三十間程。
一、南本所石原町法恩寺橋邊龜戸町燒失、凡長一町二十間餘、
幅平均八間程。
一、同荒井町北本所番場町邊燒失、凡長三町餘、幅平均三十
間程。
一、中の鄕成就寺門前、小梅町元瓦町邊燒失、凡長五十間餘、
幅平均八間程。
一、十月十四日火元の町々北御奉行所へ被召出、天災之事に
付御咎之儀に及れざる旨令せらる。町方火元 箇所なり、武家を合すれば五十ヶ所六
十ケ所にも餘るべし。
一、地震は甚しといへども、囚獄の邊火災これなき故、石出
氏より解放の事なし。牢内よりは声を上げて明けよ〳〵といひてさけびしよしなり。是は
市井の幸なり。淺草溜は地震火災一度に成て即死するもの
あり。亦辛ふじて迯退しもありしが、巷に徘徊して濫行に
及びけるよし。佃島續なる人足寄場も邏卒これを斗固く鎖
して出す事なかりし由。賢きはからひにこぞ。
一、江戸地震の後絃歌皷吹の聲更にこれなし。十一月の下旬に至りて少々
絃歌の声あり。菊紅葉見の沙汰更になし。殊に楓は此頃盛に染た
りしが、騷人墨客といへども遊觀の遑なし。
一、料理茶屋及大破、其上來客もあらざれば各商ひを休む。
居酒屋茶漬屋の類劣品を賣りて價の賤しきは返て商ひの增
たるもあり。魚類價賤し、是貨食舖の業を休たるが多く、貴人の家にさへ賣らる事の尠きが故にして、魚獵の幸
あるにはあらず、此節本所深川邊には食店は更になく茶屋等更になし。
一、玄猪の牡丹餅拵る家稀なり。一、幸にして米穀豊饒なり、
故に世の中格別のさわぎなし。
一、玉川上水四谷大樋漬水、水下町に甚不便利なり。無程修
復を加へられたり。
一、所々法花宗寺院の會式多くは詣人少し。されど堀の内妙
法寺は十三日に詣人多かりし由。是は信仰の儔怪我なかり
し報賽にとて詣しなるべし。池上の本門寺も同日參詣群を
なしける由。十一月二日十四日田圃酉の祭思ひの外參詣群
集せり。
一、地震の時深川新地松平下總侯長屋傾き、夕方一時に倒れ、
又酒井侯御屋敷長屋傾きたりしが、二三日過申時俄に潰れ
たり。其音川に響きてすさまじかりし由。又十八日芝會津
家の中屋敷長家三棟倒れる。其音夥しく近きあたりへ響き
し由なり。
一、板材木の價作事職人傭人の賃銀甚貴し。次第に嚴重の御
沙汰あり。材木拂底にして近き山林より枝葉付たる儘の杉
松の木抔切出せり。武家町方大方は潰たる家は假につくろ
ひし迄にて、霜月に至りても未全く修理せる所なし。燒た
る所と潰れたる所はあやしの小屋を營みて住せり。藁葺甚
だ多し。
一、活業を失へるもの、絃歌之家、俳優の輩、軍書讀、笑話
家等なり。詩歌連俳諧茶香書畫等の風流をもて世を渡る人
も近年武藝の盛なるにょり世にすさめられしも、此頃に至
りては更に活計を失へり。藝花園暫業を休む。
鳥さへも飛たちかねるよの中に
なと丸太にははねのはえけん
貧窮問答 世の中をうしとはさしも思へども
飛立かねつ鳥にしあらねば
鐘ならでうそをもつけど木たくみは
直によりてこそこんといひける
鐘音 蟬丸はとてもかくてもすぐしみん
藁屋に雨のもるぞわびしき
一、十月十八日深夜八時頃雷鳴少しあり。日夜大雨降る。野
宿の輩甚だ苦しめり。然るに同夜中俄につなみの患あるべ
しといふ、夭言街々いひふらし、京橋邊より先八丁堀深川
邊のもの資財を荷ひ巷に逃惑ひしもあり。是は盜賊の云ひふらせしものなる
由、品川の邊にても御殿山へ財を運びて逃のびしものありて甚騷動しけるとぞ。
一、地震潰家燒失場所付繪圖等七日頃より街々に鬻ぎ、繪草
紙屋にて商ふもの數百種、狂畫狂文小歌等にも作りて商ふ。
浪花の人云、去年彼地地震高潮の時 端切らずと云紙橫に四つ切のものへ、地震潰家高潮の患に逢し所以を書付し摺物を價入文位
に商ひしを、官府より止られたるに再版する事なし。今年江戸へ來り此の地震にあひしが、二日三日過る頃に次第に梓にえりて街
に商ふもの幾百種ならむ。十月の末求しに一日步行て代金貳分二朱の品を求めける。霜月に至り日々新版の出るのを見て江戸の廣
大なるに駭しとなむ。又十二月始代金貳兩の繪類を調へし人ありしが未足らずとぞ。十二月初旬賣買を止らる。
一、災に罹りし所に瓦礫焦土の中へまはらに假屋を營みて住
る輩、雨の夜などは更るに随て自然物凄く寂寥たる中多く
の人聲の幽聞ゆる樣に覺ゆる由。是臆病のいたす所か。
一、法花宗三谷感應寺本堂のみ纔に殘り、不殘潰れたれど、
住持所化奴隷にいたる迄重き怪我なし。門番の家潰れてと
もに怪我なし。當寺の檀家八十三軒有しを家每に見舞行し
に、八十三軒不殘存命にて家族に至る迄怪我なし。
一、吉原の娼家大黑屋金兵衞も檀家なりしが、家潰れて火事
の時無事に立退たれば、これも又怪我なし。地震後葬式を
執行ひし事なきは當寺のみなるよしといへり。寺社御奉行所にて繹し
れる時も珍らしき事にて他にかつてなき事のよし噂ありけるよしなり。
一、又或人の説に、市谷の長延寺にても旦家數軒あれど、更
に死亡人無之よしといへり。未虛無を糺さず。一、下谷の
一乘院も葬式なし。
一、國家よりの御沙汰として、此度の禍に罹りて亡び失ひた
る迷魂得脱の爲施餓鬼修行の事を命ぜられ、左の寺院に於
て十一月二日に修行あり。此寺院每に銀十五枚宛、外に十
枚宛を賜りしよし。
一、天臺宗東叡山塔頭清雲院前大僧正、淨土宗本所回向院、
眞言宗古義二本榎高野學侶派在番西南院、同宗白金臺町行
人方在番圓備院、眞言新義淺草大護院、禪宗臨濟派品川東
海寺、同宗曹洞派貝塚青松寺、同宗黃檗派本所羅漢寺、日
蓮宗一致派下谷宗延寺、同宗勝劣派淺草廣印寺、本堂潰る、寺中の少く
殘し所にて修行。一向宗西本願寺掛所築地輪番與樂寺、同宗東本願
寺掛所淺草輪番遠慶寺、時宗淺草日輪寺院代洞雲院、此日
何れも緇素群參し通夜して誦經稱名せしも多かりし。此餘
諸寺院銘々に橫死の儔供養の法筵を設く。淺草寺は二日三
日、報恩寺は□日修行あり、谷中法住寺は十二月朔日より
三日迄修行あり。
一、十一月六日は亡人五七日の逮夜とて、假夜に於て念佛稱
題などするもあはれなり。
一、十一月十四日冬至、太神樂來らず、十五日嬰兒袴着髮置
の祝ひも世間を憚り、産土神社へ參詣するものなし。地震
