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項目 内容
ID J0400567
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(西曆一八五五、一一、一一、)二十二時頃、江戸及ビ其ノ附近、大地震。震害ノ著シカリシハ江戸及ビ東隣ノ地ニ限ラレ、直徑約五六里ニ過ギズ。江戸町奉行配下ノ死者ハ三千八百九十五人、武家ニ関スル分ヲ合スルモ市内ノ震死者ノ總數ハ約七千人乃至一萬人ナラン。潰家ハ一萬四千三百四十六戸ヲ算セリ。江戸市中ノ被害ハ深川・本所・下谷・淺草ヲ最トス。山ノ手ハ震害輕ク、下町ニテモ日本橋・京橋・新橋附近ハ損害比較的輕微ナリ。地震ト同時ニ三十餘ケ所ヨリ火ヲ發シ、約十四町四方ニ相當スル面積燒失セリ。近郊ニテ殊ニ被害大ナリシハ龜有ニシテ、田畑ノ中ニ山ノ如キモノヲ生ジ、ソノ側ニ沼ノ如キモノヲ生ジタリ。津浪ハナカリシモ、東京灣内ノ海水ヲ動搖シテ、深川蛤町木更津等ノ海岸ニハ海水ヲ少シク打上ゲタリ。
書名 〔破窓の記〕理科大學地震學教室所藏、
本文
[未校訂]安政二年乙卯十月二日、晝のほどは天曇り雨の氣を含めり。
夜に入てからく晴る。戌の半刻過ぎ、吾は姉人と小婢の間に
在りて、手爐によりつ〻眠をもよほすをりから、なゐぶりと
覺しくて、天地おのづから聲あり。姉に婢はあといひざま我
にすがるを扶けつ〻、梁をよぎたる柱にいざりよるに、ぐわ
ら〳〵ひし〳〵と千よろづの雷鳴りわたるやうなるに、人人
のをめき叫ぶこゑ、をちこちに聞ゆ。をりしも二階二階、
居間などは、層樓、居室とも書くべけれど、さまでは物しりめかしく、をこのわざなれば略しつ、以下また是に傚ひて目やすく記せり、
に積たる書櫃、叉居間の架より雜具ども頽れおち、壁叉障子
などは浪のうつやうに見え、天井、鴨居動きひしめき、女ど
もはた♠に消えいるばかりなりしかど、ほどなく搖りやみし
かば、をちこちに人聲さうぞき聞ゆ。女どももやう〳〵心ち
つきしかば、やをら老の身を起し、窓戸引あけてやる。人々
火のあやう(ふ)し、火所に心せよとしはがれ聲をあげつ〻、提燈
ともして、外面を見やれば、我あづかる所の連屋ひと棟の廂、
みな崩れおちたればあきれながら、身うちに疵つきしもの
はなきや、あまりにあわて〻身をな害ひぞなどいひつ〻問ふ
に、人みな色をうしなひ、いまだ息もつぎあへねど、疵も得
ぬよし皆まうす。此歡び我身にとりていとかぎりなしといら
ふ。叉我家を見るに壁こぼれ、柱はひづみたれど、住わぶる
ほどにはあらず、さるをりから火のおこりしを知らする半鐘
のおと、そここ〻に聞ゆ。屋の上によぢ登りて見れば、東は
本所、巽は深川、西は丸の内、乾は小川町、南は京橋の邊り
北は下谷、艮は千住、吉原、淺草、すべて火の口はたちばか
り見ゆ。丸の内、京橋の邊り抔の近きは、火の子火の子といへる事、平
家物語に見ゆ、ちりぼひ、家々の燃る音さへあからさまにて、いと
〳〵すさまじ。其夜は北風にて、京橋の火は我をる町西河岸町、
をしりにせれば、氣づかはしからず。叉丸の内の火は、火の
行かたはらにあたれり。小川町のは追風にていと〳〵あしけ
れば、とにかく火のやう見んとて家を出づ。時に丑の刻ばか
りなり。我町はぬりごめおほかた崩れたれど、家々は庇おち
傾きたるのみにて、ひたと倒れたるはなく、一石橋の南の橋
ぎはの石垣、少しく崩れおち、いしだ〻みゆるぎ壞れたり。
此橋を北鞘町のかたざまへわたるに、なゐぶりのためにつち
のすべてあれすさみしは、おほかたひとひらの紙をもみしに
似たれば、こ〻にいはず、叉さりがたきは後にもいふべし。
先鎌倉河岸より二三番の御火除原の前を過ぎ、四番のはらの
うしろへよぎれば、小川町松平豊前守殿、本鄕丹後守殿燒る。
裏神保小路北側西の角より一ツ橋通り、小川町東の方片側、
裏猿樂町堀田備中守殿西角ゟ、おしなべて水道橋の邊り迄、
御旗本衆屋敷燒る。四番の御火除原のつゞき、御堀端小出伊
勢守殿、大津(澤カ)右京太夫殿屋敷前ゟ、爼板橋迄のあはひ大路裂
る。ほのほは今みさかりなり。行々足もとゞまらねば、あゆ
みを歸して見やるに、一ツ橋御門の左右石垣いたく崩る。此
御門を入て右手のかたざまへ行くに、第宅築地あるはつぶれ
または倒れて、所せき中を踏わけつ〻、火のあるかたを見る
に、大手御門向ふ酒井雅樂頭殿上中二屋敷、辰の口森川出羽
守殿邸燒る。猶和田倉御門の内にほのほ見ゆ。後に聞けば御
門内松平肥後守殿上下二屋敷、松平下總守殿、西丸下内藤紀
伊守殿燒る。松平玄蕃頭殿屋敷燒込、又和田倉御番所等燒
る。叉山下御門、幸橋御門、内外櫻田邊は、松平肥前守殿、
松平大膳太夫殿、松平時之助殿、伊東修理太夫殿、龜井隠岐
守殿、南部美濃守殿、有馬備後守殿、丹羽長門守殿、北條美
濃守殿、松平薩摩守殿中屋敷等、なべて燒る。叉松平肥後守
御殿持場内海二の御臺場燒しと也。そはおきて八代洲河岸の
方へゆくに、遠藤但馬守殿、同續定火消役御屋敷、叉松平相
模守殿上下二屋敷、本多中務大輔殿、永井遠江守殿屋敷等燒
る。馬場先御門左右石垣いたく頽る。こ〻より家路をさす。
道すがら見るに、龍の口阿部伊勢守殿第宅潰れ、築地倒る。
傳奏御屋敷、御評定所潰れ、築地は御堀端へ倒れて、小路い
と狹く、地叉裂たり。終に呉服橋御門より家に歸りぬ。市中
の人々は、再なゐぶりあらん事を恐れ、かつは火を避んとて、
