[未校訂]海嘯襲來 (廣村の盛衰小史)
我が梧陵の故鄕廣村は、紀州有田郡の一邑にして、往昔著し
く繁昌したる土地なりき。廣村は舊莊名にして、東鑑に「紀
伊國廣、由良莊蓮花王院領」とあり。其の地は湯淺灣の埠頭
に位し、嘗て廣浦と云ひ、和船時代には、船著きとしても相
當に繁昌したる場所なりしが如し。水路志の記す所によれば
「湯淺灣は白崎と宮崎との間にあり。灣勢は兩側順次に狹縮し
て灣首に至り、湯淺浦となる。浦中水深七尋乃至八尋、泥底
の處を錨地とす。西微南より來る風の外、能く各方面の風を
防ぐ、灣首沙濱の南端、小村落の附近に一防波堤あり。廣浦
と稱する一淺澳を形造り、和船の繋舶地となる。鷹島、刈藻
島、及び二三の岩ありて灣面を掩ふ」とあり。吃水淺き和船
の船繋りとして、便利なりしを知り得べし。
古來廣の地は、船著きとして他鄕との交通頻繁なりしが爲か
對外發展の氣性に富み、他鄕に出でて、出稼ぎをなす者甚多
かりき。當時村民の出稼地は、下總の銚子、及び外川鄕、肥
前の五島、日向の六ケ内等にして、其の大部分は漁業に從事
せるものなるが、下總に於ける發展はその中最も古くして、
且最も盛なりき。現に銚子地方に於て、紀州に祖先を有する
人人今尚少からず。廣の村民が斯く遠く銚子の地に赴きて、
此處を活動の地と定めたるは、最初紀州沖に出でて漁業に從
事し居たる廣の漁民が、時化などに逢ひて外洋に押し流され
黑潮に乘じて銚子に漂著し、やがて其の儘此處に落ちつきた
るに非ざるかと推せらる。それは兎も角、廣の村民の銚子に
居佳する者次第に增加するに從ひ、濱口家の祖先の如きは此
に湯淺醬油の釀造法を傳へて、醬油釀造の業を銚子に開拓し
たるが、銚子の氣候は醬油釀造に適したるが爲、其の製品は
自ら關東地方に於て歡迎され、釀造業は漸次繁榮するに至れ
り。即ち現今同地唯一の生産業として普く知られつつある醬
油釀造業は、全く濱口家の祖先の創始せる所に係る。
叉是等企業心に富める廣の村民の中には、江戸に出でて商業
を營める者も少からず、橋本、古田、岩崎、小林、濱口等の
知られたる者を始として、凡そ二十戸あり。此等知名の人々
の外、他鄕にあつて活動し居たる人々は、たとひ其の地に於
て成功すとも、然も一家を擧げて移住する事稀にして、何れ
も廣に本宅を有したり。廣の村民が、他鄕に於て業を營む
者多かりしにも拘らず、村内の隆昌を來したるは、之が爲に
外ならず。叉此等の人々が他國より故村へ移入する財貨は、
埠頭に於ける出入船の賑ひと共に、益〻村内をして富有なら
しむるの因をなせり。されば德川期中世以前にありては、湯
淺千戸廣千戸と併稱され、紀州に於ても隆昌の村邑として知
られたり。目下廣の戸數は四百に滿たず、極めて微々たる一
小村落に過ぎざるも、往昔繁榮したる時にありては、僻邑に
稀なる呉服屋の興るあり、或は木の下、中勘、角宇の如き小
間物商の賑へるあり、其の他産物商、肥料商の如きものも出
で來り、更に天然の港灣は各地の船舶貨物を吸收して、一時
問屋運送屋の如き貿易回漕の機關さへ發逹したる時代ありき
海莊集中に此地を詠へるものあり。往昔廣浦の光景想ふべし。
竹枝詞
南岸垂楊北岸花 春流一帶媚紀霞 絃歌細々微風碎
鴉子津頭賣酒家 鰐魚風起片帆低 日落孤礁海鹿啼
潮信如斯即莫渡 就中嶮惡是白犀 江隈十月欲氷時
魚少寒宵上網遲 江柳烟衰痩難掩 江郎生計細如絲
風光入眼忽銷神 紙幟紗燈出閭門 白首翁媼揮淚立
倩僧臨水祭冥孫
然るに此の地は古來海洋の災多く、天正年間海嘯の來り襲ふ
あり。村内人家の過半を流失倒潰して、其の創痍未だ癒えざ
るに、寳永四年海嘯再び來襲して叉もや人家三百餘戸を洗ひ
去れり。此等被害民中、さゝやかなる農業或は漁業等に依り
生計を營み居たる者は、何れも路頭に迷ひ、飢餓と離散との
外行くべき途を見ず。叉他鄕にありて産を成せる人々も、右
の海嘯に依りて本宅を失ひ、其の土地を荒されたる者は、其
の儘之を放棄するが多く、見る〳〵内に一村は疲弊の極に陷
れり。斯くて一時は隆昌を以て近鄕に誇り居たる廣村も、再
度の海嘯に因りて戸口減少、土地荒蕪、到底昔日の俤を見る
能はず。徒に荒れ果てたる田畑は、農作物の收穫甚少きにも
拘らず、年貢米は依然として苛重なりし爲め、農民の困苦の
愈〻其の度を加ふるのみ。土地を所有する者は之を有せざる
者に比して、其の負擔の多き丈け、苦痛は寧ろ多大なるもの