に怪我なかりし町々は、産土社に於て神樂を奏するも多
し。神田社別て多く日々興行あり。
一、青樓の假宅は廿日に始て願出たり。其町々は左の如し。
此内點ある所二十四ケ所を免許ありしなり。
一、●淺草東仲町●同西仲町●同花川戸町●同山之宿町
●同聖天町●金龍山下瓦町●同今戸町●同山谷町
●同馬道町●同田町壹丁目●同貳丁目●深川永代寺門
前町●同仲町●同東仲町●同山本町●同佃町●同
●常盤町壹丁目●本所八郞兵衞屋敷●同松井町壹丁目
●同入江町●同長岡町壹丁目●同松村町●同御船藏前
町●同六尺屋敷●同時之鐘屋敷 右之分十一月四日に
御免ありて、十二月より春へかけて追々に商賣を始む。
一、左に印す町々には同時に願出たれど叶はず。
根津門前町 同宮永町 谷中茶屋町 同惣持院門前
赤坂田町五丁目 麻布今井寺町 同宮村町 市谷谷町
鮫河橋谷町 音羽町七丁目 同八丁目 同九丁目 櫻木町
一、又廿五日再度願出之町々は、淺草材木町、山谷淺草町、
新鳥越町、芝田町等なりしが、是も願かなはず。茶屋〳〵の假宅は
淺草河岸地のなたれに造りかけて、其の夜は燃火の光り川に映じて一人の壯觀なりしが、弘化の時にて御成の時水面より見え 其
外取締宜しからずとて止賜ひ、娼家の二階より水面の客事に見えざる樣に作りしが、との度はむかしの如く淺草の地はなたれの河
邊へ作り營み申度由願けるが、改て御沙汰に及れずおのがまゝに作りたり。
一、町會所に於て江戸町中貧賤の輩へ御救米を賜はる。十一
月十五日より始り十二月廿四日に終る。男十五歳より六十
歳迄白米五升、六十歳以上十五歳以下並女は三升つゝ也。
江戸中人數三十八萬千貳百餘人と云々。
一、十月廿三日曉七時神田下佐柄木町通西御書院川崎之助殿
より出火。
一、十一月廿四日暮時過紅葉山御構内詰所燒亡、十二月二日
切支丹坂出火。
一、十二月七日夕七時より雲降出し些く積る。小屋掛野宿の
者苦しめり。未場末には野宿の者殘れり。
一、同九日子刻八丁堀水谷町壹丁目より出火、長壹丁拾間、
幅平均五十間と云。
一、同廿日雪降りて尺に滿つ。此日町會所の御救日割にあた
りて、南品川の貧人曉八時より新し橋迄出る。暮に及んで
各白米人數に應じて頒與へられ、米苞を脊負て家々へ歸
る。其途中の話に云、先頃は地震にてめらきめりは再びか
かる難儀にも遇ける事よといへり。其辭昇平の御恩澤を辨
へざるに似たれど、時にとりては左もありと見ゆ。暫時酒
を以て衣とすとも、さめての後長途の苦しみいかばかりに
やあらん。
卷の下
是より以下は轂下の衆人非命に終り或は危きを遁れて命を助
かりし談、其餘何くれとなく聞る事とも前後をえらばず書付
たるが、やがて百にみてり。此餘同轍の談枚擧に遑あらざれ
ば贅せず。尚珍らしき譚に至りては聞に随て採♠すべし。
一、岡本屋は近世廓内の高家なり。地震の時當主長次郞一旦
迯出しが父隱居の安否見届ずしてはあらじとて、其時隣家
より火燃近きければ、赤裸に成りて家の奧にかけ入しが、
間もなく猛火一時に移りて、父當主夫婦皆この災に罹りて
合家同時に失ぬと。憐べし悲べし。廓中にもあるじの志を賞して美談とす。
一、稻本屋のあるじ碁を圍て居たりしが、家潰れ側に居たり
しこの家の妻と幇間長作この下に成りしが、片眼少し飛出
して、押へて命恙なかりしかど迯出んよをすがなし。漸棰
の折れたる手に障りしを得て、屋根を穿ち二人とものがれ
出たり。其餘は亡び失たりとぞ。
一、三浦屋吉右衞門は穴屋に入て助らんとて、あるじ夫婦娼
妓と共に臺所の穴藏に入りしが、程なく家潰れ、其身には
當らざれど、火燃移りて後烟にむせびて殘らず死す。
一、谷本屋のあるじ、財布に金の入しを携へたる儘燒死す。
この家の遊女一人二階より下る時、階子踊りしかば誤つて
穴藏の中へ落入たり。上らんとするにはや家潰れかゝりた
り。然るにこの家の引窓幸にして穴藏の上になりたり。再
上らんとするに火燒移りしかば、しばらく地に臥てあつさ
をこらゆる事數刻なりしが、下の方なれば烟も強く入らざ
りしが引窓よりは息も通ひて鎭火の後漸火中を迯れ出で命
助かりたり。谷本屋は深川新地より先年移りし家。
一、上總屋何がしの抱聲妓いはといへるは、地震に怖れて大
路へ迯出けるが、徒路にて步行がたしとて履物駒下駄かぞうりか。
を取に戾りし時、庇の崩るゝにあひて即死す。
一、中萬字屋彌兵衞が家の奉公人大酒を好み常に醉て役にた
らぬ男なり。暇をやらんと思ひしに、此夜も例の如く大酒
に醉ふて、地震も知らず寢たりしが、搖り止りて後目さめ
てあたりを見るに、あるじ始遊女其餘客にいたる迄一人も
居らず。あたりの騷しきにて火事ありとは知りつ、然れと
も何としてかくはうろたへて家財をば置て其儘に逃のきつ
らんと、怪しく思ひながら在合ふ所の銅壺釜の類より手許
の器に至るまで手にあふ丈は穴藏へ收め置、土等かたの如
くなしつゝ、やがてこゝを立退くとて、在合ふ酒を殘すも
惜しとて、したゝかに呑て居る所へ尋ね行てこの由を語り
ける。されば此の家のみ庖厨の器を殘し得たりとて、酒の
む男を賞し、暇やることは止めりとぞ。
一、殊にあわれと聞えしは九郞介稻荷の別當修驗某の娘、十
三歳ばかりなるが、同じ社の側なる潰家の間になり、いか
にしてか其足を石に挾れて迯る事あたはず。かの父なるも
のも別當の事也。こゝにありて助けやらんとしけるが、いかにす
れ共かなはず。近隣の者も來り援んとせしかど、せんすべ
なし。其時猛火熾になりて別當が着たる衣に燃付しかば、
汝を助んとすれば、父もろともに終るべし、なき命ぞとあ
きらめくれよといひつゝ、濡たる菰をまとふて迯のきしと
なん。親子の情いかにありけん、あはれなる事ともなり。
一、平野屋の料理人何がし、潰家の梁に足をはさまれ、命あ
りながら迯る事ならず、傍輩二人助んとして色々にせしが
かなはず、次第に火焰盛に近づきければ、今は汝を助んと
せば我々も死すべし、されば迚も存命叶ひがたしとあきら
めて念佛申て往生せよと、なく〳〵言さとして二人ともに
此場を去りしが、次第に燒募りて此火土藏へ入、土藏の壁
一度に落ると等しくかの男の上になりたる梁を刎上けしか
