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項目 内容
ID J0400398
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(西曆一八五四、一二、二三、)九時頃、東海・東山・南海ノ諸道地大ニ震ヒ、就中震害ノ激烈ナリシ地域ハ伊豆西北端ヨリ駿河ノ海岸ニ沿ヒ天龍川口附近ニ逹スル延長約三十里ノ一帶ニシテ、伊勢國津及ビ松坂附近、甲斐國甲府、信濃國松本附近モ潰家ヤ、多シ。地震後房總半島沿岸ヨリ土佐灣ニ至ルマデ津浪ノ襲フ所トナリ。特ニ伊豆國下田ト志摩國及ビ熊野浦沿岸ハ被害甚大ニシテ、下田ノ人家約九百戸流亡セリ。當時下田港若ノ浦ニ碇泊セル露國軍艦「デイアナ」號ハ纜ヲ切斷セラレ、大破損ヲ蒙リ、七分傾キトナリ、後チ遂ニ沈沒シタリ。震災地ヲ通ジテ倒潰及ビ流失家屋約八千三百戸、燒失家屋六百戸、壓死約三百人、流死約三百人ニ及ベリ。翌十一月五日十七時頃、五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、土佐・阿波ノ兩國及ビ紀伊國南西部ハ特ニ被害甚大ナリ。高知・德島・田邊等ニ於テハ家屋ノ倒潰甚ダ多ク諸所ニ火ヲ發シ、高知ニテハ二千四百九十一棟燒失シ德島ニ於テハ約千戸、田邊ニテハ住家三百五十五戸、土藏・寺院等三百八十三棟ヲ灰燼トナセリ。房總半島ノ沿岸ヨリ九州東岸ニ至ルマデノ間ハ地震後津浪押寄セ、就中紀伊ノ西岸及ビ土佐灣ノ沿岸中、赤岡・浦戸附近ヨリ以西ノ全部ハ非常ノ災害ヲ蒙リタリ。津浪ハ南海道ノ太平洋岸ヲ荒ラシタルノミナラズ、紀淡海峽ヨリ大阪灣ニ浸入シ多大ノ損害ヲ生ゼシメタリ。震災地ヲ通ジ倒潰家屋一萬餘、燒失六千、津浪ノタメ流失シタル家屋一萬五千、其他半潰四萬、死者三千、震火水災ノタメノ損失家屋六萬ニ達セリ。
書名 ☆〔地震洪浪の記〕和歌山縣古座町役場所藏
本文
[未校訂]一嘉永七甲寅十月廿七八日の頃里野浦氏神は正八幡宮也。社
内森樹の中にて野狐くわい〳〵と鳴叫ふ聲は恰も竹を割く
にひとし。其聲常に異なり。扨海面を見れば浪波靜にして
穩也。辰已の方空を詠むれは斜に眞黑なる雲土手の形にて
有ける。十一月四日朝四ツ時頃、予正福寺へ參詣して天伶
和尚と四方山の物語の折節、大きに地震動り、則和尚はは
だしにて飛出し、我は草履をはきて門外へ走り出ける。和
尚は門内に蘇鐵の大樹にすがり動り止むを待てり。予寺の
後の山を見れは野狐二疋出て有りける。是は穴に居かねての事と思はれたり、
動も止みしかば、野鷄も二聲三こゑ鳴きければ、少々心は
しつまりしに、濱邊の方は騷動に見えければ、早々に宿へ
歸れは津浪來るよとの事にて有りしに、少し其かたち有り
て大きに波も來らず。
一同五日は日色は黃に見えたり。薄霞にて有りけり。晝の七
ツ時頃とおほしき時分、庄屋儀三郞方へ參り四方山の話し
の折柄、大地震昨日に百倍せり。直樣儀三郞屋形伊太郞增
右衞門椎平の住居三次郞字田奧の人なり當時の仕込にて大平燒を爲業年六十九歳といふ此人々と
門前迄飛出し、一ツ所にて見れは瓦は落て土けぶり夥敷、
石垣崩れ、直樣我家へ歸り在中、一統騷動は修羅道といふ
は是かよと思はれけん、老幼男女泣き叫聲は天地に響き、
十方にくれける有樣は言語に絶たることともなり。予歸る
さに見れは菊重は隣惣五郞妻嫁と外に三四人も連有り、西
地へ行、河原に出て泣叫んで狼狽けるを、呼寄て炬燵に多
くの火の有るを土瓶の茶水を以て四方へ懸廻してしめりた
る灰を以て埋覆て火を消し、我は家圖箱を提、菊重は飯櫃
を携させ、雨戸を差堅め、錠をおろし、隣長八忰を背なに
覆長八年四十二歳子年七歳津呂良介後家筆女養子岩松年二十六歳同導して中山の
城跡へ登りける。やがて宮の前なる河筋へ浪の溢れ來るを
詠つゝ、打連て登りける。地震も動り止み津浪の溢れ滯水
する事は凡たはこ五六ふくも隙もあるやらんとおもはれた
