[未校訂]『日本にては他國よりも屢々起るところなるが、かの稀有にし
て恐しき大自然の力によりて、フレガート艦デアーナ號は破
壞せられたり。』―提督が海軍總督太公に出した報告書は、か
ういふ言葉で始まつてゐる。そして時々刻々の異常な出來事
と、陸及び艦上に於ける破滅の實況が物語られてゐる。
この物語をよみ多くの目擊者の口に語られた話を聞くと、出
來事の槪觀は次のやうな縮圖によつて得られる。大きな圓い
茶碗に半分程水を入れて茶碗を急廻轉させる、水の中には卵
の殼か、荷物と人間を澤山に積んだ模型の船があると想像す
る―それが當時の船と人間との有樣であつた。だが茶碗の
中には、島の形で眞中に突立つてゐる岩もなければ角立つた
岸もないが、下田灣にはそれが全部あつたのだ。下田灣は外
海から閉されて居ないのであるから、艦の碇泊に安全な場所
を求め得なかつたことを注目しなければならぬ。
提督の記す所によると、十二月十一日午前十時、船室に居た
彼れや他の者は、机椅子などが少し搖れて、食品類が轉がる
のを認めた。みな急いで甲板に出た。見たところ周圍はまだ
平穩で灣内に浪の狂ふ樣子はなかつた。たゞ水は何となく荒
立つて居るやうであつた。
下田の町の近くに可なり流れの速い谷川があつて、數個のジ
ャンク(小さな日本の舟)が浮んで居た。小舟は俄かに水流とは
反對の、川の上手の方へ急に流されて行つた。これは見慣れ
ぬ光景であつた。で、艦からは直ぐボートに士官を乘せて樣
子を見にやつた。だがボートは岸へ着くか着かぬうちに、水
のために高く持ち上げられて投げ出された。士官と水兵はや
つとのことで飛出してボートを水から引き上げた。この瞬間
から恐しい異常な光景が展開され始めたのである。
こゝに其の畫面の主なる二三の部分をお目に掛けよう。海岸
近くの海底に地震の起つた結果、下田灣は大きな海嘯に襲は
れた。浪は岸に當つてはね反つた。が灣を出ては行かなかつ
た。海の方から更らに大きな浪が出逢ひがしらにやつて來た
からである。二つの海嘯はぶつつかつた。そして灣内に溢れ
た水は圓周運動をしながら全灣を洗ひ、陸上に飛上つて、下
田の人達が難を避けてゐる高い處まで押寄せた。第二の津浪
は下田の町を全部被ひ盡して根柢から洗ひ去つた。それから
また新しい浪が相次いで來た。次第に力を強めた渦卷は無事
に殘つて居た凡てのものを破壞し、洗ひ沈め、陸上から運び
去つた。數千の家屋のうち殘つたものは僅かに十六戸、およ
そ百人の人間が無惨の死を遂げた。灣内は家屋や舟の破片、
人の死骸、器具類、その他無數の雜多な物體で覆はれた。そ
れは提督の報告によると、『恰かも海岸の延長の如く』累々と
して岸から海に連らなつて居た。
一方フレガート艦は如何であつたか、艦の中にゐた者の話に
よると、最も物凄かつたのは、海岸の高く見え低く見えする
變化であつた。或る時は艦と水平になるかと思ふと忽ち六サ
ージェンも上に上がつた。甲板に立つて居ては水が上るのか
海の底が動くのか見當がつかなかつた。艦は水の動くまゝに
あちこち振り廻され、近くの島の岩石面に近づいて、あはや
胡桃のやうに粉微塵かと脅かされると、また灣の眞中に抛り
出されたりした。
それから急速な回轉が始まつた―報告書の言葉によると、
三十分間に四十二回の轉回をしたと云ふ。そして最後に退潮
となり、艦は海底や自分自身の錨にぶつつかつて、左右に大
きく傾き始めた。そして塗に艦は傾斜したまゝ暫くぢつと動
かなくなつてしまつた……。
恐怖も危險も破滅も―凡てこの一瞬間にかゝつて居た!
