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項目 内容
ID J0400258
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(西曆一八五四、一二、二三、)九時頃、東海・東山・南海ノ諸道地大ニ震ヒ、就中震害ノ激烈ナリシ地域ハ伊豆西北端ヨリ駿河ノ海岸ニ沿ヒ天龍川口附近ニ逹スル延長約三十里ノ一帶ニシテ、伊勢國津及ビ松坂附近、甲斐國甲府、信濃國松本附近モ潰家ヤ、多シ。地震後房總半島沿岸ヨリ土佐灣ニ至ルマデ津浪ノ襲フ所トナリ。特ニ伊豆國下田ト志摩國及ビ熊野浦沿岸ハ被害甚大ニシテ、下田ノ人家約九百戸流亡セリ。當時下田港若ノ浦ニ碇泊セル露國軍艦「デイアナ」號ハ纜ヲ切斷セラレ、大破損ヲ蒙リ、七分傾キトナリ、後チ遂ニ沈沒シタリ。震災地ヲ通ジテ倒潰及ビ流失家屋約八千三百戸、燒失家屋六百戸、壓死約三百人、流死約三百人ニ及ベリ。翌十一月五日十七時頃、五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、土佐・阿波ノ兩國及ビ紀伊國南西部ハ特ニ被害甚大ナリ。高知・德島・田邊等ニ於テハ家屋ノ倒潰甚ダ多ク諸所ニ火ヲ發シ、高知ニテハ二千四百九十一棟燒失シ德島ニ於テハ約千戸、田邊ニテハ住家三百五十五戸、土藏・寺院等三百八十三棟ヲ灰燼トナセリ。房總半島ノ沿岸ヨリ九州東岸ニ至ルマデノ間ハ地震後津浪押寄セ、就中紀伊ノ西岸及ビ土佐灣ノ沿岸中、赤岡・浦戸附近ヨリ以西ノ全部ハ非常ノ災害ヲ蒙リタリ。津浪ハ南海道ノ太平洋岸ヲ荒ラシタルノミナラズ、紀淡海峽ヨリ大阪灣ニ浸入シ多大ノ損害ヲ生ゼシメタリ。震災地ヲ通ジ倒潰家屋一萬餘、燒失六千、津浪ノタメ流失シタル家屋一萬五千、其他半潰四萬、死者三千、震火水災ノタメノ損失家屋六萬ニ達セリ。
書名 〔安田賤勝筆記〕續地震雜纂所載、
本文
[未校訂]○安田啓助賤勝ハ伊勢神廟ノ御師ナリ、太麻配布ノ爲ニ江戸ニ赴
カントシ、嘉永七年安政元年十月二十九日、國ヲ發シ、四日、駿府ヲ
過グルニ際シ、地震ニ遭遇シ、親シクソノ見聞スルトコロ、及ビ
沿道ノ被害ヲ筆記セリ、即チ本書ナリ、コノ書、一ニ東海道中日
記、及ビ大地震ニ付駿府逗留中見聞錄ト題セリ、
十月廿九日、晴、今曉神社より乘船、同伴は吉惣作、磯田長
四郞、惣作從者猶藏、予四人なり。暮六ツ時參州寳飯郡不添
浦に着船、米吉といふ家に一宿。夜に入雨ふる。
同三十日、晴天、西風、吉田へ着岸、角屋久右衞門方泊。本
馬三疋先觸出す。
十一月朔日、晴、西東平に面會、兩掛一荷もち來る。暮六ツ
時舞坂へ着。めうがや泊。
同二日、晴、天龍川前より大雨。桂川ねぢがねやに一泊。夜
に入快晴、大風雨にてさむし。
同三日、晴天、寒風、暮六ツ時、岡部宿龜甲屋に泊。金谷宿
松村仁兵衞に面會。
同四日、晴、我々の馬士、土大根をもとむ故、聊錢を與へけ
れば、大に悦ぶ。同伴皆下戸なれば、安倍川の餅を望みけれ
ども、歸國の時と約し、府中にいそぐ。辰半刻、駿府の町に
か〻る。駄荷は十聞許もあとになりぬ。川越町も過ぎ、新町
壹丁目と梅屋町の間を通るに、左右の家々ゟ老若男女肌足に
て走り出れば、火事歟喧嗝かと前後を見まはすに、左右の家
家は、芒の風になびくが如く、海山震動して、諸人道路に倒
れ、鳴聲天へも通ずべし。我々四人ば、既に倒れんとしつ〻
梅屋町の四ツ辻迄、命を限に走つきぬれば、乾の角の家、南
北の庇、大道へおつる、巽の角の家も、崩る〻音はたとふる
に物なし、天地一圓に黑煙たちて、さらに生たる心持なし。
四人一所にかたまり居て、一心に 大神宮を所るのみ。ある
は念佛を唱ふる老翁あれば、絶入るべき聲して題目をいふ老
婆もあり。しばらくして震動もしづまりぬれば、馬荷心元な
く、半町許ひきかへしみれば、惣作、東平の荷物は、新町壹丁
目の石橋の邊に、荷鞍とも捨置て、馬はいづちへ行しやしれ
ず。予が荷物をつけたる馬は、是も荷をうちかへし、裸馬を
ひきたて迯歸らんとする處へ行あひしゆゑ、町中にては心許
なく、是非近邊の人家近き處迄、つけ參るべしといへども、
馬士のいへるは、荷物所か、わが命と馬が大切也、御自分逹、
荷物に氣をつけられよといひ捨て、荷鞍も捨おき、傳馬町の
方さして飛ぶが如くに迯歸りぬ。磯田の荷物は、新町壹丁目
と二丁目の間にて馬倒れければ、馬士も驚て猶豫する所へか
けつけ、磯田いへるは、外の荷物は、近邊の畑中まで附て立
迯たり。是非此荷物も、程よき所まで附て立のくべしと、漸
に僞て荷物を附させ、近邊の野まで出るよしいひ捨て、馬と
同時に梅屋町の橫町さして走りゆく。荷着所を尋る間もなく
我々三人は、所々に散亂せし三駄の荷物を一所に集め、今に
もあたりの家潰れなば小楯にせんと、荷物の中へ三人かがみ
居るうちにも、五六度も震動す。所詮江尻迄のこしたて六ケ
數、三駄の荷なれば、容易に運び所もなく、今夜は大道にて夜
をあかす覺悟にて、馬士の安部川にて求めし土大根を捨行し
を、幸喰物にせんと拾ひあつめ、只忙然と四方をながめ居る
内、艮の方に黑煙たち登り、火事よ〳〵と呼れども、半鐘打
にもあらず、次第に火の手あがりければ、辛き命は助りぬれ
ど、荷物を燒なばいか♠せんとあわてふためき、迯場を尋ん
とすれども、家倒れあひて道なく、叉は過半潰か〻りし家な
どにて、通り得がたく、その内、新通壹丁目の龜屋惣吉とい
へる三味線師の裏、蕪畑ある所を見附、此所へ荷物をはこぶ
