[未校訂]一、同年十一月四日四ツ時大地震、直樣津浪來る、家財幷貯
の金米とも少しも殘らず流失、津浪來候體を見るに、池中
の水地上にわくが如く、四ツ時より八ツ時までの津浪大小
五六度程も來る。流家竈數百五十七軒此内本役廿三軒死人六人男一
人女五人、此の内一人は死骸相見えず牛五疋流失、今日の荒方尾鷲浦死人凡三
百四五十人、長島浦死人凡三十人餘、其外浦の荒樣夥し。
一、同月五日晝七ツ半時又樣大地震津浪少々來る。西の方に
當て山のぬける樣な音有り、夫より夜に入て數度ゆる。夜
四ツ時に津浪少々來る。大空に鐵砲の音なるひゞき有、今
夜人々野宿致す。今日の地震新宮家々大半搖倒る。田邊は
出火幷津浪來る。攝津、大阪、大津浪人家幷舟も、其荒方
大方ならず。猶九州大荒、東海道筋大荒、尤も出羽、奧州
並北國邊は地震少々の由。此度湯の峰の湯幷川湯とも五十
日餘も相止り候由。猶其外諸國の荒方誠に前代未聞の天變
なり。當村田地荒凡二百石餘も波掛申候。
五日の夕方ゆり出し候てより諸人田畑野山に居て念佛の聲
夥し、眼前の地獄見ぬ修羅道の如く、夜に入て益〻ゆり出
し、居ながら往生と覺悟極候程の仕合よふ〳〵六日の曉方
より少し相和らく。
當村に於て家貯流失の者へは大木表より廻米を致し、十一
月五日より廿三日迄の間庄屋許にて一人前一日米三合宛當
て養。
此度の地震にはきじの聲四方にこたへ□猶亦井戸に
水有や以後此義可心得事也。
津波より年暮迄海の汐當浦邊三尺程猶候事。
右の條々有增し相しるし置也。向後子孫に至る迄若し大地
震有之候はゞ、少しも猶豫なく上地邊へ逃げ可申事。
此程の地震には片時も過ずして津浪來る。當度の荒方はい
ふに及ばず諸人の不自由筆末にしるしかたければ略之。只
末世の子孫少しも奢らずして正直第一に必家宅を錺る事な
かれ。猶も天道の照覽を朝暮恐るべき事專要也。
當時當邊の米相場石に付八十目位。○中略
寳永四年に津浪有之候由。當年迄百四十八年目なり。
大津浪鍋釜わるなきじも啼井戸の水とてあてにならぬ
ぞ
津浪きてよごれた娑婆をあらい嘉永米もさがるときけ
ば安政
明和四年丁亥龝大水亂有之由。當家屋敷四尺程地下に先年
の屋敷形あり。尤も夫迄は御仕入方屋敷也。
此度の津浪にて墓の石碑不殘たおれ候内、祖父庄藏の塚は
少しも無別條。猶又前に立ちたる香花も其儘有之。誠に奇
代の珍事心を驚かし候事。
安政元稔甲寅臘月 白露誌書印