[未校訂]○前略我湯淺では四日四ツ時大地震あり、夏六月の其れに數倍
したもので、海潮に多少の變調あつて、何となく常ならざる
により、人々萬一を慮り津浪の用意を爲すもあり、老人子供を
夫々知己の方へ逃し置くもあり。然るに其日は何事もなく、
翌五日に至り小地震ありしが、天氣も良く穩かにつき昨日逃
げし人々も安堵し、老人子供に至るまで我家に歸り、家財道
具も持歸りたる人もありて、共に無事なりしを互に相喜びつ
つ居る中、七つ時空の西南の方に赤き雲たなびきて大地震あ
り。其震ふ小半刻に及び、土塀家屋の倒潰あり。南濱浦大小
路中川原邊まで地面に龜裂を生じ、川水又涸れ、井水の次第
次第に減ずる感じあり。折柄沖合に於て大砲を放つが如き大
音響數回、同時に苅藻島見へざる程の汐煙立ち、浪の押し寄
せ來る狀恰も龍の頭を立てるが如く、其勢物凄く浪の浦邊に
押寄する速きこと瞬間にして、最初地震とのみ心得て、鍋釜
蒲團其他の道具を持出して濱邊へ逃げし人々は、ビツクリ仰
天し其の所に放置して走るあり、或は輕き物のみ提げて逃ぐ
るあり。此等は皆助かりしも、狼狽して濱邊にありし船に乘
りたるものは十中の八九死亡せりと云ふ。
避難の狀態 地震のみと思ひ市中廣き場所等へ、疊莚其他
持出して避難したるも、スハ津浪と聞くや取るものも取りあ
えず、家内はちりちりばらばら、親兄弟もあらばこそ、命か
らがら我先きに避難所を求めんとして、急ぎ東奔西走する群
集の犇き、押合ひ突き倒し眞に無我無中、地震のみにても混
雜の折柄尚一層の混雜にて、中にも負はれた幼な子が飢に泣
くも乳を含ませるいとまもなく走る女あり、足の痛みを訴ふ
る子供を叱りつけて急ぐ母あり、足弱の老人の孫の手を引い
て急ぐあり、悲鳴をあげるあり。其人波の押寄する混亂のさ
ま、到底名狀すべからざるものであつたと云ふ。中に若きも
のの蒲團鍋釜を擔ひたるもあり、肩にしたるもあり、又手當り
次第の道具を持つものありて(重き挽臼など持つたものもあつた
といふ)宿變への如く、避難者の中には別所村へ避けんとて南
川端筋をつたひ逃げし者の浪のために死せしものもありと。
別所、青木、平野、山田村では家每に避難者で充滿し、少き
は十人二十人多きは四五十人もありといへり。又知己緣故の
なきものは天神山、妙見山、辨天山、滿願寺山、東兀山、中の
谷邊或は山畑へ莚苫古疊等を敷きて避難するもの數知れず、
中には避難を急ぎ親は子を失ひ、子は親を失ひ、兄は弟と離
れ、姉は妹と別れ、暗夜の中に右往左往に山々村々に尋求め、
呼立つる悲痛の聲喧く、當時の慘狀實に察するに餘りあり。
山畑へ遁れし避難者の群は翌六日より各々通傳を以て藁繩古
莚竹苫など貰ひ、小家掛けを爲して漸々雨露を凌ぎ、有るも
のは釜小桶小杓位にて、茶碗など少なく、家族の多きは代
る〳〵食事をなせしといふ。水を求むるに井戸遠く、夜臥す
にも枕は無し、乞食に怠○劣力りし有樣にて、中には寒氣に耐
へて病臥するあり、避難の際負傷して臥するありて、斯くし
て凡そ十日程の間山住居を爲せしといふ。當時東兀山(俗にス
ベリ山)より目擊せし古老の話に、六十歳位と覺しき老婆が五
六歳なる孫の手を引きて、吉川方面へ遁れんとて、栖原橋の
中央まで來た刹那、高潮のために橋諸共に水中に落ち、其影
を沒したまゝ、遂に二人の姿が見えなかつたと。實に此等は
慘中の慘であつたといふ。
警械と救護 震災に拌ふ公儀の事業として第一に起るのは
市中の警戒と罹災民の救護である。
當時富豪家とし又德望家としての湯淺村大庄屋網屋清七氏に
は早速庄屋肝煎浦方鐵砲組其他有志と協議を重ね、市中の警