り。波の來ることは矢を射るよりも早し。滿干三度有之と
なん。扨浪の引退くを見て、山より下り、家道具を津呂の
お筆宅迄長八岩松我〻夫婦して操揚置、又山へ登りけれは、
日も西山へ傾き、中山の半程に下りて海面を見渡せば、濱
邊の家家は流れて跡方もなし。かゝる處へ五兵衞娘次女雪
重を下女の銀溜息して連て來れり。此娘を預け申すと言捨
て、其身は何方へか逃去りけり。夫より召連れて城山へ登
れは、黃昏にて莚蒲團取寄、野宿の用意をは仕たりけれ、
暮六ツ時過になれば夕飯は喰す腹は減りたれとも、飮食の
事はおもはず。なれども携へたる飯を手に握り、菊重にも
與へ、長八親子筆女岩松にも爲給たる折柄、五兵衞妻女文平
を背に覆ひ、姉娘辰野召連て登り來れり。雪重を見て親子
四人は無事なるを喜悦して慟と一度に聲立て泣有樣は囉な
きして哀なり。文平を見れは腰の上より下まで濡てあり。
是は如何しての事そと問へば、船より陸へ揚るとしたる時
に飛込みて濡たりと答へけり。然る處に又兵衞粥を持參し
て居合す人〻へも與へけり。又兵衞方よりも莚蒲團持來り、
火も不焚、ふとんを頭より被りて心經を唱へ、又は念佛金
比羅氏神諸神を祈りけり。彼是と夜半にもなりぬらんとお
ぼし時、大きに地震ゆり大地も裂るかと思はれたり。石垣
か又は山かと思ひ、くわら〳〵と崩れ落る音高ふしてきこ
えけり。其場に居合す人々には又兵衞下男江住の人惣吉同安吉
當地の人なり津呂の筆女岩松長八親子親年四十一歳子年八歳外に船大工惣五郞の
家内惣五郞妻と嫁と黑米と抹米と持參して逃る時姑女黑米をこほし〳〵て行けるが是は米をこぼすと云ければ黑米は捨てもよ
し白米あれはよろしと嫁は申たるよし此外に三四十人も居合たれと、もつとも
つと名を聞に人々散亂して得不聞、殊に此夜は寒さ強く大
霜降りけり。寒氣強ければ夜の明るを待鷄の聲を力にして
待居たり。たはこ入は有れとも呑む人はなし地震は隙なく朝まで動りたり。
此夜五兵衞忰兄弟三人姉は年十二歳、妹は年十歳、三男文
平七歳何れも念佛を唱へけり。文平は心經をよむにあとを
よみさきを讀みては母の乳房を含み、又金比羅氏神を唱へ
ては母の膝の上に眠りける。目覺れは又唱へけり。幼少の
ものゝ心さし寔に殊勝にこそありける。夜明るまで他事な
し。翌六日土井保太郞話には、氏神といふは八幡宮也。社
内へ備へたる三寳に三木德利有り、其儘に動かさりしとな
ん。神門又は石垣も崩れず、華表前に手水鉢あり石にて作れり河
邊の方は五六分斗りもにしりゆがみ、山邊の方は其儘にて
狂はずして有りけり。次に拜殿は河邊の方は土壁落たり。
其外にさわりなし。扨住吉の社には何事も無し。乍併石燈
籠動り落たり。津波は社の下の段まで來り、又金比羅堂又
は妙見堂は何事もなし。堂の傍地面裂けたり。是に準して
儀三郞家宅の後の山もさけたり。
一正福寺は本堂庫裡納屋何れも障なし。築地土塀は崩たり。
表門の兩方の角石垣崩たり。
一津浪溢れ來る。又は常水より二丈餘り宮の河底よりうへえ
四尺餘也。河筋の上の浪溜は西地へ行板橋有り。夫より上
へ五六間餘り也。橋の渡り詰には西の方に井水有り是は西地の用水也是へは浪不入。
寳永四丁亥拾月四日の津浪、津呂の石垣三つ迄滿水たる
よし。筆子聞き傳へしとなん。物語りしけれは此度の浪
は餘程卑しと思はれたり。
一田は海邊通近き所、畑は河邊近き處或は石垣高き場處は鼻
〳〵崩れたり。
土塀石垣の破壞多くしてかそふるに暇あらず。窪の久吉家の前に卑き
築石垣あり夫より一間斗り候まゝ波來り家敷へは浪入らず、土井は庭にて五寸斗り波入りたり。
一人々には無別條。乍併椎平大工清右衞門母は地震に逃るとて石垣崩れ落腰に當り翌卯の年五月に至れども治
せすとききぬ。
一二分口御役所は浪に打破れたれとも家は殘り、鍋釜疊諸道
具へは手も届かず、其儘捨置く。挾箱はやう〳〵と森迄爲
持たれとも、御用帳御印形は自身携へ[小河地|ヲゴシ]の方へ逃たり
