[未校訂]津なみ 若林多中
嘉永七年甲寅の夏六月十四日大地震ありて、在中こぞつて程
遠き所へ逃延び金錢衣類はいふに及ばず、諸道具を持運び中
村山に小屋をしつらひぬ。其時余が書記したるものあり。寶
永四年の事を手本にして驚くべからずと思ひ、且澤典學とい
へる儒者が寳永山湧出たるあぶきの來るなれば、其後つなみ
といへる事あるべからずといひし事をも書記し、且地震の響
を考へしに、西北の北より鳴動して來りければ、戌亥の方に
地震の本ありて、此近邊は畢竟そのとばしりとおもへるが故
に驚かず、米一粒衣類一つをも他へ持運ばずしてやみぬ。さ
はあれど天地の變測りしるべきにあらざれば若大地震ありて
津なみのあるほとならば地鳴甚しかるべし、その時津なみと
心得逃るならば、第一米錢帳面の類を持ち、其餘ゆとりあら
ば小屋がけの料に戸障子の類を持出すべし。心慾に雜具等に
目をかけて命を失ふべからずと記せり。此書たる者在中に
寫し取たる人もあるべけれど、今度の津波に流失したるべし。
當時宮の後に居佳する宮崎氏の方にあるべし。扨家内のもの
に心得の爲にいひしは、若つなみにて逃るときは、寺町通り
を祐專寺の地内より裏の木戸を通り、畑より眞一文字に中村
山にのがるべしといひきかせおけり。よつて家内の者右のと
ふりに逃延しなり。今年霜月四日のつなみの有さまは、百四
十八年前のつなみの事を小河氏の記せしとは大同小異なりき
我等朝飯を喰ひて、少し考る事ありて書見してありしが、地鳴
甚しくて、大に震ひ出せし故、家の倒れん事を気づかはしく
裏に出でんとせしに、水壺の水ゆり溢れ、棚にあるもの轉び
落、薪の積たるは崩れ、いかがはせんと怖しく、裏に出るに
橙の木ありけるが、其あたり地圻て彳むべき所もあらず。嫁
孫下女等一ツ所に集ひ、悲しみけるをなだめすかし、少し穩
になりけるとき濱へ追やりて、兎角家のたをれて失火のあら
ん事を恐れ竈に水をそゝぎ、火鉢手爐煙草盆など都て火のあ
る物を裏の中央に出し、直に濱に出て近隣の人々と地震や止
む、つなみや來ると評議しける事半時には足ざるに、投石島
(はだか島毛なし島ともいふ)より半町ばかり沖と思ふ海面より
潮の湧出るさまあかみをおびて追々強くなるにつけ、人々つ
なみなることを知りて詞を傳へ、追々に我も人も逃出しぬ。
平生心得たる如く、寺町を祐專寺の庭より直ちに畑に出て、
眞一文字に中村山へ逃登りぬ。我嚮に濱に逃んとして裏より
部屋を見るに佛壇の花瓶を始め其外の道具もこぼれ出てあり
し。其時心得て巾着の入たる懸硯箱を持出し、井戸へ投しお
かば事なからましに、その所へ氣のつかざるは、元來津なみと
いへる事は、めつたにあるまじとおもふ所心の底にあると地
震に周章たるとの故なり。あさましき事なりき。
扨濱より逃もて我家を見れば大戸をしめてあり。戸をあけて
手近き所にある物を持ばやと思ひしが、若ひまどりて流死せ
ば、末の代まで人の謗をうけん事をおもひて其儘逃延ぬ。此
戸をさしたる者を尋ぬるに、愚息俊藏なるよし。我等濱より
の逃るさに戸を明けおきなば、小遣ひ其外手近にある者を持
なとしてひまとりなば、いかなるあやまちあらんと思ひはが
りしなりといひき。余は正月三日より持病さし出て平臥かち
にて十月中旬漸く世間へ出たれば、氣力乏敷、寢卷の上に襦
袢胴着綿入を着て、細き眞田を帶として、其上にかいまきを
きて、叉細き眞田を帶としたる儘逃たれば、歩行にむづかし
くありし。俊藏は五歳の小兒を抱き、嫁のていは乳呑子を抱
き兄弟の小女幷に辻本氏の小女を引連れ、下女諸共先に逃ぐ
つゞいて我等夫婦逃げるが、兎角余は跡にさがり、畑中にて
かへり見れば、波の鼻二百間ばかりに見えける。叉顧みれば
百間は五十間にせまり、波鼻のとまりたる所を見れば三十間
ばかり隔たるとおもへり。されど波鼻のありさまを見るに、
一向けはしくなかりし。たとへば盥の水を打あけたる如くな
れば、波はなより七間や十間の間はせい〳〵腨のあたりまで
深さあるべしとおもひて、人に語りければ人もさこそといへ