べしとおもへども、各力ぬけて持事あたはず、漸垣の竹一本
をぬきて、二人釣りにて、壹個づ〻はこぶに、龜屋は瓦葺の
家なるに、過半倒れか〻りし橫町を通ふ事なれば、今にも震
動せばうたれ死せんと、さらに安き心なし。仕合に荷物も運
び盡しぬれば、少しは心落着たれど、寺町といふ所なれば、
南側は寺院建並び、北側は町家なれば、四方へ三間許づ〻空
地有のみ、兎角火事覺束なく、其内には爰に燃立、かしこに
火事よと呼りぬれども、己々が事にか〻りて、誰集る者もな
く、江川町砂張屋某といふぬり物問屋より出火、大西風なれ
ば、次第々々と北東の方へ燃ぬけると見ゆ、併此邊は風上な
れば、あへて騷ぐ人もなけれ、旅の空にては安き心少しもな
し。荷物を運びし〓畑は、跡にて聞ば、伊勢屋平次郞といへ
る家に、つくりし畑となむ、此近隣の人も、おひ〳〵裏の畑
へ諸道具を持出しけれども、今宵雨露を凌ぐべき心もつかざ
りしかば、四日市の地震の噺などして、日の内に風圍ひの用
意然るべしと、予心附ければ、實に尤なりと、各戸障子抔に
て四方を覆ひぬ。我々も此儘にては、一夜を明しがたく、澁
紙、馬桐油など出して、壹疊敷許の居所を構へたれども、未
時過にも晝飯さへたべねば、如何して命をつなぐべきと案じ
居けるに、田尻屋利八といへる家より見かねて、漸七りんに
て少し飯を焚たれば、一飯振舞ふべしと、女房の申されたれ
ば、闇夜に燈を得し心もちして、會釋もなく三人連立、飯小
屋に入て馳走になりぬ。されども磯田の落着所知れざれば、
猶藏に、そのあたりの野邊へ尋ねに遣しけれども、土地不案
内、殊に通路の出來兼る所もありて、知れじと歸り來る。予
引かはりて彼所爰尋ね廻れども、田畑は諸道具の山をなして
見分らねば、空しく歸りぬ。さりながら馬士と同道なれば、
程よき處に立退しとおもへども、居所知ざるうちは覺束なく
三人手分して尋ねむにも、三駄の荷物、其儘にも捨置がたく
兎や角談じ居ける所へ、先の馬土案内にて、漸に磯田尋ね來
り、次第を尋るに、御城ゟ東北鷹匠町邊の畠に荷物をおろし
けれども、一人の事故、詮方なく案じ居けるに、同心高須德
藏といへる人見かけて、何國の人なるやと尋ねられければ、
伊勢の者なるよし答ふれば、大御神の御荷物なれば、是非御
宿申べきよし申されければ、悦びに堪へず、その家へ荷物を
預け置、此所迄尋ね來りたりと語る。互に無事を悦びて、目
出度春を迎し心地ぞする、夫より荷物を取よせ、四人ひとつ
所に居んとおもへども、馬士のいふやう、此騷動の中に、半
道も隔ぬれば、最早つけ來る事むづかし、我家もいか♠なり
しや心もとなけれども、旦那旦那とは、磯田をさしていふ馬士の詞なり、も獨の事故
氣の毒におもひ、是まで案内せし也といふに、尤なることな
れば、磯田に猶藏をつけ、居所見届に遣し、その歸路に定宿
なる伊勢本といへるを尋ねしに、最早類燒して、裏の方に案(家カ)
内の居るよし聞あはせ、尋あたりて、次第を咄しければ、は
からずも御難儀御察し申候へども、家内も御覽の通にて、命
たすかりしのみなれば、今夜は何となりともして御凌あるべ
し、明朝にも至りなば、飯(炊カ)事の所も程よく取計はんとの事な
れば、賴置歸りしと、猶藏語る。夫にては今夜の食物用意な
ければ、予所々を見あるき、食物を求めんと、田畑、大道、
あるひは御城前の廣き所へ、諸人道具をはこび、家々は一人
も居る者なく、其内に七間(軒)町といへるにて、菓子商賣の家の
荷物を運ぶ所へ通りか〻りければ、やう〳〵と賴みて、串柿
六くし、柿十八をかひ得たれば、したり顏にてかへりぬ。暮
六ツ時前、予が荷をつけし馬士、先刻捨ゆきし鞍、土大根な
ど取に來りていふやう、我家は問屋場の向ひ裏なるが、過刻
灰になりたり、世に地獄極樂といへども、此外にはあらじ、
價をもらひて土大根を買し時は極樂、夢の間に家を失ひしは
地獄、しかし伊勢の荷物をつけしゆゑ、馬に少しも怪我なか
りしは、實に難有しと悦びて歸りしは、殊勝にもまた哀なり。
惡鬼のごとき馬士すらかくの如く、餘はおしてしるべし。兎
角するうち、日も暮ぬれども、夜の物とてはなく、漸く古戸
板一枚、龜屋にて借りうけ、其上に坐して、三人頭を合せて
ため息をつくのみ。四日の月も入ぬれば、たよりとせし富士
の嶺茂見えずなりて、寒風肌を透し、星のみさえて、猶更心
細し。糠屋清吉といへるより、火鉢ひとつ持來り、是にて寒
さを凌ぐべしとて置て行ぬ。あつき心は、かた炭の火にもま
さるなどいひて悦びぬ。今日は夕饌をもと〻のへねば、串柿
にて飢をしのぎをるうち、伊勢本より使來りて、この者のは
なしに、今日辰刻、松村仁兵衞殿被立寄、支度御誂なれば、
用意致し居ける内、彼地震故、帳面も我方へ捨置て、いづれ
へか立退れたりと語りぬ。是にて思ひ合はすれば、鞠子宿に
て岡部の馬士、我々と同時に參りなば、問屋場にて地震にあふべく、江川町の失火は、壹町とも隔だ〻ず、風上の事なれ
ば、命は助かるとも、四人にて本馬四駄なれば、火急に持は
こぶ手立もなく、勿論問屋場は即時に潰れしと聞ば、一時に
灰になるべきに、幸にして鞠子にて遲刻せしは、實にありが
たく、神慮とやいはむ。江川町の失火は、新かい町、上中下
傳馬町、鑄物師町、院内町、上下橫田町、残らず燒失、纔に
東の棒鼻、南側十五軒、北側十六軒殘りし許、東西十七八町
南北壹町餘、家數は百軒許も燒亡、四日夜四ツ時頃、火鎭る。
今夜は御觸出しありて、一軒より男壹人づ〻、提燈持參して
