[未校訂]○安政三丙辰の年四月廿六日、要用の事ありて朝まだきより
家を出で、中山道の旅にむかふ、是は己が古鄕なる上毛七日
市に至るの用なり。板橋・蕨・浦和を越へ、大宮の原にかゝ
りける時、年六十餘りの老人と道連になれり。此人物は江州
甲賀郡上馬杉村といへる處の農民にて、石橋勇治といふ者な
り。○中略扨此老翁と道々種々樣々なる雜談を致ながら歩ゆき
けるが、不斗十月二日○安政二年の大震の事を問しに、老人答て
されば二日の夜の地震は左迄のことにてもなし、大地震とい
へるは一昨年○安政元年六月十五日の夜七ツ半時の地震なり。し
かも其日は當所の鎭守聖德太子の御祭禮にて、村中群集して
獅子舞などありけることゆゑ、他村よりも見物入きたり、其
賑ひ夥敷ことなり。然るに其夜人々疲れて打臥たる處へ大地
震動搖しける事なれば、狼狽騷ぎ、棟木にうたれ、梁に押れ
て死亡する者其數斗り難し。倉落家傾きたる場處には、怪我
する者も甚多くして、去年○安政二年二日の江戸の地震の有樣に
微も替ることなく、思ひ出しても身の毛がよだつ計りなり。
此大震の氣ざしの前に、雷鳴の如き音度々にて、人々稀有の
思ひを成し居たりける處、其夜にいたりかの大地震實に天地
も滅却するかと思ふほどの事なりしが、己は幸にして少の怪
我もなく今日迄助命せしこと、全く産神の御影なるべしとの
話なり。