戒は鐵砲組之に充たり、救護に付いては町内の大家筋並相當
の資産家へ施米金の切付寄附の募集を行ふことゝし、自ら率
先して白米五十俵を湯淺村へ、同十五俵を廣村へ寄附す、皆
この美擧に感じ進んで寄附を爲せりといふ。尚栖原、水尻船
坂等村々の有志よりも夫々寄附ありたりと。
警戒 此の地震海嘯にて避難を急ぎ、家財なんど顧みる暇
なく、多くは家を開け放し、恰も空家同然にて、此機に乘じ
て盜賊の徘徊多く、寳永年間に於ける災害の時も多く盜難に
罹りし例もあるにより、浦方鐵砲組(組頭は角屋右馬太郞氏にし
て十組に編成す)は晝夜の分ちなく各交代にて市中を巡廻し、
時々空鐵砲を放ち警戒すること嚴重なり。又中にも大家筋は
番人を付し置き、警戒怠りなきにもかゝわらず賊の出沒あり
て、盜賊にかゝること頻々たりき。しかし此等は後日に至り
全部役人の手に於て檢擧し捕縛されしもの多く、夫々刑罰に
處せられたりといふ。
救護 避難の翌日即ち六日より十日まで牛居善左衞門方を
村役人の詰所として粥を炊出し、難澁の避難者に頒與す。十
一日より十二月二十四日まで、満願寺を假役所と定め、奧の
畑に粥焚小家を建設し、又西塀際に大なる假小家を設け家屋
の流失倒潰の爲め我家に歸ることの能はざるものを之に收容
し焚出しを給與した。而して家業成りがたきものは各所に漂
着の流木古瓦等の取片付け又は田畑に流れ込みし船の引下し
など、其他雜役人夫に採用し、此勞銀として大人は二升子供
は五合或は一升といふ標準にて給與し大に救護を施せりとい
ふ。蓋し家屋に大なる破損を蒙らざりしものは、十一月十四
日五日の兩日に亘り、全部我家に引揚げたりと。此震災につ
き集りし施米金及物品の寄附其他左の如し。
一、白米五百九十四石六斗三升五合 大庄屋網屋清七氏
外百十六名
一、金子十七兩、銀子五貫四百七十匁 庄屋大阪屋清左衞
門氏外三十八名
一、莚百枚 吉田賢輔氏二名
當時寄附者の氏名と物品とは建札を以て牛居善左衞門宅の表
街路に揭示せりと。今記錄によりて一々此等を記せんとする
も紙數に限りあるを以て省略す。
被害區域 各種の記錄を綜合するに槪略次の如し。
地震に伴ふ洪浪は、南は廣川口等に繫留の帆船漁船を別所勝
樂寺下及名島川油屋の下手まで打上げ、廣橋を破落し、堤防
を破壞し、一方辨天堀より小川(俗にチチコ川と云ふ)を東に別
所まで押寄せ、廣川の堤防を破た逆浪と共に満願寺より南一
帶は一面の泥海と化し、各所に無數の大船小船其他簞笥長持
等諸道具の漂流せしむること數知れず、市街では大小路中川
原一帶は家屋流失、島の内兩側は二三軒づゝ殘り他は流失す。
又辨天は四方壁落ち社壇迄流れ、恰も辻堂の如く、御神體は
平野屋惣兵衞方の庭敷にありたりと。新田は浸水のみにて家
屋の流失無し。(之レハ辨天の松ニテ浪ヲ防拂セシ故ナリト)
又北は南と同く川口に碇泊の帆船漁船を顯國社付近一里松の
上手、清水谷の下まで打上げ、栖原橋、順禮橋等を落し、堤
防を破り、山家町(現大宮通)紺吉裏手にまで一帶の泥海とし、
之又各所に多くの大船小船を漂流せしめ、而して栖原坂下手
の家屋凡そ十四五軒程と順禮橋南詰の家屋一軒を流失す。
市街では道町北入口は床より上二尺通り浸水、傳馬所(今戎松
店の所)附近は床限り、山家町石橋より上は裏手より浸水、走
り上りは全部浸水、北町は中町角あたりまで浸水、北惠美須
社土塀は浪の爲めに流る。新屋敷は全部浸水、南は惠美須社
北と同樣、其他流失家屋ありて被害甚だし。濱町は北より一
丁程浸水、南は浸水家屋多し。中町南は橫町邊まで浸水被害
多く、福藏寺あたりまで汐來たれりと。北は少々浸水あり、