ば、幸に身體迯る事を得て足を引づり這出し、かの傍輩の
居る所へ尋行しかば、亡靈なりとて人々驚しと也。
一、えび屋玉屋大黑屋等は家潰れざれば怪我なし。
一、巷街の坊正竹島氏の家は此夜息子何がし近隣の兒輩を招
て影繪の戯をなして居たりしが、俄に震動しければ、ある
じは驚て裏の方へ逃出し、妻は末の男の子を連て玄關の前
へ走り出しが、倒家の壓に打れて即死す。あるじは是を知
らず。然るに母は家の下になりたれば、屋根の棟を穿ちて
助出さんとせしに、塗家といふ物にして、瓦の下に土を重
る事厚く其下には松の厚き板を打、其下に天井板ありて容
易に毀つ事かたし。人手をかりて漸にして鋸もて垂木を切
りて助出せり。宵より來り居し近隣の子供等此時殘らず助
りたり。下男は土藏の壁の落かゝりたるに埋れて首計をあ
らはし身體働かれず。これも漸にして土を除て助出し手代
房吉といへるも家の下より助出せり。是は物の間より手計り出したるが、此上を人
の渡りしまゝ、男女といはず声を掛裾をとらへて引けるが皆かなわで逃出たりとなり。然れ共妻と末子は
何方に赴しや知れず、されば此家の下にありてはや死しけ
るか、もし命のありもやすると、燒來る迄は聲の限り呼は
る事數刻なれどこたへなし。次第に烈火熾に來て彳む事な
らざれば、他人のすゝめにまかせ、せんかたなくして思ひ
止りこゝを去りしが、主菩提所大恩寺へ立退し事もやと、
かしこにいたりて尋んとせしに、はや此寺も潰れて住持も
壓に打れて終られしと聞く。廓中を立退し時家々の下に男
女の聲ありて助けくれよ、燒死るはあつや、たえがたやと
口々に號叫するを聞につけ、むねつぶるゝ計りなりしが、
妻子の安否も聞かぬ内は心ならず、しかも衆人の難を壹人
して救ふべき樣もあらざれば、聞捨にして逃退しより、火
鎭りて後妻子の屍を繹出して愁傷落淚停がたしとぞ。竹島
氏の心の中いかゞありけむ。此家に秘藏せる天海僧正御歌
短册一軸箱の儘下水へ落て流けるを取上たるよし。世の中
はあられはあるにまかせつゝ心にいたく物な思ひそ天海と
ある由。
一、玉樓の寳とせし菅家御眞筆の彌陀經燒失の由可歎。定家
卿の色紙も又亡びたりとぞ。其餘廓中に名筆名畫珍寳等數
を盡して亡びたるよし也。
一、花明園西村氏も名器釜、三夕法帖、其餘先代藐菴ぬし書
畫を好しかば、古筆數多ありしを殘らず失はれし由也。光
琳のおかめ、抱一上人筆、吉原十二月畫讃卷物等も燒たり。
一、娼家何某吉原堤の裂たる間へ落たり。みづから上る事な
らず、大音に叫びてわれ三百兩の金を持てり、助け呉たら
ん人には半を頒ち與へんといひければ、或るもの助け上て
首にかけたる財布を奪ひ取り突放していづこへか逃行たり
しとなり。
一、吉原の人神田邊の人の話を聞くに、或所に狐付あり、九
月下旬口走ていふ、來月二日には大なる地震あるべしと、聞
る人々さして心にもとめざりしが、果してこの地震あり。
其後來る九日には再大地震あるべしといへり。先の言葉當
りしかば用心せよとかたりしかば、吉原の人々廣場へ資財
を運び疊を敷高張の提灯をともしつゝ彌待居たりしに、こ
の日何事なくて過しぬ。何人か妖言をいひふらしたるな
り。以上竹島仁左衞門廓中の話。
一、銀座人辻某青樓に遊び酒に醉ふて臥たりしが、地震の時
二階傾きて下水の上へ倒れかゝりしに、目覺て見れば疊の
上ながら屋根なく、星のきらめくを見る幸にして遊女とゝ
もに命全き事を得たり。或人の話。
一、本所尾上町中村平吉が家は、此夜踊子名弘めの會ありし
が、事はて集金をかぞへて居たりし時、俄に地震したりし
かば、集金五十餘兩ありしを世話人打よりかぞへもはてず
其母にあたへしうち、はや二階家つぶれて會主の踊子其外
合て十九人程即死せり。かの母は悲歎のあまり迯出て家に
かへりしに、はやおのれが家も燒、途中にて金子はのこら
ず失ひつ。わづかに金三分をたづさえし迄なりしと。俳優
中村鶴藏この席に列り、潰家の内に在りしが危き命を全ふ
し迯のびしとぞ。催主は岩井梅次とて十七歳歐舞伎役者の娘なるよし。踊子の内大傳馬町砂糖屋の娘もよ
同妹こよといへる即死したり。其外數多あるべし。花町のかめといへる女と三つ代の弟子何がしは早く逃出て助りたり。
狂句 打とめに階子のおどる中むらや
一、北品川宿貳丁目要助が地を借りて旅籠屋をなりはいとせ
る倉田屋某といふものゝ娘つね十五歳地震の後、家内南品川
海德寺の境内に立退てありしに、十月八日の夜夢中に白髮
の老翁顯れ來り、十一日は水火の戰ありて安からぬ日なり、
此品を携へたらば、其禍を免るべしと示すと覺へて目覺た
りしに、八九分もやあらん大さの滅金のやうなる羽扇の形
したるもの手に持たりと。依てその噂宿内にひろまり、此
日をあやぶみて騷劇甚しかりしかば、其由御代官齋藤嘉兵
衞へ訴申したりしに、此日更に何事なくして過したり。
是虛夢か。又他人を欺かんとて設けし談か、此後齋藤氏の役所へ
召呼れ 猥褻の流言をなして衆人の恐懼を生ぜし事安からずとて
嚴しく叱り申されしとぞ。
田中權左衞門話。
一、北條侯丸の内の家士何某、此夜妻をめとりて媒人其外も
來り酒宴に及びし時家潰れ、夫婦舅姑はありやなしや不知。其外一席皆
失ぬと。こゝに雇はれし料理人ばかりは逃出して命全しとぞ。○浦江清左衞門話。
一、堀江六軒町乾物問屋東國屋彌七母に孝ありし人とぞ。地
震の時母をいざなひて迯出しが、一足早くして頭上より瓦
落、炙所に當りて死す。母は面へ重き疵をかうむりたれど、
療治を加へて助りたり。
一、全國橋畔五十嵐油店のあじ地震の時怪我なく、日數歷て
土藏の壁落ち是に打れて死す。
一、辨慶橋内田のあるじ即死。
一、三谷三九郞が妻深川の別莊にて即死。
一、播摩屋新右衞門が妻、娘、幼稚の次男、下女三人、合六
人、深川木場の別莊に行て燒死。○宗助話。
一、龜戸町に龜田宗軒といへる庸醫あり。其妻懷姙して臨月
にてありしが、今夜産に臨し時、地震が先にて産氣付たるが跡なるべし。俄に震
出しければ、其夫、妻を背負ふて逃んとすれども、うみか
ゝりし身にておはるゝ事協はず。兎角の間に近隣に火起
り、次第に火近つきぬ、妻が云、迚も逃延ん事かなひがた
