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項目 内容
ID J0301584
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(西暦一八四七、五、八、)信濃、越後ノ両国地大ニ震フ、長野ニ於テハ家屋ノ倒潰、焼失シタルモノ二千九十四戸ヲ算シ、震火災トモニ免レタルモノハ僅カ二百四十戸ニ過ギズ、市中ノ死者ハ二千四百八十六人ニ及ベリ、震害ノ甚シカリシハ長野・権堂村・妻科村・稲荷山・鹽崎村・中尾村・牟札・大古間・野尻等ニシテ、震災地ヲ通ジテノ死者ノ總数ハ一万二千人、潰家ハ三万四千戸ニ達セリ、山崩ヲ生ジタルコト夥シク、松代領分ニテ大小四万二千ヶ所、松本領ニテ一千九百ヶ所ニ及ビタルガ、就中犀川ノ右岸ナル岩倉山ノ崩潰ハ類例少ナキ大变動ニシテ、上流ヘ崩落シタルハ高サ約十八丈ノ大突堤トナリテ全ク流水ヲ堰キ止メ岩倉・孫瀬ノ二村水底ニ没シタリ、マタ下流ニ崩レ落チタルモノハ長サ十五町、幅約二百間、高サ約百尺ニシテ、藤倉・古宿ノ二村埋没セラレ、堰止メラレタル処ヨリ上流ハ水ヲ湛ヘテ一面ノ大湖トナリ、次第ニ増水シテ水深二十丈ニ達シ、数十ヶ村水ニ浸サレ、湛水区域ハ長約八里半、幅一町乃至三十町ニ及ビタルガ、地震後二十日ヲ経テ四月十三日ニ至リ、遂ニ隤堤決潰シ、湛水ハ一時ニ川中島ニ押出シ、三十一ヶ村ハ水災ヲ被リタリ、越後長岡城下モコノ影響ヲ受ケ浸水セリ
書名 〔震洪鑑〕善光寺地震取調材料六冊ノ内、巳、文部省震災豫防調査会所蔵、
本文
[未校訂]古詩に曰く、平生不満百、常〓千歳憂と、爰に信濃
国川中島は、むかし永禄の頃、武田信玄上杉謙信両
虎相闘ふの古戦場なり、古戦場を弔ふ文に曰く、口
祭至らず、精魂依る事なく、必らず凶年あつて人夫
流離せんといへり、今茲弘化四丁未の年、先年戦
死亡霊の追善に、武田佐馬頭信繁御廟所、淵村
典厩寺に於て、十七日授戒回向是ありけり、則ち
三月下旬なり、おなじく廿四日、此日は一天朗に
風清く、殊に信濃は寒国にて春のけしきもおくれ
がち、四方の野山に櫻咲、川岸の柳もみどりを増
し、遠近の畑の菜の花も今を盛りと咲満て、乍左
都の錦も斯やらんと、空飛鳥の声音も飽ぬ風情に
面白く、老も若も勇み立、実に春宵一刻〓千金と
言しも是なりと、心も空に浮れ行、流石に永き春
の日も、はや夕陰に傾けば、眺に飽かぬ気色さへ
良黄昏て、遠寺の鐘も響き来て無常を誘ふ夕風も、
しらぬ凡夫の露の身を、また翌日々々と別れを告
る友達も、我家々々に立帰り、既に初更も過て戌
の下刻、寐屋の燈火絶々に、近所隣も物静に、た
ゞ喧しき物音は、軒を窺ふ大の声のみ、斯る折か
ら、大地頻に震動かし、地は盆を傾る、樹木の先は
山谷平野呼り動かし、地は盆を傾る、樹木の先は
地を敲き、塵埃は空に吹きあけで朦朧として、溝
河池水は岸に溢れ中天に迸しり、磐石を割り大石
を転し、山野の〓は叫び、〓の〓は喚き啼、寐息
の人々は驚き騒ぎ、震動の音は雷々轟々として天
地にひゞき、生物の声は〓々として八方に応ふ、
自他倶に前後を忘れ、魂魄身に添ふ物なし、此時に
当て破却の家蔵は是ありと言とも、大概をしるす、
先づ松代は中町、伊勢町、本町、鍛冶町、小越町、
荒神町、女田町、不残潰れ、尤たま/\立居る家も
是ありといへ共、桁を折り柱を拗じき、壁を落し戸
障子を摧き、何れも大破損なり、御城内堀櫓は数ヶ
所損じけり、御曲輪くるわ通り玄関侍部屋、其外堀等損じ
方夥敷、斯る大災ゆゑ、諸士方の面々御登城是あり、
無役席御家老職御中老大目付方、我先にと詰所をか
ため、大御門中の口御番人へ、二ツ拍子木、三ツ拍
子水の合図を打、続て御番頭御奏者御側御用人御旗
奉行御差立方、何れも制止の声に辺あたりを払ひ、其外
諸士役人、我も/\と列を正しく、名々御陣羽織を
着し、晝夜を分たず御詰越是ありける、別して夜中
は高張騎馬の提燈にて、御火消方御町奉行時時刻々、
に御見廻り厳重なり、扨又御役所は櫻の馬場御定め
是あり、諸事御用被仰付、食物等は諸役人は勿論町
家に至る迄、残らず御炊出被下置ける、斯る度災に
も松代に限り、火の用心厳重なるゆゑ、小屋一ツた
り共焼失是なき、偏に御仁政の徳を感喜の思ひをな
し奉る、同夜同時善光寺地震にて、家九分通り〓じ、
其上所々より出火いたし、先づ〓〓〓山 南口大門
町、西口櫻小路を始として、〓町、〓町、〓〓、長
野、西之門、阿彌陀院、立町、横町、御長屋町、
東横町、東之門、岩石、伊勢町、淀ヶ橋、片羽、
武井、田町、東町、下堀、金(〓)屋端、権堂町、不残
焼払ひ、其上聖人御屋鋪、并に四十六坊、堂庭出
店其外猿楽小屋数多、山内に満ける分も、残らず
焼失仕、石小屋香具仲間、凡六百余人死去しける、
扨又此節善光寺に於ては、前立本尊開帳にて、晝
夜を分たず、遠近の男女町家に満て、仏前に於て
は数多の盛り物珍味を尽し、花瓶の華木は枝葉を
飾り、数多の香炉には種々の名香を薫じ、数千の
燈明堂内をてらし、庭上には幾萬の夜燈を燈し、
其外在町より寄附の燈籠は、山内に満て、乍去白
晝の如く、数多僧衆音楽経文の声に心身をすまし、
感涙を催し、九品の浄土も斯やらんと、参詣異口
同音に念仏稱名の声止ざりしを、忽ち変じて焦熱
湯鑊の声くるしみ目前なり、大地は四方上下に転狂し、行
人地上に立事能はず、家宅一時に押潰し、梁に咥
られ、柱椽の間に挟まれ、二階天井落重り、壁虹
梁に圧倒され、泣叫ぶとも更に是を救ひとすれど
も、忽ち猛火烈んに燃え来り、手の舞ひ足の踏む
処をしらず、親子兄弟夫婦を見殺しに、焔の中に
くるしめども、如何ともすること能はず、中には
腕を折り〓を拗き、迯出る人もあれ共、折節南風
激しく火〓を吹出る形勢、穐風の木の葉を〓に〓く
火は所々、散乱し、酒屋油屋焔硝店へ火移り、其音
雷の轟く如く、火勢は次第に烈々として天を焦し、
黒煙りは八方に聳ひ、是が為に目を塞ぎ呼吸を閉し
けるゆゑ、前後を失ひ胡乱堪うろたい廻り、焼死するもの夥
敷、剰ひ湯屋など数十人湯壺の中に有ながら、屋根
天井落重り、いづる事能はず、逐々湯沸立て湯玉は
端に迸しり、生ながら熱湯のくるしみ、其外家毎半
生半死のもの、又は場悪しき所に居合せいづること