藏町は中町より以西浸水す。鍜冶町南は坂の下東側にて二三
戸殘り、他は流失、道町南は坂の下五六戸殘り他は流失し、
久保町南は中川原より押寄す汐にて浸水せりといふ。此の洪
浪は五日七ツ半時(午後五時)より暮六ツ時(午後六時)まで三回
に及び、三回目の浪は最も大にして、夜五ツ時(午後八時)ま
で十三回に及べりと。
因に南は名島油屋の下又は勝樂寺下手に百石船、長池の下手
に五十石船の漂着あり、北濱一里松の下手にも百石船、顯國
社附近にも漂流ありしと云ふ。
被害の程度 地震と海嘯にて蒙りたる被害の大略左の如し。
一、家屋の流失 百八十七軒
一、倒潰家屋 八軒
一、半倒潰家屋 十四軒
一、流失又ハ倒潰ニ等シキモノ 二百四十七軒
一、床上浸水 三百十一軒
一、床下浸水 百六十二軒
計 九百三十軒
一、船舶の流失 五十八艘
一、同大小破損 百八十一艘
一、田地荒レ 十四町五反一畝
一、畑地荒レ 八町五反四畝十八步餘
一、屋敷荒レ 四町三畝十五步餘
一、川除破損 四十五ケ所
一、浪除破損 二十ケ所
一、往還破損 十ケ所
一、落橋 三ケ所
一、死人 男十人 女十八人
一、流牛 二疋
以上
漂着物の處分 洪浪の爲め各所に漂着せし流家、古木、古
瓦等にして所有主の不明なるものは一々其場所に於て整理の
上、株立と爲し公入札を行ひ、其競賣金は全部被害者に分配
せし由なり。(分配方法の詳細は記錄になきを以て知るを得ず)
短文の記錄
(一)嘉永七年寅六月十四日夜九ツ時大地震、其夜は何事も無
之候。當九月十七日朝沖へ唐人船來る。鐵砲夫々人足ゆい
付、在中共同斷に御座候。以上。
(一)當十一月四日朝五ツ時大地震ゆり、夫に付吉川村、山田、
青木、別所村へ皆夫々逃げ申候。其夜は何事も無御座候。
明五日は晴天に付八ツ時まで引取仕候所、又々七ツ時より
大地震ゆり出し、畑、野原へ逃げ候。海中大ヰに鳴動仕候
あと、道ばたへ船は見へ、皆々驚入、我も人も逃出し、鍜
冶や町より御藏町へ上り、道町へぬけ、寺の前筋天神樣へ
ぬけ、此道筋は大極上之道也。
(一)荒れの事、北川筋戸岩は一軒も殘らず、北橋詰一軒流れ、
四軒は大荒れ、北町筋中町より西あれ、新屋敷筋うらかわ
大荒れ、濱町筋北一丁汐三尺はかり上り、中町筋橫町より
南は大荒れ、道町坂の下も同斷、大小路西より東迄二三軒
残り、中川原も同断、島の内辨才天北三軒殘り、新田大あ
れ、潮は別所村迄船上り、北は一里松前百石船上り、中は
山家町迄潮上り、死人三十人斗り。廣村も同斷大荒れ、栖
原は潮少々上り、田村より箕島迄別條なし。
各地方の狀況 和歌山及其他地方の被害慘狀は次の通りで
ある。蓋し當時の記錄なく、又大した被害を蒙らざりし所
は之を省けり。
和歌山(略)
加太 地震よりも海嘯にて、地震起るや忽ち大津浪が來
ると云ふ風説立ち、村民は家財一切取片付け、家を仕末し
て全部山に避難した。地震は約一ケ月も續きしため、其間
老人や子供は津浪を恐れて家に歸らず、避難を續けてゐた
が、大した事も起らず、從つて人畜等に被害は無かつた。
然し漁船等堤川に流れ込みて破壞せるもの數多あり、是れ
がため危險にて、加太橋(阿彌陀寺前の橋)口前橋(今の瀉見橋)
が通行停止せられたりと。
和歌浦(略)
紀三井寺 安政元年十一月四日已の刻地搖り始め、人心兢
々として安からず、翌五日申刻異樣の音響を發すると同時
に、地裂け天落つるが如き激震起り、人々途方にくれ、親
を呼び子を尋ねるの聲紛亂困亂して名狀しがたし、のみな
らず津浪襲來して大字紀三井寺の如きは、大門の石垣初段
まで潮水に浸された、住民は何れも名草山に避難した、殊