大路小路に資財家具など持出つ〻、莚敷、戸障子など圍ひて
宿りをり、互に明日を待てり。今夜さいはひに風しづかにし
て、曉る頃ほひよもやまの火なべてしづまりぬ。此勝事江戸
おしなべての事なれば、うからやからも扶け來らず、ちかし
き人だちもさらに訪らはず。明れば三日、天晴たれば家に歸
らず、かれは梁に敷かれて死たり、叉軒に打れて命絶えたり、
瓦にあたりて傷つき惱めりなど、おろ〳〵聞えて人も我もな
べてこ〻ち靜ならず。よべ新吉原町のくるわの火に燒れて身
をうしなひしは、其地にありとありし人々の半ばばかり也と
聞ゆ。かつ生のびたるあそひどもは、繫がね船のはつる泊り
をもとめんとて、市路をさまよひありく。叉びや病うさ者置せ給
ふ淺草の獄舍をひらきて、罪人を放たれしかば、其人々市に
あらびをなすときこゆ。我は今日家にありて、あづかる所の、
火の災ひなからしめんこ〻ろえなどす。午過る頃、吾連屋の
荒たるさまを地主にまうし告んとて出づ。青物町より海賊橋
を渡り靈岸橋より右り靈岸島の邊りに火地のさまを見て、永
代橋に出づ。青物町よりこ〻まで建つゞきたる家々、ぬりご
めはなゐのゆりふるひたるかぎり、江戸のうちすべて裂れ頽
れざるはなければ、くだ〳〵しくうちかへしいふべくもあら
ず。さて橋を架りて左の方佐賀町へ行に、家々右り左りより
打倒れて小路をふたぎぬれば、人々とともに家の倒れたるを
踏こえて、吾地主深川西永代町栖原三九郞が許へ訪ふ。家は
ゆがみ頽れて、人々は例の小路にむしろ敷てをるに、しばし
がほどはあきれてものもえいはず。やがてあるじだつ人に、
誰かれの安否を訪ふに、疵つき煩ふものもなきよしいらふ。
さて吾あづかる所の家々のありさまを物語りて、かくてはい
かであめかぜしのぐべき、よろしくめぐみ給へと申せども、
地主も小路のたゞずまひなればしひても申がたくて、叉の日
猶うかゞひまうすべきよしをのべて歸りぬ。其道すがら小網
町を過るに、北新堀町より小網町のあはひ、ところ〴〵地裂け
たる所ありき。こ〻らのなゐぶりのさまを心にいたみつ〻、
家につきぬ。職人の料銭、あきもの〻價ひ、高うすまじきよ
しを
おほやけより令せらる。されどもなべての職人どもは、金壹
分叉は貳分受取り、あきものは蓬、莚、繩、草鞋に至るまで
よのつねの價の一か二分ンを增し、故に今月十六日、十七日の間 市中の材木屋、荒物屋、
職人、其外家造普請等に携る者共、多く町奉行所へ召捕はる、金壹兩に六貫六百銭なりしも、
忽ち六貫五百銭になる。錢相場高うすまじきよし、上より兩替や共へた♠ちに命ぜられしかば、其心を得
て、忽ちもとの相場に歸したり、か〻るすぢも時に從ふおのづからの勢ひに
て、叉とゞめがたき所なりかし。今夜子の刻過る頃、大手御
門の内下御勘定所より火出しかど、他も燒ずして鎭りぬ。四
日天晴、家に在りて壁のこぼれ塵ひぢなど打はらひ、衣服入
れし櫃つゞらなど取收めて後、吾墓どころのいかに荒けん、
叉女なるもの〻老たる母うへの安否も訪はまほしくて家を出
づ。江戸橋をわたり、小船町を過る。此ほとりなどはつよく
ゆりしさまなり。橫山町壹丁目飯沼屋源兵衞がりを訪ひ、老
母又人々の事故なきを歡ぶ。同二丁目の佐保介我、三丁目の
田中甘志を訪ふに、ふた方ともに恙なし。こ〻らの大路のあ
りさまを見るに、なゐぶりの爲にうせたるもの〻亡骸とおぼ
しく、あるは酒入れし樽、叉は水桶、かつは菰などに裹みた
るま〻にて、いくらともなくさし荷ひゆくは、本所の回向院、
叉は淺草、下谷など、おの〳〵其よせあるかたへとりおくな
るべし。嗚呼さもあるべし、新吉原に死せるもの、丸の内、
小川町などの第宅、叉本所、深川などは、殊にすさまじうゆ
り動きしと聞ゆれば、物にふれて死したるものは、いかばか
りにかあらん。甘志も(にカ)いとま告て吾よるべのみてらを訪らは
んとす。甘志もともにといへるに、さらばとていざなふ。行々
阿部川町稱念寺一向宗地中願信寺に至るに、堂舍共にいたく殘
ふ。住僧にあひて安危を訪ふに、辛うじて恙なく凌ぎしとい
ふ。金ひとつをた〻うがみにして香料にさ〻ぐ、本寺の庫裡
はいたく荒たれど、本堂は瓦落、壁毀れたるのみにて先づ平
らか也。墓所はいかにと氣遣はしく參るに、人のも我のもな
べて打倒れてあさまし。吾しるしの石起してと思へど、老の
手の及ぶところにあらざれば、空しく禮して歸る。道のほど、
淺草新堀端御書院番組屋敷内安井氏峨松、同所奧の原大井氏
千紫、兒玉氏立基を訪ふに、みな事故なきをよろこぶ。日も
暮ぬべき際なれば家に歸りぬ。けふ我みてらへまゐりしを
り、本堂の傍らに人のなきがら十ばかりありき。一寺にさへ
かうあるを思へば、江戸の寺院いくばくかあらん。此四五日
があはひ、猶身まかりしものをとりかさねたらんには、いか
ばかりの數なるべき。既に今日おほやけより、此災に死せし
もの〻有數を其筋へおほせてかぞへさせたまへば、猶後に全
きを伺ひて記すべし。かつ予が年ごろしたしかりし俳諧者流
にて災にか〻りてうせしは、深川西平野町素雲堂曾云、本所
三ツ目逸見甲斐守殿家賴翠日庵子來、同所綠町天鼠庵桂雨な
り。神田橋御門外本多侯家來岡氏柳の屋風齋は 北里に在しが 此難にあひて歿せり、此中曾云の父は紙
屋六兵衞とて、本鄕春木町に住て未醬釀りてあきものとし、
家富たり。吾父は本鄕古庵屋敷に酒商ふ家にて大坂屋藤兵衞