なり難く、手足腰腹は次第に爛れて、泣呼ぶ声耳を
貫く許にて、目もあてられず、又は所々の透間よ
り迯出る人も、八方の火塊り雨霰の如く飛び来り、
煙りは天を隠くし地の上に満て、前後左右に吹き捲
〓し故、方角を失ひ出路にまよひ、死するもの其数
多し、実に其形勢は〓大地震の形相も是様より外な
らず、嗚呼悲哉、数万人の泣声は近郷に響きける、
扨又大寺の分は、権堂町妙行寺、東町康楽寺、東之
門寛慶寺、後町正法寺厨裏、此外小寺小院挙て算ひ
難し、大勧進大破損、山門御本堂は残りしかども、
大半損じ、本堂西の鐘を汰り落し、敷石は拗ぎ、夜
如来はそのせつ朝日山へ御飛行為遊、光明赫々た
る趣き郷人言伝ふ、則ち大勧進四十六坊并町内老若
男女、奇異のおもひをなし、御迎奉り、此外裏町
通り迄、一圓に焼野とてそは成りにけり、此時に
当て地の死人七分通り、旅人凡そ一万五千人の余
焼死、実に無慙なる次第也、漸々廿六日の暮方に
下火に相成、逐々消口相附ける、尤此節所々水口
残らず切潰ぶれ、道橋損じけるゆゑ、火消る事能
はず、殊に椐花川山崩れにて止り、おなじく犀川、
同夜同時九ツ時更級郡山平林村虚空蔵山大抜にて、
川向ひ花倉山へ押懸り、崩口凡一里、高さ八拾丈
余り抜落、孫瀬村、岩倉村二ヶ村、犀川へ押出し、
留口の高さ七拾丈、突留の厚さ八町余留め昇あげて、
水一滴も流れず、宜なる哉山上ゟ抜落たる岩石其
侭にて、松柏森々と生ひ茂り、実に茂山とは更に
召ひマ、ざりけり、既に廿四日夜より四月上旬迄数日
を経るといへども、犀川へ水少しも流れず、しか
れどもいまだ留口の絶頂迄は、三丈余りも是あり
ける、逐々留口に満ける時せつは、如何様なる洪
水に相成るべきやも計り難きゆゑ、川中島は勿論、
川北川東の人々に至る迄、最寄の山家に引移り、
別して島の中は、岩野山、清野山、寺尾山、柴山、
大室山、賀々井山、西は段の原岡田山辺へ迯去り、
萱野柴原に彳み、夜露野風に打れ、山森に吟ひ、
爰の岩間や彼所の木蔭、風雨凌ぐ手段もなく、更
行空に松風の声颯々として身に〓ひ、消入る許り物
淋しく、折から又も大地震、其音四方の山谷に響き
て、石岩を崩し大地を割り、〓も百千の雷頭上に落
懸る心地して、身体爰にひしがれ、山川海嶽平泥と
なり、混沌末分の古ひに立かへるやと、老若男女泣
き悲む形勢は、目もあてられざる風情なり、猶日住
き月越しかども、更に地震洪水の清〓いつはつべき
もしれざれば、皆々山野に仮屋を繕ひ、是に住居し、
怨親平等に膝を并べ寐食をなし、人中の欲に离れ、
自他の食物大小に拘らず、是を食し、家財等に至る
迄持ち運び、相違(互)に無事の光陰を送らんやと願ひけ
る、中には数日の退屈故、我家に戻り、庭前に仮屋
を作り、是に住居するもあり、貴賤押なべてかなし
まざるはなかりける、又小市船場眞上山抜落、犀川
を支へしかば、右場所を切崩し、川中島水防の土堤
御普請是ありける、是に依て御領司様御使役として
横田甚五左衛門御出来、御本陣は小松原の裏天照寺
山の麓にて、犀川筋の此方に居られ、丸に黒白の大
幕を張給ひ、御目印には白地に六ツ連銭の御紋の御
旗を押立給ふ、御勝手方御家老職恩田頼母、白地に
花色の大幕を張、赤白の吹替しを押立、御助役とし
て岩下草太あらた、郡方御奉行には磯田音門、竹村金吾、
公事方御奉行には山寺源太夫、御合役には岡島庄蔵、
町奉行は、寺内多宮、金兒丈助、同橋御奉行は
宮島守人、禰津綾之助、柘(植脱カ)嘉兵衛、其外諸役人御
出張之上、御領私領の差別なく、男たるべきもの
は十五歳以上六十歳迄、農商工買(〓カ)にか〻はらず御
呼上げられ、右場所切崩、川中島水除土堤石俵数
万を積上、砂石を重ね、大木を伐りて水弾と成し
にける、扨又御賄方として南沢甚之助、段ノ原河
原に御出張是あり、近在の男女数百人召集め、御
炊き出し是あり、村々役人へ御割渡し被下置、混
雑是なき様に、一手々々に旗目印を押立、進退の
時せつは、貝鉦太鼓を以て合図を定め、諸将いづ
れも定紋の幕打廻し、相伝の旗さし物を押立、其
備ひ巍々として厳重なり、数万の人夫、大石を曳
き土砂をはこび、石俵を揃ひ、竪横に奔走す、諸
将此時に当て川の半途に御進みこれあり、床机に
懸り、八方に御心を配らせ給ひ、御下知有之、其
外頭分のものは、時々刻々に見廻り、人定油断是
なき様相励まし、寐食を打忘れ相働きける、殊更
御郡中石屋職人数百人御呼上、大石は割取、百人
持以下の石は巻轆轤にて是を巻取り、鍛岩職人は
右人夫道具先掛、その繫多なること挙て算ひ難し、
扨又松平飛騨守様地方御役人東福寺源太夫、数百
りける、尤水の儀は前條之次第にて、一滴も是なし、
扨又山抜の水上、其夥敷事言語に絶たり、先づ水底
へ沈みたる村方は、大概には平水内、三水、孫瀬、
岩倉、上條、新町、穂苅、吉原、竹房、牧野、牧島、
田中、和田、大原、目名、橋木、船場、代村、越中
川、河口、吐唄、安川、大目方、町田、下岡、小島、
細見、相沢、生坂、野平、其外数ヶ村沈没し、名に
応ふ粂路の橋を水底へ押沈め、十里余りも水勢遡り、
逐々松本平へも湛ひべき分野ありさまなり、抑粂路の橋は日
本記に曰く、推古天皇二十年の御宇、百済国より來
朝の化人あり、其面身悉く斑白にして白癩の如く、
能々長橋に工みあり、本朝に於て百八十ヶ所に橋を
造る、其略に曰く、参河の国矢矧の長橋、遠江の國
浜名の橋、奥の会津闇川の橋、信濃国岐蘇の桟、同
国水内の回橋、即今粂路の橋と言へり、其風景東は
更級軍吉原山の峰に続き、巌石側立て幾丈とも限り
なく、谷深ふして蔦葛は岩間を伝ひ、別して弓手は
碧巌千匁を植たる如くにて、数十丈の頂より不動と
名付けたる瀑泉、滔々鈴々として岸の下に落て流る〻
声、晨には青松の風に競ひ、琴にもあらで感に堪ひ(へ)、
夕には紅日の光りに映じ、龍田川にもあらで紅葉を
流す、思ひきや岩間を遮ぎる水音は、〓近に響く者
と、扨又川向は水内郡に名も高き水内の郷立岩山、
峨々たる巌石、絶景を尽し、左手に小高く中将姫
の曼荼羅岩、大宮人の腰掛松、実に呉道子が畫け
る山水も、面の当りやと疑はれ、此方は名に応ふ
屏風が岩、恰も屏風を立るに均し、其風景〓〓に
して峰に連り犀川に眺み、千丈の巌突兀として、
