Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0400568
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(西曆一八五五、一一、一一、)二十二時頃、江戸及ビ其ノ附近、大地震。震害ノ著シカリシハ江戸及ビ東隣ノ地ニ限ラレ、直徑約五六里ニ過ギズ。江戸町奉行配下ノ死者ハ三千八百九十五人、武家ニ関スル分ヲ合スルモ市内ノ震死者ノ總數ハ約七千人乃至一萬人ナラン。潰家ハ一萬四千三百四十六戸ヲ算セリ。江戸市中ノ被害ハ深川・本所・下谷・淺草ヲ最トス。山ノ手ハ震害輕ク、下町ニテモ日本橋・京橋・新橋附近ハ損害比較的輕微ナリ。地震ト同時ニ三十餘ケ所ヨリ火ヲ發シ、約十四町四方ニ相當スル面積燒失セリ。近郊ニテ殊ニ被害大ナリシハ龜有ニシテ、田畑ノ中ニ山ノ如キモノヲ生ジ、ソノ側ニ沼ノ如キモノヲ生ジタリ。津浪ハナカリシモ、東京灣内ノ海水ヲ動搖シテ、深川蛤町木更津等ノ海岸ニハ海水ヲ少シク打上ゲタリ。
書名 〔なゐの後見艸〕理科大學地震學教室所藏、
本文
[未校訂]酒に醉るものは輿中より落ても怪我少なしといふは、から國
のふみにしるせしは、またく心おちつきて狼狽せざるをいへ
るならん。やつがれこたび地震の夜、日暮より心地例ならず
ものうきま〻に、あた〻め酒かたふけ、ふすまひきまとひて
早く寢たれば、はじめなゐの強くゆり立し頃は、いねばな〻
れば夢うつ〻のごとくおぼへ目覺しゆゑ、さまで強き事とも
知らず、たゞともし濱消て闇夜なれば、早く火打つけよ、い
づれも目覺せといへど、女共みなうろたへさわぐのみにて、
しばしひまどれるうちになゐと(もカ)うすらぎぬ。燭たづさへてあ
たりを見るに、あかり障子、ふすま障子はもとより、手がた
くしおきし板戸までこと〴〵くたふれ、鴨居もおつるばかり
にゆるぎ出、床の間に置し小道具やうの物も座敷中にまろび
出たるさま、容易の事ともおもはれざるうち、長屋に住せし
男ども兩三人はせ來りて、我々が部屋の壁は皆おち崩れてか
く埋られしとて、土まみれたるさまなれば大に驚き、さあら
んには臺所などいかゞ心もとなしと、廊下づたひにやつがれ此地
に移住せし頃より内隱の心決しければ 小家をしつらひ、おもやへは廊下をもて通行するゆゑなり、玄關わきをす
ぎつるに、あたりの壁どもみな崩れおちて足入べき所もなけ
れば、その上をからくあゆみて臺所に至るに、石もてた〻め
るかまど、皆板敷の上におどり出て、銅壼、釜、茶がま迄か
たふき倒れたり。やせがれが住居如何ととひつるに、いづれ
も怪我なく、庭外にのがれ出しときは、やうやく心おちつき
たり。おのれもし酒の助けなくして、最初の強き響きをき〻
たらんに狼狽すべきに、かくおくれて目さめしは僥倖なり、
これらは古人の語にたがはじと獨りつぶやきぬ。さてか〻る
大地震にはゆりかへす事ま〻ありと聞きつれば、再びあやま
ちしては人の笑とならんと、頓て提燈取いで、座舖の中央に
釣下げ、蠟燭點じて夜明る迄おきたり、果してその後度々の
ゆりありしかど、燭は消ず、うろたゆべきことなかれと女ど
もにかたく戒めつ、つゐに一たび庭抔へはせ出し事はなかり
しなり。弊家はかやもてふけるひくき棟造りの事なれば、たやすく倒るべきにあらず、たとへ萬一潰れたりとも、絶命すべき
程のおもりなきことを知りたれば、なまじひうろたへ走出であやまちせんは、益なしとと♠めし也、その後傳へき
くに、こたびのなゐに人皆き〻おぢして、十家に七八は庭さ
き空地抔へ疊をしき並べ、かりがこひして當分よな〳〵擧家
それに假寢せしとかや。そはいかなるこ〻ろにや、もし住所
潰れもしたるには止事を得ざれば、しかあるべき筋なれど、
ひたふる怪我あやまちを恐れてかろ〴〵しくさあらんは、武
士のほゐとはおもはれざるなり。己おもふに地震は天災なれ
ば、此以後いかやうつよきゆりありて怪我もし、即死もした
らんとて、命數なれば恥べき事にあらず。もし住所を明おき
外に寢て、萬一豪盜おし入り疵などうけたらんには、大なる
不覺なるべし、たとひ左なくして家財を奪ひ去れんにも、元
來しまりの忽なれば、他へもれきこえんも恥べき筋なり。か
かる非道の事は、能道理の輕重おもひはかり處置すべきもの
ならんかし。
次の日、さりがたき所用ありて、孫勘三郞の妻緣組願濟しゆゑ、引取御届等の事をばかる爲也、
四谷右馬橫町なる伴野新十郞が宅にゆくべしとて、念佛坂を
下り谷町に出しに、町家悉く破損して土藏の無疵なるは一も
見へず。夫よりくらやみ坂といふを登りて寺町をゆくに、堂
舍皆崩れ、中には全く潰れしもあり、墓所の石碑などはおし
なべて倒れたり。かくて右馬橫町に至れば、左右の家皆大破
にて、伴野氏の宅も玄關はじめ住居大かたかたふきしさまな
れば、取次のものに口演の尺書を渡して立さり、餘りに夥し
き破屋なれば、ことのあらましをみんとて、四谷の大路に出
で、御堀端の方へゆくに、ぬりこめなる大家は特に大破し、
又玉川上水の埋樋此大通り、多く石にて造りしさまなり、所々崩れて水吹出し、且
廣くうちくぼみて往來もなしがたき程也。取わけ御堀に近よ
りし方は、地震の筋強かりしにや、潰家おびたゞし。夫ゟ市
谷は八幡前へ懸り、左内坂を登り、尾州御守殿門の前より北
御長屋わきを過しに、外づらはさまでのいたみと見へざれ
ど、内の御長屋を始め御殿迄も許多大破のごとくおもはる。
此日はまだ板がこひもなく幕のみはられたれば、往還より皆
見すきてみへたり。亦北御長屋もや〻かたふきしとみへて、
ところ〴〵長き松丸太もてひかへの杭を打たり。腰瓦はいふ
もさらなり、窻下の壁も皆損じ、屋上の瓦も多おち散たり。
又西手の方なる北の角は石垣多分崩れて、御長屋も一棟潰れ、
又見張番所も二所ながら倒れ、馬場の邊なる御長屋も倒れか
かり、潰れぬ許りと成たり。その後表御門の前をよぎりし