といひしが、紙屋六兵衞とは二なき友どちなりき。さるを六
兵衞身まかりて嫡子なるもの〻、其家も名も繼しかど、身を
花奢風流に浸りしかば、家やう〳〵衰へしを二男に讓りて、
かねて好めるわざなれば、遂に俳諧者流に陷りてなりわひと
す。五世雪中庵對山につきて、緣淨庵雪鷗といひぎ。雪鷗の姉
なるものは名をこうといひしが、吾父の媒して、本鄕眞光寺
門前なる笹屋七兵衞といひし餅屋が婦におくりぬ。雪鷗も天
保年間と覺ゆ、不幸にして東海道の旅に病で死す。其後紙屋
六兵衞俳諧の名を曾云といひしが、終に家をはふらかして、
叉俳〓者流をなりわひとす。さるを近曾病で腰局りありくこ
とを得ずして、憐むべし此難にあひぬ。吁遠つ祖ゟ代々つた
へし若干の資財を浮華のためにうしなひ、ふたりながらかゝ
る終りを遂けるは、いと〳〵うれたき事なりかし。こは是に
あづかるまじき事なれど、叉因みなきにしもあらざれば、筆に
まかせて記す。今日幸橋御門外の原、淺草廣小路、深川海邊大
工町、此三ケ所へ窮氏撫育のために、御救ひの小家建つ。御小屋入
りを願ふもの、いと多かりしかば、後に上野御火除地、深川八幡社内、此二ケ所御救小屋たちて、都合五ケ所ど成る、五日天
晴る。いで此後の思ひ出に、叉あひがたき治平の中の愁ひを
も見て來んとて朝より家を出づ。先づ青物町より例の小路を
過て、永代橋をわたりつ〻右り手へゆくに、迦久土の神のあ
らびにかゝりて、相川町より富が岡の八幡境内のきはまで、
左右の町々殘りなく、叉此南北の裏町々々も多く燒て、漠々
たる曠原の如く燒る。から境内のきはにすこしく燒殘りし町
家は、強くゆり潰れて恰も簓を亂したるが如し。覺云、三十三間堂は先
後曲て中程より先きの方十間許甚く倒れたるは、佛力ありてふ觀世音の安置もならで、千の御手にも引止めがたくや、そこよ
り汐見橋をわたり、吉祥寺辨才天女の祠へいたるに、なゐに
も波にもいたくゆられぬにか、つ〻がなし。こ〻より江島橋
をわたりて木場へ出づ。塹にちかきこ〻らの小路、地裂たる
所いくらもあり。扇町より吉永町、東西の平野町へ出づ。此
あたり家々ゆり潰れしに、材木など彌がうへに算を亂して人
々のゆきかひをうしなふ。此あたり伊勢崎町の邊りも燒しと
聞けどゆかず。直ちに淨心寺、靈岸寺門前淨心寺の前門いたくゆりつぶれ 靈岸寺
の前門も倒る、後に淨心寺の境内を通りぬけしに、 力士阿武松綠之助浦風林右衞門などの大きな墓碑の倒てありしが、か〻る人の亡
靈も何さま耐がたくや、より高橋をわたり、本所(深川カ)常磐町の火地を見て、
ゆく〳〵森下町の燒土を踏つ〻、彌勒寺橋をわたりて右りへ
閑月庵如萍を訪ふに、互に事なきを歡ぶ。そこを出て三ツ目
通りへよぎらんとするに、叉德右衞門町の火地を踏て三の橋
をわたりつ〻、南割下水へ出るあはひ、なべて強くゆりしさ
まにて、屋敷々々おほく倒れ潰る。長崎町の邊りに安西氏巴
丈を訪ふにつ〻がなし。爰に本所四隅の所々にありし火地の
大槪を聞つれど、ゆき見ん事も急景の限りあれば、南割下水
通りを西ざまに下りて、御厩河岸に舟わたりして八幡大神の
在す大護寺門前へ出、淺草寺の方へ行んとするに、三好町よ
り駒形堂のきはまで大路左右皆燒る。淺草寺境内を隨身門へ
よぎりて、北馬道より猿若町に至り、火地の有やうを見る
に、こ〻より吉原、千住まで、冬の燒野の、立かへるべき春
もなきやうに見わたさる。あなあはれ〳〵とうちうめかる。
かかるが中に火を遁れたる山の宿町などの家々には、かのく
るわの遊びがこ〻かしこに見ゆ。行々淺草廣小路、叉田原町
など經て、東本願寺本願寺裏門倒る本堂恙なし、へ入り、下谷廣德寺前通
り、東叡山へ入るに、なべて例のあれすさみたる中に、山王權
現叉觀世音の在す堂社のほとりに、染わたりたる楓葉の、斜
に日に映じたるがいとめでたし。こ〻を出て三橋をわたりて
見やるに、廣小路の東側松坂屋といへる呉服屋の角までなべ
て燒る。此中にも松坂屋は多くのぬりごめ、みなのほほに成て
一抹の塵埃も殘らず。江戸商人第一の損失也と聞ふ。叉此裏
につゞきたる町々多く燒る。下谷池の端矛町の邊りも燒しと
聞ゆれど行ずして、御成道を家路の方へさすに、同所石川日
向守殿屋敷燒る。此向ひなる井上某殿のやしきはゆり潰れ
て、たゞに新などちらしたるやうに見ゆ。筋違橋をわたりて
吾家へ火ともし頃にかへりぬ。さておもふに、本所、深川は
なゐぶりの殊につよかりしにか、行かふ人々、あるは車ひき、
もの擔ふなる雇人等も、多く身うちに疵つきて見ゆ。我をる
町のほとり、南は京橋、芝、北は神田、本鄕のあたりは、ゆ
りふるひしも緩きにか、か〻る人だちも疵つきたるは少かり
き。こはいづれも地勢のしからしむる所にて、せんすべなし。
後に芝邊へ行しに、露月町、柴井町、宇田川町、神明町邊は、家倒れ潰れしも少からず、又下谷なども 坂本 箕輪の邊は 是も倒れし
さまいとすさまじかりし、すべて同じ芝の内、同じ下谷の内にて、動搖の強弱あり、此外も皆しかり、叉神社佛閣は、
富ケ岡八幡、靈岸寺、淨心寺、本誓寺、淺草寺、東叡山中堂、天
王寺、湯島天神抔は、いづれもけふまのあたりに見し、本社、
本堂の平らかに立せ給ふは、げに神佛の奇特あるによれるよ
し、なべての人は思ふめれど、さにはあらじ。必ずゆり轟けど
も、棟梁四簷、おのづからのりにかなひて釣あひよければ、
傾き倒れざる理りあるなるべし。こ〻らの中にも淺草寺、天