あり。土地を讓り受くる者には酒五升を振舞はんなど云ひて
田畑の貰ひ手を搜し索むる者さへありしと云ふを見れば、海
嘯以後如何に村内の疲弊せるかを知るに足るべし。
斯くの如く一方には出稼人等の全く他に移住し去るあり、他
方には土地の荒廢に依りて村民の離散する者增加したるより
往昔千を以て數へたる廣村の戸數は年と共に減少し、八百は
七百となり、七百は六百となり、遂に半減して更に益〻減少
せんとするの趨勢を示し來れり。梧陵の少年時代なる天保年
間より、其の青年期に及ぶ弘化嘉永前後に於ては、嘗て賑へ
る呉服屋小間物屋の如きも何時しか衰滅し、村内愈〻衰微し
て、何等かの方法を講ずるに非ざれば、到底廣村の恢復と發
逹とを望む可からざる有樣なりき。廣村の衰微殆ど其の極に
逹し、村民の窮迫する者次第に加はりしにも拘らず、往昔隆盛
時代の驕奢の風習は依然として改むる所なく、盛大なる祭禮
を擧行し、殷賑なる盆踊等に興ずるの風習尚存し、之が爲に
要する冗費の甚少からざりしは、古きに執する人情の已み難
き所なりしなる可し。當時梧陵は年三十前後、江戸にありて
は有志家の間を往來し、銚子に於ては家業に專らなるの時代
なりしが、時々鄕里に歸りて村内疲弊の狀を見、村民窮迫の
態を聞くや、之を救濟して活路を與へんとするの念禁ずる能
はず。而して其の救濟事業が必ずしも救恤のみに非ざるを知
れる彼は、一面に先づ村民をして質素勤儉の風を養はしむる
と同時に、別に資を給して村民の企業を助け、以て一日も速
に廣村をして前日の繁榮に歸らしめんと努力したり。其結果
村民に多少の生色を與へ、村に幾分發展の氣勢を見んとした
るが、天、廣村に災する事暴君の虐政に似て、之を虐げ盡さ
ずんば已まざるものの如く、安政元年前後三度に渉りて、紀
州沿岸に襲ひ來れる大海嘯は、廣村に對して最も甚しき糝害
を被らしめぬ。梧陵時に年三十五、この海嘯と彼がこの海嘯
に對せる措置と、兩つながら傳ふるに足れり。請ふ詳かにそ
の顚末を語らん。
安政元年夏六月十五日、廣の地に強震あり。恰も夏祭の夕暮
なりしが、村民は悉く戸外に逃げ出して一夜を野天に明せり。
其の後誰云ふとなく、本年は海嘯來るべしとの流言盛んにし
て、人心安き心もなかりしが、超えて十一月四日早朝、強震
再び至れり。この時は前にも增して震ひ方激しく、周章狼狽
せる村民は、僅に手廻りの大切なる道具衣服などを抱へて、
村端に一阜丘をなせる八幡山、或は中野金屋等の隣村に逃れ
たり。翌五日は天に雲なく、海全く凪ぎ、再び地震の來るべ
き氣色も見えざりしより、人々は漸く心を安んじて家へ歸れ
るが、日沒の時刻に至りて激震叉もや至り、之と共に轟々と
して遠雷の如く、殷々として連發する砲聲の如きもの、海の
彼方より響き來るが聞えたり。此の時村内の井戸一時に枯渴
し、叉廣浦の前面なる刈藻島の邊に當りて、高さ一丈ばかり
一抱へもあるべき火柱の立てるを見たる者あり。四圍の有樣
如何にも只事ならずと見えたれば、梧陵は驚破こそ異變の兆
なれと直覺し、何事を措きても先づ村民を何れにか立退かし
めんと咄嗟に思ひ付きしが、此の時早く既に山の如き怒濤は
澎湃として陸上に押し寄せ來り、附近一帶の地見る〳〵泥海
と化し去れり。
海嘯の襲來と見るや、彼は先づ家族を安全なる場所に避けし
め、次で番頭茂兵衞と共に、あわて惑ふ村民を一人も殘らず
避難せしめんとて、その身の危きも忘れて踏み留りゐたり。
その中逃ぐる限りの者は逃げ去りて、最早四邊に一人の影も
見えずなりたれば、今は心安しと、彼が最後に身を逃れんと
せる途端、波浪は愈〻高く打ち寄せ來つて、あはや、彼をも
一呑みにせんず勢にて迫り來れり。彼は宛がら狂人の如くひ
た走りに走れり。されども、如何にせん、激浪の追ひ來るこ
と甚疾くして、將に其の顎に捕はれんとせし一刹那、彼は礑
と村を通して流るゝ一條の川流に突き當れり。今は唯之を越
ゆるの外に逃るべき道なし。その川幅は凡そ二丈、平常なら
ば迚も飛び越え得べきものにあらざりしが、さても神護か、
彼は難なく之を飛び越えたり。と見る間に濤は全く此の流に
硬かれて、追撃の力を弱めたるより、彼は其の暇に小高き山
際に走り、漸く生命を完うするを得たり。
斯くて彼は漸くにして八幡山に辿り着き見れば、村民の大部
分は早くも難を避けて其處にありしも、日は何時しか暮れて