に、下馬の東につゞきし御長屋も一棟全く潰れしさまにて、
板もてかこひ有し。
四日、牛込榎町宗柏寺は、己が實祖父考妣の墳墓なれば、參
詣して倒れし石碑の假片付抔、石工にあつらへ置て歸りぬ。
彼邊は強き破損も見へず、釋迦堂はぬり屋なれば壁瓦抔おち
しのみ也。道すがらも土藏の類は皆破損したり。藥王寺前な
る松坂といふ酒味噌類商ふ見せは、こ〻らにての大家なる
が、倒れぬ許損じたり。又夫ゟこなたなる多門傳八郞といふ
屋敷の石垣崩れ出て、隠宅の物見倒れか〻り、又門も玄關も
大破となれり。此屋敷と尾州の西御長屋と向ひたるが、兩が
は共強く損ずるを見れば、此邊地脈あしくて強くゆりしとお
もはる。また淺草新堀端なる淨念寺は太宗代々の墳墓、即己が曾祖父
母御上の葬地なり、及び當家代々の墓所なれば、此日兒政容して參詣
なさしめしに、かしこも石碑は皆倒れありしといふ。五日き
のふ政容淨念寺に詣し時、本所石原なる同姓芳五郞太宗□代目の家督
也、の住宅、總潰れとなり、小者二人即死せしを此夜當寺へ
葬せられしと、役僧語りしとき〻つれば、けふ彦十郞、用人格の者也、
使として見舞たるに、家内は皆無難にて産婦も芳五郞が妻にて、九月廿四
日安産し、此節まだ夜伽の者附そひたるが、去年新に建し座敷を産家として、それに多く集りをれるをもて恙なかりしと云 又當主は
居間の二階にありしが、寢ざる前なればはせ下り、かの産所へおもむきしゆゑ おしにうたれずといふ、障ることな
しといふ。玄關、使者の間、客座敷、居間、勝手口皆潰し〻
かど、昨年新に造營せる一宇も長屋大破のみにて倒れざれ
ば、夫に假住居すと申こさる。又甥なる池田新之助本所三之橋北通り
津輕越中守新屋敷の東向なり、をも問尋せしに、かしこは全く總潰れにて一
宇も殘らず、しかのみならず、妹一人大怪我して助るべくも
覺へずといふ事也。其後新之助の姉なる榮照院と言老婆、我
方へ來りし時の話にきけば、かの邊は地震取分強くして、ゆ
り出すとひと敷忽ち家かたふき崩れし故、迯出るひまもあら
ず、たゞ當主と松之助新之助が忰也、のみ運能庭にかけ出つれど、そ
の餘の家内は皆壁土に埋られ、障子天井等の下におし伏られ
て、身もうごかしがたきが、火災なきをもて、追々人集りて
取出だせり。かの壹人の妹はたま〳〵二階下の座敷に在て、
梁木にしかれつれば、實は其儘即死也、そが中に最不思議な
るは榮照院也。此夜二階の上にたゞ獨り居しが、ゆり出すや
いなややみと成りて、階子下るべき方角も失ひ、こ〻にて死せ
んとおもひ定めて伏しをりしに、はからず側なる壁破れて穴
あきたれば、夫ゟはひ出て、下家の上に入るとひとしく、二
階と下家は二つに別れて左右へ倒れしが、運やつよかりけん、
下家は物につかへて直にもかたふかず、とかくするうち人は
せ來りて引おろせしゆゑ、疵さへ受ず助りしと也。此榮照院、
常に道了權現をしんかうして神符を身に付けをりしに、此騷
ぎに夫をも失ひしが、後二階下の潰家共取片付るとて、其守
りを拾ひ出たれば、全く災難の身代り立給ひし加護ならんと
て、感淚して申き。
六日、けふは化用山即淨念寺の山號也、に出て、御石碑共の修理をな
さしめんと、朝まだき宅を出て、加賀屋舖通り、牛込南御徒
町を過ぎ、神樂坂の中腹を橫ぎり、夫ゟ冷水番所と云小徑よ
り龍慶橋を歷て諏訪町に入らんとせしかど、右も左も總潰れ
となり往來ならねば、その次なる橫道をよぎり、牛天神の石
坂を登りてふりかへり見れば、此邊四五町の中は家屋將棊だ
ふしとなりて、梁柱などくだけ折しさま、目驚かれぬ。天神
の社地は高丘なれども大破ならず、裏門を出、水府の御長屋
にそひて右にをれ、亦左にをれて傳通院通りの道を、富坂の
方へ行に、水府御長屋は過半大破し、勿論左之方なる餌さし
町抔は多く潰れたり。御守殿門こなたなる小笠原信濃守屋敷
は、住居向も長屋も總潰れと成、わづか下家の小なるが、た
だ一宇殘りたり。此邊地震の強きおもひ知らる。或人いふ、水府御屋形
の御破損は、たやすきことにあらず、御次向及び所々役所等は勿論、御藏など潰れし事夥し、御殿向とても御大破なりし證據は 御修理
容易に御と〻のひがたくて、十一月中旬過まで、御庭なる御茶屋に假の御差掛御しつらひにて、夫に君公おわしまし、御近習向幷に女
中抔は、御芝原に板圍ひの假家造りて、そこに置れしとかや、是等をもてその御大破なるをおもひ合さるといひき、おのれ去る六日、駿
河臺より歸るさ、水道橋を渡りて表長屋通りを過しに、東の通用門はゆるみて開閉ならねば、長屋と御藏との間へ假御門を取りたてら
れんとて、工人等つどひたり、その處よりひそかにさしのぞき見しに、内御長屋等の御破損夥し、又裏御門脇の腰掛は全く潰れ、御玄
關御書院邊も目に立程損ぜし如くなり、夫より百間長屋の方へ掛けては、所として全きはなく、住居もならざるにや、こと〴〵くたて
こめたるが多く見へたり、春日町邊も破損の家多し、向富坂を越、本鄕に
登りては、や〻破損少く、亦湯島切通しを過ぎ、御成道邊よ
り下谷御徒町へかけては、又大破の家多く、夫のみならず、
上野廣小路の東側より出火し、東は下谷長者町、西は御成道
あたり迄延燒せしかば、土藏も殘らず、なべて廣原となれ
り。扨己は廣小路を橫切て下谷蓮池通りへか〻り、三味線堀
の橋を渡りて、淺草新堀端に出しが、三味線堀東は地震や〻
輕きさまなり。かくて御寺に立より、石碑の倒れしを修理す
べしと寺の門前なる石工に、こま〴〵指揮し、夫より淺草藏
前通りを南へよぎりしに、此あたりさせるゆりとはおもはれ
ざれど、家なみ塗ごめ造りの大家なれば、一宇として大破な
らざるはなし。火災の爲めには土藏造りにしく事なけれど、
地震には甚危きものとおもはる、夫ゟ淺草御門を入て、兩國
廣小路に出、藥研堀邊を巡見するに、夥しく人の群居て駕籠
抔立並べたれば、何事やらんと問ふに、接骨療治名倉彌次兵
衞が出張所也と言ま〻に立よりて見れば、女乘物十挺許り、