に大字布引は海岸に接し、名草山に遠きため一時遁路に迷
ひ、悲鳴を擧げて狼狽するの慘狀を呈した。村民は何れも
山又寺院等に假泊して難を避け、一週間後漸にして自家に
歸つた。(鄕土誌)
黑江 安政元年十一月四五兩日にわたつて大地震あり、此
の際高津浪上り來らんかと、土民家財を片付け、小高き地
に避難する者あり、中には頑固なる者等ありて、多くの人
は油斷してゐるところ、翌五日午後四時過ぐる頃又々大地
震あり、所々に地面の龜裂した所もあり、海山一時に震動
し、沖が鳴り出し、午後六時頃より大津浪上り來り、村民
の混雜甚しく、皆思ひ思ひに天王山御坊其他小高い山に逃
げ登り漸く避難した。此の浸水した地に魚類多く來たのを
見たと傳へられてゐる。
損害
流水橋 二。
流失家屋 多數。
井戸、濱、渡場東側大手の石垣、崩壞。
矢の島大手の石垣、崩壞。
海岸に繫留せる船は市場に漂流。
浸潮区域、市場、黑江坂の下より北は中程までに到り、
古屋敷の中程に及んだ。
當時の損害は非常に烈しく、天王山御坊で土地の有志より
施米し、漸く村民の困難を救濟したといふこと。(鄕土誌)
日方 安政元年十一月四五日大地震あり、津浪は延正寺迄
來たりたる由にて被害不明。
内海 安政元年十一月五日(七十六年前、井伊直弼の和親條約
締結の年)南海道に大津浪があつて、古老の説によれば、二
回に亘り津浪が襲來し、藤白、鳥居前に千石船が打上つてゐ
たとか、津浪の干いた後に佛壇に魚がはいつてゐたなどゝ
言はれてゐるが、流失家屋はなかつたやうである。(鄕土誌)
因に、海水の陸地に浸水すること約三町、海岸に近き人家
に於ては床上一尺の浸水あり、家財等の流失したるものあ
れど、人畜に被害なしと。
濱中 安政元年十一月五日は晴天にして一點の雲はなく、
又風なく好天氣なりしが、同日午後二時頃甚だしく震動あ
りて步行し能はざりし位なり。字下津馬轉橋附近にて二三
寸も龜裂を生せりと。人皆強震に驚き、屋外にありしもの
は悉く歸宅し、通行旅人皆人家に立寄りたり。然るに午後
五時頃海中にて遠く砲の如き音響を耳にするや、忽ちにし
て波濤寄せ來る。是所謂大海嘯なり。退潮後約三十分にし
て第二回の海嘯あり。第三回も亦三十分を經過の後なりし
が、甚しき高波にして、其波の高さ現下津新田道路上約七
八尺にして、潮先は大字上小森神社今の記念碑まで來り、
其際年貢米積込ありし大船及蜜柑船等は數町陸地に來り居
たる由。最も甚しかりしは初回にして、次回よりは漸次減
少し、同日月沒の頃殆んど靜穩となりたる由。前日來潮水
膨脹し、當日の朝は殆んど道路の高さと平行してありしと
言ふ。而して潮の進至極緩なりしが、退潮は頗る激なりと
三回目の干潮には下津外瀨戎神社西手より北脇の濱、大崎
村境以内は海底を見ることを得たりと。其際下津椀惣方七
八歳の小兒流死し、船舶二三艘破壞、新田平藏方納屋半倒
せしまでにて、大したる被害なかりしと言ふ。人皆驚怖甚
しく、七八日間は附近のもの皆山住居なせしといふ。當時
避難者に聞くに、兎角潮沫ある時は注意せよ、海嘯の兆な
りと言ひ傳へつゝあり。(鄕土誌)
北湊 古老の談によれば、十一月四日大地震あり、同五日
も大強震ありて、前日より宮崎沖の海面に火柱立ち、五日
の大震あるや、海底に於て大砲の如き大音響を爲すと同時
に、宮崎の鼻よりも高き大浪の寄せ來る狀物凄きこと言は
ん方なし。地震にて混雜せし村民はサアー津浪の來襲と聞
くや、一層騷ぎ、我一にと川内の船へ飛乘るものもあれば
又、宮山へ避難するものもありて、宮山へ避難せしものは