松柏直からで丈短く横に斜に苔蒸して、北を眺む
れば遥かの谷底より大石を積み上げ、鎖にて欄杭
を続ぎ、山の半途の岩を穿ちて道となし、人馬の
往來を助く、斯る両岸苕〓たる中途の巖頭より、
心粂路の橋掛、雲井を通ふ心地(せカ)より、扨又橋より
川上へ登ること数歩ならで大岩三ツ、川の中途にあ
つて水を遮ぎるゆゑ、岩にせかる〻白浪の音は峰
に答ひ、水逆巻きて底をしらず、白波岸に横はり
水先天に接はる、字に是を彌太郎が滝三ツ岩とか
や、斯る難を乗り下す筏師は、浮沈っをも舳艫の手
練、一〓の行処を縦にせり、橋より岸下は其首高
僧智識の無常を勧念せられし深居にや、岩に遮ぎ
る水音を静寂無為にきく時は、般若を談ずる声に
ひとしく、其座す岩を蓮花岩、水にうたる〻其岩
を今に名付け般若岩、遁世の人も斯る気色を愛し
て輿を添られしに、況や詩客騒人を、彼の東坡居
士が赤壁の下ふもとも、上もや是には異ならで、古歌に
埋れ木は中虫食といふめれば、
粂路の橋はこ〻ろしてゆけ
斯る〓景ゆゑ、空しく水底へ押埋め、橋は吉原山の
半途に吹付、剰へ立岩山を中途より突崩す、同夜同
時稲荷山宿を押潰し、其上火事あり、翌々廿六日に
至て残らず焼失し、地の死人三百人余り、旅人七百
人の余と言ひ伝ふ、其外怪我人数多し、尤地震の儀
は強柔あれども、坂裏(浦)ゟ松本平に掛り、東は上田へ
至り、西は木曽谷を経てハ夫より北にか〻り、飛騨
山は格別に震ひ、東向峰々抜崩れ、青山変じて赤山
となる、あるひは峰落て谷埋め、平野となり、磐石
飛んで大木を碎き、泥水を汰ゆり出す所もあり、亦峰
崩れ谷を塞ぎ、水湛ひて池となること夥し、池田。
大町より志賀條辺に至り、家蔵数多押潰し、牛馬の
通行はしばらく絶えたり、是より北に至て戸隠山奥
の院は格別にして、磐石を分裂し、岩石を刎飛し、
既に奥の院社頭に落重るといへども、磐石忽ち左右
に別ちて飛散ける、神力の霊験かと見聞の人、奇異
の思ひをなし奉る、是より丑寅に至て、村里数多押
潰し、牟礼、古間、柏原、野尻辺、大破損なり、是
より手前にて中野支配所眞光寺村は、後ろより大山
抜落、一村不残土中へ圧埋め、男女夥敷死去し、夫
より山続飯山御領分葭村といふ処あり、是又過半泥
中へ押埋め、郷人〓きに死しける、同夜同時、飯
山城下一圓に押潰し、其上出火し、翌々二十六日
の暮方漸々と下火に相成りける、殊に町内死人一
千二百人、其外怪我人数多是あり、扨又山中筋道
所々汰り崩し、家蔵破却の分大概、別して地京原
藤沢組は虫喰(食カ)喰が嶽の左翼にして、至て〓〓ゆゑ、、
良もすれば雪〓なでにて人家の数軒圧倒せし例も是あ
り、斯る難地故、此度大抜数十町にして梅木村へ
突落す、其形勢猛にして土石谷〓より遡り、人家
を数軒向山へ突上げ〻る、其烈風八方へ散乱し、
右村の畳一枚、裏山の峰に飛行ける、おなじく嶽
の南面大崩れ、伊織村を泥中へ圧埋む、悲哉斯る
変災にて、山中筋幾万の圧死ども算ひ難し、爰に
裏山中にて畔下七ヶ村の内に、広瀬村上組百舌原
といふ耕地は、村居裏の山抜出し、人家を悉く破
却し、既に火発りて家作は抜出諸共崩れながら焼
失しける、是天の作る〓なれ共、又地を護る神徳
に依て、里人の死去は少しといへり、扨又念仏寺
村臥雲院は、禅宗の古蹟にて、境内広く後ろは峰
高く、古松老杉直(〓)々〓密たり、前は谷深ふして溪
水の流れ清く、耳根を洗ひ、山の色迄も閑寂にし
て、実に天台山の風景とも謂つべし、殊に寺中に
は塵穴風穴を初めとして、夏の日屋根より露點滴した〻る
等の七不思議あり、折ふし本堂の裏表修覆の為に、
諸職人居し処、忽ち廿人余り死去、其上諸伽藍不残
〓転し、西の谷間へ汰り落ける、此外村毎山崩れ押
埋め、破却の家蔵、死人怪我人其数算ひ難しといへ
ども、先づ山崩の場所四千九百七拾九ヶ所、道損じ
九万千七百間余り、別して小松原天照寺山、麓へ汰
り出事大にして、南の山際幅廿間より竪六拾間陥り、
或は山となし丘を池となし、田畑悉く東西に傾きけ
る、此山続き岡田川原に至て東南に分裂し、幅五六
尺より一丈余り、長さ数拾間にして、其数算ひ難し、
且又破却の寺分には、鹽崎村康楽寺、同村天用寺、
稲荷山長雲寺、土口村正応寺、松代眞性寺、御幣川
香福寺、同村宝正寺、岡田(村脱カ)玄峰院、同観照寺、原村
〓光寺厨裏、三才眞性寺、上松村昌禅寺、広瀬松参
寺、吉田天正院、小市無常院、橋詰村久昌寺、笹平
工源寺、大安寺村大安寺、岩草村性乘寺、下祖山村
白心庵、念佛寺臥雲院、中條水谷寺、青木常源寺、
泥立の明松寺、伊織村西福寺、古山法蔵寺、栃久保
玉泉寺、穂苅安光寺、新町高雲治、上條源眞寺、同
安養寺、同雲掃寺、水内村延命寺、安庭眞龍寺、田
野口村眞福寺、高野常安寺、吉原光明寺、牧田中興
福寺、中牧清水寺、大原正福寺、牧之島普光寺、大
岡村天宗寺、堀野長命寺、此外破却の寺院ありと言
へども、是を略し置ける、地震強弱あれども、松
本平より越後境にいたり三十里、飛騨山より上州
境、二十里余りの中に、更級、水内の両郡は、取
別大地震なり、日々十五度づ〻、其音金輪際より
強雷の奮発する如く、天地に響き八方に谺して、
傾く家は逐々汰り潰し、同々出火も是ある故、諸
人家々の庭前に仮屋を繕ひ食寐しける、此外在々
所々地震にて、地面相割れたる所二尺三尺、又は
九尺壱丈程相割、其深さ幾十丈共計り難く、山の
横合又は田畑割たる場所へは、地底より水吹出し、
あるひは黒泥赤砂貝抔を数多吹出しける、且又水
難の儀は、追々水留口に満ける時節には、如何様
なる満水に相成哉も測り難きゆゑ、、善光寺平一様
に恐れざる様はなかりけり、是に依て丹波島はい
ふに及ばず、川田、福島、長沼宿に至る迄、宿次
是なく、北國往來逐(通カ)行しばらく絶たり、然るに四
月八日より翌九日に及び、大雨晴間なく車軸を流
し篠を突て、山々嶽々より滴る水は、谷川に満て
犀川へ落重る、驚破すはや此時留口も差崩んと水下数百
ヶ村の男女、山野に吟ひ寐食を忘れ、時刻を窺ふ
所、其翌十日の暁頃より、留口岩の狭間より水少
しづ〻落始め、暮方には余程太り、十一日、十二
日に至ては、犀川流しかども、右虚空蔵裏山抜落、
安庭村郷藤倉古屋戸両村を押抜、川向ひ下永井村の