暗夜咫尺を辨ぜず、唯暗中水の音と共に、彼方此方に奔馳す
る人々の怒號と、逃路を失ひて救を求むる老幼の叫喚を聞く
のみ。破は此等の途を失ひたる者を救はんが爲に、壯者を促
して松火に火を點じ、別に田の畔に積みある稻村に火を放ち
て、道に迷へる者の目標としたり。彼が此の臨機の奇策に依
つて難を免れたる者その數を知らず。
村民の多數は命を全うしたるも。行方不明となれる者尚三十
餘人。再び押し寄せ來りし激浪は、第一回のそれより更に高
く、燃えゐたる稻村も此の爲に押し流され、家屋の倒壞する
もの更に多きを加へ、再び住む能はざるもの百餘戸を數へた
り。當夜著のみ著のまゝにして、八幡山及び隣村なる法藏寺
境内に群り集れる被害民は千四百餘人に上りたりと云ふ。中
には水に濡れて打ち顫ふあり、家旅を失ひて泣き叫ぶあり、
家なく、燈なく、夜は次第に塞くして慘狀目も當てられず。
而も此等の被害民は未だ何れも夕飯を取らざるより、彼は直
ちに法藏寺に赴きて佳職に會し、その貯藏米を借り來りて一
時の飢を凌がしめたり、されど僅に一寺院の貯藏は到底多數
村民の糧とする能はず。彼は深夜隣村なる中野村に走り、年
貢米を收めたる御藏を開き、其の米を借りて一時の急を救は
んとて、之を同村の庄屋等に交渉したり。然るに庄屋等は上
の譴責を恐れて之に應ぜざりしかば、彼は憤然として、「斯く
の如く危急の場合は非常の手段を要す。上の許可を得ずして
御藏米を出したる罪の負ふべきものあらば、予は甘んじて之
を受くべし」と説き、終に之を説破して年貢米五十石を借り
來り、暫く被害民千四百餘人の飢餓を救ふ事を得たり。
然るに救濟は一日にして終るべからず、辛うじて一夜を野天
に明したる被害民は、翌日より家なく食なく、唯慘害の跡を
眺めて茫然たるのみ。中には隣村の親類を賴りて身を寄する
者ありたれど、叉中には雨露を凌ぐべきたつきもなく、其の
日の食物をさへ得る能はざる者甚多かりき。彼は此の憐れな
る人々の爲に、或は藁小屋を建てて之を入れ、或は自ら貯ふ
る處の米穀を出して之が救濟に充て、叉は村内の富める人々
を勸誘して救護米を出さしむるなど、切に當面の危窮を救は
んが爲に努力し、兎も角被害民をして、當座の飢と寒さとよ
り免れしむるを得たり。
左に揭ぐる梧陵の手記は當時の實況を述べたものにして、海
嘯襲來の當日十一月四日より八日に至る五日間の日記とも見
るべく、悲慘の狀、混亂の態、及び此の間に奔馳して救助に
從へる彼が風貌を想見するに足るものあり。
安政元年海嘯の實況 (濱口悟陵手記)
嘉永七年十一月四日四つ時(午前十時)強震す。震止みて後直
に海岸に馳せ行き海面を眺むるに、波動く模樣常ならず、海
水忽ちに增し、忽ち減ずる事六七尺、潮流の衝突は大阜頭の
先に當り、黑き高浪を現出す。其狀實に怖るべし。
傳へ聞く、大震の後往々海嘯の襲ひ來るありと。依つて村民
一統を警戒し、家財の大半を高所に運ばせ、老幼婦女を氏神
八幡境内に立ち退かしめ、強壯氣丈の者を引き連れて再び海
邊に至れば、潮の強搖依然として、打ち寄する浪は大阜頭を
歿し、碇泊の小舟岩石に觸れ、或は破れ覆るものあるを見る。
斯くて夕刻に及び、潮勢反つて其力を減じ、夜に入つて常に
復す。然れども民家の十中八九は空家なるを以て、盜難火災
を戒めんが爲、強壯の者三十餘名を三分し、終夜村内或は海
邊を巡視せしめ、且つ立退の老幼婦女に粥を分與し、僅かに
一夜の糧に充てしむ。
五日。曇天風なく稍暖を覺え、日光朦朧として所謂花曇の空
を呈すと雖も、海面は別に異狀もなかりしかば、前日立退き
たる老幼茲に安堵の思をなし、各〻家に歸り、自他の無異を
喜び、予が佳所を訪ひ前日の勞を謝する者相次ぎ、對話に時
を移せり。午後村民二名馳せ來り、井水の非常に減少せるを
告ぐ。予之に由りて地異の將に起らん事を懼る。果して七つ
時頃(午後四時)に至り大震動あり、其の激烈なる事前日の比
に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ。遙に西南
の天を望めば黑白の妖雲片片たるの間、金光を吐き、恰も異
類の者飛行すると疑はる。暫くにして震動靜まりたれば、直
ちに家族を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に當りて
