[未校訂]十月二日夜四時大地震、其上所々出火。
安政二年十月二日の大地震は、昇平の世の大變なり、よりて
こ〻に其あらましをしるし置ぬ。
今を去ること百五十三年、元祿十六年十一月廿二日夜、江
戸、小田原大地震、其頃天野彌五右衞門といへる老人の曰、
星ひ低きく見へ、冬溫かなる年は、地震あるものぞとて、家に
かす鎹がひうち、繩からげなどして置けるに、果して其(年脱カ)大地震
ありしとぞ。こ〻に思ひあたれることあれ、頃年冬暖かにし
て、寒中雲ふること稀なり。また今年夏入初めより、巽にあ
たりて大なる星いづ。其光甚しく、人々怪み思へり。是ひき
く見ゆる故なりしか。滋に十月二日は、ひめもす空曇り、小
雨そふり、巳中刻頃、また巽にあたりて、虹の如くその長十
丈ほどなるすぐの氣たつ。山田某、品川にてしたしく是を見る。夜は殊に寒く
して空はれたり。其過日頃怪しき光りもの四方にひらめきわ
たるやいなや、大地俄に鳴動し、山川を覆へし、人屋を震倒
す事、一時に數萬軒、其響恰も百千雷の落か〻れる如し。い
まだ二更の宵なれど、たま〳〵ふしどにいりしものは、その
物音に夢覺て、こはそもいかにと、こけつまろびつ泣わめき
つ迯迷ふ。或るはそのま〻押しにうたれ、あるは瓦にあたり
石につまづき、溝におちいり、傷つく者も少からず。うから
やからを救ふとて、其身もろとも死するもあり、漸く我家を
のがれいでて、隣れるいへに打倒さる〻もあり。斯而處々に
火煙俄に天をお(ほ)ふひ、夜も猶白晝の如く、凡三十餘口の猛火、
炎々空を焦すといへど、これを防にいとまなければ、たゞ風
のまに〳〵燃移り、炎ほに焦がれ、煙りにむせび、呼べと叫
べと救ふ人なく、是が爲ま〻死するもまた多し。實にや深窓
に長となり、錦繡にまとはれし身も、歩行はだしして、四方
にあこがれ、君にさき立、臣におくれ、親に別れ、子を失な
ひ、夫婦兄弟等ちり〳〵に血に染み、なみだを流して迯まど
ふさま、佛のいはゆる修羅道もかくやと思ふばかりにて、哀
れといふも愚かなり。大君にも吹上の御園瀧見の御茶亭へ渡
せらる。本壽院樣には、諏訪の御茶屋へ渡せらる、晴光院樣には大手前御住居より新茶屋へ渡せらる、御城御
櫓、多門、御門々、塀、石垣など、震崩されずといふことな
し。汐見御門續御多門、蓮池御金藏後、御多門、二丸喰違内御多門、内櫻田御門後御櫓、西丸二重御櫓、幷續御多門、竹橋九十間御
多門等、盡く震潰す、
又西丸下にては松平肥後守、中屋敷とも、松平下總守、内藤紀伊守、
大手前には酒井雅樂頭、中屋敷とも、森川出羽守、八代洲河岸には
火消屋敷、火の見櫓殘る、屋根のみ震落し、太皷、半鐘とも何れへ飛行しや見へざるよし、番士は震落されしが、つ〻がな
しとぞ、松平因幡守、遠藤但馬守等、類燒す、その外諸侯伯權門
の館々、震倒すこと大半なり。扨又御郭外は大小名の邸をは
じめ、武家、町家、近鄕の民家に至る迄、家藏の震潰れ、燒
失すること夥しくして、盡くしるすあたはず。出火大小三十二口、幅
二町に直して二里十九町なりとぞ、また近年炮術流行故、諸家熖焇の貯へ多くして、これに火移りて燒るも少からず、死亡す
る人、また擧て數ふるに暇あらず。そが中に小川町、下谷、
根津、淺草、本所、深川、吉原、千住のわたり、潰家あまた
にして。一時原野となり、人の死傷も思ふべし。殊更吉原は
遊客の夜興いまだなかばならざる時なれば、數千の男女、樓
上樓下に立さわぐうち、忽ち震倒され、郭中一時に猛火とな
りて、生殘りしはまれなりとぞ。けだし高地は震ふこと輕き
にや、潰家、死人共少なく、出火もまたなけれど、一軒とし
て藏壁の全から(きカ)ざるはなし。麴町邊番町邊、駿河臺本鄕邊、小石川小日向上水を境北之方牛
込ゟ麻布、青山に出る迄、高地のみ輕し、又土藏、土塀、石垣、二階家、瓦葺、根繼の家など、甚しくいたむ、山王、
神田の両社、東叡、三緣の両山、つ〻がなく、淺草寺塔の九
りんまがる。天王寺の塔は九りんちる。都而塔、火之見櫓の