夜通し火盜の用心にまはるべし、もし無提燈にて歩行するも
のあらば、其所にてとくと改め通すべしと、嚴敷仰渡されけ
れば、四方に拍子木の音かまびすしく、其内には、下町邊に
火事なりと呼ばる、又はあやしき者の、此町へ迯込しなどい
ひ繼ぐ。其度每にむねに針(う脱カ)たる〻心地せり。女小供は、畑中
を假小屋にかたまり居て、震動せばいか♠せむ、出火せばと
やせむ、かくやせんなど、口々にいひて泣わめく聲は、哀と
いふも餘りあり。丑の時頃になりたれば、一天かき曇り、雨
ふり出さんとしければ、持出し道具をぬらさじと騷ぎたちけ
れども、家潰れ、或は傾て、容易に這入がたく、あむじ居け
る内、寅の刻頃になりたれば、西風お(たカ)ちて、叉元の如く快晴
すれば、人々安堵の思ひをなしけり。我々も荷物にもたれて
一夜を明したるは、誠に一夜を千世の心地せり。夜明迄に五
十度も震動せり。
同五日、晴、暖氣、夜明ても更に食物の心當もなく、串柿も
夜中喰盡しぬれば、今日はいか♠せんと、互に顏を見合せを
るに、田尻屋ゟ粥を焚しとて呼に來り、叉隣なる糠屋より雜
炊出來しゆゑ、來るべしとあれば、叉ゆきて馳走になりぬ。
主人、此味噌は五日前につきたる味噌なりといへども、風味
甘露のごとくおぼゆ。不斷美食を好しは、實に奢の沙汰なり
とおもひ當りぬ。食物のなきほどかなしきはなし。巳の時頃
より町々を見物するに、府中はすべて驛家造りなれば、とも
押に押れて、北へ傾くあれば、南へたふる〻あり、瓦庇はこ
とごとく大道へ落て、角々の家は三四軒づ〻、いづれの町に
ても潰れぬ。柱は多く平ら物のほぞ穴より折て、二階だけ切
下し如く見ゆるもあり。其餘も五軒目、七軒目には、五軒、叉
は拾軒、あるひは廿軒も皆潰れになりたるもあり。寺院はい
ふ迄もなく、土藏は土瓦ともふるひおとし、柱のみたてり、
無難に見ゆる家とても障子は弓のごとくなり、間每々々紙は
破れて、一軒にても戸障子の自由なるはなし。呉服町通ゟ御
堀端へ出れば、御城の石垣、四方とも五十間、叉は百間宛も
崩れ落て、殘る所は纔なり、大樹の松、榎など、根ぐるみに
倒れて、御(堀カ)城へよこたはり、御門々々の屋根は崩れて、大手
へ山をなす、此あたりの道は五六寸宛も、幾筋も地裂けて、
青泥を吹出し、御堀の水は溢れ揚りて、大道沼の如く、水道
邊の家倒れては水道をせきて、往還海の如し。御城を東北へ
まはりて、鷹匠町高須氏江尋ねゆきしに、此家も潰れて、片
隅なる藪に小家をかけ居られければ、はからずも磯田の世話
になりし禮を申ければ、至極まめやかなる志の人にて、伊勢
の荷物を預りし故、心丈夫なりとて、懇にあしらはれぬ。此
人に咄をきくに、御城内こと〴〵く潰れたりとぞ。御加番御
屋敷は、御堀の外なる御玄關潰れ、叉は長屋傾き、或は引ち
ぎりし如く、半分殘りしもありて、見るほど恐しく覺ゆ。未
時過にもなれば、叉寺町江かへる。伊勢本より下男來りて、
玄米を焚し如き飯と、糠漬の大根を、飯櫃に入れて持來り、
今朝より心配致しぬれど、食物の賣買たえてなく、漸只今近
在ゟ見舞に囉ひける故、取あへず持て來たり候といふ。是に
ては今夜の支度には足らざれば、また夕べ迄には、食事の用意して持來らんといふゆゑ、うれしく覺えぬ。尚ふとんの一
枚もなくては、今夜をあかしがたくとかたりければ、夫も後
迄には調ふべしとて歸りぬ。糠屋よりも大根のにしめ、伊勢
舍よりも大根豆腐の煮物など到來しければ、皆々安心す。ほ
どなく蒲團三枚、翌朝迄の飯に、取蒲鉾三つ、澤庵漬をそへ
て持來りければ、前夜には引かへ、寒さも少しは凌ぎやすけ
れども、一疊にも足らぬ戸板の上に、三人居る事なれば、夢
も結ばず、た♠夜の明るを待わびぬ。今日も一晝夜に三十度
も震動せり。二三里さきにて大筒を打ごとく、叉立臼を地へ
なぐるごとき音する也。音して直にゆり出すは烈しく、音し
て暫ありてゆり出すはかろし。雷鳴の稻妻のごとし。始て地
震は地雷なることしりぬ。
同六日、晴、江尻の沙汰をきくに、一軒も殘らず燒亡、驛中
の巴橋落て通行と♠まるよし。清水の湊もこと〴〵く潰れ、
失火または津浪にて死亡五百人許もあるよし。江尻定宿なる
大竹屋も、家内七人暮しなるに、息子一人助りし許にて、六
人とも燒死たりと云。其餘の死亡人は數しれず。中々人馬と
も通行は出來ぬよし。巳時頃より御城前を西へぬけ、淺間の
宮へ參拜せしに、そのあたりの人家、悉く潰れぬれど、本社
を始め神樂殿、繪馬堂、矢大臣門に至る迄、傾たる所もなく、
石の鳥居までも無難なれども、冠木石少々口あきたれば、人
止の繩を引わたしあり。只社内に數百基建つらねたる石の夜
燈、皆微塵になりたるを見る。神慮心根に徹しありがたし。
夫より安倍川邊を見んとて、宮崎町より魚町邊江か〻れば、
四隅の家倒れあひて、四方へ道なく、家根の上を通り、水を
わたり、漸に安倍川に至りて見れば、川水は泥の如く、一昨
日越し時よりは水嵩倍せり、川原は五尺許づ〻も地幾筋もさ
け、小石崩れ込たれば、水のかれし川の如く、三尺許も低く
なりたり。四日に立よらんとせし餅屋も、悉く潰れ居ければ、
誠に危き命をたすかりぬ。すべて上方筋の驛々もおなじく地
震に而失火せしにや、旅人體のものは壹人も來らず。府中へ
の入口の松並木なども、七八寸づ〻より一尺位迄地裂、深さ
三四尺もあり。其邊を歩行するに、今にもゆるぐやうにおも
ひ足早にたちさりぬ。非人抔は飢につかれ、土手に倒れうめ