弓手へ突懸、高さ拾丈余り、厚さ二町余、尤此所は
北の方土尻山、南は虚空蔵山にて、其合ひ僅か二三
町にて、川幅細き場所ゆゑ、、川筋至て深く、常に水
努鋭にして箭を射るが如くなるを、一圓に〆切たる
を是に湛ひ、既に其翌十三日九ツ時頃迄に、右場所
へ充満し危く相見へける、扨又一の留口に於ては、
同日晝夜より水留口頂に満て、滝津瀬岩を敲き石を
飛し、其上水面には数万の軒の家、水上に浮み、滝
口に覆ひ懸り、岩間に挟り、水遮ぎる故、手利の水
子数多御召上、水面を乗切、水漳り(障カ)足なき様に岸の
方へ是を片付、其はげしき事、中々言語に術難し、
憐むべしこれまで泰平の徳化に与りて、親族無事に
年月を経て、朝夕の営みせしに引替て、馴し住家は
漣の面に浮み、田地田畑居屋敷迄も、千尋の底に沈
めるを於(以カ)て、野山に詫住ひ、雲間に浅る〻月影を(にカ)浮
む数万の家小屋を見るに、心も雲(曇)るらん、折も折と
て時〓聞くに附ても、我憂きに連れて啼かと悲まる、
昨日に替る卿の難、暮(墓カ)なき無(有カ)為の世の様也、前日
より屋根には所々に火を放ち、黒煙り水面に立登る
有様は、憐といふも愚なり、然るに八ツ時頃北風し
きりにふき立、浪逆立ちて岸を打、数多の船は岸に
次付けられける故、船子のもの余儀〓〓暫く見合せ
居る所、凡そ一丈余りの龍浪起ちて、二三度四五
〓打付ると見へしが、其音雷の轟くが如く、山々
鳴り渡り、谷々震動して、雷電光石火水上に輝き溪
澗に谺して、留口の半途より裾を突抜、泥土と倶
に磐石を捲くり大石を飛し、逆浪立て突落す、水
煙り中天に覆へ(ひ)、乍去朧夜の如く、その近郷へは
雨をふらしける、斯る大川廿日余り湛へける水幾
多ぞや、野山沢谷に充満たるを一同に押下す故、
何かは以て溜るべきや、只一浪に二の溜りを突
崩し、安庭、笹平、村山、飯森、花上、一時に
押流し、場所に寄て川幅細き場所は岩を臂つんざき山
を崩し、直ちに小市船場近くの押來る、此形勢を兼
て御領同様より御遠見被仰付置ゆゑにや、笹平向
山に於て合図の火の手を発ると見へしが、中天に
紅白の旗二夕流夕風に飜るを見て、続て吉久保の
此方花上裏坂に於て、同じく合図の火の手は、白
雲に十羽鴉、続て合図は小松原裏山御本陣に於て
陣鉦を打ち立つる、斯る時節迄川中島并川北水
除土堤、数万人を以て引も絶ず御築立是ある処、
此物音に驚き、小市河原に満ちたる人夫、諸道具
さへも取合(へ)ず、野山(に脱カ)散乱し、間もあらせず先浪
小市(船脱カ)場眞神山抜口へ押出す、其鳴渡る声音は耳を
貫ぬく許りにて、拾里四方へも響き渡ると思(行カ)うひしく、
既に抜口の高さ三拾丈、南北八拾間余り、厚さ五拾
間余りに崩れの場処は、只一浪に押破り、水防の土
堤を破り、枠ひじりを拗ぎ石を飛し、川筋一円に押出す、
扨又此時心強く気勝れたるもの数百人、両側とも川
除土堤上に立ちて水を逐ふ、其危き事石を抱ひて淵
に臨むとは斯やらん歟、実御仁恵にて御築立是ある
土堤ゆゑにや、暫く保ちけるところ、名に応(負)ふ強水
故、浪先鋭にして既に岸に満る、此時土堤上に立て
水を逐ふ馮河の勇者溜り兼て、一度に逃去ると均し
く、小市村裏御普請所土堤を二三百間余り一度に押
切り、小市村只一浪に押流し、其浪先は久保寺、小
柴見前より荒木、吹上、中御所、市村、川合、松岡、
大豆島かけて押流す、扨又川中島水防の土堤も、既
に凡五丈余りも高く折重て押來る、溜るべきや、御
仁政を以て諸役人其外幾万人の辛労にて築立し土堤
も、空しく一時に四五百間押崩し、其浪先の鋭き事
箭を射るが如くにて、石砂を巻くりて樹木を押倒し、
逆波立ちて四ツ屋、小松原、今里かけて押出す、其
形勢恰も大山の押来るが如く、白浪天に漲り、水煙
にて壱町先は闇夜の如く、四方八方に押出す、凡水
丈三尺五寸、小松原裏手ゟ今里へ突き懸けて、今井、
三ッ沢、貝沢、岡田、五明を横に遮ぎり、北原、南
原、高田、柴沢、會村、御幣川ゟ見六の裏手を通
り、上横田下横田小森西沢より千曲川を突切り、
岩野土口より雨の宮裏手へ押懸り、其浪先の尖するどき
事、家小屋土蔵堂社を差別なくして、当る所は只
一浪に押流す、其形勢実に箒でちう(りカ)を払ふにひと
しく、盤石を以て鶏卵を摧に異ならず、大木を押
倒し、土堤塚を崩し石を流す如く、早瀬に木の葉
を流すに似たり、斯る洪水故、小松原村の神明宮
社嶺々として無難なるは、神徳の不測にて、殊に
難有事どもなり、扨又四ツ屋、中島辺へ突かけし
水は、両村とも家蔵不残押流し、其浪先上氷鉋ゟ
北川原通新田沓町、中氷鉋、下氷鉋、小島田上下、
扨又南手は小森沢を横に突切り、北戸部、本戸部、
上布施、下布施、境村、藤牧、広田ゟ五里沢大土
堤にて二手に別り、北は上小島田地内野田組を一
浪に突流し、上ヶ屋組より大〓辺り一押出す、南
手は下布施へ突かけ、東福寺、杵淵、中沢、丘神
明、水沢、八幡原前沖ゟ千曲川を突かけ、東福寺、
杵淵、中沢、丘神明、水沢、八幡原前沖ゟ千曲川
を突切り、西寺尾を直に川中〓取巻、東寺尾ゟ裏
手へ押出す水は、丹波島裏御普請所大土堤七八百
間押切水と押合ひ、青木島、網場、北島村を前後
に取巻き、大塚両組を押抜き眞島の地内梵天組へ浪
先猛に突かけて、川合前測(側カ)本堂より大窪へ押出し、
千曲川を横に突切り、大室离れ山を水中にいたし、
北は亀岩へ突かけ、韮﨑よしざきより富士浅間の御弓手へ押
懸りける、此所至て山の洞合ゆゑ、水暫し漂ひ、村
入清水、山の神辺へ突上る、扨又三ツ俣の此方境村
の前沖へ遮る水は、藤牧広田の裏手より、五里沢の
大土堤遥か南の街道より高浪を押巻り、流家数多押
来る、池田の宮ゟ大室〓久保へ突掛、辰の口へ押出
す、且又船渡の儀は、水子のもの共勢力を敷まし身
命を擲て、関崎、牧島、柴村、寺尾、赤坂、笹崎、
矢代、其外小渡に至る迄、逃來るもの数千人是を送
りける、然る処犀川筋へ押下す先浪、牛島、大豆島、
川田辺へ充満て、千曲川へ突上ること、大山の押來る
が如く、直に岡崎の船渡しを亀岩坂の半途に押付て、
其浪先の猛勢なる事筆に尽し難し、実に千曲川の流
れは、甲州ゟ当国に落て、東は上州境へ碓氷峠、浅
間ヶ嶽、其外山々沢々の水落重り、至て大川なり、
