[未校訂]嘉永七年甲寅六月十四日之夜九ツ半時大地震、近き所にては
四日市伊賀の上野殊に甚だしく、潰家多く、即死怪我人多く
有之たるよし也。當所は足立次郞左衞門乾之土藏、松崎長次
兵衞橋臺之土藏瓦半分計落、家々の庭に有之石燈籠五六臺倒
れたる計の事也。其後折々少々づゝ地震有之、八月頃よりは
大方相止みたりしに十月末より霜月始迄に三四度少し強く震
りたり。○以下十一月四日五日ノ地震津浪ノ事ニカヽル、
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項目 | 内容 |
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ID | J0400188 |
西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1854/07/09 |
和暦 | 嘉永七年六月十五日 |
綱文 | 安政元年六月十五日(西曆一八五四、七、九、)二時、伊賀・伊勢・大和ノ諸國大地震。就中、伊賀西北部、大和東北小部、山城南東端、近江南部ヲ包括スル長サ約八里、幅約四里ノ區域ハ震害特ニ甚シク、山崩・地割・土地ノ隆起・陷沒等ヲ生ジタリ。伊賀上野城大破シ、城内ニテ二・三百人ノ死者アリ、上野町及ビ其ノ近村ニテ死者五百九十三人、潰家二千二百五十九戸ヲ算ス。伊勢四日市ニテ死者百五十七人、潰家三百四十二戸、燒失家六十二戸、寺院ノ倒潰十一ニ及ベリ。奈良モ震害多ク、全潰家屋七・八百戸、死者二百八十四人、大和郡山ニ於テモ百十餘人ノ死者ヲ出セリ。 |
書名 | ☆〔安政元年甲寅十一月四日大湊大地震之事〕○伊勢大湊山中立之介秀之稿、 |
本文 |
[未校訂]嘉永七年甲寅六月十四日之夜九ツ半時大地震、近き所にては
四日市伊賀の上野殊に甚だしく、潰家多く、即死怪我人多く 有之たるよし也。當所は足立次郞左衞門乾之土藏、松崎長次 兵衞橋臺之土藏瓦半分計落、家々の庭に有之石燈籠五六臺倒 れたる計の事也。其後折々少々づゝ地震有之、八月頃よりは 大方相止みたりしに十月末より霜月始迄に三四度少し強く震 りたり。○以下十一月四日五日ノ地震津浪ノ事ニカヽル、 |
出典 | 日本地震史料 |
ページ | 59 |
備考 | 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。 |
都道府県 | 三重 |
市区町村 | 大湊【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる |
版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)
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