巨砲の連發するが如き響をなす數回、依つて歩を海濱に進め、
沖を望めば潮勢未だ何等の異變を認めず。只西北の天特に黯
黑の色を帶び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに心氣の安
んずるの遑なく、見る〳〵天容黯澹、陰々肅殺の氣天を襲壓
するを覺ゆ。是に於て心竊に唯我獨尊の覺悟を定め、壯者を
勵まし、逃げ後るゝものを扶け、與に難を避けしむる一刹那、
怒濤早くも民屋を襲ふと呼ぶものあり。予も疾走の中左の方
廣川筋を顧れば、激浪は既に數町の川上に溯り、右方を見れ
ば人家の崩れ流るゝ音悽然として膽を寒からしむ。
瞬時にして潮流半身を沒し、且沈み且浮び、辛じて一丘陵に
漂著し、背後を眺むれば潮勢に押し流さるゝものあり、或は
流材に身を憑せ命を全うするものあり、悲慘の狀るに忍びず。
然れども倉卒の間救助の良策を得ず。一旦八幡境内に退き見
れば、幸に難を避けて茲に集る老若男女、今や悲鳴の聲を揚
げて親を尋ね子を搜し、兄弟相呼び、宛も鼎の沸くが如し、
各自に就き之を慰むるの遑なく、只「我れ助かりて茲にあり、
衆みな應に心を安んずべし」と大聲に連呼し、去つて家族の
避難所に至り身の全きを告ぐ、匆々辭して再び八幡鳥居際に
來る頃日全く暮れたり。是に於て松火を焚き壯者十餘人に之
を持たしめ、田野の往路を下り、流家の梁柱散亂の中を越え、
行々助命者數名に遇へり。尚進まんとするに流材道を塞ぎ、
歩行自由ならず。依つて從者に退却を命じ、路傍の稻村に火
を放たしむるもの十餘、以て漂流者に其身を寄せ安全を得る
の地を表示す、此計空しからず、之に賴りて万死に一生を得
たるもの少からず。斯くて一本松に引取りし頃轟然として激
浪來り、前に火を點ぜし稻村浪に漂ひ流るゝの狀觀るものを
して轉た天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲來前後四回に
及ぶと雖も、蓋し此時を以て最とす。
夫より隣村の某寺院に至り、佳僧に談じ貯ふる處の米穀を借
り入れ、直ちに之を焚きて握り飯となし、八幡境内其他各所
の避難所に配賦し、僅かに窮民の飢饉に充つ。然れども限り
あるの米穀を以て數日を支ふる能はざるを察し、深夜馳せて
隣村の里正某を叩き、情を告げて藏米五十石を借り受け、翌
日の準備をなす。
六日。風靜かにして日暖かなり。東方の白むを待ち、八幡鳥
居際より全村を望み、被害の度、夜來の想像より稍輕少なる
を知れり。然れども漁舟の覆りたるあり、樹木の根より拔か
れたるあり、叉田面には屋材家具の流散するあり。行々人家
に近づけば流材の堆積愈〻甚しく、鳶口を杖して其上を踏み
越え、海濱に出でて眺むれば、潮水漣波なくして油を流した
るが如く、平素に異なれり。而して其間に漂舟流材は汚物と混
じて浮べるを見る。海岸に沿うて西に行けば、人家は槪ね流
失叉は崩壞して、唯二三の舊態を存するあるのみ。嗟呼、幾
百の人烟一夕潮流の掃蕩する所となる。人生の悲慘茲に至り
て極まれりと謂ふべし。
長嘆未だ半ならず、強震突如として來る。予驚いて倉皇高地
に向つて疾走し、遂に被害地の視察を終らずして避難所に歸
り、施米焚出の事を見る。抑も八幡境内と隣村の一寺内とを
以て避難所に充つると雖も、唯地上に疊を並べ、戸障子を以
て之を圍ひたる露宿に過ぎす。老幼の内に漸く膝を支るの憂
苦離散の實況は人をして斷腸せしむるに餘りあり。殺身濟仁
は平素志士の扼腕して講ずる處、誰か惻隠の情を奮起せざる
ものあらんや。避難所は斯かる體裁にして、到底雨露を凌ぐ
事能はざるを以て、再び隣村の里正に至り、假小屋建設の件
を依賴し、其の承諾を得たり。
朝來震動再三に及び、且つ西南方に當りて地響する事數回、
爲に流民は神氣休むるに遑なく、人心動搖して百事緖に就く
を得ず、故に此際專ら人心慰勵に奔走し、傍ら炊事を督す。
本夕藩吏某來り談窮民賑濟の事に及ぶ。叉救米下附の願書を
起草す。此夜始めて高地に非常番を置き、明日の部署を定め、
次で曉に至る。
七日。町内を普く巡視するに、被害最も甚だしきは前日視察
を遂げたる西の町と濱町なれど、中町田町の街路に於ても往
往流失家屋を發見せり。而して流失せざるものと雖も槪ね大
破ならざるなく、處々に大材或は漁舟の道路を塞げるあり。
以て當時波濤の如何に劇烈なりしかを察すべし。
