[未校訂]されども今に戰慄せしめるは安政元年の大地震で文書に見え
たるものから示すと、
安政大地震嘉永七年寅ノ霜月四日以來其末迄の大地震には、
豐益新田地處搖込み地面一圓下りて新田内間の田地は大痛み
となり、築堤抔は大破損で、其翌卯年二月より地主伊勢家復
舊工事に盡したが、三町貳反餘步は全く荒地となつたといふ。
又實地を知つた七十六歳の林德太郞翁の話では、福村近邊で
は人々恐れて白濱山へ避難し、黑津方面では常光寺の裏手に
あつた藪や明地に、西路見以西石塚方面では正福寺山へ避難
して其月中は露宿で暮した云々と。又辰巳新田は此地震で海
揚の爲に東海邊の堤防大半崩壞し、地勢大いに下低したので
斥鹵の地となり、住民逃亡離散したので、井上家には其復舊
手段に困難したと古き文書に見えて居る。黑津地の南新田は
答島村金久七右衞門所有の處、此大地震と大海嘯の打擊を受
けて全部破壞し海面に變じたのを、黑津地の大津平藏が讓受
け復舊工事を施した話は別に述べるとして、現在存して實地
を知つた古老の話を書く。
福村方面の模樣は同地の林德太郞翁に聞いたら答へられるに
は、私は嘉永二年の誕生で當年取つて七拾六歳になりますが
昔し大地震の時には六つの子供の事とて充分覺え居ませんが
天地がかやるのではあるまいかと思つた位であるのと、母に
負はれて白濱山へ逃げていつたら人が澤山集つて居つたので
どうしたことかと思つて居る。每日每日ゆつて〳〵とまらん
こはさは忘れません。明治廿五年の津浪は座上五尺も來まし
て、私内の軒も落ち豐益新田の堤も切れ大松も倒れて仕舞ひ
ましたが、昔の大地震から見ますると比べものになりません
云々。
學原の橋本民藏翁(大正十三年八十歳)は話された。霜月五日の
朝は思ひがけない大地震、其日は大震小震打續き、六日も同
樣七日は非常な大ゆりで、西南から大きな地鳴がして來て天
も裂けたかと思ふ程であつたが、父の彦兵衞はすました顏で
縱令家が崩れて打たれても何ともいふなと家内の者にいひつ
けた。皆々逃れて石塚の一本へいて見ると、大井利の隣の藪
へ大勢が逃込んで居つた。德島賀島の屋敷は燒けなんだが、
内町大火と聞いたのでお見舞にもいた。津浪は大分來たが格
別の痛みはなかつたと。又日開野では麥藁葺の百姓家が七八
軒位半崩になつたとは同地の嘉村宇三郞翁の話である。
領家の八十钁鑠翁森虎藏の話を聞くと、四日の午前十時頃か
らゆり出して其日は搖りつゞけて、小便せうと外へ出るの出
たが立てつて居られん。鷄も轉げるやうに思つた。地震は西
東にゆつたが、其晚は辛棒して内に居つたが、五日の晚には
賀島の役場へ逃げていて六日の朝十時頃正福寺山へ逃げてい
た。其時は人が一杯堂宮に滿ち塞り、夫れに牛馬も澤山連れ
て居つた。勿論米は持つて行て石くど突いて粥を煮て食うて
連日其處で暮したが、若衆は廻番で家の樣子を見に歸つたが
倒れ家もなければ火事もなかつた。津浪は桑野川へ押込んで
領家の北は高かつた。正福寺山へは此近邊からいつて居つた
が、豐益新田抔は米を畚でかたぎ上げて黑山で野宿したとい
ふ。辰見新田には其幅二尺位も割れて水を噴き出したが、其
他に割地はなかつた。夫れに其家へ歸つて來たが小さいゆり
には馴れこになつて仕舞つて何ともいはなんだと。