く聲哀れに聞え、犬も食物なく、狼のごとく疲せて見るかげ
もなし。歸路川越町を通りしに、家々に飼おける小鳥を、籠
より放つを見て、好めるものも情なりと感心しぬ。今日に至
りては、所の者も食物なく、倒れし家をとりかたづけむとも
せず、貯ある家々には、大道にて米を搗き、騷動大かたなら
ず。今夕御觸出し有て、明朝より御救の粥被下候由。土地の
人さへ、時々の食事もせぬに、旅の身の飢にもあはざるは、
近隣の人々の情けと、伊勢本のまめなる志によれり。實にあ
りがたくかたじけなし。龜屋よりも大根漬をおくらる。此龜
屋といへるは、わが居る所の巽の裏に、感應寺といへる日蓮
宗の寺内へ立退けれども、夜に入ば、死人を墓所へ葬るあた
り近ければ、叉我々が居ける蕪畑の北の隣へ、障子などにて
居所をこしらへ引越しぬ、死骸をとりおさむるにも、葬式も
なく、身よりの者の壹兩人もつき添ひて、墓所へ埋るのみ。
其所へ立合導師の僧も、佛具なければ、念佛あるひは題目を
となふるのみ。牛馬の死せしに茂劣りて、みるにしのびざる
事なり。町中怪我せし人を尋るに、傳馬町許にても、五十六
人即死せしよし。府中にては二百人にも餘りぬべし。其餘怪
我せし人は、幾人ともなく予まのあたりみたり。別して哀に
きこえしは、清水尻といふ所に、長島某といへる同心にて、
手習師匠あり、居宅稽古所潰れて、門弟三十人餘も即死、六十
人許も悉く怪我せしとぞ。傳馬町にても十六歳になる女子、
懷胎にて橫物にうたれ、頭を二つに割たり。或は二三歳なる
小兒を負し婦人、其儘に燒死、親子とも頭は燒失し骸許殘り居
ける抔、聞たびに哀を催しぬ。去る四日、予地震後、兩替町
を通りか〻りしに、三十四五歳になる婦人、足袋許にてかけ
來り、子が袂をひかへて、わらはが忰九歳になりしが、手習
に遣しおきしに、棟木にうたれ、大疵をかうむりけれども、
此騷動にては、醫者も藥もなし、あはれ貯の藥あらばたまは
るべしと、淚ながらに賴みけれども、更に用意の藥なければ
氣のどくながら斷れば、叉泣叫びて北の方さして走りゆきぬ。
さだめて長島氏江手習に遣し置たるなるべし。いか♠なりし
やおぼつかなし。是れ迄旅行の節に、藥の用意せざりしが、
此度後悔しぬ。磯田は高須氏に居て、用意の蠟燭つけぎ抔出
して、調法せしとぞ。伊勢本ゟ晝支度として、た〻み鰯、大
根漬、夕飯ゟ七日朝迄とて、取蒲鉾、菜の煮〆、らっきょ抔
おくる。食物たりぬれば、心丈夫に覺ゆ。予通りへ出でみる
に、旅人體の男三人連にて、やけ錢を壹〆文許、手拭に包み
持行故、呼とめ仔細を聞に、越中富山の藥賣にて、品川屋と
いふ家に泊り、近在へ商ひに出し跡にて、燒亡にあひ、荷物
みな燒失ひ、誠に着の身着の儘にて、歸國せんにも、綿入の
一ツ宛も(も脱カ)とめねば、寒さ凌ぎがたけれども、買ふべき所もな
き故、方々尋ありくといふ、錢七貫文許、宿へ預け置しに、
漸此位、燒跡にてひろひ出したりといふをきくに、我々は仕
合なりと、少しは心をとりなほしぬ。けふも一晝夜にては三
十度も震ひぬ。
同七日晴、暖氣、丸子宿問屋、當所七間町高札場へ出張、人
馬繼立るよし承るにより、直樣參り樣子を尋るに、いまだ御
用の荷物人足持なども、上下とも來らず、下りの方も箱根邊
迄は通路むづかしきよし。當所を繼立ても、江尻橋落たれば、
通行出來がたし。今暫見合すべきよし申せば、詮方なく立歸
り、當所燒跡を見にゆく。漸今日は本道も通行出來るやうに
なりて、東の出はづれ迄ゆくに、燒失せし町々は、灰と瓦の
みとなり、土藏もふるひ落したる跡にて火事なれば、悉く燒
たり、たまさかに藪陰などに殘れる土藏、五六ケ所も見ゆれ
ど、前にいへる如く柱許也。寳泰寺門前抔は、すこし殘り居
ける家もあれど、悉く倒れて、燒亡せしよりも哀なり。夫よ
り住吉の社内を通りぬけ、少將井社の前に來れば、社地へ竈
をつくり、此所にて御救の粥をたまふよしにて、駿府中の男
女、貴賤の分ちなく、手に〳〵飯櫃、或は水桶、叉は豆腐箱
抔さげて集り來る者、幾千人ともしらず。社内は人の山をな
して、子供などは踏倒さる〻もあり。中には乳のみ子を脊に
おひ、下駄かた〳〵草履かた〳〵などにて、粥をいただきゆ
く婦人を見うけぬ。けふになりても、はき物さへと〻のはぬ
にや、哀なる事也。伊勢本の下男、晝飯の用意とて、いなだ
の切身、大根漬、夕飯より明朝迄の料とて、大根の煮しめそ
へて持來る。龜屋よりも澤庵漬を膾らる。予夕飯は伊勢屋に
てふるまはれたり。暮六ツ頃より西風ふきさむし。是まで雨
露をしのぎし所は、風圍ひもなく狹ければ、いせ屋の家内、
氣の毒がり、最早地震も格別の事もあらじ、裏のはなれ座敷
に止宿すべしと、ねんごろにいひくれければ、予壹人止宿す。
此家の老人は、今年八十歳、健かなる人にて、屋號を伊勢屋
といへば、伊勢にはゆかりありて、御宿を申も、大神宮を御宿
を申意にて、心丈夫なりとて、同じく此所に臥、夜の物綿あ
つく、八疊敷の座敷なれば、漂流せし船の陸地にあがりしも、
か〻る心地ならむといとうれし。吉と猶藏は荷物をまもり
て、もとの所にて夜を明す。夜四ツ時頃、江戸の方より盜賊
らしき者五十人許も入込しゅゑ、出し置たる家財早く手近へ
はこぶべしといひて、叉俄にさわぎたつ。
同八日、曇、雨ふるべき氣色なれば、諸人道具をぬらさじと
用意せしに、午時頃より叉晴わたりて暖氣になりぬ。今日も
丸子出張所へ行て尋るに、只今、遠州中泉御役所より、御城