此日も人心の動搖は尚依然として靜まらず、之に加ふるに海
嘯再襲の流言を以てす。此時に當つてや平日剛勇を以て誇る
ものも怯懦となり、慳貪なる者も寡慾となり、唯目前の天災
を嘆ずるのみにして、災後の處理に着手する事を知らず。予は
此間にありて東奔西走、或は諭し或は勵ます事前日の如し。
然れども利に敏き輩は漸く我に歸り、流失品の拾集に出づる
者あり、且つ山邊の村民來りて流失品を盜む者ありとの風説
を耳にしたるより、警保として村の要路を設けたるも、微震
ある每に番人の逃れ歸るには殆ど困却せり。
八日。村民少しく危懼の度を減じ、避難所より自宅に歸り、
災後の始末に着手せんとするものあり。然れども家屋の全き
もの極めて稀にして、柱傾き壁落ち、家財は大半流失して、
殆ど己の家たるを辨ずるに苦めり。就中小民に至りては、佳
家の破損と共に素より多からざる家財農具を流失し、一朝に
して擧家生計の道を失ひ、茫然として爲す所を知らず、茲に
漸く離散の念を懷くに至れり。
本日初めて村役員を召集し、舊僕某の家を以て假役所に充て、
日夜事務を執り訴を聽き、人夫配布其他の指揮をなせり。然
れども握飯は猶避難所に於て焚出し、予及び村吏と雖も此握
飯を得て僅かに腹を滿せる次第なりき。予は流民救助として
玄米二百俵を寄附する旨を掲示し、以て有志家に向つて先例
を置けり。是に於て本村並に隣村湯淺の資産家續々米錢を寄
附し來り、細民稍愁眉を開き得たり。
本日に至り震動漸く輕微となり、海嘯再來の虞も全く村民の
腦裡を去りたるを以て、流遺の物品を拾集する者頓に增加し、
自他の別なく之を收得するが爲に、往々其間に不正の行はる
るを察し、各所に吏員を派し、強凌弱の害なからん事を圖る。
然れども事情素より平日と異なるものあるを以て、臨機の法
を用ひ、煩を去り簡に就く、要は平常に歸するにありしなり。
事の混雜は是に止まらず、村民所持の米俵は素より、本年年
貢米の民家にあるもの、並に本村藏米に至るまで、今回の天
災に罹り村内野中に流散するもの多し。依つて第一着手とし
て其拾集を命じ、藏米田野各所に之を堆積し、日夜番人を附
して之を守り、各自の年貢米を檢査の上封印をなし、各所有
主へ交付し、更に之を其家宅に運ばしむ。
前段既に述ぶるが如く、窮民は槪ね家財を流失し、日を經て
之を拾集するも十が一も得る所なく、平日些少の蓄藏ありた
る者も日々業を失ひ、朝夕炊烟を立つる事能はざるの悲境に
陷れり。依つて每日是等の輩を使用して散亂の俵物を拾集せ
しめ、或は道路を開通せしめ、或は番人とし、僅に糊口の道
を與へたり。町内の道路三回の修理掃除に依つて始めて旧に
復するを得たり。叉拾集の梁柱竹木瓦類は各所に積上げ番號
を付し、後日に至り入札を以て費却し、其の所得金を村民家
屋の建坪に割賦して之を分配せり。然れども斯くの如く整理
するまで幾多の日子を費したりと知るべし。
被害の槪略
一家屋流失 百二十五軒
一家屋全潰 十軒
一家屋半潰 四十六軒
一汐込大小破損の家屋 百五十八軒
合計 三百三十九軒
一流死人 三十人(男十二人、女十八人)
大防波堤築造(築堤の目的と經世的手腕)
海嘯襲來の後、村内被害の跡を見るに、倒潰轉覆せる家は屋
根と柱とを異にして各所に散亂し、海濱の田畑は悉く土砂の
蔽ふ所となり、全く荒れ果てて耕すに由なく、漁夫は舟と漁
具とを失ひて、明日の生計にも窮する者數ふるに遑あらず。
當時村民の間には、廣湯淺の地、五十年乃至百年目每に必ず海
嘯襲來の慘害ありと傳へられ、天正、寳永に於ける被害の年
代を數ふれば、其の言符節を合するが如し。されば飢餓と恐
怖とに襲はれたる村民は、早くも行末を案じて移住を企つる
者あり。叉は生計に窮して巳むなく他村の親戚知己を賴りて、
離散せんとする者あり。然らざる限りの者と雖も、安んじて
廣に留まらんとする者は極めて稀なり。梧陵はこの形勢を視
て、根本的に被害民の救濟策を講ずるの必要を感じ、先づ家
なき者の爲には佳宅を建築し、漁夫の爲には舟と漁具とを買
ひ與へ、或は荒廢せる田畑を改修するなど、殆ど我を忘れて
之が救濟に從事したり。即ち安政二年正月より翌三年正月ま
でに家屋五十軒を新築し、極貧者に對しては無料にて住まは
せ、多少の資力を有する者には十箇年の年賦にて貸し與へ、
更に農具の如きも近村の鍛冶職をして造らしめ、家に應じて