倒れざるは、製作の工みなるか。川邊などは地裂ること一二
尺、或は四五尺、さながら道路に谷つくれるが如し。四ツ谷
にては玉川上水の樋崩れ、大地數ケ所穿つが如く、路上に水
吹いで〻、はからぬ水難に逢ふ者もありとかや。さればかの
水を汲む家々は、俄に水とぼしく、からふじて渴をしのげりと
ぞ。品川には會津侯の鎭戍する二番の御臺場、失火して合藥
に火移りて、衞士迯るに道なく、燒死せざるはまれなりとぞ。
衞士迯ることあたはず、自殺せしもありといふ、扨其夜は何れもちまたに奔走して、明
日を遲しと待わびけり。次の日巳の刻頃、火漸く鎭りぬれば、
人々少し心おちゐて、家をやきたるものはいざ、さなきもの
もあるは庭、あるは原野、路上に竹木をゆひ、むしろなどもて、
おのがさま〴〵小屋しつらい、暫く雨露を凌げども、いまだ
夜となく晝となき小地震に、氣も魂も身にそわ(は)ず、夜もいを
安ふせずして、ひと日〳〵とぞ追りける。折々の地震なれど、さしたる事なし、七
日夜六時頃、少しく甚し、本所邊には潰家、死人ありといふ、十八日夜強雨、小屋がけの者盡く難儀す、又其夜雷の如き音聞ゆ、 或人所々
に張札して、地氣一たび發すれば、再度の大地震はなきもの也、原野に住居せば、風寒濕を受て煩ふべし、 各宜しく本家にかへりて安
堵すべしと、か〻る時には人の心も誠に成ぬるにや、芝、築地、深川わたり海邊に住居
する人々は、今や津浪の來らんかと、これを避る者も又多し
といふ。これまた一どうの憂苦なり。されども其害なきこそ
目出度けれ。或人いへるは、引汐に地震すれば、津浪の憂なしといふ、さもあるべし、また姦賊その虛をうか〻ひ、
あしわざせんとか、いつは大地震あり、いついつは津浪來るなど云觸し、人心を惑はすもあり、惡むべきの甚し、斯而中
にもうからやからを失ひしものは、そが亡がらをこ〻かしこ
より押わけかきわけ掘いだし、日をへてほり出され、いきある人ありといふ、命運のつよきも
のなり、何れも寺院へ送れるとぞ。はや桶又は瓶にいる〻はまれ
なり、或るは酒樽、油樽、砂糖樽、素麵箱、あるは町々の天
水桶、何くれのくぼかなるものにいれ、また菰にまきて車に
つみ、蒲團につゝみ、菰に卷て脊おふて行もあり。多く送れ
る寺々は、穴をうがつにいとまなけれは、かたへにつみ置て、
つち堀埋め抔する。誠に目もあてられぬありさまなり。吉
原、本所、深川わたり、夜な〳〵おのづから人の泣叫ぶ聲止
ず、女童べはおぢおそれつゝ、これが爲に住居を移せし人も
ありしとぞ。是其夜の聲、耳そこに殘りし故ならん、いぶかしきことどもなり、こたび火災に逢
へる人々は、賴みとせし土藏を失ひ、實にも火急のことゆゑ、
日々に缺べからざるの品といへども、持のくにいたらねば、
金銭ありても粟はなく、粟ありても炊器なく、不自由なるこ
と云ばかりなし。日にそひ屋敷屋敷のかこひも成り、何れも
あらたに假家をしつらひ、又はかた(ふ)むきし家々には、向梁か
すがひなど打て、わづかに風雨をしのぐのみ。こ〻におゐて
日頃遊惰驕逸の輩も、はじめて夢の覺めたる如く、大平の有
難かりしをしりて、自ら大工、左官の手傳、あるはちもちな
どして、衣は寒きを凌ぎ、食は飢を凌ぎ、家は風雨をしのぐ
にさへ足ればなど云あへるも、心のまことにかへれるにや、殊
勝にも又哀れ也。嗚呼今年いかなれば、かゝる天災ありて、さ
しも繁華なりし大江戸の、かく暫時に灰燼曠野となり、多く
の人民をそこなひ、上下の困窮すること哀むべし、かなしむ
べし。されどもかく世上人民の憂苦を思召給ける
明君の御仁惠に、町々食を賜り、所々に御小屋を建て、貧民
を救はせ給ふ。幸橋御門外、淺草廣小路、上野山下、深川海邊新田 同永代寺境内 都合五箇所 東叡法主にも、
その山下に建させらる、富る町人、夫々施しを出す、そが御褒美として、銀子被下などのこるくまなく有がたし、また類
燒、潰家の大小名をはじめ、御家人の面々へは、夫々御金を