ときゝぬ。御勤番は木村市郞といふ。此人若山少し西坂本村の産年齡五十有六。
一突波に打破られて流失の面々は清兵衞、銀兵衞、善三郞
年八十二歳母年八十二歳文五郞清九郞、森の網納屋□鰹納屋、茶藏、佐
兵衞、德兵衞、五兵衞店。右の佐兵衞、德兵衞、五兵衞店此三軒は家は殘たれとも大破なり。
一森地にて傳兵衞は裏の方の石垣又は東の方の石垣とも崩れ
たり。風呂場は地震にて動り崩れたり。本宅は無事也。納
屋物置雪隱迄も何事もなし。乍併本宅土壁は裂たり戸襖は半分上はわれて落たり家もゆがみねし
けたり、傳兵衞年三十八歳女房年三十九歳子市太郞年十七歳。
一同處清一郞宅は本宅無事、納屋大破裏の石垣崩たり。
一文五郞寢屋は屋敷半分通崩れたり。家は上の方と海の方へ傾き、七八日の頃の家へ添柱して石垣を築直し置也。翌年安政二乙
卯二月頃傳兵衞畑を讓り、囉ひ前の海面通り石垣を築き上の方の河通りヘつき廻し屋敷とせり、後の方に地下土藏あり、自身畑は
寺の前に有り此地へ移してひとつ屋敷とせり藏を立替へは大工傳右衞門ヘ渡にして造作せり、文五郞年四十七歳、女房年四十歳
新太郞年廿歳、女房はる年廿歳、指二郞年十六歳、三之介年一歳、今五郞年九歳。
一伊藤彌左衞門本宅は疊の上一尺三寸餘も浪込入たり。裏の
納屋牛部屋雪隱續きの納屋打破られたり。本宅の前に鹽納
屋と風呂場と一棟にして有り。是も崩れたり。藏は其儘に
して四方の壁落けり。藏の後に隠居有り、地震の節動るを
見るに家根の兩端を以てゆるか如く有り。是によつて眞中
通間中程瓦落ける。前は無事折節年回有りて人多く集會し
て有りけり。地震の動りしに皆皆散亂して補助の人なし。
疊はしき乍ら家内中は濱邊の方へと逃げて、手船いさはえ
取乘しかは、追追に人々馳せ集り、手に〳〵飛乘は、早津
浪來る事は矢の如く、其儘に河通り奧の方へと浮びけり。
其乘組人別は新五郞を始として、老祖母、母親、妹高野、
土井の妾小鶴其外文五郞家内五人又兵衞の忰文平を江住の
人惣吉背に負て船へ乘せけり。船頭文四郞有田浦の人なり□の船頭也。
岩介此外に人多く乘たれと、もつと〳〵得きかず。扨船は
汐の滿るに乘りて森地の後の方へ流れければ、又住吉の方
より溢れ來る浪と兩方の戰の場處へ、保太郞は漁船に自身
を始老母年七十歳妻雪の年廿五歳五兵衞姉娘石野年十六歳
此の外にも乘込の人あれともしかと聞かず。「保五郞老母は
十月の初めつかたより長々胸病して痰咳にて煩ひ居たりけ
り。保太郞年十七歳ときく。」又留次郞年二十歳祖母年六十八
歳母年四十六歳妹たかの年十五歳此船に乘合の人もあれとも
略之。右兩船は出會船は竪になり橫さまになりけれは櫓も
棹も立たばこそ、船軍は是かとよとそ思はれけん、兎やせ
ん角やせんと色々働きけれとも、保太郞船の梶とりにて留
次郞乘しいさはの上棚裂け破れ穴もあきたり。其勢になぎ
れ折けれはなぎれと云は舟の敷板をのせるねだの事也留次郞乘し船の人々は船底
に落たり。何れも[滄|アイ]水に浸し濡鼠の如くなりたりとなん。
左も無ければ船は轉るとなん。此時は寔に絶命と思ひしと
なん。留次郞も髮も切て立願をして金比羅へ祈誓せられた
り。其時文四郞に向ひて其方にも祈誓せられよとのへけれ
は、一口は唱へたれとも肝を潰したりけん、二言もなくし
て皆々命も今は際りなりと思ふ折から、常に信心の加護に
や、兩船とも安々となごの權次郞所持の藪尻へ着たり。何
れも難行苦行を凌き嬉しさに、岸と心得揚らんとすれば、
潰れ家の屋根草流れ寄り集りし上に飛揚り〳〵けれは、腰
より以下は潮にしたし、親は子を抱き子は親を介抱して淚
は瀧の如くに落、なく聲は天地も一動に崩るゝ程の有樣也。
よふ〳〵と揚りてやぶの上なる山の道もなき所を分け登
り、再ひ甦る心地して居たる折柄、波も引退きけれは中山
の方へ逃移りける。
扨儀三郞は□の家内我か家内は夫々船に乘りしを見て森は
如何にと尋行〳〵に、早家内は逃たりと聞しに、浪は充滿
して無據大樹の枝へ攀登り、眼下の二艘の船の汐にもまれ