し、されば八歳の男子を連れ我を棄逃退賜へと云。夫涕泣
に迫りて途方にくれたりしが、妻の促すにより止事を得ず
して、彼男子の手を引なく〳〵落のびて、あたり近き巷に
彳てたゞ神佛をのみ所りつゝ我家の燒落るを俟居しに、隣
家の某こゝに來り、汝の妻は火中を出て用水桶の水をのみ
居れり、疾と行て助けよといふ。され共其僞なりとて肯は
ず、然らば己連れ來りて得さすべし迚、程なく妻を背負來
れり。驚てこれを見るに面部こゝかしこやけたゞれ身内も
燒疵をこうむりたれど命恙し。出生の小兒は生落したれど
せんすべなくて火中に殘してのがれ出たる由なり。其後治
療を加へて活延る事を得たりとなむ。勝田次郞話。
一、小日向水道町桔梗屋といへる油屋の娘、下女とともに土
藏の壁落し時土の下に成たり。三尺程の下を掘りて娘助
り、下女は死す。此家よりあたりの貧民へ米三升づゝ施し
けるとぞ。
一、銀座人受拂役泉谷七郞兵衞が妻、娘、乳母三人同じ枕に
潰家の下に成りたるが、娘のみ中に寢てありしが助り、左
右の二人死す。
一、銀座人松村太右衞門家潰、妻小兒一人下女二人、合四人
即死す。當主幷息子と六歳の忰家下に成りしが、隣家安藤
侯家來助け出したり。
一、本所綠町坊正關岡平内身體不隨地震間もなく家潰、下に成即
死し其家燒たり。此家に在し惠心僧都作彌陀佛像、福富草
紙原本等燒たりと聞。
一、深川元町佐藤忠右衞門家潰れて梁に打土中に埋る。其子
虎次郞潰家の下を搜り、土中を穿て辛ふじて僕とともに引
出しけるが、死人の如し。在合ふ戸板に乘せて、海邊新田な
る年寄與右衞門が許へいざなひて介抱す。其時子供をも助
出したり。其妻と末子一人門の倒るゝにあひて即死す。其
後火に逢鎭りて後、あやしの小屋をしつらひてこゝに住し、
父をばしるべの方よあづけて療治を加へしに、些しく快氣
に趣けるより、虎次郞は劇職の暇と遠きを厭はず通ひて療
養其外怠る事なかりしかば、官府に召れて御褒美あり。銀
子をも賜りたり。
一、深川黑江町の坊正齋藤助之丞其家潰れ、妻は懷胎して臨
月なりしが、壓に被打て即死す。母も倶に打れて三日程煩
ひて死せる由。
一、深川平野町坊正平野甚四郞が手代三人とも主人の家潰る
ゝにあひて即死したり。
一、本所松倉町住御賄陸尺岡田庄八家潰て其身妻子共三人死
して殘れるは舍弟惣領男子二人也。
一、同所三笠町住御賄方秋元幸太郞家潰れ、母と男子を失ふ。
○以上齋藤助太郞話。
一、豐海橋土俗おとめばしと云永代橋西。の側、土藏の壁崩れし間に男女の
死骸あり、是は俗言ヒッパリと呼べる賤妓にて、客ととも
に土に被打て死したるなり。女は本所某の町の者なる由。たしかに知れて屍を送りかへした
り。男はかへつて住所知れざりしと聞り。○清水太一郞話。
一、小日向服部坂龍興寺寳覺禪師今年齡九十三、近世の碩德
なるよしは世の知る所なり。十月二日夜弟子に示して云、
今宵は變事あるべし、庭中へ假の筵を設けよとありしに、
何事にかと疑ながら、教の如く假の圍をしつらへこゝに座
せしむ。半時程過地震あり、されど堂宇覆る事もなかりし
となり。○齋藤助太郞話。
一、小梅瓦町何かしの家潰れしかば、妻はやうやくにして先
へ這出たりあたりの人を類み他人とも屋上を穿ちて、其内
より漸くにしてあるじを助け出したり。小兒は士中に入
て、人に踏る事屢〻なれど恙なかりし。○片岡仁左衞門話。
一、深川相川町吉川といへる足袋屋の妻行衞知れざりしが、
十月下旬に至り土中より屍を掘出したり。手足燒たゞれた
り。其餘旬日を經て土中より尸を掘出したる所數多ありと
ぞ。淺草田町にては盲者老人土中より出て蘇生す。下旬の
事なり。
一、又同町にて十一月中旬門つけ淨瑠璃を語りて銭を乞し男
の死骸を掘出す。五體離々に成り、側に三味線のこわれた
るもありし也。○相川新兵衞話。
一、深川清住町河岸に活券地の餘りにて僅ばかりの家作地あ
り。こゝにエサ鐵と渾名せる男近き頃より少々の料理售を
肇けるが、此家川へ張出して建たり。家を川中へ搖倒し、臥たりし家族
大方大川へ落、溺死し行方を知らず。あるじの弟と下女はいかゞしてか助かりたる
由なり。
一、洲崎茶屋の僕己が主家の潰るゝに驚缺出しが、向の家へか
け入、彼家潰れて死す。
一、地震の數日以前淺草御藏前福本といへる茶店にて何故か
竹を土中へ立しが、其所より水湧出る。轎夫の息杖を立たる跡より湧出たるよ
し。諸人奇として見に來れり。是前兆なるべしと。此事九
月廿一日といふ。地震の前井の水增たる所多しとや。
一、神田平永町北側、籾藏の前にも、地震の前路次口の外よ
り水湧出せり。人々不思議の事に思ひしとぞ。○高部久右
衞門話。
一、二日夜地震の時、牛込山伏町の邊にて看し人の噂、辰の
方に當つて疊二帖計りと見る火氣空中に上りたりとぞ。又
この時妻木氏某厠へ赴れしに、窓の稍子あかきに駭て明て
見るに、南の方にて、しかも程近きあたりに、太サ俗にい
ふ中竹の位にて數丈の火氣赤く見へ鍋つるの如く曲りて折
れたるを看たり。是や世にいふ火柱といふものにやあらん
と思ひ怪みし折から、我に震出したりとなん。其の外下谷
茅町、根岸靈岸島のあたりにも火の光ありしを見たるもの
ありしとなむ。
一、牛込岩戸町二丁目續、寳泉禪寺、相州關本道了權現遙拜の
社あり、深川なる酒舗に仕ふる男番頭の由兼て當社を信仰なし
日々怠らず詣しが、地震の時辛ふじて主人の家を遁出し
が、家潰て主人夫婦其下に敷れたり。彼男立歸りて助んと
せしが、梁の下に成、微力を以援ん事かたし。此時一心に
當社を所念し、仰願くは主人の命助けしめ賜へ、若助る事
の協はずば、我れ倶に命を斷賜へと誓ひつゝ再力を極めか
の巨材を動せしに、力に應じて安くも取りのけて、ついに
主人を助得たりとぞ。
一、牛込川田ケ窪藥種店茶屋某が裏に榎の古樹在り。枝葉繁
茂しけるが、七八月の頃より數萬の雀群り來りて囀り戯る
る事日每にかはらず。地震の前よりはいつとない一羽とい
へども來らずなりぬと。是は前兆とも定がたけれど、此頃
の一奇事なればとて語られし儘併せ誌す。○以上加藤岩十
郎話。
一、下谷御數寄町なる聲妓雛吉と云へる女地震に家を失ひた