其餘の駕籠二十餘挺、又釣臺に載たる病人、長持に入たる疵
人おびたゞし。且あたり近き茶屋及び明屋を借りて、臥居も
のも甚だ多し。往還は行かひならぬ迄立つどへり。頓て内方
より病人をよび入る〻をきくに、第百八十三番と呼ばりた
り。此時まだ晝九半時前なるに、かく數番の療治人なれば、
一日の内にはいづれ三百餘人は來るべきや。此名倉と言は千
住に本家ありて、江戸内二ケ所の出張有とき〻つれば、三所
を合せば一日千人位の療治なるべし。その餘官醫はさらな
り、諸侯抱の外科、および市中渡世の外科を通じて、江戸内
十町に壹家と算し、又その一家の療治三十人づ〻と積りて
も、殆ど萬をもて數べきならん。地震の災厄ます〳〵恐るべ
し。それゟ内神田龜井町、辨慶橋、柳原土手下邊、大門通
り、神田堀、濱町堀へかけては潰家多く、又潰れざるも家並
倒れか〻りて危ふければ、往還をも憚からず、左右より杉丸
太桁木の類もて、むかへ杭を立並べしゆゑ、たやすくゆきも
なりがたし。もしか〻る時節に火事あらんには、火事場掛り
の衆など騎馬はなるまじ、又階子纒の類も持ゆく餘地はある
まじきなり。そがうへに少し空地あれば、皆假り小屋造りて
當座の雨露を凌ぐなれば、萬一非常の事出來てはいかにとも
すべきやうなからん。こ〻を過て小川町に出しに、かの邊も
ゆり強しと見へて破損家多く、又三四ケ所ゟ出火ありて類燒
多ければ、死傷の人もありぬべし。土浦侯屋敷の脇より駿河
臺に登り、むねつき坂下なる小栗又一が宅を問しに、こ〻は
強き損所もなく見へたり。又鈴木町なる日下數馬に立寄りし
に、玄關、客間はや〻かたふきしかど潰れには到らず、それ
より宅角坂を下りて久松氏の屋敷をのぞき見るに、表長屋の
半棟と客座敷の邊潰れしさま也。後日數歷て久松氏の家士
澁谷某と言もの、兒政容が學友にて來り語るをきくに、果
して己がおもひしごとく長屋潰れ、あまつさへ主人の祖父
なる隠居、その所に住して實は壓死といへり。此隠居は己總
角なりし時、馬術の相弟子にて榮三郞といへり。その後たま
たま相番と成御書院壹番組也 後忠次郞と改名し、與頭ともなりしに、いさ〻か障る事有て早く隱居し 心甫と號す、
且圍碁を好まれし故、その道の交りをもせし程の舊友たり
しに、こたびか〻る非命をなせしときくも、いとなげかは
し。
九日。永田町に住せる中山善太夫奧村次左衞門屋敷の地借なり 元吹上掛りの御鷹匠を勤
しが、年老たれば今滋の夏退役、隱居し、忰榮次郞に職を讓り、とく此地に別宅すべき志なりしが、少しく障る事ありて、表向はいまだ
雉子橋御用屋敷中に同居のつもりにて、内々九月以來、この宅に住せり 善太夫が妻は池田新之助が姉にて己が姪なり、が宅を
問んとて、市谷御門を入て番町を橫ぎり、麴町貝坂にか〻り
行に、その道すがらは強きゆりもなきやうにて、大抵己が宅
地邊にひとしく覺へたり。中山氏新宅いできし後始てたづね
しゆゑ、みきみさかな抔出され、晝のかれいひ饗せられて暫
し話説のなかに、こたびの地震に死をまぬかれしは、とく隠
居となりしさち也。そのゆゑは雉子橋御用屋しき、予が居し御
長屋は第壹番におし潰れて微塵にくだけたれば、とてものが
るべくとはおもはれざる也。か〻れば命數ありて、かく無事
に災厄をのがれし也。又忰及び孫も危き筋なれど、此頃御鷹
の夜すへといふこと始りて、日暮過ゟ夜半頃迄外に出てすへ
まはり、かの地震ふるひ出し時は、未だ家に入ざりしゆゑ、
またくのがれし也。たゞ恨むらくは一人厄介の同居人有りし
に、彼はたま〳〵予が寢間の所に臥ゐて即死したりと、いと
悲しく語られたり。その後榮照院の内話にきけば、かの厄介
といふは榮次郞が次男にて、即善太夫が孫なり、矢橋金次郞といふ者
也。御役宅の事なれば壓死を披露しがたくて、その夜中永田町
の隠宅に引取、翌朝菩提寺へ葬せしと云。扨中山氏を出、虎
の御門に掛り、葵坂を登り、霊南坂通り麻布市兵衞町をよぎ
り、此道すがら大破の家多く見ゆ。六本木長谷川與三郞が宅
を問しに、かの邊より西北は損所も少し、立かへり芝土器町
通りゟ切通しに掛る。增上寺裏門前を過て新橋通りの柴井町
へ出しに、此町は總潰れの上、兩頰共皆燒たり。其つゞき宇田
川町は燒ざれ共、家並倒れみぢんにくだけし故、死傷人多し
と語れり。夫より南高輪の方へは行ざれば知らず。源助町より
北京橋際迄は潰れし家はなけれど、家並ぬりごめの家多けれ
ば、破損は多くみへけり。京橋を渡りて北の方南傳馬町をは
じめ、西河岸、東河岸迄、おしなべて燒たり。夫を過て日本
橋の方はや〻破損家少く見ゆれど、今川橋邊は又潰れし處多
しと言。鎌倉河岸邊も皆家の大破損なり。常磐橋、神田橋、
一ツ橋御堀の石垣も、過半崩れしさま也。御門々々の渡り櫓
も皆損じ、石垣も所々ゆり出たり。雉子橋御門はややかたふ
きて危く見ゆ。又清水、田安兩御高臺の御茶屋は全く潰れて、
矢來迄も倒したり。
十三日、深川、本所邊を巡見せばやとて、まづ番町通九段坂
を下り、雉子橋御門を入りしに、大番所は皆潰れたり。御屋
敷の御長屋も所々崩しさま也。又竹橋御門脇の御鐵炮藏は殘
らず倒れて、まだ中に入有し箱抔其ま〻あらはに見へたる、
いといぶかし。夫ゟ御春屋前通り大手前か〻りしに、姫路侯
および森川羽州屋敷は灰燼となり、御疊藏は倒れたり。扨八
代洲河岸御堀端を日比谷の方へゆくに、岡山侯を始として家
並潰れとなりて、いまだ假の圍にて、潰れ家ども其儘なる
が、見すきてあさましく、大國主の君すらかくのごとくなれ
ば、この餘の有さまおして思ふべし。又因州侯、植村但州、
火消屋敷は燒たり。大抵大名小路西側は總潰れにて、東の方
も右に準じて大破なりき。數寄屋橋内も大破にて、大番所は
潰れたり。御門を出てはわづかの事ながら、格別大破損なく
見ゆ。夫より尾張町を橫ぎりて、築地霊岸島邊を巡見する
に、諸大名の藏屋敷は多く破損し、中には長屋抔の潰れしも