之を分配したり。斯くの如く、彼は出來得る限り被害民の爲
に力を盡したるが、極貧なる者は住居と農具を與へらるゝも
生活を維持する能はず、叉商人に至りては、資本なくして其
の業に就く能はざるを以て、彼は更に各〻身分に應じて此等
に資本を貸し與へ、以て自立の途を立てしめんとしたり。
されど村民の常に危惧する如く、廣村は五十年乃至百年每に
海嘯襲來の虞あり。殊に其の地勢は他村に比して低きが爲、
被害の激甚なるものありしを以て、將來之を防ぐべき何等か
の方法を講ずるの要あり。即ち永久に村民の安全と幸福とを
圖り、根本より村民に安堵を與へんとすれば、海嘯の襲來を
防ぐに足るべき堅固なる堤防を築かざるべからず。彼は最も
痛切に此の必要を感じたるを以て、其の巨資を要すべき大事
業なるにも拘らず、獨力に依りて之を計畫し、同姓吉右衞門
を説きて其の賛成を得るや、翌二年直に長大なる防波堤工事
を起して、廣村永久の救濟策を實現せんとするに至れり。
當時右工事著手の許可を受くるが爲、官に向つて上申したる
もの次の如し。
内存奉申上口上
一、廣村の儀往古より度々高浪の患記錄に申傳へ了承御座
候處、眼前去十一月五日の凶變に出會候て、銘々産業を失
ひ、其已來途方に暮れ罷在候に付、彼是利害申諭し人氣勵
し候得共、何分大變恐怖の餘り、今に於て聊かの地震風波
にも家財持運び、高見に逃れ候支度の外餘念無之、破損取
繕家業の營も手に付き不申候而已ならず、人情自然に土地
を厭ひ、兎も角も相成候者ども迄他處稼ぎに立退き、弱人
迄も離散仕候樣成行候ては、元より人少の難村忽ち退轉仕
り、一村の人別路頭に迷ひ、誠に不容易仕儀と奉存候に付
先逹以口逹奉願上候浪除内土手、高さ二間半、長さ凡そ五
百餘間造築奉蒙御免許候。右工費は乍恐私如何樣にも勘辨
仕り、已來萬一洪浪御座候ても人命は勿論、田宅器材無恙
凌ぎ候見留の主法相立候上にて人心安堵爲致、追々村益に
相成候愚考奉伺上、難村興復の御仁慮成戴度奉存候。何分
にも人心安住土地大切に爲存込不申候ては何の主法も相立
兼候儀に御座候。土手場地理早々御見分成戴候て、造營奉
蒙御免許度、厚御取扱被爲成下候樣仕度、乍恐内存奉願上。
已上。
前にも記したる如く、廣の海濱は古來より高浪の襲來する事
度々にして村民は其の都度慘害を蒙り居たるが爲、年代は不
明なれど、石垣を以て海濱に防波堤を築きたるもの、當時尚
存せり。されど此の石垣は高さ一間位にして大波濤の押し寄
せ來る時は、之を超ゆるを常とし、今回の如き大海嘯を防ぐ
が爲には、何等の力なきものなりしを以て、梧陵は當時襲來
せし海嘯の高さを研究し是非とも竪固にして長大なる防波堤
の能く大海嘯に耐ふべきものを築造せんとせり。彼の計畫は
舊波除の背後に當りて高さ二間半、根幅十一間、上幅四間、
延長五百間に亙る大防波堤を築造せんとするものにて、官の
許可を得ると共に、直に右工事に著手し、堤防完成の曉は、
廣村の永久に安全なるべきを説きて村民を慰撫したり。
彼が斯く俄に工事を起したる所以のものは、必ずしも工事
の急を要したるが爲に非ず。海嘯の襲來は古來の經驗に依る
も、踵を次いで至るものに非ずして、之に對する築堤工事の
如きは、十年乃至二十年計畫を以て、徐徐に進行せしむるも
遲しとせず。殊に海嘯被害の後を受けて村内疲弊したる際、
俄に之を敢行せんとしたるは、一見甚無謀なるが如きも、是
には極めて深き意義の存するものあり。
當時耕すに田畑なく、漁するに網なき多數の被害民は、其
の窮狀慘澹たるものにして、此の儘放任せんか、飢餓に陷る
に非ざれば、離散の外途なき狀態にあり。彼は是等窮民の爲
に或は米穀を頒ち、或は資本を與へて百方救濟に努力したる
も、斯くの如き救恤は殆どその止まる所を知らず、叉單に救
恤にのみ依る時は、窮民をして救恤に馴れしむるの弊あり。
即ち慈善的救濟は、彼等に依賴心を起さしむるのみにして、
永久的安心を與ふる所以の道に非ず。梧陵が俄に築堤工事を
起したるは、全く其の起工に依りて村民に職を與へ、生産的
に窮民救濟の實を擧ぐると共に、積極的に廣村將來の安全を
圖らんとしたるなり。工事免許の事を願ひ出でたる上申書中
にも「右工事は乍恐私如何樣にも勘辨仕り」と云へるが如く
之に要する工費は始より其の負擔を覺悟し居たるものにて、
實に大防波堤築造は、工事の爲の工事に非ず、救濟の爲の工