つきなきまゝ、後直に廣小路に出ておでん燗酒といふもの
を售ふ。其さま面に紅粉を施し、縮緬おめしちりめんといふもの。の衣
類同半天を着し、手巾テッカシボリ。を被り自ら商ふ。其樣異な
る故往來の賤夫傭夫等一碗を求め餘計の價を措て惜まずし
て貨殖を貯たりとぞ。
一、小網町二丁目齒磨の老舗伊勢屋吉右衞門が娘雪十歳、去
十一月地震の時、泰然として更に逃出す景色もなし。其故
をとへばたとへ逃出たりとも命なくば物にふれて死すべ
し。かく在ても命あらば助るべし。老るがまゝにながらへ
あらんよりは幼くして死せばあはれと見る人もありなんと
答へけるを、其親も心にかけしか、この度の地震にも又更
に駭く景色なく、家に坐し居たりしが、庫の壁落るに打れ
て死したり。○以上根津山内茶店の老父話。
一、櫻田久保町なる花屋何某が家潰れ、其妻梁の下に成て死
したりしを、搖止て後に戸を出したり。二歳の小兒を懷き
片臂を地につき片臂を強く張りて其内に小兒をかばひた
り。故に小兒は恙なくてありける。急變にあひても子を思
ふ志の切なることあはれなる事なり。○島津清左衞門話。
一、所々によりて震動の強弱あれど本所は分て強く、潰たる
家は大方搖始ると等しく潰たるが多かりしが、中の鄕なる
坊正中田氏は家に在り物書居たりしが、地震搖出して始は
させる事にも覺えざりしが、次第に強くなりしかば、家内
のこらず庭中へ出たるが、程なく家傾きたりとぞ。
一、小網町邊の商家何某權門何某の藩士二人計りを伴ふて劇
場へ赴きしが、事果て歸らんとする頃、酒に乘じて頻りに
巷街に赴ん事を促す。この時かの士の誘引來りし鐵砲洲の
邊に住る踊の師女なり其名詳ならず。彼士の妻に賴れ、あすはさりが
たき主用のおはすなれば、いかに酒に醉るゝ共、是非にす
すめて伴ひ歸りてよと契りし事のあればとて、あながちに
歸らん事を勧む。然れども猶止るべき氣色あらざれば淚を
流して停めしに、かく迄とゞむる上は今日はかへりてあす
こそ行かめと、これより船に乘じて宮戸川に棹さし家路に
赴しに、小網町近くなりし頃、陸の方頻りに騷しく、家鳴
り震動し、諸人の喚ぶ聲を聞。此時川中は浪もたたず靜なりし由。扨は地震
にこそあるべけれと驚陸に上りたる頃は、家も傾き土藏の
壁落て、諸方に火事起りしかば、更に恐怖をまし、各家に
戾りしが、此輩の家は皆無事にてありければ各喜びあへ
り。翌日巷街の變を聞彌戰慄し、かの踊の師が歸路を催せ
し功をもて命助かりけると、あつくねぎらひけるとか。
一、本鄕四丁目の坊正塚谷又右衞門地震の時寢て知らず、家
族に強く搖り起されて漸く目覺、あたりを見るに、家傾き
壁落たるをもて、地震ありし事を知る。しかれども白石が
折焚柴の記に載たりし元祿の地震よりは弱くぞあるべしと
云ひながら再び寢たり。廉士にして常に畸行ありし人也。然れども此段些しく文飾あるか。尚尋べし。
一、葦の屋檢校藥研堀續の武士地に住す。博覽宏才にして皇
國の學によし、歌をもよみ又針術の高手にして、當道家の
内人もゆるしたる人也。しなとの風其餘著書も多し。二日夜富澤町なる
柳屋長右衞門能の裝束を貸して活業とす。療治にとて轎をもたらして迎
へしかば、止事なく行けるが、長右衞門が息子の妻何がし
が療治にかゝりて居ける時震出しければ、檢校かの婦をい
ざなひて逃出んとしけるにや、家潰れてともに即死す。惜
い哉。あしのやは近き頃官醫と成れり。普通の瞽者の如く高利の金を貸して足をはかるの如き類にはあらず。
一、神田岩本町向武士地に住る稻もと檢校家潰れ、其身は平
家に居て無事なれど、家内六人死す。
一、神田富山町一丁目小谷檢校家は假家成しが、土藏潰幼少
の娘壹人死す。
一、神田富山町坊正飯塚市藏が家は土藏のみ覆り、隣家紺屋
町二丁目代地家主平吉が家に倒れけり。彼家潰れて其夫婦
即死す。この夫婦いさかひしたる時のよし。居合たる近隣のとく逃のびて全し。○以上田中五郎左
衞門話。
一、池之端貸食舗松坂屋源七、下谷御數寄屋町なる聲妓それ
がしが家に迎ひて酒のみ居たりし時震出し家潰れて、材木
の下になり、狹れて出る事ならず、近隣の人駈付て鋸にて
木を伐助出したり。此家の母と聲妓二人は即死せるよし。
藝者の名おとくおいま。
一、淺草田原町坊正荒川鎌吉が妻奈保云、八日の夜淺草寺の
鶏又烏山内の梢に宿り夜中啼く事常にかはり數聲也。常に
なき事とて皆人用心す。○以上楓園話
一、深川椀藏に住し呉服師槇田某この夜御用達の寄合にとて
出て家にあらざりしが、地震の時驚て下部をして先へ走ら
しけるが、はや家潰たり。家族皆家の下に籠り出る事なら
ず、僕一人していかんともすべからず。御家なる醫師某の
弟子を賴み、又其家の下女使先より歸來りけるまゝ、三人
して倒たる家の梁桁の類をからげて、主人の妻子其餘を助
んとしける、其下に手代某の聲ありて、幼き息子はおのれ
抱きまいらせたり。早く巨材を除きて助へと呼はりけれ
ば、心得つと答て力にまかして押上んとせし頃火盛に燃募
り、其の家より出せしなり。其身に迫りしかば、手を離して川へ飛入
て逃たる由。其間に一家の男女並に親族の方より逗留に來
りてありし少女二人都合十四人同時に亡び失けるとぞ。無
慙にも猶餘りありとやいはむ。
此餘同轍の談甚多し。彼は速に走りて後に家潰れて其身助り、これは狼狽して逃出たる故庇崩れ瓦壁等落て頭上に當り即死し、或
逃後れて家に在る壁土にうたれんとして物に遮られて無難なるあり、逃足遲くして重痹をかうむるあり、皆毛髮を入るゝ間にし
て、死生存亡を異にす。此節本所深川の邊巷に怪我人多し。
一、芝の日蔭町に轎を雇ふてこれにのり通りかゝりしも、狹
き小路の家倒るにあひて、轎夫もともに死したるがありし
と。
一、松平時之助殿御家中にも此夜妻を迎へたる士ありて、酒
宴の時地震ありて夫婦媒人夫の妹其餘十餘人終りけると
ぞ。
一、或諸侯にみやつかへしける女は□□□の娘にて□□歳に
なりけるが、二日の晝兼て好める所の振袖の衣類を調べ、そ
の親自身に携參りて與へければ、かれも喜びておさめり。
扨同夜の地震にあひて逃出る事ならず、高き所より飛下り