有り。又湊町邊は町屋の潰れしも少なからず。よりておもふ
に、昔し海濱成し地を築立し所は、おのづから地震のゆり強
きごとくなり。扨永代橋を渡り深川に至れば、地震いよいよ
つよきさまなり。そのうち佐賀町、熊井町、小川町、黑江町、
八幡町迄の左右は、總潰れのうへ、所により出火し皆燒と成
しゆゑ、土藏も大てい殘りなく燒失して、見もいと哀なり。
亦たま〳〵火災のがれしも、多くは潰れて住居なるべきはい
とまれ也。されど八幡本社は無難なり。又境内の末社幷に人
家は大破なれど、潰れたるは見へず。たゞ石鳥居、石燈籠の
類のみ倒れ損じたり。三十三間堂は倒れぬ許りの大破にて、
此邊の町並も過半潰れたり。堂の東手川にそひて大和町、平
野町の出、東へ打て吉永町、龜久町をすぎ、又北に折て崎川
町、龜崎町、扇子町を過、新高橋を渡りて菊川町に出たる
が、此道すがらの家並大破にて、中には潰れたるも有。南辻
橋橫川に渡せる橋なり、此橋と北辻橋、新辻橋を合せて里俗撞木橋といふ こは時鐘堂近き所なるゆゑならん、以西の
竪川の南岸に並べる町を德右衞門町といふ。此町二丁目、三
丁目とは皆燒たり。夫より三ツ目橋を渡りて、花町と綠町と
の間に出しが、此竪川の北岸にそひたる町も、一ツ目近き相
生町より橫川岸まで大抵殘りなく燒失たり。元より此邊おし
なべて破屋多く、又潰れしも所々に見へたり。扨此日御船藏
通りと二ツ目通りは行ざれど、かの邊燒失多く、即死、怪我人
夥しと聞つれば、地震のゆり強き事思ひ合さる。又北の方小
梅、中の鄕、番場、原庭、石原邊より南北割下水、及び法恩
寺橋の東西、且入江町、龜澤町通りも總て大破多き事は、前
にしるせし己が近親みしま、池田兩家なり、等の潰れて、即死、怪我人
有しにても推して知られぬ。其委しき事は、前に載る江戸大
地震細鑑等に見ておもふべし。
十八日、牛込山伏町、通寺町へ出、赤城明神脇の坂を下りて、
改代町、石切橋を過ぎ、向堀上水にそひて小日向切支丹組屋
敷に入り、大塚たんす町通りを橫ぎりて、小石川鷹匠町、極樂
水、御藥園をうち越へ、蓮花寺坂を下り、白山權現の前に出
しが、是迄の道すがらは大破の處も少くおぼへたり。夫より
駒込大觀音通りを歷て蓮光寺といふ寺は、己が實方伯母の墳
墓伯母は松平元七郞の妻にて御側衆を勤し筑後守後樗翁といふ人の母也 元七郞幷樗翁等の墳も同だんなり、なれば立
寄て拜せしに、今の筑後守樗翁の七男總領なり、もさすがは貞實の人に
て、よく家政を守りしかば、石碑の倒れしをとく建直して見
苦しからず。當今筑後守は、本所下屋敷に住居し、このたびの地震に半潰れなれど、先廟を麁略にせざる事 感ずる
にたえたり 此蓮光寺墓地には、松平伊豆守、同備中守、 同美作守等の石碑あれども、いまだいづれも倒れしま〻にてさし置たり、
かくて根津のうしろなる團子坂を下り、天王寺前へ至りし
に、此道すがらは破屋多く、寺抔潰れしもま〻見へたり。
頓て谷中門を入て上野御山内を屛風坂の方へ行に、御ついぢ
抔も所々損じ、又宿坊は多くいたみて門の倒れたるもあり。
屛風坂を下り坂本町を行に、一丁目、二丁目は兩がは共皆燒
たり。三丁目は燒ざるのみにて過半潰れ、たとへ潰れざるも
倒る〻ばかりかたふきけり。夫より金杉上下町、みの輪通り
新町迄、何處も何處も兩がはの家大破ならざるはなし。日本
堤を歷て田町に出けるが、新吉原町は世評のごとくあさまし
き燒やうにて、土藏すらわづか二三棟ならでは殘らず。田町
も皆燒と成、此近邊にかりゐすべき家なければ、大みせ娼家は
別莊抔へ立のきたらんが、並々なるはせんすべなくてかりに
長堤の左右へ板戸圍、こも張やうのちいさき家造りて、遊び女
をさし置も多かり。實に目も當られぬ有さま、黎離の歎少な
しとせず。夫より聖天町に出、猿若町の直道を山の宿の方へ
ゆくに、此邊も大抵地を拂て燒失し、たゞ花川戸、山の宿、
聖天町の大川によれる方のみ、わづかに燒殘りしかど、夫も
多くは倒れ掛りて長丸太もてさ〻へ置たり。此邊は本所、深
川とひとしく強きゆり也と言。されど淺草寺觀音堂、中堂、
雷門、矢大臣門、五重塔、末社等は、させる破損なし。又並町
より天王橋際迄も破損は少なけれども、諏訪町、駒形二町は
出火して多く燒たり。天王橋を過ぎ、下谷七曲りより筋違外邊迄の事は、前記にのせたれば、贅言せず、
抑こたびの地震は、江戸御城地と成し以來、き〻もおよばぬ
大ゆりにて、御三家方を始め大名衆、御旗本、御家人、陪臣、
百姓、町人の末末迄も、此災をのがる〻者いと少しとかや。
よて己老ぼれの身の、よしなき事とは知りながら、そのあら
ましを見も聞もして、拙きふんでにかいしるしてんとおもふ
ものから、まづこ〻ろのまに〳〵東西南北と巡視せしが、行
先々目驚く事しば〳〵なり。そが中に特に哀むべきは深川、
本所及び下谷、金杉、みの輪邊より、新吉原町、田町、芝居
町邊なり。されど己ひそかに熟考するに、町方の死傷は其筋
より訴へ出る掟なれば、き〻おどろく程の多人數なるも知る
べきなれど、諸侯及び御旗本の藩臣抔は、たとへ死傷人多く
共、皆深くひめかくして披露なければ、幾千萬の死傷有しも
はかられ難く、己こたびまのあたり目擊せしうち、大名小路
邊長屋潰れしさま抔は、必ず怪我人、即死少しとは思はれざ
る也。そのゆゑいかにといふに、大藩家人のごときは、多く
二階長屋住居にて、か〻る時にもとく立のかる〻に便りなら
ず、殊に長屋も建重りて餘地少なければ、先はあやまち勝な
り。まひて奧向づかへの婦女に至りては、錠口しまりといふ
もの有てわたくしに出入ならねば、むざんに壓死し、又燒死
も多かるべし。然ればか〻る異變に出あひては、橫死、怪我
人、町人よりも倍すべきならん。町方橫死人の數は、さる掛り
の者より書出しの寫を借得し儘、後證の爲として左に載ぬ。
安政二年卯十月夜四ツ時頃大地震にて、橫死致し候の人
數書。
東の方