皆小家住居を爲せしと、避難民の早く我家へ引歸りたるも
のは六日間位にして、遲きものは十日餘りも山住居を爲せ
しといふ。浸水家屋は二百軒にして他に被害なしと。(記錄
なきを以て詳細不明)
辰ケ濱 北湊と同樣にて、村民は米麥を以て附近の山に避
難すること二週間位なりといふ。別に被害なし。
栖原、田村 古老説に、湯淺と同じく十一月四日四ツ時大
地震あり、村民は全部、山又濱邊へ避難す。翌五日午後四時
頃又大地震と共に、海中より大音響數發、同時に苅藻島よ
り高き大なる高波の押寄せ來る狀物凄く、其狀を見るや否
濱邊へ逃げし人々は、我先きにと幸山其他の山へ避難し、暫
く山住居をなせりと云ふ。被害としては倒潰家屋なきも、
柱ねぢれ壁落ちたる家數十軒、濱側にて津浪の爲めに浸水
せし家屋少々、字栖原領の田地半ば浸水、船舶の破損數十
艘、流死人幼兒一名にして、他に大した被害なしと云へり
田村地方は別に是たる害を蒙らざりしと。
廣村(略)
西尾、唐尾 津浪にて西廣、唐尾の兩村家數多く流れたる
由。傳へ聞く、西廣字島に今、現在の鈴川與八と稱する家
は當時少し小高き丘にありし爲め流失を免れたるも、高潮
は屋内納戸まで浸入し、魚多く躍りあるを、干潮の後發見
せりと。今に同家の納戸に其跡ありと。
三尾川、衣奈 十一月四、五日強震ありたるも、津浪襲來
せざりし由なりと。被害の程度不明。
由良 十一月四日五ツ時大地震にて、家屋の破壞多く、各
家々には家財道具を高所へ持運ぶあり、又親類等へ預くる
等ありて、翌朝迄避難す、其間震ふ事十七回、老幼婦女の
悲鳴を擧げて避難する狀實に慘狀を極めた。翌五日晴天に
て何事もなかりしにより、安堵しつゝ一同は諸道具を全部
持歸りしもあり、其儘預け置くもあり、然るに七ツ時又々
大地震あり、瞬時にして大雷鳴の如き音響發し、同時に津
浪の襲來と聞き、避難民は前日より一層混亂を極め、其の
慘憺たる狀景は言語に絶せりと云ふ。
蓮泉寺記に、嘉永七甲寅十一月四日五ツ時大地震、此日諸
方にて家屋破損多、此日夜明迄地震十七ゆる。翌五日此日
は格別晴天にて、前日地震にて家々に諸道具高處へ持替置
を皆持戾し候。然るに七ツ時に大地震淘しが、暫して海の
鳴事大雷の如、鳴止而綱浪上り、二番三番の浪の時、家藏
をつぶす事誠におそろしき事喩がたし。當村釜戸二十四軒
棟數五十二軒流失、橫濱七十三軒、綱代棟數百軒餘り、人
死三十人許り、有田、日高家流いか程とも不知、此時は山
家奧迄そとに小屋を懸住居致候。當村不殘四日より十一日
迄奧谷の藪に小家を打住居致候。當村へ御見舞として米一
斗四升、高家川、酒五升、富安、五升、萩原、米四斗、嶋
村。(以下略)
南鹽屋 嘉永七年寅六月大地震ありて、以後海中鳴動す。
然る處十一月四日、又大地震にて、津浪の寄せ來ると、村
民恐れて大混雜、同五日八ツ時過ぎより大強震にて、七ツ
時大津浪の襲來ありて、流失家屋夥しきも、人畜には被害
なかりき。
光明寺記錄に、嘉永七年寅六月大地震ゆる。夫れより海中
鳴る事たびたびなり。
同年十一月四日大地震にて津浪上るとの諸人さわぎいたす
也。此日熊野邊は大津浪上る。
嘉永七年十一月五日八ツ時過ぎより大地震ゆり、七ツ時大
津浪にて、浪先きは森岡法華塔迄、流家數多あり。當浦に
は死亡者なし。浪は一つ二つ三つ也。
北鹽屋 本村に於ける當時の狀况につき今尚健在の當年と
つて九十歳の老人、村上熊次郞氏(天保十三年生、當時十三歳)
の話によれば、次の如くである。
其の年(安政元年の事)の十一月の三四日頃より誰れ云ふと
なしに地震ゆるとか、津浪が上るとかいひました。其の四