凡ての者はぎよつとして啞のやうに默つてしまつた。何うす
る事も出來なかつた。やがて祈りの言葉が起つた。凡ての者
は祈つた。ある者は言葉で所つたが、凡ての者は勿論心の中
で、諺に云ふ『海上の祈り』――あの熱心さを以て祈つたの
である。
神は海員の祈りを聽入れた。そして『運命は吾人を破滅より
救へり』と提督の報告書は記して居る。滿潮となつて艦は再
び起上ることが出來た。だがどんな狀態であつたか!併し
殘らずの者が破滅を免れたのではなかつた。一人の水兵は生
命を失ひ、二人は跛になつた。艦の傾斜の時に、弛んで居た
二門の大砲が倒れて、一人の水兵は壓死を遂げ、掌帆長テレ
ンチヱフと今一人の水兵は脚を折つたのである。
私はこのテレンチヱフを覺えて居る。瘦つぽちの痘痕面の剽
悍な掌帆長で、いつも胸のところに笛を下げ、手には束帆索
か揚錨索を持つて居た。これは私の旅行記の初めに書いた。
例の私の下僕フアヂエエフの背中へ束帆索や揚錨索をお見舞
ひ申した男である。それはドイツ附近を航行中の事で、フア
ヂエエフは私が賴みもしないのに私の爲めに氣をきかして、
洗濯用の淡水を規定よりも多く取つたからである。
右のやうな無風時の浪の亂舞は數時間續いた後で漸く靜まつ
た。フレガートを調べて見ると、すつかり壞れて居た。船艙
は水で滿たされ、食料や軍需品や士官水兵等の私有品はすつ
かり濡れて居た。だが主要なのは舵が失くなつて居たことで
それは副龍骨の一部と共にとれて了つて、提督の謂ゆる『海
岸の延長』に助力するため、他の破片物と一緖に船の近くに
浮んで居た。
艦は武裝を解いて六十門の砲を陸上に運び、日本人に保管を
托した。そしてこれは我々にとつて非常に大切であるから敵
の手に渡らぬやうにして呉れと賴んだ。日本人は砲門のため
に特別の小舍を建てゝ、注意深く收藏保管して呉れた。槪し
て彼等は自分も震災に遇つたに拘らず、私達に対して出來る
だけの助力と奉仕をした。日本政府は私達のために食料や凡
ての必要品を調達した。わが皇帝陛下は彼等の奉仕を評價し
ロシア航海者に對する盡力の感謝として、その六十門の砲を
すべて日本政府へ贈つた。
だが私達の方も負債ばかりでは居なかつた。艦が傾いて底を
ぶつつけて居た時、二艘の日本舟が艦のそばへ流されて來た。
私達は非常に苦心して其の一艘から二人の日本人を救ひ上げ
た。其の者は當時まだ外人に接することを政府から嚴重に禁
ぜられて居た際とて、喜んで救はれたのではなかつたのであ
る。現に彼等の三人目の同僚はその故をもつて二人の例に做
ふことを恐れたゝめ、忽ち小舟と共に破滅してしまつた。私
はまた家の屋根につかまつて流されて居た一人の老婆をも助
けた。
浪が靜まつた時、提督は負傷者を治療する目的でポシエー氏
に醫者を添へて下田の廢墟に派遣した。日本人は矢張政府の
禁令を恐れて『負傷者はない』と云つて治療を斷つたが、私
達は其處此處に負傷者を認めた。
斯樣にしてこの海のドラマの第一幕は終つた――第一幕であ
る。何となれば「恐しい」「危險な」そして「破滅的な」時は
地震と共に遠く去つたのではなかつたからである。第二幕は
一八五四年十一月十一日から一八五五年一月六日まで續いた
其の時海員達はフレガートを棄てた。いや艦が彼等を見棄て
たと云ふ方が本當だ。そして彼等は故國を遠く離れた見知ら
ぬ岸邊へ、文字通り「放り出された」のである。
艦は副舵をつけて負傷者を病院へ運ぶやうに要心深く、下田
から六十露里ばかりの他の灣に探し得た戸田と云ふ圍はれた
港へ導いて行つた。其處の砂濱に艦を寢かせて修繕し、そし
て再び航海する爲めである。だが凡ての希望は空しかつた。
二日ばかり嵐に揉まれた揚句、乘組員は全部止むを得ず艦を
下りてボートに乘り、大綱に曳かれて、零下四度と云ふ嵐の
中を戸田港の反對側にある日本のモンブランなる富士山の麓
へと上陸しなければならなかつたのである。
天氣の定まり次第、日本の小舟の助けを借りて、如何かして
艦の殘骸を港まで引ずつて行つて、そして兎に角修繕を加へ
たいと思つた。フレガートが當時の狀態でまだ水の上に浮ん
で居たのは、提督の物語られた通り、通例淡水を滿しておく
船艙のシステルンが空虛になつて居たからで、それが艦の沈
沒を妨げて居た譯である。
百艘の日本の舟が引張つた。五六露里の距離となつた時、俄
かに一陣の突風が起つて浪を立たせた。小舟はみな急に曳繩
を棄てた、そしてフレガートを指揮して居た我が士官等も共
に小さな灣内にかくれた。棄てられた無人のフレガートは浪
のまに〳〵搖れて居た……。
夜の間は見張つて居る事も出來なかつた。朝になると艦はも
う既に影も形も見えなかつた……デアーナ號難破の報告を讀
み、その終焉物語を聞くと、徐々に迫る人間の苦惱の物語を
聞くやうに淚の滂沱たるを禁じ得ない。
この二日、即ち十二月十一日の地震の日と一月六日の上陸の
日とは、航海者の生活に於ける記念すべき日であつて、上に
述べた二回の晚饗會に私達の集まつた理由も其處にあつた。
最後にドラマの第三幕は――これも矢張恐怖と危險と種々な
道程に曝された旅行者のロシアへの歸還である……。
デアーナの難破は右の如くにして終末を告げた。それは海軍
の年代記の中でも最も著明な場所を占むるものである。