田所町壹人、本船町壹人、高砂町十七人、葺屋町三人、長谷
川町四人、田所町三人、江戸橋藏屋敷壹人、新乘物町壹人、
元乘物町壹人、新大坂町壹人、若松町壹人、小網町二丁目三
人、小網町三丁目壹人、小網町一丁目橫町壹人、南新堀町二
丁目壹人、靈岸島銀町一丁目五人、同二丁目貳人、靈岸島町
壹人、瀨戸物町四人、本小田原町一丁目壹人、甚左衞門町壹
人、北島町三人、龜島町三人、堀江町一丁目貳人、同三丁目
貳人、堀江六軒町壹人、深川黑江町十七人、同大島町十九
人、同平野町七人、同一色町九人、同西平野町十人、同東平
野町八人、同西永町六人、同三好町貳人、同末廣町壹人、同
大和町貳人、同龜久町七人、同茂森町壹人、同伊勢崎町十二
人、同冬木町十二人、同元加賀町四人、同入船町九人、同木
場町三人、同中島町四人、同北川町七人、同茂森町壹人、同
吉祥寺前貳人、同靈巖寺門前八人、同海福寺門前貳人、同富
吉町十二人、同永代寺門前四十五人、同東仲町十八人、同佐
賀町二十八人、同熊井町十九人、同諸町三人、同要津寺門前
三人、同坂本代地町三人、同北松代町三丁目六人、同北松代
町四丁目四人、同材木町五人、同富久町九人、同萬年町壹丁
目六人、同二丁目貳人、同永堀町貳人、同東永代町三人、同
今川町三人、同中川町四人、同松賀町壹人、同松賀町續拜領
屋敷壹人、同松村町十一人、同八幡旅所門前貳人、同元町四
十八人、同森下町八十八人、同三間町十三人、同御船藏前三
十六人、同北松代町一丁目六人、同二丁目十貳人、同北松代
町裏町二十一人、同元町代地五人、同南松代町代地三人、同
神明門前六人、同猿江町二十八人、同大島町二十五人、同下
大島町三十壹人、同海邊大工町六十二人、同海邊大工町代地十
九人、同海邊大工町裏町三十六人、同蛤町七十五人、同六間
堀町六十九人、同六間堀代地町壹人、同森下町十一人、同常
磐町壹丁目十一人、同二丁目四人、同三丁目十四人、同富川
町十四人、同西町十三人、同扇橋町貳人、同扇橋東町十人、
同猿江裏町十二人、同南松代町六人、同右元町貳人、同八名
川町二十二人、同永代寺門前町八十貳人、同山本町三十一人、
同入船町三人、同三十三間堂町貳人、鐵炮町四人、松島町四
人、靈岸島鹽町十四人、靈岸島四日市町十一人、本所林町二
丁目九人、同綠町四丁目十三人、同綠町五丁目十九人、同茅
場町一丁目四人、同三丁目十二人、同二丁目代地壹人、同花
町三十五人、同入江町十人、同吉岡町二丁目七人、同吉岡町
御用屋敷壹人、同吉田町一丁目十二人、同二丁目十人、柳原
町壹丁目壹人、同二丁目三人、同三丁目十一人、同四丁目壹
人、同五丁目三人、同六丁目六人、同德右衞門町壹丁目二十
人、同二丁目十六人、同菊川町壹丁目三人、同二丁目壹人、
同三丁目七人、同四丁目壹人、同長崎町八人、同清水町三人、
同新坂町五人、同吉岡町一丁目十一人、同吉岡町橫町三人、
同長岡町壹丁目貳人、同二丁目五人、同三笠町一丁目十二人、
同貳丁目三人、同尾上町貳人、同相生町壹丁目五人、同二丁
目四人、同三丁目三人、同四丁目七人、同五丁目貳人、同綠
町壹丁目十三人、同綠町二丁目五人、同三丁目六人、同松坂
町一丁目三人、同二丁目十一人、同小泉町五人、同小泉町御
用屋敷三人、同龜澤町六人、同林町一丁目十三人、同林町三
丁目十二人、同四丁目八人、同五丁目十一人、同八郞兵衞屋
敷四人、同玉川屋敷貳人、同松井町二丁目貳人、同松倉町三
十人、同新町十四人、中之鄕八軒町八人、中之鄕元町十四人、
同瓦町十四人、同竹町十九人、同原庭町十八人、同御中間新
町壹人、同橫川町三人、同代地町七人、同五之橋町二十三人、
南本所元町十二人、南本所大德院門前九人、同橫網町貳人、
同石原町四十七人、同外手町五人、同番場町十六人、同荒井
町四十壹人、同元瓦町十貳人、同出村町十人、同瓦町十一人、
同扇橋代地町壹人、同石原代地町三人、小梅延命寺門前貳人、
小梅代地町十四人、小梅五之橋町壹人、龜戸町十二人、龜戸
境町壹人、北本所表町三十四人、北本所荒井町十人、同出村
町貳人、同番場町六人、同番場代地町十一人、柳島町十五人、
柳島出村町壹人、柳島境町四人、北新堀大川端町三人、橫山
町一丁目貳人、同二丁目四人、同三丁目貳人、大傳馬町壹丁
目六人、同貳丁目五人、大傳馬鹽町貳人、堀留町三丁目四人、
吉川町貳人、下柳原同朋町壹人、小傳馬町二丁目五人、同三
丁目三人、小傳馬町上町八人、通油町貳人、
〆貳千百三拾貳人
西之方
飯倉町五丁目貳人、麻布坂下町壹人、痲布三軒家町四人、櫻
田伏見町七人、西之久保大養寺門前壹人、櫻田久保町壹人、
赤坂表傳馬町一丁目壹人、赤坂田町四丁目四人、赤坂裏傳馬
町一丁目三人、元赤坂町四人、兼房町十貳人、四ツ谷傳馬町
一丁目壹人、四ツ谷傳馬町二丁目壹人、同鹽町二丁目壹人、
同伊賀町壹人、同御簞笥町壹人、糀町谷町壹人、同龍眼寺門
前壹人、麴町四丁目貳人、同五丁目三人、同七丁目三人、同
九丁目壹人、同十一目壹人、同十二丁目四人、同平河町壹丁
目代地壹人、同山元町壹人、市谷田町三丁目七人、同二丁目
壹人、同船河原町壹人、同八幡町四人、元鮫ケ橋表町四人、
同七軒町壹人、
〆八拾壹人
南之方
弓町壹人、新兩替町四丁目貳人、山城町壹人、元大工町貳人、
佐内町壹人、上槇町貳人、檜物町壹人、上槇町會所屋敷三人、
新肴場三郞兵衞請負地三人、南傳馬町三丁目五人、南塗師町
壹人、鈴木町壹人、因幡町壹人、具足町壹人、芝西應寺町貳
人、芝三島町四人、芝南新門前一丁目代地壹人、露月町四人、
宇田川町十二人、芝新錢座町貳人、高輪仲町六人、高輪北町
壹人、同臺町貳人、北品川善福寺門前貳人、同東海寺門前壹
人、南品川妙國寺門前三人、八丁堀平岸屋敷壹人、本八丁堀
一丁目澪杭屋敷貳人、南八丁堀一丁目壹人、同二丁目三人、
同五丁目代地壹人、本材木町一丁目貳人、大鋸町壹人、南槇
町貳人、北槇町貳人、幸町三人、上柳原町壹人、南飯田町三