斯る尖するどき流を犀川ゟ突上るゆゑ、浪逆立て凡二三丈
余りと相見ひける、斯る中をも船子のものは、兼て
御下知に心を配り、船や舳艫の続く大、逆巻く浪を
乗辺、逃出るものを助船しける、別して寺尾、赤坂
は通路よろしき場所ゆゑ、、老若男女落重る事山の如
し、中にはこの形勢を見て引返し、立木に登り、
又家の屋根に登るもあり、親子兄弟夫婦を慕ひ、
巷陌に胡乱湛、浪に漂ひ水に溺れて泥する人は其
数多し、しかるに逐々大浪四方八方へ押来リ、日
は西山に傾き、既に黄昏に及びしかば、ぜひなく
最寄の木に船をつなぎける、且又右の洪水御普請
所の大土堤を押切り、其侭御注進の為に、小松原
御本陣より駈け出らる〻は郡方御奉行竹村金吾、
御身軽気に出立給ひ、上には黄色の御陣羽織を着
用し、馬引寄せて打跨り、両桶蹴込て逆巻波先横
に乗切り、今里、北原、本戸部へ懸り、東福寺、
那古の宮を左に見遣、赤坂を乗切り、馬喰町口へ
田丘道の差別なく、三里余りを暫時に乗附玉ふ、
実に頼朝公以来弓馬名誉の良家なるに依て、斯る
名臣あつて満水をも事ともせず、馬の蹄を踊らし
けること、恰も宇宙を走る如く、良もすれば大浪
馬の〓に打かけ、見ひ(へ)がくれの形勢は、其むかし
天正の頃、明智左馬之助光俊が、瀬田の橋より唐
橋の松を見当に、湖面を眞一文字に乗切りしも、
斯やとこそはしられける、元來竹村氏は馬術大壺(坪)
流の達人にして、千琢万磨の手練爰に顕れ、見聞
の人も舌を震ひ恐れざる(は脱カ)なかりけり、扨又戌の
中刻には、南は妻女山ゟ西は岡田山、下は浅野、
〓箱、三才辺川、東は中野平、小布施の手前小川原、
須坂の弓手に懸り、井上辺迄、平一面の白浪と相成、
乍去浸々たる海上の如く、住み馴し里は、最中の海
面に霞める月に、村毎の樹木の梢も見ひ(へ)がくれ、松
吹く風に高浪の音、颯々として骨身をつらぬく思ひ
なり、山の出先や谷間には、親を失ひ妻子にわかれ、
歎き悲むもの幾度(多カ)ぞや、且又川中島数万軒の中には、
足手弱のものに心引れ逃遅れ、高浪に巻立られ、余
儀なく高木に登り終夜よもすがら浪に漂ひ、幾程となく荒浪に
巻立られ、樹木に突懸しゆゑ、良もすれば木たをれ
溺死する人其数多し、又は流家に取付、山の出先や
森木抔に吹附られ、助かるも有り、あるひは小船を
〓ひ、筏を組み、是を便に乗り出すものもあり、斯
る荒浪に溜るべきや、船は爰に当り彼所に突かけて、
筏は忽ち組子の縄も切々となりて、所々へ破散する
ゆゑ、高浪に浮きつ沈みつ巻立られ、溺死する人其
数多し、爰に一際目立て西寺尾村中島組より乗出す
大船は、艫を仕かけ、船子のもの共拍子を揃ひ、住家
の軒を船を通し、名に応ふ並木の松を北に見遣りて、
瀬関の官(宮カ)のこの方より古川を乗切り、御城を見当に
漕ぎ寄る、是ぞ君の御乗船、すわともいはゞ西條狼
煙の白、舞鶴山武請大明神別当職たる開善寺へ御
引移是ある御用意、兼て被仰付置ける、然る処に
君には花の丸より櫻の馬場御〓御殿へ移らせ玉ひ、
諸役人は詰所をかため、其外諸家中はいふも更な
り、町屋に至る迄御城を圍ひ、危きを防ぎ、君を
守護し奉る、実に其厳重なるは、漢の高祖始め咸
陽に御入関是ありし時、〓何曹参等の良臣、法を
三章に約し律を定めて民を撫育せられしに、諸人
此〓に傳師いつきかしづき奉る事、秋風に草木の偃すが如くに尊
敬せしも、斯あらんか、且亦深き御仁恵を以て、
北は小市山久保寺に続き、西は小松原村御本陣よ
り葭の〓岡田続き、南は清野山、岩野山、東は寺
尾山、柴山、大室山、亀岩坂、其他最寄の山の出
先や峠の半途に於て、数千駄の薪を以て大篝火を
焚立玉ふ、是偏に川中島に残れる人々、逐宵梢に
取付、屋根に登り、島に彳み、精魂を失ふものし
がため御処(所)業なりとぞ、此時川中島一圓に白浪と
相成りける中に、小島田村地内八幡原は至て高地
と見ひ(へ)て、宮地四五拾間四方へは水附ざるゆゑ、、
諸人是に気を得て老若男女命限りに駈附、所々よ
り集る者々、都計およそ二三百人余りと相見ひ(へ)ける、此
外高地〓木の梢、又は根屋に彳む人々、四方の大
篝火を見て相互に力をあはせて、鯨波を発しかども、
其声〓殺として悲しく、肝膽に答ひ毛孔を寒からし
む、宜哉生たる心地はなかりしぞ、斯て夜も次第に
更け行き、丑の刻より水少し引際となり、翌十四日
の暁に至り、六分通り落て、其翌十五日には山家へ
逃去る人々も、四方の嵩ゟ逐々川中島へ渡船し、我
家々々に立帰りける処、先にいふ所為にて家を流し、
親を亡ひ、兒を殀ひ、夫婦飽ざるに長別し、千変万
化の悲歎は幾多ぞや、又残る家々は、泥藁屑を突入、
鋪柄鴨居を外はづし、家財残らず押流し、只立居る名の
み、別て中島、四ツ屋、北川原、上氷鉋辺に至ては、
衣類資財はいふに及ばず、家蔵物置至る迄残らず、
田畑へは二間三間又は四五間位の石は幾程とも計難
く、平一面の河原と成り、是迄先祖𦾔来の田畑居屋
舗の境だに別ち難く、歎き悲しむ形勢は、憐といふ
も愚かなり、昨日の浅瀬今日淵ふち、有為軫変うゐてんぺんの世の中
は、〓情かりける次第なり、しかるに篤き御憐愍を
以て、流家は勿論水差入の分まで、食物御炊出し御
配分被下置ける、先東は小出村神明宮大門なり、西
口は段の原河原なり、川中島と名に応ふ甲越の両将
御直戴是ありし八幡原なり、右三ヶ所は何れも暇屋
を繕ひ、大幕を打廻し、御役人出張給ひ、十五日よ
り廿日迄、日々米穀数百俵づ〻御炊き出し玉ふに付、
右場所へは老若男女の集る事雲霞の如し、此外中
筋川北通りにても、御炊出し是あり、何れも六日
の中、御助成被成下、漸々少しは泥を片付、仮屋
等を給ひけるゆゑ、、其後は五月朔日迄、壱人前米
五合づ〻被下置ける、其上流家人別へは、普請料
材木等被下、地震潰れ水差入の分へも、多少に随
ひ御救金被下ける、加旃夏作流失下ける、貴賤
一同に難有感涙を催ふしける、是に依て暫時に世
間も穏に相成ければ、右三災変死亡霊の為に、諸
寺院へ法事修行被仰付けるゆゑ、、和尚長老法印御
房等、思ひ/\に未曽有の大法を勤努し、凶魂往
生安楽の回向し玉ひ、千曲川犀川の辺に艱婆とうばを造
立し給ふは、難有事どもなり、扨又出水後は用水
池大損の場凡八拾七ヶ所、堰損百三拾ヶ所なり、