内へ火急の御用物、見附驛ゟ通し人足にて持來り候。此人の
噺に、掛川人岡部迄も都而大荒のよし、繼立は决してなきと
の事なり。侍壹人、供二人に兩掛を一荷づ〻かつがせ通行故、
關東のやうすを尋しに、地震の時、江戸を出立いたせしに、
箱根迄はさしたる事もなし、箱根畑宿より段々あれ強く、驛
驛繼立茂なく候故、兩掛を供にもたせ、夜通しに爰まで參り
候。支度なども、時々にはと〻のひかね候得者、猶行先も心
元なく候と被申て別れぬ。伊勢本ゟ晝、夕飯の料の飯、奧津
鯛鹽燒、蕪漬を膾る。此邊の咄しに、紺屋町に婦人子をおひ
て、白の木綿糸を持ながら燒死居たり。さだめて近在より紺
屋に染に來しならむ。住所しれねば、いまだ菰に卷て有よし、
いたはしき事也。未時頃、長屋庄右衞門を尋ゆきて面會す。
是も伊勢殿棟木折れて、南の方へ傾きたれども、早速に起す
べき日雇もなく、出入の者もおの〳〵居宅潰れたれば、詮方
なく、いまだ其儘に捨有との事也。其後は向なる大谷屋とい
へる家の裏に、小屋掛して住居するよし咄也。互に無難を祝
して、此所をたち出、夫より高須氏へ磯田を尋ゆきしに、我
々がかたへゆきしとて留守なれば逢はず、一禮を述て歸しに、
磯田は予が小屋にて、予が歸るを待居ければ面會す。磯田が
云く、高須氏もあまり長逗留になり、家内も大勢なれば、い
かにも氣のどくなり、荷物許を慥に預け置、今夜ゟ此方へ來
るべしと談じて、高須氏へ歸る。程なく小附許携へて、暮六ツ時に來り同居、予伊勢や平次郞假小屋へ噺しに行しに、織
屋七藏といへる人居あひ、此人の咄しに、我方は織屋にて織
物商賣なれば、二十七人暮しなるが、幸一人も怪我せしもの
なく、居宅もさして破損したる處もみえず。全く大神宮の加
護なるべし、某は織屋相續に參りし者にて、吉原の産なり、
實家は年々伊勢の御秡宿なるが、夫故ならむとて殊更にもて
なしければ、古鄕の人に逢ぬるこ〻ちして、少しはうさもう
ち忘れぬ。かく不思議に逢ぬる上は、此後參宮せん時は、必
ず尋ねんといひて、夜五ツ時に別れぬ。間もなく火事よ〳〵
と呼り、早拍子木を打て騷がしければ、出て見るに、火も見
えねど唯人聲のみして、程なく靜ると思へば、感應寺の方に
て盜賊來りしと呼ばるにぞ、手に〳〵提燈棒など持て尋ぬれ
ども、寺の藪へ迯込しなどいひて、行方しれずなりぬ。今夜は
磯田と予二人は、伊勢屋の裏座敷へ泊る。五十歳許の女、先
へ臥し居たり。尋るに三里許山家の者にて、此家の下女の母
なるよし。地震沙汰にて娘の身の上心元なく、飛が如く尋ね
來りしが、無難なれば、今夜こそ心能臥ぬれ、けふ迄は夜る
晝るのわかちなく、喰ふものさへも通らざりしとの物語に、
有がたく覺へ、親のなき身をなげくのみ。山家邊はさしたる
事もなけれども、山より大石轉び落て、人家を微塵にせしなど
も、所々にあるよし承る。けふは震動もせざる樣に覺へしが
夜四ツ時ゟ九ツ時迄、八度許も震ふ。其跡は心よく臥したれ
ばしらず。
同九日、曇、朝五ツ時ゟ雨降出しければ、裏住居の人々も、
俄に疊諸道具抔家へ運ぶ。併し潰れし家にては、矢張畑住居
見るにしのびざる事也。我々は幸に荷物を殘らず伊勢屋の裏
座敷の椽側をかりて入れ、四人とも同じく座敷に這入れば雨
の憂ひなし。今朝は四人とも同家にて粥馳走になる。伊勢本
より金山寺味噌、大根漬添て飯來る。此使の咄しに、馬繼立
はいまだなけれども、雇人足にて奧津迄かつがせなば、同所
は泊りに差支る事もなきよし。併壹駄四人が〻りにて、壹人
前五百文宛位はか〻るべし。壹駄に而は貳貫文なれば、其先
之事など案じ、暫見合べき由答へぬ。晝飯の時も此家より味
噌汁馳走になる。五日目ぶりにて疊の上の食事なれば、一方
ならず心能過しぬ。雨は漸止みぬれども、空曇りて快晴の樣
子も見えず。午時半頃震動、四日ゟ此かたの地震也。中飯後
より、磯田、高須氏江禮に行、酒臺升、此家にて無心致し持
參。高須氏親子とも酒徒なれども、酒の賣買なければ、手土
産にしかるべしとて持て行しに、大悦の由。七ツ時磯田歸る
頃は快晴する。程なく高須氏の息半藏入來、過刻の禮に來ら
れぬ。長尾莊右衞門入來、一酌汲かはし、長尾噺に夜前大工
町の者、火消番を受け居しに、火事なりと呼るにぞ、狼狽無
提燈にてかけ出しに盜賊と間違、町々にて大勢に取まかれ、
打叩かれ抔して難儀に及びしとぞ。地震後は夜番嚴敷、無提
灯の者は改め通すべきとの御觸あればなり。伊勢本より、今
夕ゟ翌朝迄の用意とて、このしろ摺身、大根漬、大根煮しめ
添て來る。夜四ツ時、八ツ時兩度震動はげし。其餘は臥ぬれ
ばしらず。
同十日、晴、寒風、今日に至りては井の水澄みて、茶に茂不
斷の如くあひぬ。所々の軒下などへ菓子店出る。是は何なり
とも差支なき様商賣いたすべき御觸あればなり。予又安倍川
邊迄見物に行に、潰れし家など取片付、傾し家などを起すとて、町々往來止めの所もあり。掛川侯の足輕にあひて尋ねし
に、地震の時は伊豆下田に居しが、巳時頃地震にて、程なく
靜りぬれば安心しぬ。家の潰る〻事もなかりしが、巳の半時
頃、俄に大津浪に而、下田千貳百軒許の所、漸八軒殘りたる
許、大船なども廿町餘も陸へあがり、行方知れずなりし船も
澤山有よし。死亡三百人許、異國船掛りにて御出張の御役人
も廿人程行衞しれず、異船も壹艘か〻り居しが、破損して乘
事あたはず、大筒なども陸へ上、造作にか〻りしとぞ、是の
みは心よく聞ぬ。掛川よりの飛脚にも、途中にて行逢しが、
城内抔も悉く潰れしとの咄也。安倍川に行て川上を見るに、