王寺などの塔の淺草寺の塔は事故なくて、塔上の九輪曲り傾き、天王寺の塔も恙なく、九輪は落 又八代洲河岸の
定火消役御やしきの火の見櫓も、本は恙なく 頭の柱又屋根などは、ゆり落せしなり、事なきを見るにも、
極めてさる事とはしらる。そは根もなき行燈やうのものなど
の、か〻るをりにふれて倒れざるが如く、かの與次郞兵衞と
かいへる、わらはの玩びもののすうる所によく立るがごとき
は、皆釣あひに從ふものなりかし。叉數かぎりなき橋抔の、
ゆり頽れて落たるも粗見えぬは、神佛おはして橋を守り扶け
給ひしなどいふべきすぢもなくて、是も必頽れ落まじき理り
あるによれり。さればとて神佛を驗なきものとさみしいふに
はあらず。聊思ふ所の義理をもて述るものなりかし。今日武
家方の營作、なべて華麗の費を省き、築地抔も防禦を凌ぐま
でにしつらふべきむね命ぜられしかば、市中の家々も見ざま
にか〻はらず、風雨を厭ふ迄に作り營むべきむねを仰出さ
る。一石橋の橋臺、石垣、なゐぶりに崩れし後、猶おひ〳〵
にくづれおつるによりて、今日より往來人をとゞめらる。六
日天晴る。けふは家にあり。きのふ糯八斗を買得て餅肆へあ
つらへしかば、けさ搗て熨餅といふものにつくりてもて來、と
みに予があづかる所にをる人々に分ちあたへ、猶のこれるを
近きわたりのうからやから、叉したしき中らひへもわかち贈
る。今日深川大島町に住るものどもとか黨をくみて、近き所
の破れたる土倉におし入て米多く奪ひとりて去りしかば、其
ものどもの中捕らはれて、呉服橋御門の内なる町奉行所井戸對馬
守殿、へ送らる。七日天晴る。家に在り。本所回向院にてよの
つねは無緣の亡者ひとりを、錢壹貫文にて葬りし例なるを、
こたびは寺務のため、いさ〻かの香銭も受ず葬りたきむねを
願ひ出しよし。
おほやけより市中へ觸示さる。今夜の酉の刻ばかり地震強く
もあらねど搖る。人々[忙怕|ヲヂ]居ば、おどろきわな〻く事おほか
たならず。二日の夜より後、晝夜の間二たび三たびづ〻すこ
しくゆらざる事なければ、おのも〳〵いまだ大路に圓居る。
おほよそ今月廿四日頃迄に、漸くなゐぶりうすらぎゆりやむ、おのれは三日の夜よりふた〻び
なゐぶりせん事あらばと、其心術して宿に臥せり。今日 お
ほやけよりの御觸に、大路、小路に所せきまで假屋して構へ
をれば、乘馬其外の往來に障ることありてはあしかりなん。
さらば今より後は道に幅とらず、叉はゞとりておのづから疵
うくることなからしめんやうに計らふべし。かつもしふた〻
びつよくゆりて家々はさら也、外面の假屋など潰るる時もあ
らんには、火の災ひおこらしめざらんがため、竈は焚終らば
早々消しおき、手爐、火納などへは蓋おきて立さるべき心構
をかねてすべきむねの、ふたぐたりを觸示さる。八日天曇
る。在宿。けふ市中組々の坊正ゟ、なゐぶりの次第書記して
町奉行所南池田播磨守殿、北井戸對馬守殿、へ捧ぐ。其有やう、變死人通計三
千八百九十五人、男は千六百十六人、女貳千貳百七拾九人な
り。此中新吉原町變死人六百三十人、た♠し男百三人、女五百廿七人なり こは名字住居つまびらかなるものを撰たるにて 此外
他より入こみしもの〻死したるなどを猶とりかさねたらんには、必一千人をこゆべしといへり、潰家一萬四千三
百四拾六軒、幷千七百廿四棟(半潰脱カ)、潰土倉千四百四ケ所、此餘の土倉、
すべて破損せざるはなし町家燒失總町數凡二里拾九町、幅平均二町程、
其町々を爰に記す。但し日本橋南長さ壹町十間餘、幅平均二町廿四間程、○日本橋北長さ壹里二町四十聞餘
幅平均壹町四十七間程、○本所深川長三十一町十間餘、幅平均壹町四十三間也 ○御曲輪内諸家方燒失不明 依て爰に記さず ○小川
町武家方大小五十軒餘にて、長さ七町半餘、幅平均四町程 ○内海二の御臺場一圓燒失なり、
一南鍛冶町壹丁目狩野探原屋敷、五郞兵衞町、北紺屋町、疊
町白魚屋敷、南傳馬町壹丁目、貳丁目、南大工町、松川町
壹丁目、本材木町七丁目、八丁目、鈴木町、因幡町、具足
町、柳町、炭町、此火元南鍛冶町壹丁目家主長兵衞、同町
庄兵衞、斯る變事に依て人にはからずも家を捨て退きのがれたる後に あやまちて家より火の出るものは、おのづか
ら皆家主の罪を得るもの也 さればすべて家主をもてこ〻に火元とす、こは京橋北詰町々總而一
口也。
一鐵炮洲十軒町、松平淡路守殿共一口、此火元十軒町鐵三郞
店龜次郞也。
一靈岸島鹽町、同四日市町、同銀町六丁目、大川端町、總而
一口、此火元鹽町家主儀兵衞也。
一柴井町月行事房吉、火元一口也。
一兼房町、松平兵部殿屋敷共、一口也。缺火元、
一淺草駒形町、黑船町、諏訪町、三好町、淺草三軒町、同所
八軒町、總而一口、此火元駒形町家主龜次郞、三好町同彌
兵衞兩人也。
一猿若町三町分、淺草田町、山川町、花川戸町、聖天橫町、
南馬道町、北馬道町、谷中天王寺門前、淺草寺地中町家十
八ケ寺分、一口、此火元淺草寺地中家主小兵衞也。
一新吉原町五ケ町、幷五十軒南側は殘る、共、一口也、此火元江戸
町二丁目家主松五郞、同町同幸吉兩人也。
一今戸町家主庄吉、火元一口也。
一橋端町、缺火元、一口也。
一淺草行安寺門前、行安寺門前は、淺草菊屋橋西際也、同所正行寺門前、同所
本立寺門前、一口、此火元行安寺門前家主喜十郞也。
一同所龍光寺門前、龍光寺門前は、淺草堂前のほとり也、家主保七、火元一口也。
一千住、小塚原町、一口也。缺火元、