浪に漂けれは沖の方には大船に家内中は取乘り碇繩を切り
捨て沖の方へと流れ出たり。是を見る目の苦みは八寒地獄
は是かとよ、榎の枝を握る手には生死の境と思ひけりと、淚
は胸にせきあへす。兎角の間に浪も退きぬれは、木より飛
下り潮の干しを待兼て森地より小河地へ渡るとて飛込は乳
迄汐は干かさるとなん。是を漕渡り直樣氏神へ拜禮せんと
て花表前迄出けるにいかにも濡れたるはつぢの心苦敷覺て
脱捨置き拜禮せしとなん。此はつぢは翌日朝船大工惣五郞拾ひ來り我に見せけれは是は定て庄屋儀
三郞の品と心得手渡致したり。其歸るさに死人もなきか、怪我人もなきか
と聞繕ひ、よふ〳〵と中山へ登り、人々に出會ひて互に無
事なるを喜悦せりと。委き事は其人々に聞もしからん。
一扨儀三郞家内は前通に逃ける人々と表門前迄飛出しけるに、
はや壽太郞濱邊に出て母を招きけり。其聲を聞て予は宿へ
歸り、其後にて□の秀五郞船千六百石積のよし、折節入船
して有りける水主水風呂に揚り、□の方にて入浴して有け
太郞年十七歳次男伊太郞年十一歳儀三郞は年二十九歳と聞ぬ文五郞忰今
五郞年九歳銀兵衞のお絲清兵衞のおこん于時肝煎なり清兵衞の孫
と子守等也。此子守といふは窪の久吉娘也源太左衞門の久吉の姪也孫は當歳にて始終背に負ひ居たりときゝぬ此船は
江戸より登りなれは浦賀の飴所持せられ子に與へくれしときゝぬ此子守は久右衞門貰ひ子にして名はお富といふ也年は十三歳なり
といふ肝煎清兵衞年五十四歳女房年五十三歳清藏年二十三歳女房年二十一歳此外に右のてんまへ馳
集り乘りれは、突波くる事矢の如し。それゆへ水主も二人
乘りおくれ、無爲方中山さして逃たりとぞ。橋船は漸く
と本船へ漕附て人々を乘せけれは、碇繩を打切りて沖の方
へと流れ出、帆を卷き揚て夜の明るを待、上え行下へ行此
浦邊を眞帆片帆として漂ひけり。翌六日早天にいさはを仕
立三志津沖迄呼返して參り、人々を移乘せ連歸りけり。
一同時に和深浦久保の用藏船二百餘石積のよし、當浦惠美須
の宮の傍へ打揚られたり。船には何事もなしといふ。津浪
後石を切割り船おろしの用意して諸雜用は金三兩程と也。
一重語になれとも儀三郞は予と表門迄飛出し、予は直樣歸り
し後にて少し動りも止みしかは、我家へ立戾り焚く火をは
水を懸て打消し、雨戸を閉てさしかため、又門外へ走り出、
本家の家内衆中を手船いさはに乘しを見て森も留守の事
也、無心許思ふ折柄、早津浪の充滿しけれは飛鳥の働きを
ぞせられけり。人々に向ひ何れも早々逃延るよふとの手配
して居れは、汐彌倍まさり詮方も無く森地へ走りあかれは、
家内のもの逃たりと少し安堵はしたれとも、潮の滿水は難
斗思ひ、樋口にも彷彿たり。是そ幸ひ天より與へる大樹そ
と攀登り、眼下に保太郞と留次郞との船の浪に漂ふは前件
に述たる如く薄情けれ。
一小木の榎に登りし人々は文五郞妻女乳呑子を抱き、忰新太
郞と外に榮藏と忰とかれこれ十人斗りも有しと聞きぬ。清
一郞も有り。
一宇兵衞家は浪の溢れ込事疊の上四五尺餘り來りしと聞き
ぬ。家道具多く流失致しけり。妻子の話には兄の勇藏は逃
延ひやしつらん。幼少のものは無是非もと嗟嘆けり。
一濱の端の平吉は家納屋は殘りたれとも家道具は流失せり。
妻は和深浦の産也道具には手も着かす、繼子八歳になるを背に負
て文五郞家の傍より跣足に成りて三味(昧か)迄逃たりと、
其儘に野宿したるよし。其身は懷姙と聞きぬ。是は格別の
事也、讃てよし。
一惣兵衞家内といふは夫婦に子三人老母一人と也。奔走して
何へか行方しらず。下男下女も散亂して日の入過まで定か
ならず。漸くと夫々相わかり、老母年八十歳也。是は西地
儀介へ連行たり。同人家内と一つ所に野宿いたしけり。姉
石野は大井の人々と同船して陸へ上りたるよし。妹雪江は
下女の銀連れて中山の半途にて予に預るといゝ捨て何れか
へ逃去りけり。三男文平は新次郞と同船して舟より飛下り
けれは、腰の上より潮に浸し、綿入袷も濡たり。水揚りし