是に依て川中島用水に甚困窮し、井水も是なき場
所は、拾町廿町余りも歩行を運びける、属(若カ)此侭過
行く時には稲作は勿論諸作養方、日々夜々の営、
如何様に相成るべきやもしらざるゆゑ、再三是を
驚く所、御仁恵を以て新たに堰水形御見分是ある、
則ち道橋御奉行宮島守人、禰津綾之助、柘植嘉兵
衛、用水掛りとして春日儀左衛門、草川吉右衛門、
久保孫左衛門、其外諸役人御出張有之、川中島は勿
論御料私領の差別なく、其外御城下町に至る迄人共
数万を御喚上、堰水形御堀立給ふ、大石の分は割取
り、〓車縄力(軍カ)を以て巻取り、水除土堤は大石を積上、
鋪八間余り、築留四間余り、高さ三間余り御築立是
ありけり、諸役人并に人足等に至る迄、心魂を碎き
て精力を激すの處、御感(威カ)勢によつて、時日を移さず
五月中旬迄に上中下の堰、小山口に至る迄残らず堀
上げ、何れも大水門を立、洪水除の土堤も厳重にし
て、吉日良辰をいらみ、同月十五日壬辰の日、一様
に入水なり、是によつて堰方世話人村々役人并に入
足等に至る迄、御盃を頂戴し、一同難有帰村し、耕
作を専一に相激ける、天然とは言ながら、斯る御仁
政之御代にも、大災の是あるものか、嗚呼前代未聞
の異変にて、恐れ慄き、実に生者必滅と言へども、
忘れがたきは恩愛の道、会者定离ありとは兼てしり
ながら、昨日今日とは夢幻の心地して、親子兄弟夫
婦を見殺すも、是れ宿世の因縁ならんか、古歌に
鳥辺山、昨日も今日も煙りたつ
ながめて通ふ、人はいつまで、
無常の風の通ひ路に置、露の身の墓なきぞ、末の露
本の雫や世の中の、後れ前立憐さは、生老病死愛(哀カ)別
离苦怨憎会苦人中護苦の悲も、是此娑婆の境〓な
り、五温皆空と悟りなば、十万億土も遠からず、
何れか是とて悲とせんとや、嗚呼三毒の雲起り、
六欲の霧立ち、煩悩の雨しげく、冥きより冥きに
入ぞかし、願くは如意の宝珠を琢磨して、眞如の
月の光を増し、遥にてらせ人の身の上、心だに
信の道に叶ひなば祈らずとても、神佛の擁護のな
どかなるべき、夫積善の家には必らず余慶あり、
陰徳あれど(ばカ)陽報の子孫に伝ふ世の例、十八公の栄
は霜後に現はれ、一千年の色雪中に深ふして、常
磐の松の春霞、枝も栄ひて葉も茂る、今一人の翠
を増し、君々たれば臣々たり、父父たれば子も子
たり、天下泰平安全五穀豊饒の時を得て、栄ひ行
く御代こそ、実にもありがたけれ、
幸一此書を成すといへども諺に貧乏雨なしとかや、
其隙を覘ひて破壁のものに筆を採れども窮する時
は必ず心魂逼り世事に悩み清貧かならず盛貪にし
て一行も是を並ぶることあたはず、壁を曲げ膝を
痛く折りて首を長く〓れ、涎千尋を流し、穢れた
る袖を〓れる涙に雪ぎ後悔多日に及ぶといへども、
風流の道ひとつを知らず物書く事はよかれにあし
かれ〓の出入や受取書其日々々の恥のかき捨て絵の
事ばかりは道理なれ、其道理こそ何ゆゑなれば習は
ぬ事の出来ぬは道理と無理こじつけの道理なれば子
供だましの上絵書一枚二枚はかくしておいても三枚
四枚の数重り、終に顕れ面目を灰にまぶりし折こそ
あれ、ある人来りて嘲笑ひ、いよ/\此書の成就せ
ば編笠かぶり街に彳み此度信州大地震世に珍らしき
次第なり、紙代僅かに十六銅とおためでかしの誉め
言葉、此時こそは玉の汗後悔恥辱は海より深く山よ
り高き父母の恩沢紙〓僅に十六穴と大の極りし豆蔵
文句口惜しき事かぎりなし、今〓胸を痛くしてせめ
て何かなひとくせあらば、よもや斯くまで嘲りを受
けざるべきを、知らざるは知らざるとせよとの〓を
最初から斯くまで卑下して置きたることをと既に空
しく秘しておきぬ。又ある人来りけり、大災いにつけ
色々と苦患の話数刻に及びぬ。此時ふとして〓が存
意を語りあひ、この事後世に及びなばかゝる怪談を
知るべからず噺伝ひもさだかならずや子孫の慰みに
斯くこそしたりと噺に乗じて開きければ此人利を解
きて言ひけるは嘲笑ひしたるは何れの人にありける
や、其由知らざれども後世に及びて此事を伝へきく
ともいかでか是程の大変を思ふべき、信濃一國の大
災といへども其災の多少により差別あり災難の〓き
と〓〓は此中に於てだに心〓落外〓し、一時とい
へども眠た〓く間に幾千万の人々一命を失ひ助け
給へ、救ひ給へと言ふ程〓なく火かゝり兵に死せ
人といふをわれは迚も遁れがたし共に命を失ひ誰
ありてか香花を手向け一遍の念仏回向すべき、早
く逃げ去りもふすべしと長さ別れはまたゝくラち
〓を街にさらせども誰ありてか是をとむらふもの
もなく一枚紙の裏表かへすが如くの苦痛のありさ
ま悲嘆の程は今更に語るもなかなか怖ろしく、身
うちもしぶるばかりなり、亦山中にて山崩れかゝ
る大河の流れを湛へ其外大災怪談は中々あげて数
へがたし、いかでか代々を累さねし後かくばかり
とは思ふべき。他人に譲る存意なく、全く子孫に
伝ふる実録いづれか恥づべき、いづれか汗顔すべ
き、此上願くは子孫うち寄り、折りにふれ時にふ
れ、幼少女童にも読み易きやういかやうなりとも
仮名をも附けておきて慰みばかりを当てにもせず、
わんぱくなりし小児には異〓の種になる事もある
べきなり。此世からなる地獄の苦痛、絵にかき残
せは是れもまたいうはもしらぬ小児まで物になぞ
らひ事によそい〓しすかしの種にもなるべしと、
進めに応じて徐くにいろはもしらぬ小児まで物に
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓すかしの程にもなるべしと、
〓〓〓〓〓〓て徐くにいろはも知らぬ片言まじり仮名
〓〓〓〓〓かなづけに地水火の三災をまた/\爰に
〓〓〓〓〓たれば、覧る人もありなば仮名〓ひ畫図の
〓〓〓を救〓給へ。
かゝる前代未聞なる時節なれそもいつしか東雲紅
にして暁天にたなびき、睪々たる樹木の蔭を照し天
の〓送より発して雷となり地震となるとかや、かゝ
る変化の時節なれば雲煙の如くなるもの何となく大
空におほひふたがり天に晝夜なしといへども世上皆
朧夜の如く、人心安からざれば誰ありてか夜中の鬱
気を志るべきや、夕には花の林に遊ぶが如く歓楽を
〓にし、数万のともしび白晝を欺き群交所せましと
市町に充満し、毒龍鬼神といへどもなどか笑を含ま
