[未校訂]安政元年十一月四日五日の兩大地震は世に所謂安政の大地震
と稱するもので、四日のものは東海道の海底に震原を有し。
紀伊から上總に及んだ。又五日のものは南海道の南方海底に
發し、前日の繼續地震とも見做すべきもので、紀伊から以西
畿内、中國、四國の全部、九州の北半にまで及んだ。兩日共
大津浪を伴生し、兩回とも我國の沿岸のみならず太平洋の彼
岸アメリカまでも波及したといふことである。如何に激甚で
あつたかゞ想察される。
當地に於ては、四日(陽曆十二月二十二日)朝五ツ時(午前八時)
頃地震あり、五ツ半(九時)頃大津浪が寄せて來た。此際海水
の大満干四五度に及んだ。津浪は海岸から一町許りの陸上に
及び、多數の人家を浸したけれども、流失したのは僅に下浦
宮川尻に於て一戸あつたばかりである。當日上浦の被害は稍
〻輕かつた。
翌五日には夕七ツ半(午後五時頃)大地震あり、引つゞいて大
津浪が寄せた。袋港内に繫留せる船舶十五六艘港外に引き流
され隨分破損も甚しかつた。中には鬮野川八幡神社の下にま
で押流されたものさへあつた。その破損船中には禁裏御用材
積船もあつて、木材は上浦須賀の濱及西片江の磯邊に打上げ
られたのを陸上に運び警衞五六十日後御用船に積んで送つた
當日の被害は下浦の方が輕かつた。此兩日の天災によつて、
墻壁石垣等の崩壞、家屋の傾斜等は擧げて數へ切れぬ程であ
つた。
又故神田清右衞門直堯の手記には左の如く記載されてゐる。
「安政改元甲寅、我四十歳の霜月冬至四日五日、古來稀成る大
地震大津浪で、大阪より勢州地尾張邊迄、建物家藏は言ふに
及ず、浮船揚船迄も無難は一艘もなく、割合には沖稼の小船
は怪我も尠く、港々で大船程破船は多く、別て大阪では圍船
が多き故夥敷大破、當邊では大切なる居宅をも打捨、山々え
小家を補理、山小家住、田邊なぞは町中え逃、町内空家より
出火で不殘燒失す。湯淺邊大流、當袋は一軒も下殘、鬮野河
八幡前へ二百石五百石積の回船三艘も打あげられ、言語筆紙
には盡せぬ前代未聞稀成大變、別而銘々は山小家で寒氣は嚴
敷故、老衰は絶兼るに歎は敷折節、時節がらは惡敷、質流の
蒲團二百枚程持合せ故、其時母は六十五歳ゆへ吾母の年より
上の老人有家へ蒲團一枚づゝ貸遣はすゆへ、銘々借に來いと
申觸れさせ、百八十枚程貸た時、或人の言ふに戾して來るは
覺束ないと言たが、人間に恩を知らぬはなきもので、纔三四
枚不足で、中には叮嚀に洗濯までして來たも有ました云々。」
「大地震津浪とは常の浪とは大きに違ひます。干潮滿潮の大そ
ふなのなり。直堯慥に見たに引潮には古座のはこ島(ろぐゐ島)
黑島とも下た根迄に潮なく、黑島の足は五德の鼎の如し。滿
潮には吾店の前道の溝え少々差込、夫故沖合に居る磯にも船
にも障らぬ船は少しも怪我なし。大沖に有た船は津浪を知ら
ぬ位、串本は一軒も流れず、袋は惣流。都而入江の所は大流。
田邊湯淺大暴。家も鴨居迄潮が滿ねば流す。此譯故必々狼狽
ぬ樣にして火の用心が大切なり。大地震には潰家より出火し
て田邊は町中惣燒なり。」
尚小山氏所藏の記錄を轉載して其當時我地方附近の狀況を知
るの參考としよう。
浪際目
一十一月四日は川内明神之上み迄、五日には高瀨村前迄、折
好古座川口度々之平高浪にて至る□ゆへ當家へは浪際より
二間程も間有之、當浦濱筋平浪より小く、平地並迄至りし
所もあり、不至もあり。神野川には文平宅床より三寸、依
て彌平に、勘三郞流失其外無難、伊串、姫無難、橋杭大半
流失、殘る處半流失、串本少々半潰、尤流失なし、袋不殘
流失、二步も同樣、有田半分流失、田並四五軒流失、夫よ
り上難右に順し、大阪大損、地震恐れ橋へ逃出し、然處津
浪にて川内之廻船不殘川上みせり込、橋々落去、且は船へ
逃船々破舟死人夥敷、廣湯淺迄人家皆流失、夫より下も筋
古座浦六十三軒流失潰込、高川原に岩鼻御仕入役所□裏崩
家二軒納屋三軒皆潰込、奧筋所々に右體之筋數有、津荷無
難、下田原五十軒程流失或御潰込、浦神向通り大半流失夫
々しも〳〵上筋筆紙に難記、江田組・二色にて凡浪重五丈
餘、奧熊野新鹿邊にて凡七丈とも申事に候。
右之通り後世爲知荒增爰に記置もの也。
(安政三年辰正月小山彌八郞隆房記)