て惣吉負て中山迄來り、母に手渡して城跡まて登りけり。
又兵衞家内の年齡を記しぬ。
又兵衞年五十八歳、妻いくの年四十歳、姉石野年十二歳、
妹雪江年十歳、三男文平年七歳、野宿の面々は初に記す。
一佐兵衞は親子三人下女と思ひ〳〵に逃たるよし。子松之助
は藪の上なる山へ登り、妻は茂平の後ろ山へ逃たるよし。
佐兵衞は三味へ逃て妻子下女は流れたりと大きに落淚した
りときゝぬ。
一西地の人々は道もなき山を分れ登り、西のひらみといふ岡
に火も焚す。蒲團を被り思ひ〳〵に口には念佛を唱へ心に
は諸神諸菩薩へ祈願せられしとなん。かゝりける處へうし
ろの方より猪の二り連れ來り鼻胃氣を吹けれは、人々恟々
として大聲に喚き呼けれは、是に恐れて逃け去りぬ。又洞
の谷々に集りし人々には文七□年廿四歳銀藏儀助家内折ふし儀介は月野
參り留守なり利七家内の傳之右衞門家内金兵衞夫婦源太家内此面
々火を焚き野宿せしとなん。此時久右衞門は伊勢嶋二江浦にて突浪に出合絆綱を取りに揚りしに
早本船は打揚けられて破損いたしたり乍併荷物には無別條して其近邊にて賣捌きたりと聞きぬ此船は和深浦の喜助といふ人の所有
のよし浪後靜に成りて周參見浦の善四郞船へ便を貰ひ無事にてかへり家内の悦ひは雀の小躍する如くなりけり。
一下のひらみ、中の平み、外の平みの人々は何れも家をはな
れて野宿せられしと聞へぬ。
一小河内の人々は三味又は中山へ逃て野宿せり。三味も天儉
和尚も同樣の事なり。翌六日に明けぬれは追ひ追ひに小屋
を作り夫々かしく用意をそせられけり。其翌七日の夜の事
なるか、三味の逃小屋の傍へ親子連の牛を繫ぎ置きしに、
猪來りて犢を追回しけれは、人々出て追逃しとなん。夫よ
りは何事も無かりしと聞きぬ。
一船大工惣五郞小舟サツパは五日の津波には紺屋隱居宇兵衞
後の畑の端しに打揚りける。浪先は五兵衞家敷の下たの道
の上端限りなり。源五郞畑の溝迄是は宮の方西地へ行道筋の下の溝也中山の方は浪入らず。
一正福寺六代目天儉和尚は年齡三十六歳也。韋駄天走りにて
濱邊に出て諸人に向ひ早々に逃去るへし、色々さま〳〵に
世話せられしに、思ひ〳〵に山々へ登りしを見て寺へ歸り、
釜を外面へ持出て飯を炊き、握らせて三味を初め夫〻逃場
處へ持たせ與へしときゝぬ。其翌七日には弱〳〵しき方々
へは米を相應に與へけり。
一五兵衞は霜月七日の頃米三俵給合せしときゝぬ。
一森地傳兵衞清一郞屋敷へは潮いらす、前の橫道の下た壹尺
斗りまて充滿したり。地震は傳兵衞宅にては餘程嚴しく有
りしや、まへの戸半分上の臺ねしわれ落たり、下も半分は
殘りける。此時五日の夜にそ有ける。傳兵衞物置の錠を檢
し諜入るもの有り。黑米も多く入置たるに、搗米壹俵ゑり
出し盜取りたりと。貧のぬすみといひなから、箆太奴もあ
れは有るもの、老若男女歎悲しむ折柄、諸神諸菩薩、別て
氏神又は金比羅を口〳〵に唱へし時節に大瞻不敵の仕業言
語同斷なり。
一霜月四日に森傳兵衞は手船にて勢州まつ崎にて御國米積入
るとて橋船にて通ひけるに、浪は[孰謂|イカントモ]充滿しけれは、是
は突浪と心得、直樣船をまき出し沖の方へと漂ひしと語り
けり。至極尤の事なり。
一霜月四日に新屋文五郞も手船にて江田組御納米積入て橋杭
迄乘り下りしに、文五郞帳上に文右衞門と出雲浦へ參り、
かえるさに同道して橋杭に至りけるか、間も無く大地震に
て、又帳上にて文右衞門と山へ逃回り、我船を見れは水主
は骨を粉にし身を碎きて繫き留たり。類船は多く流れ出た
るよし。
翌五日晝七ツ時又大地震にて又津浪と心得、[橋船|テンマ]は幸ひは
とにあり、相乘りて本船へ行きしに、大船と流り合、片棚
落されたり。是にては叶わずと思ひ、船の表の方へ行き、
かゞすを引て碇にすげて海底へ投け込み、直に屋形へ飛入
金比羅の札を携出、あたり合たる大船に飛移り助けられし
となん。船はかけ留たれは別條もなし。後颯波離と成、歸
浦して造作を營み極月に若府へ登りけり。