人、明石町壹人、十軒店五人、南小田原町二丁目四人、佃島
貳人、神明町四人、芝新網町十人、本芝二丁目壹人、本芝壹
人、柴井町二十壹人、
〆百四拾壹人
北之方
谷中善光寺前町壹人、根津宮永町四人、下谷龍泉寺町三十壹
人、下谷茅町壹丁目壹人、同茅町(二丁目カ)二十四人、同金杉町五十九
人、同金杉下町二十七人、同三之輪町十六人、同通新町二十
九人、同坂本町一丁目壹人、同貳丁目五人、同三丁目二十三
人、同四丁目十六人、同御數寄屋町十二人、同山崎町一丁目
壹人、同二丁目三人、同山伏町貳人、同御簞笥町四人、池之
端仲町十人、同七軒町二十二人、湯島講安寺門前貳人、湯島
天神門前町三人、同天神下同朋町壹人、同三組町續拜領屋敷
切地代地貳人、本町四丁目七人、本町一丁目壹人、同二丁目
五人、牛込馬場下町壹人、牛込榎町壹人、同水道町壹人、同
改代町壹人、同無量院門前壹人、同正藏院門前壹人、同御小
納戸町壹人、御拂方町壹人、同御細工町壹人、岩附(戸カ)町貳人、
本銀町二丁目貳人、同三丁目三人、同四軒屋敷壹人、神田明
神表門前壹人、神田明神前塗師町代地壹人、同紺屋町二丁目代
地貳人、同明神下御臺所三人、同明神下紺屋町三丁目四人、
同小泉町壹人、同代地五人、同九軒町代地三人、同大和町壹
人、同松下町一丁目代地壹人、松下町二丁目南側代地壹人、
同松下町三丁目北側代地八人、同富山町貳人、同平永代地壹
人、同八軒町壹人、同小柳町一丁目壹人、同貳丁目貳人、同
三丁目五人、同富山町三人、同岸マヽ町壹人、同鍛冶町二丁目四
人、同鍋町六人、同蠟燭町六人、同竪大工町三人、同白壁町
五人、同鍛冶町一丁目十二人、同相生町三人、同山本町代地
十六人、同久右衞門町二丁目藏地壹人、新石町一丁目貳人、
兵庫屋數壹人、大和町立跡壹人、室町壹丁目壹人、同二丁目
四人、本石町一丁目壹人、同二丁目五人、同四丁目六人、本
鄕新町屋三人、本鄕三丁目壹人、橘町壹丁目貳人、同貳丁目
壹人、元岩井町壹人、柳原岩井町壹人、鎌倉町壹人、同橫町
北側代地三人、龍閑町貳人、雉子町三人、三河町三丁目壹人、
同四丁目壹人、同裏地貳人、永富町三丁目代地七人、通新石
町壹人、須田町壹丁目壹人、同二丁目壹人、松田町壹人、淺
草田原町十七人、同駒形町貳人、同駒形等覺寺門前貳人、同
法海寺門前貳人、同東仲町三人、同富坂町八人、同大護院門
前壹人、同三好町貳人、同茅町二丁目貳人、同福井町二丁目
壹人、同瓦町續橫町壹人、同天王町上地壹人、同福井町一丁
目五人、同新旅籠町代地壹人、同橋場町六十三人、同今戸町
二十六人、同田町壹丁目六十八人、同二丁目四十人、同北馬
道七人、同馬道醫王院門前三人、花川戸十七人、山之宿町五
人、同材木町五人、坂本町六人、同南馬道一人、同新町六人、
同淺、マ富町貳人、同聖天町二十一人、・同金龍山下瓦町三人、同
新鳥越町壹丁目十人、同二丁目七人、同三丁目五人、同四丁目
十二人、同聖天橫町四十二人、同山川町貳人、同常音寺門前
壹人、同山谷町三十人、同元吉原町二十七人、谷中玉林寺門
前貳人、同天王寺門前新茶屋町壹人、同天王寺新門前町壹人、
谷中片町壹人、天王寺門前淺草山川町二十七人、駒込千駄木
坂下町四人、小石川金杉水道町壹人、同諏訪町七人、同祥雲
寺門前壹人、同喜運寺門前壹人、同傳通院御掃除町三人、同
下富坂町壹人、同指谷町二丁目壹人、根津門前町四人、下谷
唯念寺門前壹人、下谷龍光寺門前三十八人、猿若町一丁目二
人、同貳丁目貳人、小日向水道町貳人、元飯田町五人、山谷
淺草町十九人、淺草寺中誠心院地借七人、同地中妙德院地借
貳人、同勝藏院地借四人、同無動院地借五人、同修善院地借
貳人、同德應院地借壹人、同自性院地借壹人、同金剛院地借
壹人、同和光院地借貳人、同日音院地借貳人、同金藏院地借
壹人、同長壽院地借貳人、同延命院地借壹人、同遍照院地借
四人、同吉祥院地借三人、同善龍院地借貳人、同教善院地借
四人、同醫王院地借五人、関口水道町壹人、上野町壹丁目十
人、同貳丁目貳人、上野北大門町八人、同新黑門町六人、下
谷町一丁目貳人、下谷貳丁目壹人、新吉原江戸町壹丁目四十
三人、同二丁目百八十六人、同揚屋町三十二人、同角町百五
十五人、同京町壹丁目百四十四人、同二丁目百二十三人、
外吉原町内に名前不知者、四百四十四人、
〆貳千貳百七十貳人、
總人數合四千六百貳十六人、
今案に右橫死總人數之内、東の方田所町以下、靈岸島通り油
町、兩國邊、合百四十八人、深川邊、合千百六十六人、本
所、龜戸、柳島、中之鄕邊、合八百十八人、西之方痲布、赤
坂、四ツ谷、麴町、市ケ谷邊、八十壹人、南之方弓町以下、
芝、品川、八丁堀、築地邊、合百四十一人、北之方谷中、根
津、駒込、湯しま、本鄕、牛込、本町、石町、須田町邊、合
貳百六十貳人、下谷池の端邊、合三百貳十四人、淺草邊、合
五百五十九人、新吉原町、六百八十三人、外吉原町中名前不
知參り掛りの者四百四十四人なれば、是を以て所により地震
の強弱ある事、大抵推しておもふべし。勿論火災なき地は橫
死少き筋なれ共、潰家多き程なれば、自然出火もあるべき道
理なれば、とにかく橫死多きは、ふるひも強き場所なるを知
られぬ。
地震のゆり數は混雜中の事なれば、誰人も能知るもの少なけ
れど、己あらまし覺へし數を日記のはしにかひつけ置けれ
ば、今こ〻に載せてその大略を示せり。されどそのかろきに
至ては、或は途中にして知らざるも有、亦熟睡中にて覺へざ
る時もあり、人々に依てその數不同有るべしと思へり。
十月二日夜四ツ時、大地震一度、その後夜明るまで大小う
ち雜り凡二十餘度と覺へぬ。或人の説には 三十四五度と言ひき、續きてのゆり返しなれば、
さもありけんも知るべからず
三日、晝夜にて小震十度、
四日、朝四ツ時小震一度、夜中三度、
五日、晝貳度、夜四度、共に小震、
六日、朝小震一度、夕七ツ時前強く一度、夜中小震貳
度、
七日、今曉七ツ時前強く一度、夕方小震一度、暮六ツ半
時頃強く一度、是は大地震後のゆり也、夜中小震
三四度、
八日、朝一度、夕一度、夜一度、共に小震、
九日、夕方一度、夜中四度、共に小震、
十日、夜中三度、小震、
十一日、晝八ツ時頃強く一度、
十二日、晝八ツ半時頃強く且長く一度、
十三日、晝前一度、夜二度、共に小震、
十四目、朝一度、夜三度、共に小震、
十五日、晝二度、夜三度、共に小震、
十六日、朝一度、夜二度、共に小震、
十七日、朝四ツ時小震一度、晝八ツ時強く一度、夜小震二
度、
十八日、今日終日雨、夜に入暴雨、且風烈、溫暖、夜半頃
雷鳴三四聲、曉七ツ時快晴、月明、地震無之、
十九日、地震無之、
廿日、晝九ツ半過強く一震、
廿一日、朝四ツ時前一度、晝八ツ時頃一度、共に小震、
廿二日、朝五ツ頃小震一度、
廿三日、地震皆無之、
廿四日、朝五ツ時前小震一度、
廿五日、夕六ツ時少々強く一震、
廿六日、以後地震止たりしに、十一月朔日晝九ツ半頃少し
強く一震、二日は夜小震一度、三日は夜八ツ時頃
少し強く一震、四日以後は折々有しかども、數も
少なれけば筆を爰にとゞめぬ。
紀聞十一條、
松榮院樣、晴光院樣、誠順院樣、精姫君樣、線姫君樣、共に
御住居向御大破により、御本丸へ御立のき御逗留遊ばされ、
又美賀姫君樣は、當月五日、京都より御本丸へ御下着、即日
一ツ橋御館へ御引移りの筈なりしに、右館御破損により、同
樣御本丸に御逗留あらせらる〻と言、溶姫君樣、精姫君樣
は、御住居御破損により其庭内へ御假家を立られ夫に居らせ
給ひ、末姫君樣のみ御別條なきよしきこへけれど、右御住居
の隣家福岡侯の長屋潰れし程のゆりなれば、全く御破損なし
とはおもはれざる也。是らを以てもこたびのなゐの災危(厄カ)甚し
きを知るべし。會津侯和田倉内の屋敷は、地震潰の上殘りな
く燒失せしかば、家來の橫死、怪家人多しとなり。とり分奧
向づかへの婦女るゐは憐むべき事にて、錠口開くべきいとま
なければむなしく燒失死し、二三百人の中にてわづか二三十
人ならでは助からざりしと言。此事風評なれ共、左も有べき
筋に聞へたり。是をもつて外大名衆之事をも推しはかるべ
し。
武藏秀之丞屋敷は船河原橋俗にどんどばしといふ、の東江戸川邊也。家
作忽ち潰れて、養子櫻橘只々獨り早く外へはせ出つれど、養
父、母、祖母、娘二人は、皆家の下におしにうたれて出る事か
なはざるを、櫻橘壹人して家を崩し、棟木を剪りたちて、不
殘命を助けしとなり。此事いぶかしく思ひたりしに、櫻橘は
内藏甚左衞門三男にて、己れが嫁の甥なれば、後日來りし時
尋ねしに、其事ま(ぎカ)されなけれど、只々一人して出せしには非
ず、人呼集めてからく救ひしなりと答ぬ。且彼の邊は元來萬
治の頃の埋立地なる故にや、地震のゆり方、他所と替りて下
より突上る如く覺たり。依て迯出んとするもの疊ゆり立て夫
につまづき、いかにもす〻み難くて、皆出おくれしといふ、奇
談といふべし。此江戸川邊及び市兵衞雁木、百間長屋、諏訪
町邊はおしなべて強かりしといふ事、既に後に載たる栗軒氏
が紀聞中にもいはれたり。合せ考ふべし。
小石川柳町邊も強く震りしなり。己が又甥新見兵庫中奧勤番にて高千
石餘なり、四五年以前、下谷三味せん堀より屋敷替して、 爰に移り、家作の總修理もと〻のひ 又去冬隱居所二タ間を新に造營せしが、
總潰れとなれり、屋敷も柳町なるが、住所長屋共殘りなく潰れたり。
又松崎氏御儒者滿太郞が養子幸三郞が屋敷也 小石川馬場近所椎木屋敷といふの隣家なり、の家作も總潰
れにて橫死、怪我人も有之ときけり。
市ケ谷加賀屋數馬場邊に住する大御番なりし人、久しく煩ひ
て死したるが、家督人の事なれば、内々十月二日の暮時過出棺
して赤坂の菩提寺え葬送し、佛事回向も終りて葬穴に納めん
と舁出、今少しといふ頃地震ゆり出、左右前後の石碑ども倒れ
掛り、輿かき幷附添のものも足抔疵請、からく穴中え投込て立
たりしとなり。然るに立戾りて見れば、本堂はとく崩れて微塵
となりぬ。もし地震今少し早かりせば、和尚を初め施主送りの
人迄、皆諸共に橫死せんにと、其近親の人より聞たり。是も奇
事といふべき也。姓名等も能知りたる人なれどしるし難し。
武州關宿の城下町に住せるもの〻娘、新吉原へ賣女に賣れし
が、去年中相應の町人に請出され京橋に住ける唐紙御用達也、しが、此度
地震に家潰れておしに打れて知れざるを、在所の母たま〳〵
尋ね來りて、かくと聞しより忽ち絶倒し、そのま〻終に死し
けるが、つく(ぎカ)の日崩れし家財を取片付るとて、かの娘を掘出
せしに、不思議に未だ死しきらで息あれば、氣つけ抔あたへ
て蘇生したり。今少し早く掘出しなば、母も無難に有るべき
にと、人皆かなしみしといふ。此話は、己が方に去年より奉公
せる關宿町人の娘ありて、彼が親なるもの、是も地震の安否
をきかせ(衍カ)ばやとて尋ね來りて物語りなり。
八丁堀に住る有德なる櫛屋あり、其娘おどりを習ひてわざも
能出きし故、おやども常に自まんしてゐたり。二日の夜たま
〳〵師匠の宅にてさらゐ有て、かの娘も行たるが、迯遲れて
即死せしかば、其母聞て忽ち狂亂すといへり。八丁堀諸岡氏の話なり
深川蛤町にすめる旅あきなひする魚屋由藏と云者あり、妻を
ふみといふ、四歳の子あり、地震をのがれんとて見せ先へ出
しに、往來潮水押來り行べき道なく、兎角する内家倒れしゆ
ゑ、其棟にはひ登りて、隣家の潰れ家の中をからふじて一町
許りはひゆきて、難なく三人とも助りしかど、跡は火事とな
りて灰燼となりしゆゑ、此節市ケ谷町のしるべの方に立退を
れりといふ。谷町髮結所にての咄しといふ、
牛込寺町邊に居し夫婦に子と五人暮しのもの有しが、地震の
爲に五人とも橫死せしを、入べき器なしとて、大半切の桶に
ひとつに入、同所御たんす町南藏院に葬すと云、是等も命數
とはいひながら、憐むべき事也。己が方へ出入するたんす町春米屋豐島屋市郞兵衞が話なり、
豊島屋市郞兵衞女房の弟は、市谷たにまちなるゆで出しそば
やの次男なるが、此もの新吉原町の商人屋の聟に成しが、不
熟にて今年の夏離別しありしが、此度の地震、火災にまぬか
れしは、不幸中の幸とて語れり。
本所、深川の地しん強き事は、皆人知る所也。己が近親にて
は松平筑後守、北本所三ツ目橋通下屋敷に住せし、半潰れ也三島芳五郞、石原に住居半潰
れなり、池田新之助、北本所龜澤町通り津輕新屋敷向に住 總潰なり、森川平安、龜澤町に住し半
潰れなり、竹本歡十郞、深川六間堀に住し、半潰也酒井八三郞、綠町二丁目住、半潰なり、
又由緖のものには正木保三郞、北本所南割下水に住し、潰れの上類燒村上彌一
郞、菊川町に住し、總潰れ、又兒政容が相番には、芥川善之氶、本所南割下水に住居、總潰
れの上、實は即死之由きけり、布施孫兵衞、猿江小名木川通住、半潰れ、新庄茂之助、三笠
町壹丁目松田八左衞門、三ツ目通り、淺井新太郞、北本所二、三之はしの間、以上半潰なり、
兒正誼が相番には、糟屋久三郞、綠町三丁目、半潰大怪我したりといふ和田勝
太郞、松井町、半潰、是も大怪我せしといふ、大久保次郞右衞門、回向院の北手、半潰 母堂橫死
せしといふ、高田九兵衞、深川大工町、半潰 奧方大怪我したりといふ等也。正しく聞及
ぶもの斯多ければ、本所、深川住居のもの〻無難なるは、い
と稀なるべし。扨己れが養家は本所綠町二丁目なりしが、文
政七年、姪聟酒井太郞七、今酒井八三郞といふ、太郞七樣の聟養子なり、と屋敷對替
して湯島天神下へ轉宅し、其後天保七年、再び大久保臺町
今兒小林正誼が住居せる處なり、へ移り、弘化三年、更に今の地へ轉宅した
り、然るに此地高臺の丘上にして、夏向や〻もすれば堀井の
水のくみ盡して事かきぬれば、氣早なる所爲にはあれど、此後
再び水地に住居せまほしく、且己れ元來牛込船河原出生の故
鄕なれば、揚場町裏通り、今松平小豐司の屋敷なり、兄三島幡右衞門代に屋敷替たりその邊こそ好
ましけれとおもふものから、既に龍慶橋抔あれかれ心がけし
かど、たまたまよき相手もなければ其儘止みたり。然るにこ
たびの地震に、彼邊殊にゆり強くして潰れぬ家は少しと聞に
ぞ、初て虎生の夢さめし心せられておどろかれぬ。よりて思
ふに、己れもし始の屋敷本所に住んには、半潰はもとより怪
我、橫死の程も計り難し、又湯島下に住居せんにも、家並半
潰のさまなれば先はのがれぬ筋なるべし。且大久保と此邊と
は大やうひとしきゆりなれど、取譯け我家の破損少きは、い
かなる福そや。抑またこれらは天算の定數によれるならんか
も。
(よし脱カ)
世の中のなにはの事のあしも
定るふしの數としられぬ、
江戸大地震末代噺之種、卯年十一月出版繪入本貳册、奇談四條、
安政二卯年十月二日夜四ツ時、大地震ゆり出し、土藏かたふ
き、家潰る〻事夥しく、老若男女の死亡數知らず。此時八方
より猛火炎々と燃上り、炎天をこがし、出火初め三十八口な
りしが、近きは燒つゞきて三十二口となり、又二十七口とな
る、追々燒ひろがり、翌日午之刻全く鎭火す。猶是が爲に人
命を絶事夥し。御府内市中の人民、一瞬のうちに命を失ふも
の數萬人、實に前代未聞の怪談なり。其後のゆり返し有ゆゑ、
又もや大地震あらんかと人々恐れ、大道へ荷物等を積て圍ひ
となし、爰に寢る事斯て七八日頃に至り、地震漸々薄らぐに
隨ひ、追々野陣するもの少く、且十四日終日雨降るに依て野
宿止みたり。その假住居せし中にも、御城下御堀端、御
見附の内外廣場、外神田廣小路、上野廣小路、淺草廣小路、
忍が岡新土手、淺草寺地内花やしき、本鄕六丁目加州樣御門
前、九段坂上、護持院原等、群集夥し。假借宅の繪圖有爰に略す
新吉原日本堤震ひ動く事取分強く、大地震忽ち裂破れ、一筋
の白氣な〻めに飛去、金龍山淺草寺なる五重塔なる九輪を打
曲げ、散じて八方へ散る。その光眼を射てすさまじといふ。
案に此白氣の立しと言は、堤の裂て吹出しにはあらじ。恐
らくは此邊織田家、六鄕家抔の下屋敷多ければ、その熖硝
藏へ火氣移りて合藥のはね出しにもあらんか。塔の九輪の
棹の曲りたるさま、地震の所爲とはおもはれず。もし地動
の爲にかたふかんには、塔とも其儘倒れべきはづなり。此
度丸の内邊大名屋敷の燒失多きも、元地震の潰より発する
といへ共、所々に火藥の貯有し災ひも少なからずといふ論
あり。さも有ぬべき事と知られぬ。
新吉原五ケ町は地震鳴動するとひとしく、娼家一同ゆり潰れ、
火炎々として八方より燃出し、廓中一面の火事となる。され
ば裏々の反橋を下すに暇なく、又たまさか下さんとするもの
有ても、反橋損じて渡す事かなはず、大門一方の出口となる
ゆゑ、煙にまかれ、火に燒れ、家に潰され、又幸におしをま
ぬかれたるも、家根をこぼち壁を破りて助け出すの人なけれ
ば、空しく火の燃來るを待つて燒死す。斯の如くなれば、手
負、死人夥しく、實に目も當られぬさま也。其中遊女死する
もの八百三十一人、客其外此處へ來りしもの四百五十餘人、
茶屋幷廓中の諸商人藝人等凡千四百餘人、總〆死人貳千七百
餘人と云。且土藏は一つも殘らず、只々西河岸の家少少殘り、
又五拾間道の片側殘ると云。此燒死人の數 前に出せし書上と相違せるは 全く表向と内實との
差別ならんか、
牛込邊に一人の狐つき有けるが、當十月一日口ばしりていふ、
大變あるゆゑ、十八日迄歸り來らずといひさま、とゞむる人
を振拂ひ、一さんに駈出、何方へか行しが、翌二日の夜大地
震にて、右の居宅震り潰れ、近邊も潰れし家夥敷、橫死、怪
我人有しとなり。彼狐つき其後早速歸り來らざるにより、又
もや大地震あらんかと、此邊のうわさ今にやまず。
案に狐狸のか〻る事前知せしためし、昔より語り傳ふるも
のま〻あり、怪といふなるべし。
出典 日本地震史料
ページ 508
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.010秒