[未校訂]抑世の中四大種の内に、水火風は常に害をなせど、そのふせ
ぎ方、老若力限りはたらき、しな〳〵のしわざあれど、大地
に至りては殊なる變ありて、地震となりては其の異なる事い
かんともふせぐべき手だけ更になし。遠きいにしへはさしお
き、文祿四年豊公殿下の御代伏見大地震洛陽大佛殿迄も潰れ
ぬるほどの變あり。慶長十八年京師地震、寬永十年相州小田
原の驛地震、すでに玉くしげ箱根の山まで崩れぬと聞つたふ。
寬文二年京都地震七日七夜の間震ひぬ。この國府はいにしへ
より地震のうれひ、大なることは稀にして町々の留書また我
家の記にも、寳永四年亥十月四日未刻、五日申刻兩度震ひ、
大御城をはじめ、市中も大かた破損しぬとあり。其の年十一
月廿三日より十二月八日迄富峰燒て數十里の間四方へ灰砂ふ
り、夜晝となく震動して山の東かたへ燒砂をもて一里ほどの
山出來ぬ、是を寳永山となん唱ける。文政十一年霜月越後の
國地震、天保元年京都大地震、弘化四年未三月廿四日信濃の
國善光寺如來開帳の折から大なり地震ありて、しらぬひのつ
くしの人は更にもいはず、鳥がなく東の國人も、足びきの山
をこえて、老も若きもおしなべて、あまたの人々つどひける
日なりければ、死ぬる人のなきがら山よりも高く重り、また
烟となりぬるもあると傳り。實に驚くべきは此災害なり。こ
とし嘉永七年寅六月十四日勢州地震あり。其内にも四日市の
驛は殊更に強くして即死數多ありけるよし承りぬ。しかはあ
れど皆その害を紙上に書記したるを見、又は人傳に聞ぬるま
ゝなるに、この霜月四日の日辰刻空はれていとよき日和なる
に、西風あらく吹き來ると覺ゆる間に、大に地震ひ出して山
崩れ川をうづみ海かたぶきて陸をひたし、土さけて濁水わき
いはほ裂けて谷にまろび、大海原をこぎゆく船は波にたゞよ
ひ、往來する牛馬足のたちどをまどひ、市中の町家土藏はな
ほさら、大御城の御石垣をはじめ、御櫓御門その外御棟あるも
の所として崩れぬはなし。尚舍堂廟こと〳〵く全からす。そ
の災の中に江川町より火もえ出て下橫田町迄けぶりとなりて
失ひぬ。况やこの御府内のみにあらず、近在近宿いづれもお
なじことのよし。みな家居をすてゝ田畑の中、または藪の中
に假住居、老若子供かなしみの聲ひゞき、恐るべきは只地震
の一つなり。寳永の地震もこの度の災にはしかずと覺ゆる。
そはまち〳〵のしる文にもくわしくありければ、これかれを
ひきくらべて、其のよしをしかぬきつ。こたびの地震は駿遠
參の國内なんどおしはかりて思ひぬるにさはあらず、しらぬ
ひのつくしがた、或は阿波安藝長門三備の國もいたく震ひ、
津の國難波の市中越の國加賀金澤わたりなども震ひぬときこ
ゆ。かしこき大江都洛陽などはこのうれひなかりけるよしう
けたまわり、かく近き國々をはじめこし路より津くし瀉まで
すべて貳拾貳ケ國もうごきぬるよし聞え侍り。この國府のい
たむは中々筆もてしるしかたく、其かなしみかしこき府尹賢
慮きこしめし玉ひ、御自ら市中をみそなはせられ、中にも地
震輕きわたりの町丁頭なるものをめされ、御救の粥焚出して
難民等にあたへよとのおほせ事あり、久訓も其中に加りけれ
ば御うつくしみをうれしみて、その日よりはじめて十日まで
は仕ふまつり。なほ續きて町中の心ざしあるものをかたらひ
力を合せ、また十二日より十四日迄ほどこしぬ。あな尊とあ
なかしこ。その御救をはじめ町のほどこしのために、こゞえ
くるしむ御民等が露の命を助かり、御惠のほどいかばかり有
りがたくなんおもほゆるまゝ、そのよしを後の代までも傳へ
んものと、いともおこなるわざながら、かの御救の粥わかち
あたへたる場にて、かくなむ大むねをかいつけ侍る。
たはまりし厚き惠みの白かゆにこゞえし民の命たすけぬ
嘉永七寅年十一月十五日 土太夫町 萩原久くに