ざらんや、満足栄花を眼たゝくまにくつがへし或は
倒れ或は潰、夫妻兄弟母子孫圧死するあり、焼
死するあり、祝を並べ数万の人々夢中の夢のはかな
き最後拙き筆にはしるしがたし、中には五十里、百
里を隅て十人〓立ち二十人うち連れ立ちて参詣し
我等一人残りしとてさだめて指折り日をかぞへ国に
て親類待ち居給ひけふや帰る翌日也機嫌よく帰るべ
しと親を待ち子を待つ事我身の運にひきくらべさて
そと思ひあはするを今吾一人助かりしとて何面目
に帰国して斯くとて是れを告げ知らすべき。去り
とて我身覚悟を極め、今茲に自害せば誰ありてか
国にしらすべきとて、身をなげふして心苦の歎き
いふも語るも、まるはだか徐く助かり危きを遁れ
いでたることなれば路用はもとより旅のそら、今
より此の身を如何にせんと狼〓欺く人々の数をも
知らぬ遠国他国さこそと思ひあはすれば、拙き筆
には記しがたし。
爰に幸が幸なるは支店なる梅芙堂にて賣上銭の
ありければ枝柱とも持ち出し貯へ置きしことなれ
ども、今更是を何にかせん讒かなれども草鞋の
料にもなし給へとさし出しても受けとらず、昨夜
よりして、だん/\お世話になりたるうへ、いづ
れの方か見知りなければお返しまふすに便りなし、
女わらはの恥かしく襦袢ひとつかひゐきのさた、
下帯さへなき此姿を嗜みしらぬ女ゆゑ、かかる始
末と笑ひ給ふと理なれど、宿屋も旅人の多ければ
居風呂とてもはかどらず、旅行の労れ其侭にうち
ふしたるを此騒動または明日のつかれを案じ起き
出て湯に入りたるを其侭に打潰ぶされて、途方を
失ひ漸く助かり、遁れいで、かゝる姿の恥かしさ
と、打ち伏し歎く計りなり、かヽる未聞の大災を
受くる時節にいたりては遣るも返すも心底より実
に誠欲を离れり正銘正法世に他人なきしんじつは
実に願はしき次第なり。斯くてもはてしなければ
とて泣々別れ、西に行き東に行けど国に帰りて親た
ちに何とて言わけすべきとて又行き兼て地にひれふ
し、今宵の泊りはいかヾせん、明日の道連れいかヾ
せんと無四斗身を案じつゝ狼狽なげきわかれける。
去程に幸一が家より迎ひの者の來りければ世俗の
諺に地獄で仏に遇ふたる心地して様子を尋ね、問ひ
かければ、いまだ権堂へは火はかゝらず、すこしも
はやく帰り給へ、くはしきほどは道すがらに語りま
ふすべしと進めに、やうやう力を得、さらばとて起
き上りても夜前より一命危き煩ひに身体更に自由な
らず、心は急げど足腰たゝず、肩にすがり腰をいだ
かれ神輿の位置を三礼し打ちつれ立ちて漸くに我宿
さして行かんとすれども市街は一圓火の中ゆゑ、本城
より南の細道、通りけるに此辺はまた恐しく地われ
て高低の夥しく、裂けたる端は三尺四尺長短あれど
も二十間三十間より少きはなく、大なるが一丁有余、
地震は数をも知れず、幾度となく鳴動すれば若しや
此上大にして地割れ土中に埋もれせばいかにやせん
と安からず。
身の毛もいやだつばかりなり。徐くかた端なる中
程に下りて左右を見渡せば倒れたる家よりは死骸
を抱へて怪我人を負ひ家財取り出し運ぶもあり、
大なる潰れ家はなかなかに掘出す間もあらずして
泣叫の声聞ながらもはや炎炎たる火をかむり黒雲
の如き煙うづを巻きて取りかこみ修羅とう火川の
苦患といへ地獄の呵責といふとても是れにはよも
やまさるまじと、見聞もなか/\恐ろしくふるひ
ふるひて漸くに淀が橋より細道つたひにはせ越へ
出で夫よりかんねがはの端を歩行み裏田町なる畔
を踏み普済寺脇道に至りて見れば是なる客殿をは
じめとし軒並揃ふて倒れてあり驚怖しながら漸く
に権堂たんぼに至りて見れば野宿のありさま家財
取り出し圍となし残りしかざいこはれ戸や破れ障子
を持ち運び、疊よ桶よと老若男女入り交じり
上よ下へと散乱し大災を遁る〻辛苦の騒動驚き歎
くばかりなり。
是れを見るより善左衛門家内のものも漸くに心
を慥にもち直し人はみな/\斯くこそあるになど
か其侭焼きすてなん。一品なりとも出すべしとて
我家の際まで行きては見れども塀は倒れて道をと
ぢ隣家は潰れて路次をふさぎ、近寄る事も容易な
らず、或は震ひ或は鳴動千辛万苦の思ひにて漸く
〓〓二品を手に〓ひて逃げ出し、一丁有余も隔たり
し青麥菜種の田畑さへ諸人の騒動厭ひもなく踏みあ
らしては仮屋をまうけ、かゝる危難変災なれば小屋
掛けすべき用意は更なり屏風、格子戸、襖、障子有
合ふものにて〓しのみ屋根も同じく手当り次第命か
らがら持ち出せし荷物は其侭積置きて疊、板戸を雨
覆ひ日除にかかる時節に至りては欲は素より始末も
出来ず此上如何なりゆくものと狂気の如く狼狽けり。
しかるに午の刻すぎにし頃より権堂後町へ一やうに
火移り盛りに燃え立ち明行寺大門先きまで焼け下る事
眼たヽく間にして左右へ吹きかけまた下町へ焼き下
るといへども逃去りし諸人は一丁有余も离れし田畑
の中に小屋掛けし荷物を持ち運び、或は怪我人ある
ひは煩らひを介抱し小児老人をいたはり、たヾ/\
狼狽さまよふのみにて今こそ我家に火の懸るなれ、
其次こそは我家なれといふのみにて焼死することを
一人として驚くありさまもなく煙火の中の家のむね
をここよかしこと指さしつゝ狂気のごとくまた気抜
けの如くなれるもことはりなり。昨夜亥の刻かヽる
変災の大なるは前代未聞の事ともにて手足を労し身
魂を悩まし千辛万苦のみならず精魂を痛ましめ心を
を碎きしこと実に尤父母妻子には夢うつゝの如くに
して長く別れ、死骸だに其あるところを知らずして
火宅の苦患を受くるもの其数幾千万といへども是
を問ひ音信するものもなく一日一夜潰れ家の下に
あり、気力を痛め漸くに堀出されて一命助かり
始めて之を見るに夥しく怪我あるといへども医療
の便も更になく身体血に染り背負はれて野中に介
抱をうくるといへども風を受け日を受け痛み強く
すれば親類の輩是れに気をうばはれ夜を日につぎ
て千辛万苦、たま/\夜食の残りたるを持ち出し
たる人もありて爰にすゝめ、かしこに貰ひ得て手
に取れども一と箸だも咽喉に通せず、口中にうる
ほひなく胸痛み、疲れては水を飲み、よはりては
水を飲み、一晝夜後を過ごせし、今の時に至りては
大人小児の差別なく目ぶち黒みたゝれ、ほうぺた
こけ衰ひ、色あをしといへども青きにあらず、諺