事にして、工費の支出も亦救濟の爲の支出なりし事明かなり。
築堤に要する費用の如きも、彼は最初より正確なる豫算を
立て居たるや否や不明なり。されど彼が後に作りたる見積書
に依れば人夫合計五萬六千七百三十六人と、其の費用合計銀
九十四貫三百四十四匁とあり。是は豈輕々しく著手し得べき
事業ならんや。されど斯くの如き大事業は、斯くの如き慘害の
刺戟新たなる機會を利用して、之を斷行するに非ずんば、完
成を期し難し。且窮民救濟の爲に單なる救恤費を支出せんよ
りは、事業を起して職業を與ふるの一層有意義なるを知れる
彼は、此の爲に私財を投じて悔ゆる所なかりしなり。之を今
より見るも、一村の計畫としては甚だしき大事業にして、叉
假令後世海嘯の襲來を豫想するも、到底一個人の企て得べき
事業に非ず。以て彼が落々たる心事を察するべきなり。
安政二年春二月、築堤工事の開始と共に、日々之に從事する
もの四五百人、農業の期節未だ至らず、窮民の職なき者は悉
く此處に集まれり。老幼婦女と雖も多少の勞働に堪へ得る限
りは之を使用し、衆人の群れ集ひて大工事に勵むところ、元
氣自ら撥溂たるものありき。殊に一日の勞働を終れば、それ
〴〵にその日の日當を給したれば、村民の喜び一方ならず、
生計に困難なる者も之に依りて蘇生し、他村に逃れんとせる
者も漸く安堵して、離散を思ひ止るに至りぬ。斯くて農業の
時に至れば之を中止し、冬期閑散の時機を見て再び之を繼續
したれば、村民は倦怠に苦み、愚痴を滴すの暇もなく、繁忙
と共に收入も從つて增加し、孰も皆嬉々として其の業に從へ
り。
梧陵の計畫は、築堤の延長五百間、廣川堤まで迂廻せしむ
る豫定なりしも、其の後國家多事、異國船の渡來、壤夷論の
沸騰其の他天下の風雲漸く急なるものあり。邦國の大事を憂
ふる彼をして終に此の築堤工事に專心ならしむる能はず、安
政五年十二月二度此の工事を中止するに至れり。此の間月を
閲する事四十七箇月、約四箇年に亙りて、工事の成りたるも
の、海濱正面に當りて三百七十間、豫算の計畫には逹する能
はざりしも、之にて今後の海嘯襲來に對し、之を防禦し得る
の見込は十分に立ちたり。現に大正二年高浪の襲來したる際
舊波除は波浪の超ゆる處となりて其の一部分を破損したるも
彼が築造せる此の大防波堤は儼として之に堪へ、波浪は徒ら
に其の堤腹を嘗めたるのみ。豫定には及ばずと雖も未成品に
は非ざりしなり。
築堤工事成るの後、彼が自ら誌せる「海面王大土堤新築原
由」は海嘯被害當時の慘澹たる狀態より述べて、防波堤工事
を起すに至れる理由に及べるものにして、最も詳細に彼の同
情ある心事を知るに足るものあり。前に其の一節を引用した
れば、多少之と重複するの嫌あれど、左に其の全文を掲載す
べし。
海面王大土堤新築原由
廣村の地たる西北海に面し、北三里にして宮崎正面に斗出
し霧崎丹崎は田村栖原に屬して右岸に參左たり。左望南洋
に對して三里強、白崎西に屹峙たり。「なばえ」崎、「めど」崎
は近く我が陸地に連接す。宮、白の距離殆ど四里、其の間
海鹿島、鶴島、黑島は日高郡海に隷し、漸々東して鷹島、
刈藻、無毛の諸島星羅布置、一望の中にあり。暗礁には平
瀨(瀨は礁か姑く俗称に従ふ)白崎脈脚の遠く海に走るものな
り。「をしご」瀨は宮崎の脚根にあり。伯母瀨、「そかみ」瀨
は刈藻の西北に散在し、其の他大小無數の暗礁沿海里許り
の間に點々沈在す。如斯海面の狀景は内灣潮汐の運流に如
何なる關係を持つ歟、測術家の推考を要す。而して佳民の
居は灣曲極まる所岸に沿うて部落をなし、背後平田百餘町
の西南段の瓏阜に沿うて八幡社叢に逹す。五六町復四五
の小村部落を隔て、明神、鹿ケ瀨、靈巖の諸嶺東南に屛列
す。東北は湯淺村に界して廣川あり。川は源を日高郡界山
脈即ち鹿背、小山、岩淵等の諸山に發し、蜿曲殆ど三里に
して海に注ぐ、西南は山本村嶺山手に接して江上川あり。
涓々の流れ用惡水路の稍大なるものなり。
爰に古老の傳話を稽ふるに、地勢の然らしむる歟、往昔よ
り海嘯の災ある每に其の衝に當り、慘害を被むる隣村に比
して殊に劇甚なり。往昔は姑く措き、近古天正年間該災の
爲め現戸(千七百餘戸ありしと云ふ)の四部を流滅すと口碑に
存するも、尚九百餘戸を留めて寳永四年十月の災に罹り、
現戸過半流亡し、淹死三百人あり。(此の際我が家の先代、
下總銚子出店にあり。留守の家族等幸に死を免れしも、家