一五日地震津浪の節、津呂の良介後家菊女は動る最中に、我
家が家敷の往來の石壇の上端に女竹凡五六本許りも有りけ
るにすがり附て、兩足を投出し小兒の足ずりして泣が如く
にして、大聲をあげてドウシヨウゾヘナト云ふて泣叫ぶ聲
はシヤゴク童子の悲もかくやらんと、目も當られぬ斗り也
是は地震には竹藪は宜しときゝつたへてのこゝと思はれたり。我等夫婦は立寄りて鏡山の淨
瑠璃の尾上を引立揚るが如く、なく〳〵いさなひ岩松と諸
ともに中山の城跡さして登りけり。
一源太の家内は六日には平みへ逃行とて久右衞門年四十六歳妻年三
十九歳お德は菊女を呼び招き、衣類の入りし櫃を頭に戴てヲ
ザサンヤイ、コチラエ、ござんセヨ、平見ヘイキマツチヨ
ウといふので淚は瀧のことく津波の溢るゝよりも夥敷、こ
なたにはワシヤ、イヤシヤ、中山に居てよろしと答へけれ
ば、同じ在所なれはこそ死なは一ツ所と思ひしに、心なき
おばさんジヤなといいつゝ走り行く姿は、尻を三尺とあと
にして草履は橫さまにはき、又も津浪は來るかと振りかヘ
〳〵見て逃たりけり。鳴呼可笑。
一地震の節大阪には空より大豆降たりと、熊野の人も貰たる
ものも有り。種におろせしときゝぬ。大阪中へ四斗ばかり
も降りたりとなん。是はやましの仕業と思ひけり。
一翌六日は中山に五兵衞畑有り。是に麥を作りして皆無踏み
荒し□土井新宅□は一つに小屋作りし間口十間餘り奧行六
間斗り是へ逃人は多く集りて寢たれば、其儘にてねかへり
もならす、足をかゞめたれは少ものばす事もならず、ねお
くれたるものは夜もすがら寢す。地震は折り〳〵動いて心
苦敷事はいふ斗りなし。七日の夜よりは百萬遍の數珠を取
寄、宵の内より數珠をつまくる人多くして、内外へ連り念
佛を唱へ勤めけり。殊に殊滕にこそは見えける。導師は佐
兵衞茂平ときこえけれ。此茂平は面白き人物にて、大體一
回りとおほしき時分に、南無妙法蓮華經と唱へ、聞く人可
笑しと心得り。是は一奇人なり。
一同六日逃小屋より少しはなれて臺所體に小屋を構へ、壹斗
餘り燒く釜を据ゑ粥を炊き、給合せられけり。此小屋は間
狹く雜混寢して不自由也。男女若い衆は是に集り、雜混寢
の床の海。ざこねといふは山城國大原江文明神の祠へ里の男女參詣通夜して夫婦のかたらひをなすを云、○山州名勝語
に日昔蛇井出村の大淵といふ池に大蛇住む時々里に出て人を取らんとす故に蛇出る時は男女一所にあつまり臥してかくるゝなりこ
れを大原ざこねといふ事よりおこりて其後は節分の夜産土〓の拜殿に通夜するとそ。是をこゝにかりもちゆ。中には
海老の如くにはねるもあり、海老同穴の樂みもあり。夜に
入れは笑ひさゞめき、夜每日每のおかしさは言葉には盡し
がたく有りぬ。
一保太郞のいさばは津波に流れて御崎に拾ひ取り、後靜りて
貰ひにまいりしとなん。
一五兵衞いさばは一つ碇にて繫ぎ留たり。屋敷へは波入らず
家納屋は無故障。
一庄屋儀三郞家宅は本屋敷石垣には何の障りもなし。乍併表
門入口ち附け石垣崩れたり。是は九十月の頃增右衞門積むなり。又は北の方風
除け築石垣又は裏門入口、階、崩れたり。土藏の後に石垣
は少々崩たり。又は端口さけたり。波は庭に五寸程滿たり。
家土藏納屋物置此に部屋はなれ座敷湯殿雪隱に至る迄何れ
も故障なし。
一霜月初めつかたより西北の谷又は小河地の溪兩川とも旱水
にて一滴もなかりけるに、五日の地震後翌六日兩川へ泥水
湧出したり。在中の井水も悉く皆同樣の事也。寺の井水は
少しは清らかなれば、是を汲みて中山の茶水とせし、飯も
焚きたり。寔に此泥水には殆と迷惑いたしたり。十五六日
過きぬれは少し清らかになりて極月中旬頃まてには自然と
清たり。
一霜月六七八日は暖なる事は春の三月末の頃の如し。若輩の
人〻は肩を脱きたり。
一予霜月五日の夜は城跡にて野宿いたしたり。六日には留二
郞に招かれ、中山の逃小屋へ移り、十一日の夜迄止宿せり。
是六とまりなり。十二日の夜より十七日の夜迄五兵衞方へ止宿せり