けるが、兩眼飛出して死しけるとぞ。これも二親の歎いか
ばかりぞや。○以上高部久右衞門話。
一、赤城に住へる常盤津綾瀨太夫といふ淨瑠璃語り、同じ邊
なる宮太夫といへるものと倶に客に伴れて巷街に赴ける
が、其席につらなる事何となくたえがたければ、あながち
に席を辭して家に歸らんとし、大門を出る頃俄にゆり出し
ければ、急で家に歸りて無事也。其席に在し人々は皆々潰
て死しけるとぞ。
是は久喜萬字屋の伜勘當のゆるしの喜びとて酒宴を催しける時の事なりともいふ。猶尋ぬべし。按るに勘當と地震と一時にゆりた
る故此禍に逢しなるべしとわらひぬ。
一、淺草寺別當代は壯年にて當人月番當寺へ直りし人の由。
奧座敷潰し時小姓とともに即死せり。
一、櫻田伏見町料理茶屋清水樓去年家を修復し、平家の方は
新に建添たるもありし由也。然るに家覆り平家の新らしき
方更に潰れ、此所に居りし亭主一人即死す。○以上加藤岩十
郎話。
一、今戸橋畔金波樓玉屋庄吉が家は先代庄八の時七八年前家
を根繼普請したるにて、地震の時搖崩したるもむべ也。此
時料理人壹人湯に入りて客を入る場なり。居たりしが、潰家の下に
成りて死す、其上此家の勝手元より火起り、後災にて類燒
の家もこれあり、先代庄八實子の當庄吉が先妻の弟權平、町に汁粉の店を出しけるが、其妻と男子妻の母と
三人とも其家潰れし時死す、權平は存命なり。
一、猿若町俳優の輩其餘この町に即死少し。是は去冬燒て普
請新しくして潰家尠し、故に怪我人なき由なり。芝居三座
も潰れずして燒たるよし也。
一、神田鍜冶町壹丁目家主位牌屋兵助店土藏崩たり。老たる
父は二階に寢て無難なり。下に臥たりし兵助の母と娘一人、
召仕一人、厄介二人、都合五人死。各壁土に埋りたり。○以上濱彌兵
衞話。
一、神田九軒町代地に忠藏とて些の金を貸し與へ是を得て暮
すものあり。當八月火災に罹りて家を失ひ庫の内に住ける
が、地震の時家内七人は庫の下に臥し、下女二人は二階に
臥たりしが、此庫潰れ二階に在りし下女二人に即死す。下
に在し七人は土藏潰れて後土中より掘出して更に恙なし。
材木は左右の礎に支へたれば身内に當らざりしものか。
一、下谷茅町坊正清水佐平次家潰母と姉を失ふ。此邊一圓に
潰て燒たり。
一、本所林町坊正大高六右衞門家潰たり。則其身も潰家より
迯出、又母子をも助出せり。此時近邊火事になつて危かりし
が、火災はのがれぬ。其家潰たれど二階より下の柱は折れ
て倒れ、二階は屋根あるまゝに地上に落てさながら始より
作りし平家に似たり。よつて此二階を假の寓居とす。世間
此類もあり。
一、淺草平右衞門町河岸に若よしや權七といふ船宿の家潰れ
たり。是は俗に太郎米と稱へて二階と下の柱を繼たる家に
てありしが、下の方は全く二階計潰れ、屋根は其儘落下り
て常さまの平家に成たり。人々奇とす。
一、御藏前札差板倉屋林右衞門隱居して本所御船藏前町に在
りしが、其家潰れて妻子死す。以上橋本市之亟話。
一、下谷御數寄屋町に住る瞽者何がし療治に行し先の家崩れ
辛うじて壁を破り急で家に歸りしに、己が家裏借家。も又潰れ
たり。妻子其下に在るを直に踊入りて材木を刎のけ助出
し、同山下の御救小屋へ入、強勇の働とて人皆駭く。久保
啓藏話。
一、猿江東町に本田兩替町箱根屋の別莊あり。庭に在し高一
丈餘の小山地中に凹み入たり。三河屋利介話。
一、上杉侯の臣留守居役栃山某の婢、出入せる表具師某と通ぜり。
地震の時彼婢表具師に對して助けくれよと云。此男勝手も
との格子を破り女を助け先へ出しやり、おのれも續いて逃
出んとせし時家潰れて即死す。明田藤右衞門話。
一、山王町なる髮結何がし外に十九人相知る朋をかたらひ二
日の夕海上へ漁獵に出たりしが、地震の前東北の方一時に
明るく成り、各着たる衣服の染色模樣迄鮮に見え分る程也
しが、やがて海底より鳴渡りて船底へ砂利を打當る樣に聞
えて恐ろしかりしが、又一團の火炎空中を鳴渡りしかば彌
恐ろしく成て船を陸に付しに、はや地震の後にて、始に着
換所持の道具抔預けたりし永代橋際の茶店も潰たれば、此
中を穿ちて品々を取出し、危くして家に歸りしとぞ。
一、二日晝深川邊にて堀井戸を掘らんとしけるに地の底鳴り
て仕事ならず。かゝる事は是迄聞も及ばぬ事とて、其日仕
事を止一歸りしとぞ。以上田中平四郎話。
一、外神田富永町三丁目代地、料理人□□渡世の事にて近在
へ雇はれ出たる跡其母と娘留守してありしが、地震の時母
は外へかけ出表店也しが、此時家潰れ壓に打て即死す。娘は
十三歳逃後れて、家の内になりしが、梁間にはさまれて恙な
く出たり。明田藤右衞門話。
一、日本橋邊に住る人地震の時小川町を通りかゝりしに、旗
本某の家中長屋潰れたる中に、女の聲して助けくれよとい
ふ。止む事を得ずこゝに至り壁を穿て手を引出さんとした
るに、兩足挾りて出ず。色々に骨折たれど叶はず。其内火
災俄に起り己が身に迫らんとす、よつて泣く〳〵其のいだ
ける小兒を受取、主人と夫の姓名問ひ聞て家に歸りて、鎭
りて後小兒を懷て送りかへしけるとなむ。水道橋茶店老父話。
一、淺草駒形町川岸に川ますといへる麁糠の料理を鬻て當時
行るゝ家あり。地震の時も未殘りし客ありしが、召仕のも
の入口の戸を〆たり。是は客の食料を與へずして立去らん
事を恐れてしかせるなりしと。然るに家潰れたれば、多く
の怪我人あり。近邊の輩是を惡むと。
一、二日夜行德の邊には地上より火燃出たり。近くよりて見
れば見えず、又其先に火の燃るのみ。芝森元町の坊正鈴木與右衞門も此夜途中に於
て土中より火の出るを見たりとぞ。
一、京橋邊の家主三人近きわたりの人死して野邊送りのかへ
るさ、青樓に赴きしが、家傾しかば一人先に飛下らんとし
けるが、二階なれば高きこゝろにて飛下りしが、向ふへ飛
過、隣家の傾たるにて頭を打て惱めり。跡の二人是を知り
足を延したるに漸地に付たれば飛下て逃れたり。かゝる折
には狼狽せざるものにこそ。
一、深川猿江土井大炊頭殿御別莊女御隱居御住居潰れ、庭上
へ逃れ出賜ひし由。召仕はるゝ女中の内逃後れて怪我した
るも有、部屋に在し女一人梁落て鎹襟より咽へ通り即死す。