宅流潰し、資財器什は盪盡せり。民圖帳記す所の濱口屋舖
は今の土堤下西端にあり。)現在佳民の舊家なるものは皆此
の災餘の遺族なるも、天正爾後の古記舊物は此の災の爲め
殆ど掃盡せり。以來漸次に戸數減却し、嘉永安政の年度は
僅々三百餘戸未滿に至る。抑も如斯の衰狀を來たす所以の
ものは別は原因あるも、單に海嘯の慘害を被ぶる他村の比
にあらざるが爲めに、佳民其の土に安んぜず、他方に移轉
するもの多きに由る。現に余安政元年寅十一月五日海嘯の
災變に遭遇し、波を潜つて活路に就き、善後の所置は奮つ
て自任し、時の莊官雁仁兵衞等を督勵し、股肱の壯漢數名
を驅使し、奔走拮据流離の窮民を收集して、風塞雨露を凌
ぎ衣食に就かしむる等の方法を盡し、慰撫安堵に心軀を勞
瘁せしは今人皆記憶する所なり。
抑も此の日や天氣異常、雲無くして日♠は、風沈んで氣結
ぼれ、暗澹模糊宛も暮春懶時の天に髣〓として、腦重く神
濁り、起坐怏々意樂まざるを覺ゆ。是れ變態空氣の壓窒を
感受して爾るなり。時將に申牌卒然地大に震動し、慌起顚
躓地に藉して抱持し、人に生色なく氣息奄々たる耳。頭を
擡ぐれば屋傾き塀倒れ、黃埃街を掩ふ。震後は萬籟寂閬、
人影蕭瑟、怪雲垂れ覆ひ、黑氣地を抹す。震怖の景、肅殺
の氣、陰々神に迫りて復た天柱地軸の支撑し能はざるの變
象を感想せり。此の時に方つて西南洋大砲連發の如き響き
を聞くこと數次、倏忽にして驀然巨浪揚り、咄嗟の際□□
を問はず、挺身勵呼東西に馳回して村民を叱驅逃避せしむ
るも、尚狼狽淹殺するもの三十六人、幸にして老を扶け幼
を抱き、辛く生命を保つことを得るも、闔村家として全き
はなく、田として荒れざるはなく、況や資財器什をや。免
れて八幡叢と法藏寺内に麕集するもの無慮千四百餘人、闔
家亂雜、骨肉彷徨、互に哀喚泣嗷、塞を叫び饑を號ふ。現
時の慘狀歷々眼に在り。此時日蚤く沒し、新月光なく天地
慘憺、東西濛冥。由て慮ふ、急卒の變壯者は快奔難なく脱
するも、老羸の後れて拯を叫ぶ者あらんことを。更に附屬
の壯漢數名を鼓勵し再び檀を下り進んで危地に入る。未だ
郊外半途に至らざるに破潰の屋材流散狼藉歩を容るゝ能は
ず。止むを得ず策を轉じて衆に同じ、田間に積堆せるすゝ
き(俗稱に從ふ)に火を擧ぐ。燎煌點々火光に瀰り、夜轉じ
て晝を成す。照暗の標を得て脱し來る男女九名を得たり。返
て中野村に馳せ、貢米十數石を假借し來り、法藏寺廚に就て
疾杵遽炊團飯、當夜の急饉を辨ず。爾後は日々流民に食を
與へ賃を給し、漂散せる浸潰の遺物を拾收し、破屋の流材
を整理し、道路を通じ假屋を作る等、災後百般の庶政に從
事し、脱粟の飯、殘畝の菜、衆と共に生命を繋ぐも、風雲
凛冽の候、荒凉凄切の景に起臥鞅掌せる數旬、艱苦を回想
し來れば、今尚愴然食に對して味なく、坐して席の暖なら
ざるを覺ゆ。是れ此の築堤の工を起して佳民百世の安堵を
圖る所以なり。
此に於て往昔の口碑を參照し、當時被災の實況に就き潮汐
の度を量り、海に面して高度二間五分、鋪地平均十一間、
延長二百七十間許の土堤新築の工を剏む。實に安政二年春
卯二月なり。災餘の流民を賃使して日々食に就くもの四百
餘人、夏に向うて人心稍鎭安に趨き、各人自營に就くの思
念を復し、爾後春耕秋收の農隙を擇び、斷續に修工し、全
く竣功せるば同五年冬十二月とす。而して外面堤脚に松樹
を栽うる數千株、堤内堤上に櫨樹を栽うる数百株、竟に今
日長堤蜿蜒松樗欝蒼の觀を呈し、其の基形既に完にして固
なり。假令百年の後海嘯の災あるも、正面怒撃に當るの力
十分餘りあるは保して證すべきなり。抑も該起工の初志は
海面の一方に止まらず、村の西端より段地の高阜に延及し
北は養源寺を内にし院の馬場を道路に沿うて廣川堤を增築
し、宇田組を包羅して廣村を一大土堤の内に安置するの心
算なりしも、天下多事の氣運に迫り卒に果さず、今に至り
ては遺憾とす。他日參照の爲め、當時積算の方法帳を附加
して後世其の人を竢つと云ふ。
震濤の餘民有田郡廣村 濱口梧陵誌
梧陵は堤防の完成と同時に、「外面堤脚に松樹を栽うる數千
株、堤内堤上に櫨樹を栽うる數百株」而して當時樹齡何れ
も二三十年のものを植ゑたるが爲、其の後更に幾十年を
經て、是等の老松古櫨、今や堤の内外に欝蒼たり。長堤永
へに海の異變を避けて、安らかに廣村を抱けるところ、梧
陵は好個の生ける記念碑を遺せるなり。