一下谷茅町壹丁目、貳丁目、池之端七軒町、講安寺門前、稱
仰院門前、其外門前地五六ケ所、總而一口、此火元茅町壹
丁目家主清兵衞、同二丁目同金七、池の端七軒町同清左衞
門、右三人也。
一下谷南大門町、北大門町、同所同朋町、同長者町壹丁目、
同貳丁目、同所常樂院門前、下谷町壹丁目、上野町、總而
一口、火元上野町家主與兵衞也。
一下谷坂本壹丁目、貳丁目、参丁目、一口、此火元參丁目五
人組持居醫師清庵也。
一南本所番場町、北本所番場町、同所荒井町、總而一口、此
火元南本所番場町家主新八、荒井町同忠太郞也。
一本所中之鄕竹町、同續松平周防守殿下屋敷共、一口也。缺火元、
一南本所石原町、火元家主久右衞門、一口也。
一南本所元瓦町、同所小梅瓦町、一口、火元は元瓦町家主新
藏也。
一本所花町、同所綠町一、二、三、四、五町迄、總而一口、
此火元花町家主德兵衞、綠町一丁目同市五郞、同二丁目與
兵衞、同五丁目安兵衞、右四人也。
一同所出村町、中之鄕出村町、一口也。缺火元、
一龜戸町、一口也。缺火元
一中之鄕五の橋町、一口也。缺火元、
一本所德右衞門町壹丁目、二丁目、一口、此火元二丁目家主
與兵衞也。
一深川常磐町壹丁目、二丁目、一口也。缺火元、
一同所六間堀町、同所御船藏前町、同所森下町、一口、此火
元六間堀町家主新藏、同所同勝五郞、御船藏前町同勘次郞、
同町同久兵衞、森下町同德右衞門、同町同甚四郞、右六人也。
一同所伊勢崎町、家主市兵衞火元、一口也。
一同所龜久町、家主忠次郞變死に付、組合金兵衞火元、一口
なり。
一同所相川町、熊井町、諸町、富吉町、中島町、大島町。
一黑江町、蛤町、總て一口、此火元熊井町家主利八、大島町
同幸次郞、黑江町同善兵衞、蛤町同伊右衞門、右四人也。
一同所永代寺門前、仲町、同門前町、同東仲町、同山本町、
一口、此火元永代寺門前町家主竹次郞、同町與兵衞、同所
東仲町金次郞、同所山本町同金平、右四人也。
市中出火通計合三十口也、こ〻はすべて市中のみの分限に
て、其變死人などは、武家方、社家、寺院を籠めて、いく
ばくの人數かあらん、取集めなば、必一萬人にあまるなる
べし。
今度の變死人數屆三萬人餘、或は五萬人餘とも聞え、至
て甚しきは廿貳萬餘人など、いづれも物に記し聞ゆれ
ど、皆浮説にて取べからず。されどか〻る事も後世に及
べば、却て浮説の莫太なるかたを事實とする例少から
ず。既に予がこ〻に一萬にあまるべきよしを書付しは、
誠に動くまじき數量也。そは市中總計三千八百九十五人
に、武家寺社を二倍に加へても一萬貳千人ばかり也。其
中市中の死人の洩たるも多ければ、これかれ融通して其
數量全く凡一萬五千人にはたらざるべし。こは淨世の惑
ひを解ん爲に記すのみ。
玉川上水樋筋、地いたくさけ破れしかば、大木戸より麴町
十二丁目橫町角迄、右樋假御普請に依て、今日より往還の
間、普請場所おくり〳〵に往來人をと♠めらる。九日天曇
る、今日堀田備中守殿從四位侍從 溜之間詰領下總國佐倉十壹萬石、御老中上座仰
付らる。再勤なり、夕つかた紅樹園朗一訪らひ來る。此老人な
ゐぶりの夜、牛込逢坂の上駒木根氏氷骨がもとに在りし
が、家ゆり、傍らの崕くづれしかど、辛うじて老人も氷骨
も死をまぬかれしよし物語る。ついでに世くだりて天の下
にくさ〴〵の害ひおこるを、古稀過る身の、まのあたりに
見もし聞もするうれたさよ。此うへはひたぶるに
上御一人より下萬民の動搖のほどは、天神地祇の加護にあ
らざれば、大八島國の行末安く平らけきを見ん事、おぼつ
かなしなど歎息して句あり。
往け時雨、神の迎ひを、出雲まで、朗一
予もいぬる夜、斯ものせしとて、書て與ふ。
尾鰭なき、海鼠にも、翅の願かな、
搔まぜて、あらもどかしや、鷄卵酒、
凍わる〻、つちに口あり、霜の聲、
ながらへて(老カ)、鳥叫び鳴や、きり〴〵す、
なゐぶり火おこりしさまを、
熬る〻や、柴漬鮒の、ひと凝り、
日も既に暮んとす、泊りてんやと問ふに、めこのおもはん
事もといらふ。しひてと♠むべき時にもあらねば、再會を
期して別る。十日天曇る。在宿。午過る頃葏甘舍介我來る。
火桶のもとに題を探る。其中秀吟、
木の葉さそふ、人相の鐘の、聲のうち、介我
叉予も、
雪催ふ、雲の光りや、夜の海、
など口號む。互になゐぶり以後の氣韵、おのづから句中に
顯れたりと評しつ〻別る。又十三四五のあひだ、巢鴨小原
町一行院紀州産德本上人開基 淨土宗、まで、こたびの災ひにあい(ひ)て亡た
る人々の法會行ふよし聞ゆ。十一日天曇る、けふは吾故鄕の
しるべを訪はまほしく、其ついでにをちこちの有さまを見
んとて、巳の刻ばかりに家を出て、呉服橋をわたり、和田倉
御門を入るに、さきに書付し御かた〴〵の巨萬の屋敷の、
火地となりしを見るに、此あたりはいたくゆりしさまに
て、第宅どもの火にふれざるも、猶火地に異ならずあれす
さみて見ゆ。御本丸、西御丸の鳳城御〓、御營など、おほ
けなくも見あげ奉れば、石垣頽れ御營傾きてみゆ、西御丸
はわきてかたふきたるさまなりき。されどこ〻らの御事
は、かけてもいふまじき例なれば、まのあたりの有のすさ
みを書記すのみなり。こ〻より大手御門前を經て、神田橋
御門を出で、小川町の有し火地を見るに、其傍の火にあは
ざるやしきも、おしなべて潰れ倒れしかば、燒たる地より
も荒たるさまのあからさまにて、いと〳〵すさまじ。行々