にいふ、土け色とやらにして、乱れたる髪には土
砂のほこりを頂き、陰陽順逆の所為にや朝頃より、
むし暑くして、頭重く身持最も悪しくして、働き
て疲るゝこと倍を増し、誰ありてか、身の落付を
知るものもなし。未の刻より申の刻頃までに隣家
まで焼失して向ふ側に火移り下町に燃え下り、善
左衛門家屋向残りけるを、いかなる悪風悪火なる
か、昨夜よりして其さまを見るに風は北へ吹まく
りて、火は南に燃え行き、適々残りたる家ありて
も廻り返りては焼失し風替りては残りたるを焼失し、
戌の刻頃に至りて、俄に風替り、未申の方より丑寅
の方向ひて大風烈しく、暫時に善右衛門が家に火を
吹きかくること夥しく、火煙霞の如く空によこたは
り三輪宇木の辺まで火の粉恐しく連なり、始終火中
にありて一段の類焼は遁るといへども俄に風替りて
残らず家を失ひけり、折しも一天曇り風雨はげしく、
田畑に小屋掛けしたるもの多しといへども誰ありて
か屋雨の凌ぎを整ふものもなく、家潰れざるものは
戸棚、箪笥などを圍として其の上に障子、襖などを
ならべのせて日覆ひにし、倒れたる家には戸棚、た
んすも打ち碎け、圍ふべき品もなく、こはれたる障
子、をれたる襖をからげつけてたばね、藁をうちか
けしのみなり、いづれの小屋も斯くなれば、をのれ
が小屋より一足踏み出しては、をのれが小屋に帰る
ことを見失ひ取散したる荷物を持ち運ぶにも、さま
よふのみなればありあはせたる、てうちんを竹丸太
の先に結び付けて、小屋の屋根にさして是れを見
当に持ち運び、かヽる折しも風雨ます/\夥しけれ
ば〓はあれども風を除けず屋根はあれども雨を凌が
ず東より南をながむれば広々たる田畑闇夜に形をわ
かたずして沖の江の浪に漂ひ〓〓の焼火を見るが
如く、物淋しくまた哀れにして罪り〓〓りとそこ
かしこに見るのみ、しづまりか〓つてありけるは
いかなる心地と我身におしあて物すごく胸中に徹
へ北より西を眺むれば拾丁有余一円の盛火 空に
うつり、味噌、酒、硫黄、金ものゝ火は青黄赤白
黒といへども其色また恐しく、焔硝に火移り、辺
りなる潰れ家を刎ねとばし其響き雷光の落つるが
如く宇宙は闇夜にして猛火の勢を降り下る陰雨に
とぢおさへらるゝ心地、おのづから五体に徹へ、
実に地水火風空の苦患、眼前の地獄おそろしかり
しことどもなり。
かゝる天変不思議なる災害なれば其広大なるこ
とつたなき耳目には及びがたく、〓た愚毫に尽し
がたし。追日見聞すること後続までに記すとい
へども九牛の一毛にして万分のひとつも微力に及
ばず。
抑二十四日亥の刻、災害発してよりこのかた己
が身の上のみ記せしは他の成行きを知らざるに等
しく事詳かならざるに似たるといへども是れ畢竟
広大なればなり、因て己が身の上の憂き艱難の手
続きをもつて、実録とす、他の苦愚も斯くなれば
推し量りて後にも猶恐怖すべし、哀れ無常なるこ
〓思ひて、
二災変死諸群〓有無良縁菩提并ニ
牛馬有非情草木鳥獣蟲類変災菩提〓〓
法〓平等利益子々孫々に至るとも追善を施すべし教
に陰悪は軒の如く陰徳は耳の鳴るか如しと云々。
爰に善光寺市街焼跡の図を出すこと手続きの前後
惑あるべし翌戊申の年を過すといへども恐るべし、
かなしむべし、いまだ〓の如く、かたつきたるに
はあらねど其有増しを記し置く事なくば後代の子
孫俗語の〓に便り〓からんか依て前後を論せず心
に浮むのみを綴り入るものなり。
爰に善左衛門家内かり寐のありさまを記してその
悲歎を子孫の禁めにひたる。廿五日朝五つ時過し頃
善左衛門は病気のうへに斯る大変に悩み、足腰ふる
ひ、起居不自由なれば人に背負れ漸にして権堂東た
んぼ〓仮居しつ。世穏かなる時は何事によらず手伝
来る人も、心のまゝなれども、かゝる災害のときな
れば、誰ありてか手伝すべきは素より音信する人も
なく、数千度すれあひて右に往き左に還るといへど
も、面を見合せて泪の袖をしぼるのみにて悲歎や
るかたなし。爰に妻子は気力をはげみて、すこしの
家財を持ち運ぶといへども、女性幼少のことなれば
手足を労するにかひなく、しかする中に東町より
権堂に續きて火は炎々として、燃えたるゆゑに此
所にありては事の危しとて、人々われやさき人に
おくれじと、此所を逃去る頃しも、だれいふとな
く、地震にて山抜崩れ犀川の流れを止めて、一滴
の水なく、往来船を待たずして目由に歩行す、ま
だ煤花川も、しかなりといふ。此よし間人壱人と
して、実否を知らずといへども、大河のながれ、
何ゆゑに留まることあらんや、爰において虚とし
て侮どらず、実としておそれず、その噂區々なり、
爰にいかなる天変、不思議なるか山中虚空蔵山ま
だ岩倉山ともいふ。此六山左右に抜崩れて犀川に
おし埋み、かゝる大河を止ること犀川筋又山山中方川中島北東水災等之事は
都而後編に委舗す。おそろしくなると言ひあひければ、いか
なる天変不思議ぞと聞くも語るも、なか/\に身
体ふるひ、身うちもしぶくばかりなり。漸く一命
助かりて、またいま爰に左程の大河を押出しなば
さてもたまらず水災の、いかなるわざをなすべし
と、途方にくるゝばかりなり。爰に善左衛門家内
のものは、暮あひ頃より漸々に小屋退の用意はな
せしかども五月の節句の鏡の棒二本天井椽三本の
ほか竹のをれさにあらざれば薪を以て杭とはなせ
ど是をひとつうちこむものもあらざればありあふ
小石をとり上げて漸々にうちこみて、破れ障子から
紙の離れも椽を柱とすれども結び付くべき縄だにな
ければ手拭なんど引さきて、是を結び襖障子を圍に
し屋根の用意は更になく命をまとに持出せし一品二
品の家財をば小屋の中のせまければとて、かたはら
に積み重ね、このラベ如何なる変化のあるにせよ
飯の用意は専用なれとて、小屋の外面に火を掘り是
に漸く釜をかけ、米さへろく/\洗へもせず、火を
焚きつけて其侭に倒れてねむる千辛万苦疲るゝこと
こそ、ことはりなれ。とりわけ数の多かりけるは、
ことし讒に九つなる乾三は出店梅笑堂にありしとき、
晝の遊びにうち草臥れ、かヽる繁花の賑はしきもね
むたきまゝに、わが家に帰らんことを頻りにいひけ
るを店をとりかたづけるまで、そのひまは待てゐよ
とて徐くにだまして爰に置けれども素より年も行
かざれば戸棚に寄そひ居ねむりしを間もなく、かