Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0400189
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(西曆一八五四、七、九、)二時、伊賀・伊勢・大和ノ諸國大地震。就中、伊賀西北部、大和東北小部、山城南東端、近江南部ヲ包括スル長サ約八里、幅約四里ノ區域ハ震害特ニ甚シク、山崩・地割・土地ノ隆起・陷沒等ヲ生ジタリ。伊賀上野城大破シ、城内ニテ二・三百人ノ死者アリ、上野町及ビ其ノ近村ニテ死者五百九十三人、潰家二千二百五十九戸ヲ算ス。伊勢四日市ニテ死者百五十七人、潰家三百四十二戸、燒失家六十二戸、寺院ノ倒潰十一ニ及ベリ。奈良モ震害多ク、全潰家屋七・八百戸、死者二百八十四人、大和郡山ニ於テモ百十餘人ノ死者ヲ出セリ。
書名 ☆〔時雨廼袖〕○畑銀鷄
本文
[未校訂]○安政三丙辰の年四月廿六日、要用の事ありて朝まだきより
家を出で、中山道の旅にむかふ、是は己が古鄕なる上毛七日
市に至るの用なり。板橋・蕨・浦和を越へ、大宮の原にかゝ
りける時、年六十餘りの老人と道連になれり。此人物は江州
甲賀郡上馬杉村といへる處の農民にて、石橋勇治といふ者な
り。○中略扨此老翁と道々種々樣々なる雜談を致ながら歩ゆき
けるが、不斗十月二日○安政二年の大震の事を問しに、老人答て
されば二日の夜の地震は左迄のことにてもなし、大地震とい
へるは一昨年○安政元年六月十五日の夜七ツ半時の地震なり。し
かも其日は當所の鎭守聖德太子の御祭禮にて、村中群集して
獅子舞などありけることゆゑ、他村よりも見物入きたり、其
賑ひ夥敷ことなり。然るに其夜人々疲れて打臥たる處へ大地
震動搖しける事なれば、狼狽騷ぎ、棟木にうたれ、梁に押れ
て死亡する者其數斗り難し。倉落家傾きたる場處には、怪我
する者も甚多くして、去年○安政二年二日の江戸の地震の有樣に
微も替ることなく、思ひ出しても身の毛がよだつ計りなり。
此大震の氣ざしの前に、雷鳴の如き音度々にて、人々稀有の
思ひを成し居たりける處、其夜にいたりかの大地震實に天地
も滅却するかと思ふほどの事なりしが、己は幸にして少の怪
我もなく今日迄助命せしこと、全く産神の御影なるべしとの
話なり。
出典 日本地震史料
ページ 60
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