山々は皆三四寸宛、長さ二三尺許も白く見ゆる所あり。地震
に而裂しと川越の者咄しなり。富士の山の雲間より見へて常
にかはらねば、
時のみか、地震もさらに、白雲の、
か〻れる富士の、山はうごかじ、
丸子より來る商人にあひてきくに、丸子邊は今日に至り井水
二尺餘りもふえて、平日濁水なるも清水になりたりとぞ。不
思議の事也。出羽のぬけ參りの下るにあひて上方の樣子を聞
に、其時は三州豐川に居しが、家の潰る〻程の事はなかりし
と聞けば、國元などは差たる事もなかるべしと悦ぬ。未時頃
長尾入來、咄しに三町目に湯屋ありしが、たちまち潰れたれ
ば、失火心元なく、近隣の者かけつけ、火を消さんとするに
仕合に湯船割たれば、火は跡なく消たりとぞ。その時湯に入
り合せしものは、着類も其儘捨置、赤裸にて男女とも迯歸り
しとぞ。伊勢本ゟ晝夕飯の用意とて、大根漬添來る。夜に入
大風寒し。今夜兩度震動、其後はしらず。
同十一日、曇、大西風寒、辰刻三度許も震動、伊勢本も類燒
の事なれば、あまりの長逗留に日々食事運びもらひしも氣の
毒におもひければ、この家へ談じければ、今朝よりの食事は
出來合の物にても、逗留中の世話致しくれむとの事なれば、
伊勢本へは斷申遣し、一方安心。新通壹丁目に西野屋清助と
いへる呉服商賣の家あり。此清助といへるは養子なりしが、
先日ゟ養父大病にて九死一生故、萬一の用意、米三俵搗せ置
けるが、はからずも彼の地震に漸く病人をつり出し、直に家
は潰れたり。仕合に病人もさして障りになりたる様子も見え
ねば、貯の米を四五升づ〻、難儀なる者に施しければ、其仁心
を感じて、自分の家にはかまはず、取片付の手傳に來れば、
日雇壹人もなしに、五日晝〓迄に殘らず取片付ぬ。是は兩德
の法にて、駿府中の事なれば、日雇金錢にては調ひがたく、
今十一日になりても、其儘に捨ある家過半なり。西野やのは
からひ、誠に感心しぬ。夜に入震動。
十二日晴、暖氣、伊勢本ゟ使來る。最早一兩日の内には、馬
繼立も有べく、若繼立になりたれば、一番に馬入べきと申置
て歸りぬ。午時頃、兩替町なる濱村屋といへる質屋商賣の家
の土藏、震動せざるに崩れぬ。取付けせし日雇など、危き命
を助りしとぞ。されば容易に歩行もなりがたしと、伊勢屋の
裏座敷に日を送りぬ。けふは此家に居風呂を焚しゆゑ、十日
目にて入湯、人心地になる。晝の内五六度も震動、夜に入九
ツ時迄四度震ふ。暮六ツ時ゟ風落て寒く、連夜の火の番にて
人々聲もかれ、拍子木金棒の音のみ聞えて、夜もおひ〳〵に
靜になりぬ。去る二日夜當所二町まち茶屋に相對死あり。仔
細を尋るに、男は遠州橫須賀の産、素麪商賣にて、母一人あ
りとぞ。女は當地通町鍛冶屋の娘にて、袋井驛に年季奉公せ
しよし。同所にていひ合せ婦人の舊里を心あてに缺落、傳馬
町に宿を取、夫より二丁町なる鈴木屋といへる茶屋へ酒飮に
行しが、追人來りて引わけ連歸らむとせしゆゑ、女を差殺し
自分も死なんとせしなれども、血迷ひしにや、咽を突し許に
て半死半生なり。早速三日朝遠州へ早飛脚にて送りければ、
橫須賀侯よりも、御役人上下拾人出張なりしが、はからずも
かの地震に而止宿所もなければ、我居し伊勢屋の表二階に逗
留、この男などは地震の節うたれ死なば助るべきに、日々疵
口平癒して、死んともせざりしかば、きく人、獨りの母を捨
し天罰ならむ、さるにても儘ならぬは世の中なりなどいひあ
ひぬ。漸去十一日、男も死しければ事濟になり、今十四日、
橫須賀の御役人も歸國になりぬ。鈴木屋といへる茶屋は、は
じめての客にて酒價もとらず、迷惑なること〻ぞき〻ぬる。
晝夜(十三日)にて三度震動。此頃にては、人々は少しも馴れて恐る〻
けしきもなく、自然の覺悟にあることなり。
同十四日、晴、寒風、馬提燈も荷をかへしたる時破れたれば
蛇腹求め、印を書て油ひきに遣しければ、馬提燈出來せり。
下りの方より、賣女らしき者大勢つれ立て通りければ尋ねし
に、江尻の飯盛のよし。普請出來まで暇出ければ、各舊里へ
引取るとの事なり。是にても江尻の難澁思ひやられけり、膳
椀を商ふ名古屋の商人、荷物は清水湊江預け置、府中を商ひ
するよし。傳馬町の旅宿も類燒して、金子も三十兩燒たり、
清水に預け置し荷物は、悉く津波のために失ひぬれば、歸國
せんにも路金なければ、此家へ賣りし膳代を受取、路金にし
て路(〓)國するとの咄。予直に商人に逢て聞ぬ。叉傳馬町の鼈甲
屋、掛川へ出商ひに行しに、地震にて旅宿も倒れ、間もなく
出火にて、荷物も燒たれば、詮方なく府中に歸りて見れば、
我家も同時に燒たり。留守の事なれば、何れも丸燒なりとぞ
氣の毒なる噺也。昨十三日より町々有德なる町人申合せ、駿
府中後藤屋敷に於て米施行あり。壹人前〓米壹合壹勺づ〻に
當る。今日は車にて搗かせしとて、白米に而同樣施行あり。
五百駄も出候由風聞なり。一晝夜にては五六度も震動。
同十五日、朝寒氣、後暖、今日に至りては、魚類も遠州邊ゟ
來り、居酒店、蕎麥屋抔も商ひ始ければ、間の宿位は事も足
る樣に成たれども、醬油の賣買なく、何れも不自由する由。
醬油土藏抔は悉くつぶれたればなり。けふは袴着紐解の祝ひ
にて、三五日前ゟ親類近所など振舞ふ國風のよしなれども、
此騷動にて絶えてなし。町々の施行も三日の由なれば、今日
限とぞ。暮六ツ時頃、伊勢本ゟ使來り、明朝ゟ漸馬繼立にな
るよし申來りければ、魚の水を得し心地して、夜の明るを待
のみ。けふは一晝夜にて六度許も震動。