貸し、或は賜り、又彼變災に橫死する者少なからざるを歎が
せ給ひ、上野凌雲閣をはじめ、十二ケ寺江命ぜられ、二夜三
日の大法會修行させ給ふ。凌雲院は淺草寺へ出張、增上寺方丈は回向院へ出張、諸寺諸山の僧侶集
會して修行あり、人群集する、こ〻に又五穀その外竹木の價、修理作料、過
分に貪らざるやうとの嚴命下りて、人々其惠みを仰ぐ也。た
ま〳〵その虛に乘じ、利を貪るの姦民あれば、忽ちひとやに
つなぎて、その他を懲しめらる有がたかりし事どもなり。
安政卯仲冬 翠岡主人記
安政二卯年十月二日夜大地震に付、變死人、潰家、潰土藏、
書上高。
市中取締掛
名主
壹番組、日本橋より今川橋邊迄
一變死人八十一人、
内男四十一人、女四十人、
一潰家百三十三軒、
一潰土藏二十三ケ所、
二番組、葺屋町ゟ兩國橫山町御玉ケ池邊迄、
一變死人八十九人、
内男三十一人、女五十八人、
一潰家百八十五軒、
一潰土藏五十七ケ所、
三番組、
淺草御門外ゟ花川戸邊迄、
一變死人五百六拾六人、
内男貳百六拾三人、女三百三人、
一潰家千四拾七軒、
一潰土藏四拾壹ヶ所、
四番組、日本橋南方ゟ左右御堀端迄、通四丁目迄、
一變死人拾五人、
内男七人女八人
一潰家四拾貳軒、
一潰土藏七ケ所、
五番組、中橋ゟ南方左右御堀端迄、京橋限り、
一變死人貳拾七人、
内男拾人女拾七人、
一潰家六拾貳棟、
一潰土藏八ケ所、
六番組、京橋ゟ南方新橋迄、左右御堀端限り、
一變死人八人、
内男六人、女貳人、
一潰家六棟、
一潰土藏五ケ所、
七番組、
一變死人六拾七人、
内男拾九人、女四拾八人、
一潰家百五拾六軒、
一潰土藏貳拾六ヶ所、
八番組、
一變死人七拾九人、
内男四拾貳人、女三拾七人、
一潰家四百九拾四軒、
一潰土藏六拾三ケ所、
九番組、金杉橋南方、麻布邊一圓、
一變死人拾八人、
内
男五人、
女拾三人、
一潰家百拾五軒、
一潰土藏拾四ケ所、
拾番組、
青山一圓、芝臺
町、高輪邊、
一變死人拾三マヽ人、
内
男五人、
女六人、
一潰家貳拾九軒、
一潰土藏無之、
十壹番組、
今川橋ゟ北之方
内神田一圓、
一變死人七十三人、
内
男二十八人、
女四十五人、
一潰家百五拾四軒、
一潰土藏三十二ケ所、
十二番組、
外神田一圓、
湯島本鄕邊、
一變死人拾壹人、
内
男五人
女六人
一潰家六拾七棟、
一潰土藏六ケ所、
十三番組、
上野邊山下、下
谷谷中一圓、
一變死人三百七拾貳人、
内
男百六拾壹人、
女二百〓壹人、
一潰家千五百貳拾壹棟、
一潰土藏百三拾八ケ所、
十四番組、
駒込 小石川、一圓、本鄕
少々交り、小日向邊、
一變死人三十壹人、
男十二人
内
女十九人、
一潰家七百四拾三軒、
一潰土藏十九ケ所、
十五番組、
飯田町、麴町、牛
込、四ツ谷一圓、
一變死人六十三マヽ人
内
男二十五人、
女三十五人、
一潰家三百三拾七軒、
一潰土藏三拾九ケ所、
十六番組、
向兩國一圓、
竪川通、
一變死人三百八十五人、
内
男百六十九人、
女二百十六人、
一潰家二千三百七軒、
一潰土藏百拾六ケ所、
十七番組、
深川と唱候
場所一圓、
一變死人八百六十八人、
内
男百五十三人、
女四百十五人、
一潰家二百五拾四軒、
一潰土藏壹ケ所、
十八番組、
本所と唱候、
場所一圓、
一變死人四百十七人、
内
男百八十九人、
女二百二十八人、
一潰家五軒、
一潰土藏壹ケ所、
番外品川、御支配計、
一變死人六人、
内
男三人、
女三人、
一潰家十八軒、
一潰土藏無之、
總高合
變死三千八百九拾五人、
内
男千六百十六人、
女二千二百七十九人、
潰家壹萬四千三百四拾六軒、
千七百二十四棟、
潰土藏千四百四ケ所、
右は地震に付、變死人數幷潰家、潰土藏員數、組々總數締高
取調奉申上候、以上、
卯
市中取締
十月 名主共
下げ札
本文之外、潰家、潰土藏御座候處、燒失いたし、員數相分
り不申候、
但武家方支配違相除、町御奉行御支配許、燒失場所幅貳
町に直して、
二里十九町、重怪我人千九百人餘、