日の天氣は誠に好い天氣で、風は凪ぎ、實に溫い日和で有
りました。が右のような話がありますから、家財道具は全
部高い所や山へ運びましたが、五日になりて津浪が上らぬ
と、又誰れ云ふとなしに云ふので、山へ運びし荷物全部を
家へ運び歸りました。其の晝食頃に、人間が立て居られぬ
位の大地震がゆりました。夫れから今の時間なれば午後三
時頃と思ふ頃、大きな大砲とも何とも知れん地鳴りが三回
鳴りました。其の音が引くと同時に、津浪が一時に押寄せ
て來ました。夫れ故皆別々に山へ避難しました。故山の上
で親が子を尋ね、子は親をと實に口で云へぬ位みじめであ
りました。其波で北鹽屋、天田屋山田長太郞氏の北の方面
は全部一軒も殘らず流れました。死人としては五六人位で
ありました、其日又四時頃と思ふ頃に一回と、五時半頃と
思ふ頃に一回と、前より少し小さい津浪が上りました。北
鹽屋の南の王子神社の石段は九ツ迄浸りました。南鹽屋は
高い爲め低い所の濱に面した家全部と、平井吉太郞氏宅の
此の方面丈、皆屋根の瓦が浸りました故、引波の時に全部
流れましたが、北鹽屋より害は少い。
其時飮み水は無し、食物が無し、困りましたが一日後にな
りて遠近の親類及び外村より焚き出しを受けて命をつなぎ
ました。寒さの頃であるから、流れて來た家木や其他の流
木を拾つて割り、山の上で焚いて溫を取りました。水は皆
池の水を飮みました。尚南鹽屋の鰹島の近邊は平常九尋十
尋位ある所ですが、其時すつかり空で水が無かりしと。云
々。
この老人の話を聞けば、此の邊も海嘯の甚しかつた事を想
像される。毛綿屋平兵衞氏手記には、北鹽浦百三十軒程流
れとあり。
印南浦 水島氏「新古見聞覺」に印南、大道筋崩壞にて步
行出來不申とあり、「毛綿屋平兵衞氏手記」に印南浦本鄕と
申す所家數多流失すとあり、「熊代繁里手記」に印南浦五日
に往來より濱側大方流失とあるも、狀况と被害の程度は他
に記錄なきを以て不明に属す。
南部地方 十一月四日辰の下刻大地震あり、村民皆驚いて
身を街路に避くる事暫くにして止みぬ。此日地震四五回あ
りしが、津浪の寄せ來らんことを憂ひ、一同は附近の小山
に避難す、然るに其日は何事もなく其夜は神社に詣で、安
全を祈念し、家に歸りて萬一の準備を爲す。翌五日申時又
もや大激震ありて街路に立つ能はず、同時に海底鳴動大波
の寄せ來る河を遡る狀恰も雲の如し。此の高潮の干満する
こと三四回に及ぶ。村民全部は岡山へと避難す。此日も大
小の地震數十回に及ぶ。(以下略)
田邊(略)
串本(略)
古座地方 安政元年(嘉永七年)十一月四日四ツ時より一刻
ばかりの間、大地震と同時に高浪ありて、村民及在中の者
は上野山又は寺院等に避難せるも、其日は格別の事なきに
より、其夜各自宅へ歸りしもあり、又翌朝に至り歸るもの
もありき。然るに翌五日七ツ時より再び大地震にて、住民
は前日の津浪に恐をいだき、我一にと避難を急ぎ、親を失
ひ子と別れ、泣き叫び立つる聲蚊の啼く如く、大混雜にて
命からがら上野山又は其他へ避難した。此地震と同時に雷
の如き大音響と、間もなく津浪押來る其狀凄ましく、古座
川口にありし大船小船は、一里餘り上手なる宇津木村の川
中にある清暑島邊迄押流し、大船などは畑中へ打揚げ、小
船は木の葉を散らす如く各所に漂流せしめ、破壞した。此
の最初の高浪は餘り大きからざりしも、干き切る有樣又す
さましく、此時は川口より十二三丁沖の黑島迄は一面の磧
となりて、島根は恰も鼎の如く三本の岩足にて支持しある
ことまでも發見せりと傳ふ。二回目の高浪にて多く家屋を
流失せりといふ。其他潰家及堤防等の缺潰多かりしと。