[未校訂]嘉永七年寅ノ六月十四日夜四ッ時頃、大地震アリテ、人々正
シク津浪クルト云傳へ、濱邊ノ人々野地堀人邊等へ逃去リ、
在中大サワギ、三四日之間度々地しんあり、驚入候得共、津
浪ハ無之、地震モシヅマリ、其後人々津浪ノ咄シ云傳へ候折
から、同年十一月四日津浪ノ有樣、百四十八年前ノ寳永四年
十月四日津なみの事を小河嘉兵衞氏記セシトハ大同小異ナ
リ。右四日ノ朝ハ別シテ天氣能ク、晴天ノ所、朝四ツ頃ヨリ
大地震、地鳴甚タシク、追々ゆり強く、水かめの水ゆり溢れ、
棚に有ものころひ落、薪の積たるハ崩レ、表へ出ルニ、其當
り地さけて、たゝヅむへき所もあらず、女子供はいかゞせん
と悲しミける。兎角家のたほれて出火あらん事を恐れ、かま
どに水をかけ、火鉢都て火のあるものヲ裏へ出し置、濱へ出
て近所え人々寄合、地しん止ミ、津なみや來ると評議シケル
事、半時にはたらざるに、此沖の投石島ヨリ半丁も沖とおも
ふ海面ヨリ潮の湧出るありさま、あかミをおびて追々潮かさ
あかり、是は津浪なる事としつて、人々こへをカケ、詞を傳
へ、我も人も迯出、先年の事を聞込、心得たる人々は、寺町
通祐專寺の庭を通り畑へ出、中村山えにげ登りぬ。追々逃ケ
集り、さて中村山にて四方を詠ニ、在中は海と成り、家藏ク
ダケ土ほこりけむりのごとく、廻船漁舟町内へ流れ込み、潮
のサシ引三四度有り、川筋堀通りへ潮のさか登る事甚しく、
堤も土手も見へず、東ノ沖を見れば、廻船數艘順風にて帆あ
げ、沖を渡りぬれば、大洋より大浪の來るにはあらず。余は愚
ながら考るに、大地の底地震にて裂地になり、水湧るものと
覺る。津なみおさまりて後、漁師のいへるは、大曾根浦前に
至り、辨才天の嶋のあたりに船を流、見合居るに、地震はゆ
るやかになるとひとしく、四斗樽程の水かたまり、爰かしこ
に數十くわいわき出るゆへ、是はたゞ事ならずと心得、逃か
へれりと申事、追々湧出重上り溢るゝ中へ、在中海となり、
潮さし引甚く、大浪の打あがるには無之、暫時に潮重上り、
平常ヨリ貳丈餘も高く上り候と申事、それと言ハ、蛭子社の
松木に流レごみの掛り有ル所ヨリ根元迄壹丈六尺と有之、此
潮高在中へ込ミ入、さかのぼる事是ニテ考ベシ。
一、其日七ツ時頃迄ニ潮引去リ、如元平地トナル。潮引と人
々直に流レ跡ニテ諸品拾ふもあり。流死ノ人々尋ね、浦ゆく
小船にて拾ひに出る。流レ跡所々或ハ堀り溝なとに米麥の俵
其外味噌醬油香のもの等、炭薪金錢衣類一切の家財ニ至ル迄
拾ひ込、夜なべに木屋ヲしつらひ、小前え人々木屋かけ住な
れども喰もの着もの何不足なくなりぬ、此時ニ當テ人心の常
にことなる事あり。
波あかりたる限り大かいを記す、
一、林町常聲寺前通ル道迄。
一、北川筋どんどん川原畑大あれ、北川橋落ル、北浦町皆
流ル。
一、堀町ハ中程迄、禰宜町皆流、今町ハ柏町通道下迄畑皆
流ル。
一、氏神社内無難、境内え潮込ミ付、社木ハ少シ立枯と成、
拜殿祭座凡四尺餘潮込ニナル。川筋北川計知川原坂場裏
通り。
一、中川筋松ノ潮迄。
一、金剛寺ハ本堂庫裏共床ヨリ上へ三尺潮込ミ、金毘羅社
皆流レ。
一、念佛寺ハ觀音堂隠居所流失。
本堂無難、庫裏大破、石垣皆崩レ。
一、祐專寺本堂無難、庫裏大破、石垣崩込。
一、光圓寺安性寺皆流失。
流死人 百四十五人。
内
十七人 南浦、五十三人 林浦、七十一人 中井浦
三人 堀北浦、
外ニ
十三人 旅人他所より來る旅人、亘りかゝりのもの
共。