無程長屋燒たり。以上文鳳堂話。
一、八代洲河岸定火消屋敷火之見屋根許り落され、火の見番
人兩人も落て存命、一人は腰を打、一人は更に怪我なし。
太鼓も無事なり。
一、淺草寺大工棟梁鈴木播磨、淺草田原町に住す。地震の時
土藏潰れ奧座敷に寢たりし娘と十三歳七歳の子供三人死
す。古澤の話。
一、亞墨利加へ渡りし中濱萬次郎は本所江川侯の屋敷内に住
たりしが家潰たり。天井を突破りて夫婦共無事なり。文鳳
堂話。
一、寺島村蓮花寺本堂大破に及たれど世の常にかはり柱の類
其儘にありて、屋根許りいさり出たり。よりて堂守其餘怪
我なかりし。
一、下谷北大門町、廣小路合羽屋長右衞門宅潰れ、丁稚二人
大なる箱火鉢の際にちゞまり居て、其上へ根太が打倒れか
ゝりたれば、火鉢にて受たる故二人共恙なし。此類いくら
も有とぞ。勝田次郎介話。
一、小梅瓦町なる料理茶屋小倉菴はやり出しける頃の料理人
に篤實のものあり。此もの骨折より次第に繁昌に及ければ、
親戚のつらになしてあしらい、向側に鹽肴の舗を出して住
しめける由。地震の時小倉菴の家潰たれど、如何してか家
財は大凡取出して小舟に積て持出しけるが、この家より火
出たり。かの鹽物屋の家も潰れて屋根に蔽れ出る事なら
ず、助け呉よと號叫しけるを小倉菴は己が家の事にかつら
ひて、助得さする事なかりしゆゑ、かの家あるじ妻子下女
ともに四人即死す。世間是を惡むよし。
一、幇間何がしは花街に住まずして淺草寺中某の院内に借家
して住けるが、地震の時廓にありて橫死す。常に小さき葛
籠一つをさして母に示して云、若留守中火事あらば雜具を
棄て此一品を持出さば、活業を失ふに至らじと。母其教に
隨ひ、地震の時此ものを携出たり。かれ死たる由を聞、悲
歎の中葛籠を開くに金七十五兩を收たり。これを取出して
財布の儘朝夕腰問に纒ふて假初にも側に措く事なし。其嫁
何かし云、御身年老てかゝる物を携て日每に路地を行通ひ
賜はゞ、人の目にもかゝり不慮の禍を引出さんも量りがた
し。他行の時は必わらはに預賜へ。しかなし賜はゞ家に居
ても、しばらくも身を放さずして守るべしといふ。げにも
とて望の如くかの婦に預けて他へ赴きしに、姑の留守中金
五兩と一通を殘し、七十兩を携へて亡命せり。かの五兩は
幻き娘の養育にとて殘しつるよし書載たり。衆人その奸惡
をにくむ事甚し。
一、十月末の頃鍜冶町の街を通りてあらぬ事を詈りて狂ひ行
婦人あり。これは地震の時家族に後れて狂を發したるもの
なるべし。此屬猶多しとぞ。以上山田屋八右衞門話。
一、或武家方の中間部屋潰たり、數寄屋町邊より日每に此屋
敷へ售ひ物を運ふ丁稚あり。此時も居合して潰家の下に成
しが、辛うじて免れ出たり。此時中間壹人材木に壓れて出
る事ならず。外に人もなかりしかば、かの丁稚安々とこれ
を上げて助けたり。彼丁稚が微力に叶ふべき材木なれば、
さしもの巨材にあらざれど、大の男といへども手足自在を
得ざれば這出る事さへ叶はぬものと見へたり。其後かの丁
稚を命の親とて厚く謝し鳥目二百孔を與へたり。傍輩の
云、命の親として甚謝儀甚薄し。今少しねだれよと云ふに
よつて、丁稚今二百文を望しかば、望のまゝに與へたるよ
し。四百文にて命を買得たりと笑ひぬ。山田屋八右衞門話。
一、谷中三崎法住寺新幡隨意院といふ。門番の家南の方の表門なり。潰れ、門番
は駈出て即死す。家族四人は寢入て臥したる儘に死した
り。是は速に馳付て助る人あらば、四人内一二人は命助る
事もあるべけれど、此あたり本坊を離るゝ事遠く、門前に
武家地もありしかど、各阻り且己々が家にかゝりて助る人
もなかりしなるや。内海の話。
一、かゝる忽劇の中にも黠智のものあり。神田仲町壹丁目漆
屋惣右衞門といふもの、本所なる御漆藏へ赴しは、かしこ
にも官吏漆樽の覆り破壞に及び地上に流たるに驚たる折な
れば、惣右衞門官吏に對して云、此漆此儘にして時刻を移
さば地中に流入て徒に棄つるより他なし、よりて人夫を促
して多くの樽を携へ參けるまゝ、泥中に交らぬ所を取りて
樽へ收むべしと云。官吏其速に心付且急卒馳走りしを喜
び、地上を離し上の所を殘らずかの樽へすくひ入しめて
後、又云こゝに泥土にまみれしもの不淨にして且上品の御
用に立かたし。此分は骨折の料に下し賜らんといふ。官吏
望に任せしかば、外の樽へ入船に積む事三艘の餘。家に歸
り製し改めて二百餘金の所得を得たり。よつて近隣の貧人
へ施を行ひしと云。
一、管見をもておしきはむる人常に云ひけるは、江戸には大
地震ある事なし。其故は近年堀拔の井所々にあり。又神田
多摩川の兩上水地上に樋ありて地氣自ら漏る故なりと語り
けるが、この度の地震に口をつぐみたり。
一、九月廿八日の頃浪花に大地震あり。俳優市川猿藏といふ
もの兄團十郎が墓に詣てし時地震にて石碑覆たり。是に觸
れて死せりといふ事專に噂あり。然るに彼地に於て少しの
地震はありけるが、させる程にはあらず。猿藏は病みて死
したる由なり。以上新堀町新八話。
一、橋本町附木店に住しもの本所邊に素人淨るりの寄せ場と
いへる大景物といふ物を出すよしにて、其席主にたのまれ
件々の器物類をとゝのへ荷ひ行ける。同道六人あり。とも
に此道に携れる人なるべし。明日こそ初ての興行すべしと
て語らひ居ける時搖出しければ迯出して廣場に出けるが、
更に足のとまるべきにあらねば、七人手を組みあなたへま
ろびこなたへこけ、搖止て後に家路に赴んとせし頃、道す
がら潰たる家々の下より男女の泣聲にて助げくれよと叫ふ
を聞て心苦しく思ひけれど、己れが妻子の安否をもきかざ
れば、心ならず聞流し漸家路を求めて歸りしとぞ。
一、小柳町の坊正岡村庄兵衞、土藏の二階に在りて地震の時
階子踊りて常ざまに下りる事能はず、二段目より飛下りし
が、させる怪我なし。おのれが土藏の階子又踊りて思ひの
外なる所へ刎飛したり。
一、藥研堀埋立地住外科名倉彌次郎が許へ療治に來る怪我
人、始の裡は一日に四百人或は五百人、門前釣臺と駕の市
をなせり。其餘外科の家々皆療治人日々多く來る。傳左衞
門話。
一、地震の時淺草川口に黑雲の渡りたる談は前にいへり。地
震の時地下のみにあらずして地上にも物恠ある事と見えた