り。逃もて息つぐひまに北の方を見れば、ぐはら〳〵と音し
て、土埃夥しく家土藏碎ながら漁舟も廻船も交りて、やが上
に計知河原を沂るありさま、氣も魂も消るばかり怖しかりき
さて中村山に登り、愛宕秋葉の間に憇ひて東方を眺るに、廻
船數艘順風に帆をあげ、遙の沖を渡りぬ。されば太洋より大
浪の來るにはあらず、余愚ながら考るに、大地の底地震にて
裂地の下の水、追々湧出るものと覺ゆ。譬へば、掘拔井戸を
百も二百も一時に掘たるやうのものならんか。佛經に茂城と
いふ所に水のなき時、羅候羅尊者が右の手をそろ〳〵地の中
に入たれば、金輪際より水逆り出たといふ事あり。いかにも
金輪際より水迸り出るものと覺ゆ。津なみおさまりて後、漁
師のいへるに、大曾根浦の前、弁財天社の島のあたりに、船
を流しいたるに、地震ゆるやかになるとひとしく、四斗樽ほ
どの水のかたまり、爰彼に數十塊わき出たるゆへ、たゞ事な
らずと心得、疾く逃歸りしと語れり。此所外々に波の湧出る
を見しもの數多あり。追々湧重なり、溢るゝ故に、遂には急流
の如く溯を覺ゆ。前にいへる如く、波の鼻のゆるやかなるこ
と盥の水を打あけたるやうのありさま是にて考ふべし。また
海中ばかり水の湧出るは、海中は地の底薄きが故ならんか。
叉津なみの起りは、辰の下刻なれば、波の陸に入たるは、汐
の滿るにつれて込入りたるものか、叉湧出る水の勢自然と西
へさかのぼる道理か余は知らず。天地陰陽の理を極めたる人
は能知るべし。余前に子孫のために書記したるものには津な
みの跡は河原となるべし、犁鍬等の農具あるものは、田畑を
耕作して飢を凌ぐ便あるべし、漁事などの事は、船も漁職も
流失して、漁のよすがもあるまじと書きしがさにあらず、中
村山より見るに、なみはひくと直に濱へ出て諸品拾ふものあ
り、小船にて拾ふもあり、流れ殘り所々の屋敷は堀溝などに
ある米麥の俵、其外味噌醬油香の物油等を初め、金錢衣類一
切の家財に至るまで拾ひとり、きのふまで日々の糧夜具衣類
等に乏しかりしものも、小屋には住めとあたゝかに着、あく
まで喰ひ何不足なくなりぬ。此時にあたりて、一統に人の心
常にことなる事ありときこえぬ。淺猿しき事ならずや。され
ば、在中に大地震あるはいふに及ばす、近在近國に大地震あら
ば、兼て用心して米及衣類其外家財等をも遠き所へ持運びお
くべし。さりながら、地震のゆりさまを考へたし、強大地震
のゆればとて逃支度も愚慮の薄といはんか、今年の大地震は
日本國中の内六十州までゆりたるといへる人もあり、土地の
崩れ人家のつぶれ津なみ人の死傷などの事は、難波の有枝と
いへる人の世直り草紙と題せるものに大槪を記したるものを
見たり。
一我が子々孫々のもの等衣食住に奢らず、節儉を本として及
ばぬ事ながら手遠き所へ小屋をしつらひおきて、平生に心
得て近國に大地震あるか、居在はいふに及ばず、郡中など
に地震しば〳〵あらば、手遠きところへ衣類道具米麥の類
持運び置たきもの也。
一流死人 百六十三人
内 十七人 南浦、七十一人 林浦、七十一人 中井浦、三
人 堀北浦、一人 天滿浦、外に三十一人、旅人並に他所よ
り來る挊人 凡百九十四人。
波のあがりたる限大槪を記す。
一林 仲氏並常聲寺への通道角迄
一堀 禰宜町より金剛寺への通道より一丁ばかり
一今迄栢町への通道少し下迄
一畑中畔本道限り
河筋波鼻
一中川 杉の瀨まで、計知川 坂場まで、矢の川 檜の谷出
合まで
一北浦 皆流失、橋落る
一氏神 無難
一矢ノ濱 地下藏の下まで二十一軒流失、氏神社流失 円通
寺半潰
一水地 無難
一天滿 十二軒流失
一長濱 十軒流失
一向井 大曾根 松本 何れも無難
一漁舟 流れ登りし所
御制札場に一艘、念佛寺の後畑中に二艘、今町に盪送船一
艘、漁舟二艘、栢町に一艘、堀に一艘、此外損傷の船數十
艘、沖に出居たるは無難されと雀島内に居たるは破損の家
藏の流物或は諸道具杉增材木の流木等にせかれ甚危ふかり
しといへり、必船に乘て逃へからず