是も六とまり也、飮食は宿處にて給る。十八日より二十二日迄我宅へ歸り寢たり
五日より晝夜地震動り隙なく動りければ慶藏後家まつ年四十六子龜太郞年十三歳□□淋しくある故に賴みとまり貰ひたり。夫
より地震も不絶動りければ、菊重甚恐れて宿に寢かぬるゆ
へに、又々二十三日より廿五日迄又兵衞方へ三宿せり。二
十六日よりは我家へかえりけり。
一極月廿日夜五ツ時頃より霰降たり。此時分は古座邊は餘程の大粒津荷より右座へ來る
人の話しには顏へ當ると飛礫を打たるゝか如しと云へり。目方四五匁も有りと。奧熊野邊は二十目も有となん。予七十歳にして不
覺珍敷事なり。
一十一月五日の夜は才賀屋五兵衞畑中山に有り。凡三升蒔も
ありつらん。是へ逃集る人數は凡六七拾人も有るやらん。
何の事も思はす、只疎〻敷並み居たり。此夜は殊と方寒さ
強く、翌朝見れは大きに霜降りたり。此畑の廻廊猪やらひ
の爲に折を二つ割り四つ割りにして透間もなく結廻し、堅
固なる事は一城の如し。恰も百姓一揆の集りたるに似たり
此板杭を手に〳〵拔て大篝火を燒、上戸は酒を取寄て林間
に酒を溫めて紅葉を燒くとかいえども、鍋釜はなけれは燠
むるよふもなし。冷酒を呑みてから元氣を出しても如何な
る事そとわつらううち、地震動りければ何れも顏色はさめ
て青白く土の如くなりけり。又も夜四ツ時過る頃大地震動
りしかは心經やら觀音經やら念佛と金比羅山と氏神を唱る
仲間は多く、つらひ時の神賴みといふは金言也。下戸のも
のは寒さにこゞへかね、蒼醒垣杭をぬきて火を燒き煙に
むせて目よりは淚を飜し、顏をそむけて念佛を唱へ、鼻もた
れ口も[喝|ユガ]めてたすけたびたまへとねんじける。たばこを呑
む人はなし。誠や薄きの穗にもおじる落武者のことに搖震
有さまは身の毛もよだつ斗りなり。只燒火に寄り添て寒さ
と上戸と地震の伽をぞせられけれ。此畑に麥を作りありけるに壹本もなく踏み荒した
り、壹本もなく踏み荒しけりとせり。
一十一月四日地震津浪は伊豆の下田は千有餘軒の場所なりし
が、流失の殘り家は七軒斗りときこえたり。折ふしヲロシ
ヤ舟入津して有りけり。此船へ流れ人をたすけ乘せたりと。
然るに干潮の節舟そこを損したりとて大筒五十七挺陸へ揚
しと聞へぬ。極月十二日淡路相川來福丸源七船水夫時藏なるものゝ話しなり。
一若山にては地震津波も左程の事はなきよし。黑江日方は大
きに損したるよし。田邊は地震に家は動り潰れて出火と成
り二日二夜も火鎭まらさるよし。波は湊より新所迄溢れ込
み五百石積の船は打揚られたるよし。是なるにや大橋も落
たりしと。死人は貳拾人斗り、此内に近在の人も有るよし。
富田邊日置邊も大荒のよし。周參見は地震津波大荒長谷川
の店より出火のよし。
又田邊の新所は家數三百三十軒斗りの所なり。三十軒は殘
りたり。餘は流失いたしたりといふ。富田□□は百五十軒
斗りの所なり皆無流失せり。
一口熊野周參見より下筋の入江又は河有る所は相應に破損、
江住浦磯島へ溫泉湧出いたしたり。湯生はぬるき故取湯にして水風呂に焚て入浴す諸
病によしといふ。和深、江田、田並、有田も大破二部二色も同樣。
委しき事は其里〻浦〻の人にき〻たまへ。
袋浦は淺右衞門壹軒殘りたり。皆無の大荒。閑の川は川筋
の野山の内に八幡の宮の前へ通りへ潮滿ちたり。大御崎と
いふ坂の下たの田地にて四百石積の淡路船壹艘破れたり。
炊壹人死したりといふ。
袋浦より串本へ通行の道の上ゑにイブ木有り。是迄滿水し
たりといふ。千百以上の船此所より流れ出たるよし。破船
は數不知ときゝぬ。其節□□禁裏御用材木積入の船も破船
して、上方より役人入込取扱に及びたり。御代官所御目付
所も御立合にて殊濟いたしたり。袋湊は常水より三丈の溢
れ入りたるよし。
一串本は一圓に潮溢れとも家には何事もなし。地震にては土
藏築地石垣大破なり。貳分口所は別して大破。
一上野はまづ何事もなし、地震津波此方潮は常水よりも三四
尺低くしといふよし、土人の話なり。