り。去十一月四日地震の日、鎌倉の人六浦の杉田へ所用あ
りて赴し時、金澤能見堂のこなた關といへる所を通りし
時、樹木の梢より幹の間へかけ俄に動搖しける。地上はさ
しもの事もあらざりしが、程なく大風の扇來る如き物音あ
りて、烏雲頭上に蔽ひかゝり、やがて此所を過行しかば、
あはてゝ此所を過、山を下りて里ある方へ至りし頃はや家
は顚倒したるをもて大地震ありし事を知りたる由。
一、日ケ窪なる毛利侯の茶道古川唯信諸技に在りて多能の人
なり。主君の寵を得たりしが、同僚の偏執により住うかり
しかば、致仕して後是空と號し東海寺の院内に寓し、又市
中にも住居しけるが、この頃淺草寺奧山人麿社の傍にあり
ける。故人西村藐菴が栖あらしたる庵を求め、新たに修理
して知己の輩を招、茶會を催さんとしけるうち、地震の時
田町の後災此所へ移りて新宅悉く灰燼となりぬ。霜月の初
旬には此所に假居をいとなみ、十一月十九日元の菴主藐菴
が三回の祥忌なれば柯茶糲飯をもて知己に饗するよし聞
つ。此日大風吹しかば行つして止ぬ。この人賣茶翁高遊外
の昔になひて眞事の一飯一銭を肇むべき催もありし由。友
人より聞く。
一、十一月兩國橋新たに懸替の御普請成就す。同廿三日より
貴賤往來を免さる。此日官府よりの御沙汰として富有長壽
のものをして渡り初をなさしめらる。南茅場町家持酒屋小
西惣兵衞父母此撰にあづかり、其身妻父母並息子夫婦合三
夫婦渡り初をなす。都下の見物東西の岸に駢闐して是を見
物す。以上田中平四郎話。
高家の御家々の事は憚りあれど、いさゝか聞たる儘其一二
をしるす。
一、内藤紀伊守殿地震直に御登城第一番之由。袴はなし火事
羽織のみにて召具せられて、御供の人壹人もなし。見付に
於て同心一人停申せしかば、御姓名を名乘らせられて通り
賜ひ、番所に於て與力某の着替の袴をかりられて登營あり
しとかや。後にかの同心を騷劇の中勤務懈らぬよしとて御
賞美ありけるとかや。
一、會津侯地震の時辛うじて助り賜ひ、即時御登城の時、侍
二人、壹人は繩の帶へ大小を帶し、壹人は袴を着ずして大
小を帶しける由。何やしきの方は一人も殘る所なく亡び、其餘一家中死亡盡しがたしとぞ。
一、森川侯此頃御遠行ありて未だ尊體御在所へ赴かず。棺郭
屋敷内に在りし時なれば、一家狼狽大方ならざりしと。
公用人何某かひまきを着し入口に倒れたりしが、其首ちぎれて見へず、一家中即死五十人程といふ。
一、柳澤侯金藏迄燒れたり。依萬事御手支之由。燒後板圍に
殊に麁なるよし。
一、酒井侯には水船へ金子を收置れし故金銀不燒といふ。
一、水府侯御殿破損多く家臣の長屋も三十八棟潰たりとい
ふ。長臣戸田忠太夫藤田誠之進先名寅之介と云、一人は家老一人は若年寄を勤 海防の事
ども命ぜられ、御愛臣にて誠忠の二字を名題に冠せしめ賜へり。兩士ともに即死也。加藤岩十郎話、
一、下谷仲徒士町なる東側御手先美濃部八藏殿卒去ありて、
明日葬を營んとせし夜、二日也。この地震あり。其家ひたつぶ
れと成り、其上火起り、若殿一人逃れ出たり。其餘は皆橫
死なり。江川久億話。
一、松平豐前守殿御家中即死六十五人内男三十人女三十五人。怪我廿
一人内男十五人女六人斃馬十壹匹、御住居長屋土藏不殘潰れ、其
上類燒本所南割下水、巢鴨御駕町、芝田町五丁目等の御やしきも大破損也。右御届書に載り
し員數のよし。
一、小川町火消屋敷兩側、五十人餘即死。
一、松平下總守殿御家中、即死男四十八人、女五十四人、斃
馬八疋、御住居向長屋等皆潰、其上燒失致候御座有之よし。
一、地震後堀田攝津守殿御老中仰蒙られ、其跡小川町燒跡御
屋敷之地、松平伊賀守殿、森川萬龜之助殿御屋敷に成候。
以上文鳳堂抄錄。
一、元祿癸未より以降轂下の尊卑久しく、地震の甚しきにあ
はざれば、常に鬱攸の神を懼れて地震を怖るゝの心薄し。
元祿の地震は白石翁が折たる柴の記、正寶事錄、和漢合運、武江年表等に綱要を誌したれど委しからず。其餘たま〳〵物に誌すを
見れば、消日の話柄に備ふるのみ。恐れ思ふ人無し。
よりて倉廩の樂しみとし、己れが家は更なり隣家といへど
も此もの多きを以、鎭火の綱要とし、舖倉或は入口に倉庫
を營む事市井殊に多し。官府よりも延燒の患を避ん爲、近
頃坊間に徇られて板葺を以土藏塗家に造り改むべきよし。
厥沙汰ありけるが、今度地震の時舗倉は更なり、入口に在
るものは逃る時埴土頽れ隨て身體傷損し、或一命を失ひ、
剩禍合壁に及ぼすに至る。しかりしより諸人一顧に板葺の
矮屋を好もしく、瓦葺を嫌ひ土藏造を惡む。これも又臆病
に出て偏頗とやいはむ。然れとも寢所の側と入口の倉庫は
なくてありなん。或人土藏の前はいか程狹き所にても住所寢所等より一間計り明て建つべき由古人の話なり
と。これは地震の時鉢卷鬼瓦の類落る時屋上を破りて落入る事ある故それを厭ひ亦一つには火災の時用心土の置場抔少しく間を置
て時運の自在ならしめんとの事なり。
一、嚮に弘化丁未春の信州地震の時、巨萬の人民命を失ひ家
産を傾け、近くは去歳冬豆州下田港地震の後高潮の危難あ
りてともに命を亡し或は困苦に迫りしもまのあたり見るに
あらず、適人の噂あるひは紙上によりて其顚末を想像し、
一時戰慄するのみに過ず。實に今度の凶變貴人公子だも避
る事あたはず、神宇梵刹も此厄に罹りて漏るゝ事なきは歎
くにも猶餘りありとやいはむ。其他震災二禍をうくる事の薄きも〓を動し胸を燒き病痹に
かゝりてなやめる輩も多しときけり。鴨の長明が方丈記に元曆二年大地震の事を記したれど其邊際と強弱は知らざれど、死亡の人
數いかでか今日の如くならん。歷代の史籍にもいまだかゝる事を見ず。實に恐ろしきは地震なるべし。
一、凡池魚の神に遇たる輩あやしの假屋を營み以て移り住た
る折からはたゞ屋根あり戸障子あるをもて雨露を凌て足れ
りと思へど、其後漸々に普請成就して旬日を曆るまゝに寳
を費し好事を究、造作に花美を好むの心出來て、始の窮厄
は更に忘れ果たるに肖たり。奢侈に馴るは人情といへども
いとも淺間し。心ある人はなふて察せずんばあらじ。
事たれば足るにまかせて事たらず足らず事たる身こそ安
けれ 東山吉宗聊