同十六日、曇、未時分ゟ大雨、早朝ゟ近隣の世話になりたる
所へ禮暇乞に出行。巳上刻漸馬來りければ附させ出足、呉服
町六丁目に假問屋出來たり。是迄逗留になりたる登り下りの
馬荷物、山の如くなりて、殊の外混雜なり。江尻迄の村々は
三分過も潰れ居たり。江尻驛は出火もあり、府中に倍せり。
巴橋、船渡にて彼是手間取る内雨降出し、漸々川を越、問屋
場へ至るに、假小屋も出來ねば繼立もなく、買上にして附出し
ぬ。橫須賀村より清見寺門前邊はさしたる事なし。奧津入口
に來れば宿引の大勢群り居けり。思ふに府中、江尻邊は、泊
るべき宿一軒もなきに、三四里來たれば宿引のつきたるは、
誠に心丈夫になりたりなどいひて、清水屋に泊る。夜に入た
れば、倍大風雨。此家の下女の咄に、地震の時は津浪を恐れ
て、各裏の山へ迯たり。其時老人夫婦娘をつれて山へ迯しに
俄に山崩れ、三人ともうたれ死しけり。婆々と娘は死骸掘出
したれども、親父は如何なりしや知れじとの事也。西東平此
家へ手紙を殘し置たれば披見するに、四日は江尻驛大竹屋の
前にて、既に命を失ふべき所、やう〳〵に助り、當家の裏の
藪にて、七日迄夜を明し、八日朝無事此處出足との事なれば
安心しぬ。今夜は震動せしや、邂逅に歩行せし故、草臥てふ
したればしらず。
同十七日、晴、奧津宿も東の出はづれは、多分潰たり。薩埵
坂、倉澤邊は無難なれども、浪の音常にかはりて山へ響き、
今にも津浪來るべきやうに思へば恐しく、足早に過ぬ。由井
の宿は、さしたる事なけれども、是も東の驛はづれは倒れ家
多し。蒲原宿は問屋場より南へ壹町半許も燒亡、前後の家は
悉く潰れて、目もあてられぬ事なり。奧津宿の馬士の咄しに
清水の湊にて出家と犬と一所に潰され、僧は九死一生になり
たり。犬はさして痛める所もなけれども、空腹に絶えず、出
家の足を其儘喰ふをまのあたり見て、恐敷思ひ、迯かへりし
とぞ。蒲原驛を出はづれ、近年新道開けし富士見茶屋の邊は
地五六寸宛も裂たる處あり。中之鄕邊に至れば、六尺餘も地
裂け低くなり、往還堀の如くに成りて恐し。岩淵の立場は悉
く潰れ、身延追分の所などは、三丈餘もある石積も不殘崩れ
家も共に下へこけ落などして、見るもいたはしき事也。甲州
も山崩れて、富士川の水を堰、二三日は富士川歩行涉り出來
しとぞ。今は元の如く成たれど、川幅は不斷ゟ廣く成たり。
元市場邊も將棊倒しのごとくなりたり。此處へ來たれば、西
東平、荷物心元なしとて、森井保助小方(者カ)壹人、藤澤より迎に
來り候。程能行合、互に是迄の咄しなどして吉原驛に至りて
見れば、悉く此所も潰れ、繼立なければ馬買上んといへども
人馬ともなければ、驛東の大坂屋といへる肴やに泊る。旅籠
屋も二三軒は商賣する家もあれども、何れも家傾きて何分心
元なければ、見合て此家に泊る。奧津より此驛迄の橋々は、
悉く落て假橋なれば、馬荷物をおろし抔して、所々にて難儀
せしなり。吉原驛の先、新橋、川合橋とも落たれば、原驛江
は繼立なきよし。買上なれば、富士の裾野を廻り、柏原邊へ
出るよし。多分駄賃もか〻りければ、明朝出立すこし見合べ
きよし、問屋場へ申遣置。夜に入大風寒。
同十八日、晴、大風、寒、幸今日は川合橋假橋出來、新橋は
少しの廻り道にて繼立出來候由、大悦。巳之刻馬來りければ
出足、川合橋ゟ東の方はさしたる事もなく、柏原立場抔は不
斷の如く、原驛も潰れ家は四五軒あるのみ。只石の鳥居、石
の燈籠杯悉く倒れたり。沼津の驛へ來り見れば、多分潰れ、
振籠屋町茂稀には建たる家もあれども、二三尺宛も傾き、泊
るべき家は壹軒もなし。問屋揚江至りて見れば、馬壹疋もな
ければ、虎屋江戾り見るに、表の方潰れたれども、幸に奧座
敷潰れ殘り居たれば泊らんといふに、あるじの、此通りにな
り居たれば、何分火災心元なく、御荷物は行届かず、若出火
の節は、此向ふの橫町より二町程は田畑ゆゑ、其所へ出火の
節は、御荷物銘々に御運び下される積りに御承知なれば、今
夜の御世話可申との事なれども、外に泊るべき家なければ、
詮方なく座敷へ通れば、障子襖は弓の如くなり、鴨居抔も口
明きたる所ありて、風吹ごとにゆれる音は、地震にもまがひ
て少しも安き心なし。程なく馬壹疋參りければ、西荷物を附
させ、清介、
沼津宿は地震後、假小屋を建しに、十三日夜五ツ時、大手
先ゟ出火して、東の方へ貳町餘燒亡、假小屋も悉く燒たり
いたはしき事也。
三島泊りと出足、叉其跡へ馬壹疋參りたれば、吉荷物附させ
猶藏同様出足。原驛の馬士の咄に、八日、九日頃より十三四
日頃迄は、武家方荷物を由井驛ゟ原驛迄、通し人足にて、本
馬壹疋金一兩一分ゟ金壹兩位迄、買上げ來られしとぞ。夫を
思へば府中に逗留せしもよかりしと悦びぬ。今日に至りても
わらんじ、馬の踏などは、賣買まれにして、直段日比に倍せ
り。間の驛などは、並木の松へ小家掛してならび居、菓子抔
賣れば、開帳場のごとく見ゆ。馬士も追分節を唄はず、往か
ふ旅人さへ、一ト口淨瑠理もかたらねば、東海道の心地は更
になし。只四日は何れにて地震に逢ひ、その時はとやせし、
かくやせしなどの噺のみして過行は、同じ人情也。沼津の御
城も悉く潰れ、漸く北端の隅櫓のみ殘れり。虎屋の女房の咄
しに、この所より貳町南の濱は、六七尺許なる松原なりしに
其松は拾町餘も沖に、梢のみ見へ、もと松原なりし浪打際は
三丈餘も堀て眞水湧出るよし。此頃魚漁に出んとすれども、
船のおろし樣なく、難儀に及ぶとぞ。今日原驛にて甲府ゟ來