一出雲夫より大島は海邊通りは汐滿たりといふ。須惠も同樣
樫野は何事もなし。
一橋杭は大破にして無事なる家は少もなし。
一姫伊串は川筋へ汐いれとも何事もなし。
一神野川は是も川筋斗り故障もなし。
一西白井無事。
一古座川、六左衞門廣小路より汐揚り家數凡七十餘軒大破の
よし。大納屋も大破。夫より下筋一二軒も家は殘れりと聞
ぬ。廻船は破損多くあるよし。地下中上野山又は獨活谷又
はお[老婆|ウバ]江小屋を作り、暫く住居したりといふ。
一中湊は四日には中の檀まで潮満たり。五日には其うわかさ
といふ。在中一統正法寺の田面又は其邊へも小屋を作り雨
露を凌きしとなん。滋に御鐵砲方宇治田氏を始めとして、
五六輩、雜賀屋吉五郞宅を詰所となして有りけるに、地震
動ると忽、才賀屋市左衞門手船に打乘り、中洲へ渡らんと
川中迄乘出しぬれば、古座の方より津波と呼るにそ、是に
驚きて直樣船を乘戾し、船も繫きもせす、脇差は船に忘れ
置て陸へ揚り、寺の方へと逃たるよし。其人々は、
然る處、市右衞門養子源兵衞出雲の産後藤氏二男其船を繫き留て、鐵
砲方の忘れ置し品々を取集め、寺迄爲持となん。[不褻|ケシカラズ]周
章たることゝ思へり。
一四日の津波は古座川丈ケ月の瀨村潔の淵迄波留しときゝ
ぬ。五日は高瀨村迄登りしときゝぬ。
一津荷は格別の事はなしと。下田原は川口近處川邊の家は多
く破損したり。
一浦上は官の近所は流失したるも有り、又は大破の家も有り。
こゝに伊左衞門とやら申人は、太田大泰寺賴母に落札して
金子七十兩さい布に入持歸りしとなん。まも無く津波にて
家道具は流失金を持なから其身も流れ、よふ〳〵と小舟に
すがり揚りけれとも金は流失いたしたり。夫より下筋は慥
に不聞故に不記。
一新宮は殊の外大地震のよし。大破にて無事なる家は六七軒
斗りも殘りたりとなん。
一天滿濱野宮は家は多く流失。天滿の穢多村は皆流失せり。
那智山は所々大崩れ奧の院地藏堂は逆に倒たり。瀧本觀音
堂は東の角廻緣抔は大破也。堂中宿所などはくゐ違有り。
一湯の峯は湯は出止みたりけれとも、安政二乙卯四月頃には出たりといふ。日高
奧龍神の湯も出やみたり。田邊湯崎も出やみたり。是は水も同樣
といふ。
一十一月五日地震時分後は米も下落にて七十目位にて世上一
統靜謐にして人氣も平和になり、大阪では豊年踊り抔ある
よし。
奧熊野突波荒場有增の次第左の通
一木本浦は地震にて人家少し損し候へ共津波不溢。
一大泊村は人家水入候へ共人家格別不流。
一新鹿村は湊不殘流失。里は丸屋御□方水入候へ共家は不流。
一遊木浦は六分通流失の由。
一二木島浦は十軒餘り不流其外は不殘流失の由。
一甫母浦は八分通り流失の由。
一曾根浦は六分通り流失の由。
一嘉田村は八分通流失と覺候。
一古江浦は海邊は石垣等破損候へ共、人家に格別の障も無之
候。
一三木里浦は七分通流失。
一三木浦は海邊の人家へ水入候へ共流失無之候間先無難同樣
一梶賀浦は十軒餘り流失の由。
一早田浦は八分通流失の由。
一九木浦は人家へ潮水溢れ候へ共格別流失無之由。
一尾鷲浦は奧熊野第一の荒村にて、人家千軒餘も流失、且夥
敷諸人流死したし、凡人物相知れ候筋四百人も有之由。于
今死骸相尋有之候趣に御座候。
一長島浦も奧熊野第二の荒村、其外三浦、七八分通流失の由
紀勢志州海邊大荒の由、風聞に承り申候。御尋に付荒場有
增申上候。
極月四日 河島義道
上野三齊樣
一嘉永七甲寅十二月二十三日改元の御通詞安政といふ。
一安政二乙卯二月朔日に加州金澤に城下も御城内も大地震に
て動り潰れしとなん。
右は安政二乙卯五月中旬に再ひ書記するもの也。
眠龍時年七十有一
出典 日本地震史料
ページ 387
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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