水道橋を渡りつ〻、水府公のあたりを窺ふに、御館を初め
て御築地に至るまで、つよくゆりふるひしさま、いふべく
もあらず。こ〻に前中納言齊昭卿の羽翼の良臣若年寄海防
掛り藤田誠之進、元虎之輔なりしかど 戸田忠太夫に對して誠
之進と改名せらる、所謂誠忠の二字を以、羽
翼とせさせ結ふ御心ぞへなり、戸田忠太夫、此兩士は文武の逹者にて、世
に普く聞えたる人だち也。殊に誠之進は博識多才にて、此
度の變事の十日ばかり前とか、文武の司を命ぜられしを、
なゐぶりの夜、兩士ともおのが宿所にありて、共に此難に
あひ身まかりしと聞ゆ。覺曰、神佛の擁護、福善禍遙などいへるは、共に勸懲の説にして論ずるにた
らず、誠忠の兩士は、君に忠あるのみにあらず、親に孝あり、既に其夜地震動搖のをりからは、父母を扶んとして、か〻る災に遇と
聞く、曾て天命は是歟非歟をいへりし古人の金言うべなるかな、惜むべく、且歎ずべし、此に歎息をしのび
て百間御長屋の前を過つ〻、江戸川の北べらを行に、龍慶
橋の上、中の橋より石切橋のあはひ、あるは一條、あるは
二條にいたく地の裂しあと、長々とみゆ。小日向の荒木坂
に酒商ふ家の松本屋忠右衞門といへるは、吾親屬なれば訪
んとするに、家衰へて先つ年あとなくなりぬと聞くに、本
意なし。小石川傳通院前通りより富坂を越えて、本鄕のあ
りにそこばくのしるべ、又中村呈鴉なども訪ふに、皆事ゆ
ゑなし。ここより家に歸らんとするに、不圖懷舊の志をな
す。そもそも愚夫、そのむかしち〻うへに讓られし家を、空
しく打倒せし身の、幸ひにこたびの難にも潰されざるは、
おのづから天性のなす所とは思へど、また幽冥に在す家祖
大人の廢給はで、身に添ふ陰と守らひて扶け給ひしにかと
思へば、いと限りなく尊し。されば先つ日吾祀るべき墓ど
ころのくつがへりしを發し立べく思ひしかど、老の力にお
よばずして心にもあらで歸りしが、さら(りカ)
ては道に背きたる
すぢなれば、こ〻よりかの寺へふた〻びまうで〻、在あふ
人を雇ひて墓じるしを起したてつ〻、樒つみて奉り、額つ
きおへて歸るさ、此寺に田喜庵護物の墓在りしかば、其つ
いでに起し立て、かの雇人に錢あたへて、聊老婆心をな
す。この護物とはむつみ交りし事もなけれど、予も常に俳
諧を好むの癖あるによれる也けり。日もや〻西に傾きし
かば、道をいそぎて家に歸りぬ。今夜雨ふりて人々は窮迫
やう〳〵綏まんとす。水府公御守殿、なゐぶりに損ひしか
ば、線姫君樣御逗留の爲、明日御本丸へ入らせられ給ふよ
し、其御道筋へ觸示さる。十二日天晴る。つとめて竹二坊
訪ひ來る。其故は今度の天災に家は破れたれど、身は傷ら
れざる歡びにとて、閑月庵に芋汁調じて、けふの翁忌弔ら
はんと也。其厚志手を拍て感ず。午の時ばかりに介我、甘
志をいざなひて閑月庵にまどゐす。其人々介我、流志、先
紫、甘志、立基、花海の六客なり。おの〳〵祖翁の像前に
手向る句あり。今度の災ひに遇ひて、子來、桂雨二老の身
まかりし事を端作りに書つけて、見し憂を翁につげて祀ら
ばや。介我又なゐぶりにもゆれざる庵ぬしの眞ご〻ろに、
けふの正當(忌カ)とり行はる〻風致の根ざし、いと〳〵堅固なる
事を思ひてと端書して、
けふをたもつ、下葉の露や、冬の菊 花 海
人々の秀吟猶あれども、吾記中の趣にあづからねば寔(是カ)にと
らず。脇起の俳諧一順、又探題の発句あり。時に酉過る頃
唫聲をへて像前に額つき歸る。偖日ごとに筆をとる事は、
既に十日ばかりを過ぐといへども、予がおほよそに見聞す
るありのすさみは、いまだ四隅の間だ十が三つも盡きず。
且是を盡さんと欲りして、其有やうをいよ〳〵探れば、と
ゞまる所はたゞ煙草一吹のいとまに、東武五里四方にたら
ざる地を、なべて殘さず動搖、綏急の際だに億兆の家室を
凌破却せしのみにて、異なるは只火地となりし有さま
と、大地の形勢によりて裂けしなどの二つばかりなれば、
こ〻に簡約してしりうごとをとゞめんとす。
今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急也。
其體青山、麻布、四ツ谷、本鄕、駒込邊の高地は緩にて、
御曲輪内、小川町、小石川、下谷、淺草、本所、深川邊
は急也。其謂れ、自然の理り有べし。
そも〳〵關東に地震のいたくゆりしは、元祿十六年癸未十
一月廿二日の夜半ばかりにて、新井白石先生のものせられ
し折焚柴の記覺日、思ひ出る折焚柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見かと云へる古歌によりて題號とせられしなる
ベし、に、湯島より小川町、丸の内の間つよくゆり、
又ある書に、此時戸障子倒れ、家は小船の大浪に動くがご
とく、地は割れ砂をもみあげ、水を吹出したる所もあり、
石垣、家藏頽れ、あるは潰れて死人夥し、又所々毀れたる
家より失火ありて、且同夜海嘯の變ありて、房總の間、人
馬とも多く死し、小田原は殊につよく震ひ、大浪地を破て
二千人餘死亡せりと見え、又後見草悟一日、後見草は鷧齋といへるもの、寶曆より天
明までの天變地妖を見聞のま〻に筆記して、龜岡石見石方御用逹とい
眼前に記した覺書に合册して、しか名づけし寫本也、へる書のあら〳〵をこ〻に約て記す。天明二年壬寅七月十
四日子の刻ばかり、なゐぶりつよかりしに、人々は寢入り
こみたる頃なれば、驚きさわぐ事おほかたならず。又明る
十五日の夕つかた、卒爾にゆり出し、壁をふるひ、瓦を落
し、あやしき家などは見るまに倒る〻も多かりき。明る朝
見れば、地は氷の如く裂けつ、其中にも小日向の江戸川の
岸は、地三尺許り裂け開らきけり。ほどへて後にきけば、相
州小田原の城の櫓を初めとして、神社、佛閣、商人の家藏に
至る迄、すべて恙なきはなかりしよし見えたり、此前後に、
御膝下の都會のあらびはいはず、其近郊だに大震ありしを
聞ざりしが、泰平年表に、文化九年壬申十一月十四日、江戸及近國大地震、神奈川程ケ谷邊、殊に甚しく 民家
破倒すと見へたるは、吾年十一の時にてまさ敷覺えたれど 世に普くいひ傳ふべき大震にはあらざりき、吾覺えて
文化二年乙卯六月十二日、帝都にありし、又同き十一年戊
子十一月十二日、越後國長岡の邊、同十三年甲寅七月十二月十
六日、改元天保二日、京師一圓、弘化四年乙卯三月廿四日、信州
善光寺邊、嘉永六年癸丑二月二日、豆相二州そこばこの大
震、又同じ七年甲寅十一月四日、十二月五日改元安政、五畿七道なべ
て大地震、大海波など、前代未聞と承りしも、江府はさな
がらゆりしほどもつよからねば、なほざりにのみ過しつる
を、覺云、玉滴隱見といへる書を見しに、上方に大震ありし事を載たり そは寬文二年五月朔日より五日までのうち 每日六
七度づ〻動搖せしととぞ 事長ければ爰にいはず、其書を獲て見明べし、天文の年間より延實に至りて百四十餘年の間の事どもを、
何くれとなくくさ〴〵集めたる覺書にして、十五卷なる寫本なり、今のうつつの大震にふれし
かば、はじめて彼のもろこし人の、虎にあひし物がたりを
せしに、誠にあひし人のひたぶるにおぢおそれて、おぼえ
ず寒夜に汗あへりしと聞えし如く、ひとも我も膽しゞまり
冷たき汗流して、さらば今よりか〻る難をふせぐべき心が
まへもせんとほりすれど、すべき心術もなし。たゞなゐぶ
りの夜の幸ひに風靜にして、火の神のあらびをなごして、
諸人の死亡をすくなからしめ、浪靜にしてわだつみの神の
怒を鎭めて、海嘯の愁ひをなからしめ、又此秋たなつもの
よく實のりて、黎民を安穩ならしむるもて、末世といへど
もかけまくも賢き、
大神の御德記(化カ)、將軍家の御御威光綿々密々として、更にま
た地震の蒼天と共に動くまじきゆゑよしをおほけなくもお
もひはかりて、其御恩澤をかうべにいたゞきつ〻、ありの
まに〳〵書つけて、遂に筆を机上に閣しは、十月十三日し
ぐれの雨の板屋をそ〻ぐ靜なるゆふべなりけり。
詠大震
安政二年十月二夜、怒號震動響乾坤屋鳴瓦落鼠肝碎、
風裏人聲―十字奔、壁上亂如看如看逆浪紙窓閃似破
心―魂婦―人婢女犯吾哭、窮―意湛―如扶―渠煩、地妖稍消
蘇得思、頻恐天―帝地神憤、須臾石火眼前際、有無存亡不
可言、忽発火―煙橫遠近座來多―少灼都門賤人傷踵
惑阡陌高貴俟陪依後園金―殿玉―樓灰燼趣、市鄽倉
廩潰―頽痕、火災時鎭雞晨景、拂淚遍看千里原、皇國無
雙鳳―郭下、江都花麗無量軒、悲哉凌―礫一―枚紙、此願
採―毫傳子孫、
此ひと卷は、なゐぶりの後、十日ばかりのあはひ、目にふ
れ耳にふれし事どもを、破れたる窓のもとにありてしのび
〳〵書綴りしなれば、ひまる風のもれたるも、戸閾のうち
あはぬも、後鎖のさしたがひたるも、鉤匙のかけあはぬ
も、いと〳〵多かめれど、か〻るうれたき天地の災ひによ
りて、かれも是も事繁き中に筆をとりて、毀れたるを拾
ひ、散たるを聚めて、文のあやめも繕はず、かたなりに成
たれば、名づけてやぶれ窓の記とす。猶こ〻ち靜なる節を
得て、清鉈の削り、御手洗紙のよく押し張りて、後に改む
べくなん。
城東山人しるす
附錄
御曲輪内燒失場所、
大手御門向辰の口邊、
一酒井雅樂頭上中二屋舖、上屋敷西角少々燒殘り、潰こむ、森川出羽守殿、類燒
八代洲河岸、日比谷御門、大名小路邊、
一遠藤但馬守殿、過半類燒定火消屋敷、不殘類燒、松平相模守殿、
北之万長屋類燒 玄關前潰本多中務大輔殿、不殘燒失永井遠江守殿、不殘
燒失
和田倉御門内、西丸下邊、
一日比谷御門番所、燒失、和田倉門番所、類燒、松平肥後守殿
上中二屋敷、不殘燒失、松平下總守殿、同斷、内藤紀伊守殿、
類燒松平玄蕃頭殿、少々燒込、
幸橋御門、山下御門内、幷外櫻田邊
一松平肥前守殿、不殘類燒、松平大膳太夫殿、少々類燒、龜井隠岐
守殿、少々類燒、伊東修理太夫殿、少々類燒、松平時之助殿、類燒、
有馬備後守殿、同斷、丹羽長門守殿、少々類燒、松平薩摩守殿
中屋敷、同斷、北條美作守殿、長屋向類燒、
御曲輪内燒失場所續、
神田橋御門内、
一小笠原左京太夫殿、長屋向潰、御疊小屋、不殘潰酒井左衞門尉
殿、長屋向潰、
辰の口、八代洲河岸、大名小路、數寄屋橋御門内、
一阿部伊勢守殿、長潰林大學頭、玄關之外潰松平阿波守殿中屋
敷、所々潰松平土佐守殿中屋敷、過半潰松平主殿頭殿、長屋向過
半潰
和田倉御門内、西丸下邊、
一牧野備前守殿、過半潰酒井右京亮殿、同斷、松平伊賀守殿、
同斷松平玄蕃頭殿、同斷、
幸橋御門、山下御門内、外櫻田邊、
一阿部播摩守殿、過半潰栃木近江守殿、同斷、御用屋敷、同斷、
大岡越前守殿、同斷、鍋島紀伊守殿、同斷、水野出羽守殿、
同斷小笠原佐渡守殿、同斷、石川重之助殿、同斷、眞田信
濃守殿、長屋向同斷
小川町武家方燒失場、
四番御火除後ろ分、
一松平豊前守殿、本鄕丹波守殿、塙宗悦、菅谷道順、
曲淵左門、神保伯耆守、廣瀨辰太郞、峰岸正庵、
北村季元、
三番御火除後ろ分、
一本多豊後守殿、戸田加賀守殿、鷹澤(脇坂カ)淡路守、燒込、
一橋通り榊原式部大輔殿、表猿樂町戸田長門守殿南角より北之方一圓、
一榊原式部大輔殿、表門、表長屋は燒殘戸田長門守殿、内藤駿河
守殿、表門燒殘明樂八五郞、裏之方少少燒込定火消役屋敷跡、今年
秋定火消役御屋敷十ケ所之内、二ケ所を廢せらる、所謂其二ケ所は小川町及四ツ谷御門内なり岡部因幡守
殿、田中唯一、荒井甚之丞、寺島池次郞、長坂忠次郞、間
下助太郞、佐藤道庵、町内孫四郞、三宅勝太郞、小林權太
夫、河内正八郞、
以下表猿樂町西側之分堀田備中守殿、溝口安五郞、佐藤金之丞、伏
屋新助、大久保八郞左衞門、柘植三藏、燒留、依田十(千カ)之助、
危く燒殘る、
以下一橋通り東側之分新見内匠頭、本多丹下、青木忠左衞門、近藤
小六、曾我又左衞門、荒川常次郞、神織(保カ)蔀、御臺所町角に而燒留る、
表猿樂町東側より裏猿樂町へ懸り
一半井出雲守、倉橋内記、土岐出羽守、天野英太郞、柳澤八
郞左衞門、
御臺所町通り、
一高井八十次郞、本目駕八郞、中條中務大輔、
雉子橋通り、
一一色邦之輔、一軒燒
本所、深川町屋燒失場續武家地、
一深川相川町續御船手役久保勘次郞組水主同心組屋敷、燒込、
一同所續小堀式部下屋敷、燒失、同所小屋敷、燒、
一同所蛤町續竹垣三右衞門御代官所武州久右衞門新田、燒込、
一同所富吉町淨土宗正源寺、同所黑江町一向宗西念寺共、不
殘燒失、
一同所伊勢崎町續久世大和守殿中屋敷潰候迄に而燒込不申、
一同續松平美濃守殿下屋敷、燒込、
一同所御船藏前町寄合織田圖書頭屋敷、不殘燒失、
一同所續小普請組新見豊前守支配日向主殿、不殘燒失、
一同所續眞言宗中養寺、燒失、同所小屋敷、燒失、
一同所御小納戸衆長屋主膳屋敷、飛火に而不殘燒失、
一同所御書院〓一柳播摩守組永井主殿屋敷、燒失、
一同所御使番林次左衞門屋敷、不殘燒失、
一同所六間堀町井上河内守殿中屋敷、過半燒失、
一同所森下町太田攝津守殿中屋敷西裏長屋、燒失、
一同續小笠原佐渡守殿下屋敷、過半燒失、
一同神明別當天台宗猿江泉養寺へ燒込、
一同所中之鄕竹町松平周防守殿下屋敷、飛火に而過半燒失、
一本所花町續御書院番白須甲斐守組植村帶刀屋敷、飛火に而
燒失、
一南本所石原町小普請組諏訪若狹守支配組屋敷、燒失、

一松平肥後守殿持場内海二の御臺場、燒失、

一町屋燒失場、記中に讓て此に不記、

一十月廿二日御觸、天台宗東叡山學頭凌雲院大僧正、淨土宗、本所回向
院、古義眞言宗、芝二本榎高野學侶方在番、西南院、同宗 麻布白銀臺町行人方在番圓滿院、
新義眞言宗淺草、大護院、濟家宗、品川東海寺、曹洞宗、貝塚青松寺、黃檗
宗本所羅漢寺、日蓮宗一致派 下谷、宗延寺、同宗勝劣派 淺草、慶印寺、西本
願寺掛所築地輪番與樂寺、東本願寺掛所淺草輪番遠惠寺、時宗淺草日輪寺院代
洞雲院、今度地震にて世上死亡の人民不少よしを、おほけ
なくも聞しめし憐み給ひ、右十三ケ寺へおほせて、來月二
日、大施餓鬼をせしめらる。
一市中其日稼のものへ、町會所神田新橋に於て、追々御救米下
さる〻旨を、十月廿四日觸示さる。
一十一月二日よりうち續き、彼の十三ケ寺の外、諸寺院に其
施餓鬼執行數多あり。
一地震の時、新吉原町失火に依て、五百日之間、淺草、本所、
深川之内、左之廿五ケ町にて假宅稼いたすべきむね、十一
月四日仰被付。其町々、淺草東仲町、同所西仲町、同所花川
戸町、同所山の宿町、同所聖天町、同所金龍山下瓦町、同
所今戸町、同所山谷町、同所馬道町、同所田町、以上淺草、十ケ所
深川永代寺門前町、同所永代寺門前仲町、同所永代寺門前
東仲町、深川山本町、同所佃町、同所松村町、同所常磐町、
同所八幡門前續、同所御船藏前町、以上深川九ケ所本所松井町、
同所入江町、同所八郞兵衞屋敷、同所長岡町、同所六尺屋
敷、同所時の鐘屋敷。以上本所總合廿五ケ所也
一ある侯にて大震の後度々の動搖大小を量りて、毬圖に作ら
しめし其有やう、但し白毬は晝黑毬は夜なり。通俗に傚ひて日の出日の沒をもて晝夜とす、
十月二日●四 初震の球は殊に大きく書べきを、紙時 上の所見あしければ 是に略す、●四過●九半
●八時●八半●七時●七過●同●七半●七半三日○九時○七時●五時●四時
●八時四日○八半○七過●九半●八半過●八過十一(五カ)日○六時○八時●六時
●九時●九半●八過●七時●七過六日○六時○四時○七時●九時●八時●七半
七日○四時○七時●六過●五過●九過八日○七時●六過●九半●七過九日
○五時●四過●七過十日○六過●六過十一日○八時●四過●九半十二
日○八半十三日○五半過●四過十四日○四過●五半●七時十五日
○七過●七時十六日○六時○八過●四時●九時十七日○八半●四過●八時
十八日●九過今夜雷雨十九日●六過●四時廿日●八過半廿一日
○六時○五時廿二日○五半廿三日無廿四日●五半廿五日
○七過廿六日○七過●八過廿七日○九過廿八日●四時廿九日晦日
なり●九時
十月總計八十度晝二十八度、夜五十二度、也、以下略。
右家不連萬戸廼奇一卷、借鈔、待賈堂自筆本、流覽遂一校、
以爲帳秘云。
安政二乙卯季冬 水上德正
出典 日本地震史料
ページ 495
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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