りし上方の商人の咄しに、甲州邊も餘程の地震なりしが、駿
河國程の事はなし。しかし甲府柳町八日市場抔いへる所は、
當春出火して、漸普請出來あがりし所なるに、悉くまた潰れ
たりとぞ、この間府中にて逗留の内の咄に、遠州城之浦腰浦
といへる所の者、押送り船へ五人乘りにて下田へ鰊買に行し
が、不計大津浪にて、見る内に船は山へ押上られければ、一
生懸命にて船より飛下り、木の枝へしがみつき、後を見れば
船はいづれ江行しや知れず、漸々五人とも命助り、直ぐに歸
り來りしとぞ。この船人にあひて聞し人の咄しなり。一兩日
は地震もゆらざる樣に覺ゆ。
同十九日、晴天、夜の内ゟ支度してまてども馬來らず。その
内に長崎奉行原泊りにて、長持人足の唄抔聞ゆれば、心いさ
ましく、夜前虎屋にて米田專吾に出逢しに、是も四日當所着
間もなく、大地震にて漸命を助りしとぞ。船荷物預け置し問
屋の土藏も潰れたれば、早速に荷物も出しがたく、徒に逗留
せしが、殘り物にて漸今日始て船廻に出しとの事也。先々へ
參りし國のものも、由井ゟ當所迄荷物を船積にせしに、風あ
らく蒲原へ吹つけられ、また由井へ戾り、夫より三島迄の所
繼立心元なしとて、佐野善平、松村仁兵衞、柏田直次郞三人
にて、先へ掛合に來り、元市場へ泊りし夜に、叉大地震にて
三人迯出さんとして、襖などへし折、大騷動せしよし。夫よ
り三島迄の驛々掛合て、叉由井へ戾り、買上げにて、漸三四
日以前、無事に小田原へ下りしとぞ。或は三島問屋場前にて
地震に逢ひ、二日も野宿致し、難儀せしなどいろ〳〵米田の
咄し也。併國元の者は、いづれも荷物迄も無難なれば安心し
ぬ。備前侯の御飛脚の咄に、薩州侯月並の荷物拾五駄、濱松
泊にて、舞坂ゟ乘船、半途にして大津波、船は行衞しれずに
なりたりとぞ。この荷物は、我々三日午時金谷驛にて見受し
に、宰領二人、荷物拾五駄也、夫故われ〳〵荷物繼立も遲刻
になりしが、仕合に成りたり。其餘掛川江尻問屋場の前にて
武家方の荷物も燒しとぞ。江戸飛脚島屋より出し糸荷物も、
驛々にて燒しは三萬兩許のものと、飛脚宰領の者咄しなり。
沼津在に小林村といへる所は、家十軒許ゆり込、漸家の棟す
こし見ゆる迄也。中には有福の百姓、米土藏をも埋みければ
人歩を掛て漸米六俵を掘出すのみにて、其餘は如何せしや知
れじとぞ。明六ツ時馬來りければ、沼津出足、驛を出はづれ
て見るに、並木の往還、竪に七八寸宛も地裂け、幾筋も割れ
たり。きせ川邊に至れば、家は悉く潰れ、きせ川橋のみ無難
也。此あたりの往還は、地橫に幾筋も裂たり。千貫通も少し
破損、人家は皆潰れたり。三島入口火除堤の中程、三尺餘も堤
とも橫に地裂、清水湧出、川の如し。定宿なる大和屋は、裏
座敷少し殘り居たれば立寄しに、井村半四郞、永本新平親子
に出會ひ、是は昨朝ゟ馬支にて逗留のよし。今日は幸ひ馬あ
りて繼立になりしとて、先へ出立、磯田予が荷物は、沼津泊
故馬なく、大和屋に休足、此家へ來りし近所の婦人の咄に、
伊豆溫泉場修善寺なども山崩れ、溫泉口を堰とめたれば、何
れへ吹出し候やはかりがたく、各かけはなれたる山へ迯げ、
今に山住居との事なり。午時過に漸く馬來りければ、附出し
ぬ。問屋場の近邊は別而烈しく、三島明神、本社をはじめ、
拜殿、繪馬堂悉く潰れ、山門傾き、五重の塔のみ無難也。石
垣、鳥居なども微塵に成たり。明神前ゟ東の方へ壹町餘燒失
驛も悉く倒れたり。新町橋も少し落ち、夫より橋向ひはさし
たる事なく、箱根山へか〻れば、山崩れ、松の樹倒れ、馬荷
物漸く通り候位なり。塚原村一の山、三谷篠原邊は無難なり
境木邊に至れば雪五寸許も積り居たり。十六日に降たりとぞ
箱根の驛は前後共無難にて、中程笹屋のあたりは軒別に倒れたり。三島宿大和屋の向に木村屋といへる宿屋あり。不思議
に一軒無難にて、少しも傾きたる様にも見えず。併礎ゟ壹尺
許も東の方へ總體土臺とも寄りたり。是等は誠に奇なりとい
ふべし。峠迄來る道にて、飛脚三人にあひ咄を聞に、袋井、
掛川兩驛にて狀個六十駄燒失ひ、渡し方なければ、江戸へ戾
るとの事なり。叉信州小諸の者、參宮して江戸へ下るといふ
故、國許の事など尋ねしに、妙見町藤屋に七日、八日兩日逗
留せしとぞ、妙見町は無難なれども、岡本町ゟ上の方は八分
通り潰れたり。しかし出火、怪我等はなきよし承れば、各ま
た力を落し、歩行も出來兼る様に思へども、互に心を取直し
て、峠笹屋裏の隠居無難なれば泊る。井村、永本は荷物を當
家へ預け置、小田原泊と下りしとぞ。
同廿日晴、朝風、夕凪、長崎御奉行、昨日小田原へ御下りに
て、馬なく見合居しに、午の時過漸々馬來り出足。御關所も
少々破損、假小屋に御役人御詰合、新屋、畑は不斷のごとく
昨春小田原地震の節は、二子山より石轉び落、往還通行出來
兼けれども、此度は夫程の事もなく、所々山崩れる所もあれ
ども、さしたる事もなし。暮六ツ時小田原着、虎屋泊、當驛
へ來り、はじめて東海道の心もちになりたり。
同廿一日、明七ツ半時、小田原出立、藤澤苫屋へ着たれば、
西東平待合居、面會、互に安堵、同家泊。
同廿二日、晴、寒氣、七ツ半時川崎朝田屋着、泊。
同廿三日、晴、後曇、午時無事江戸着。
出典 日本地震史料
ページ 103
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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