Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0400107
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(西曆一八五三、三、一一、)十時頃、相模小田原大地震。城ノ天守の瓦壁落チ、大砲臺三ケ所破損、市内ノ竹之花町・須藤町・大工町等ノ町家ハ殆ド全潰ス。震災地ヲ通ジテ潰家ノ數三千三百、死者マタ少ナカラズ。遠江・三河・信濃等ニテ有感。
書名 〔小田原藩士星見某書翰〕
本文
[未校訂]小田原地震之模樣、
一當月二日四ツ時頃之地震、御天守極大破、御屋形大破損、
本丸、二ノ丸、三ノ丸、塀不殘御堀水中に落申候、石垣も
餘程水中に落申候、三階之渡り櫓、大手渡り櫓等、不殘潰
れ申候。
一酒勾川橋、前川橋等落、往來通路無之、二子山より大石等
往還江落出、七日之間往來無之、箱根宿、畑宿、幷溫泉場
何れも大破、箱根御關所、矢倉澤御關所等、月に二日の交
代に候處、是以御番所交代も不相成、十五日目に而交代い
たし申候事に而候。
一御家中内も、御城より北之方極大破に而、潰れ家も多く、
乍然人死者御家中に者無之、御城より南之方は破損少しに
而、乍然小田原宿元等者、間口五十間之大石垣、不殘往來
になげ出し、居宅も破損、壁も餘程ふるひ、家も曲り、新
規立同樣に不致候而者不相成、乍然門は破損無之候、殊に
拙者の部屋抔大破損、泉水之方に曲り、壁もふるひ、拙者
事、度々小田原へ出候而も、部屋普請無之内は困候事に而
候、兄作太夫等は、屋敷内稻荷社之前に幕打、十五日之内
野陣に而居住いたし申候、小田原宿元は、破損無之分也。
一御家中、町家在共に、皆野陣に而、御家中高祿は幕打、又
小身之ものはむしろ澁紙等に而、四方かこひ、當分居住、
町在共に何れも戸板抔、或はむしろ等に而、寒さを凌ぎ居
候樣子に候、小田原總氏神松原大明神等、本社のみのこり、
拜殿其餘皆總潰れ、是も御上普請、いつ出來候やも難計事
小田原町中、みな居住のもの無之、何れも濱に出、或は野
陣こも張之内に入候事故、たま〳〵近邊步行之人も、めし
酒も無之、困と申事に而候、町家も小田原城下十九町之内
竹ノ花町、須藤町、大工町は町家總潰れに而、立家一軒も
無之、又町中之土藏等者、御城より北之方は、多分總潰れ
に而、町中無事之土藏者、一つも無之候。
一近在も關本村、塚原村邊、人死多く、道了權現等大破、近
在村々矢倉澤迄之内、潰家千八百八軒之、御上届けに而候。
一近邊寺院も格別之破損に而、都而墓所等は何れ之寺院も墓
總倒れ、誠に珍敷事に而候、小田原元祿之大地震も、是程
に家中迄之潰家無之、乍然元祿之度は、御天守より出火に
而、御本丸、其外燒失と申候、天明之大地震も此半分にも
無之と申候、此度之地震に付、町方三ケ所出火に候得共、
早々けし留め、火災は無之相濟申候、任幸便見分あらまし
を申進候。
出典 日本地震史料
ページ 19
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 小田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.002秒