一廻船八十石積のイサバ下り坂へ流入、三百石積の船八幡山
の麓稻荷社の側に流入
寺
一金剛寺 鐘樓幷に藥師堂大破、金毘羅堂梵盃石表門流失、
石垣悉崩る、本堂庫裏床より上三尺ばかり水あが
る
一念佛寺 觀音堂幷に隠居所流失、庫裏大破、石垣悉崩る
一祐專寺 本堂無難、庫裏大破、石垣悉崩る
一光圓寺 安性寺二ケ寺とも皆流失
一常聲寺 良源寺二ケ寺とも無難
破損輕重さま〴〵
流殘りたる分
一高町は新町へ通る角より濱通り角まで兩側殘る、新町へ通
る道にて一軒殘る
一袋町は高町へ通る角ちかきあたり、竪橫町にて納屋借家と
も十軒ばかり殘る
一世古町四軒殘る
嘉永七年甲寅十二月 若林多中識
因にいふ
津なみの跡は人の心いづれも皆賊心おこり、ひそかに他人の
物をうばひとり、親兄の禮もなく、正直なる者をハあほふの
如くおもひ、誠に言語にたへたる事ともハかり也。小前のも
のともはいふもさらなり、中分以上の人々もみな賊心にてお
そろしき世となり。尾鷲浦にて漸く五七人正直なる人ありと
覺えし。誠にあハれなることともなりき。我等は七十歳俊藏
は壯年なれども、正直にそだてたれば、家財の流れ殘りたる
ものも皆人にうバはれ、みな人のものとなりぬ。南本町少し
東へ入所辻本屋敷辰五郎屋敷との間につぶれ家の流れ集まり
たる中に藥簞笥ありて、飴屋孫慶松幷に下男等掘出し、三ツ
外に引出し箱兩掛けの藥箱本箱六ツ取出し呉たり。去ながら
本箱はこと〴〵く戸を失ひ、書箱みな汐いりになり、且端本
多く泥入等にて間にあわぬ物多かりぬ。藥簞笥は引出し一つ
も失はず、引出しに汐のいらぬ物多く、治療するに大に都合
よかりし。是ひとへに先祖神明の助ならんか。さて津なみ引
納りなば家土藏納屋などの沖に流れ出、或はばら〳〵に破れ
たるはせんかたもなけれど、在内にそのまゝ潰れひしけてあ
るやなしやは見歩行せんさくすべし。眼にあたらば、人夫か
けて穿ち掘かへし、家財必有べし。此心得肝要なり。既に我
等納屋中井にてつぶれたりと見えて、さる家に我等紋所のあ
る衣服を見て、ひそかにせんさくして、絹の物ばかり七ツか
へし貰ひぬ。納屋の二階の簞笥長持に衣類の襟數五六十もあ
りたり云々。(以下略之)
附記
叉尾鷲南浦ニ於テ調査セシ安政度ノ海嘯景况ノ上申書アリ、
其狀況前ニ異ナラズト雖モ接續村ノ流亡人數人員左ノ如シ。
其時ノ大庄屋土井八郎兵衞ヨリ直使ヲ馳セ旧藩ノ役所へ事情
申立ラレタレバ、銀拾貫七百九拾壹匁五分と錢三百八十貫二
百文家木料トシテ尾鷲組十四ケ在へ御救助下サレ、一同有ガ
タク拜受セリ。叉大庄屋役土井八郎兵衞ヨリ米三十石ト荒布
六百貫匁餘ヲ救助シタレバ一時糊口ヲ凌ギシナリ。而シテ當
時大庄屋ヲ初メ、庄屋肝煎組合ノ者四ケ月計モ日々巡廻シテ
取締ヲ爲シ、追々假住居ヲシテ職業ヲ操ルコトヲ得、遂ニハ
家屋ヲ建並ヘテ現今ノ姿トハナレリ。
當時ノ戸數及流失死者等左ノ如ク、實ニ寳永以上ノ災害ト云
フベキナリ。
尾鷲中井浦
元堀北浦戸數九十三戸 人口四百五十六人
内半流失五十戸 半潰十九戸 浪入十四戸 死亡五人
元野地村戸數百十五戸 人口五百八十六人
内浪入二十六戸
元中井浦戸數三百七戸 人口千二百五十人
内流失二百八十七戸 死亡七十九人 外旅人死亡二十五
人
尾鷲南浦
元南浦戸數二百三戸 人口七百十人
内流失百九十九戸 死亡二十三人
元林浦戸數二百二戸 人口七百二十七人
内流失百五十一戸 半流失六戸 死亡五十五人 外放人
死亡十一人
天滿浦戸數三十五戸 人口百六十八戸
内流失二十四戸 半流失十二戸
元水地浦戸數四戸 人口十六人
但無事
矢濱村戸數百五戸 人口六百二十人
内流失二十一戸 半流失三戸
向井村戸數五十八戸 人口二百七十二人
但無事
大曾根浦戸數二十五戸 人口百八十五人
但無事
行野浦戸數三十三戸 人口 四十八人
但無事
九木浦戸數百六十戸 人口六百五十六人
内流失二十七戸 半流失六十三戸 浪入二十七戸
須賀利浦戸數百二十戸 人口四百七十三人
内流失二十四戸 浪入四十一戸 破損三十一戸 死亡壹
人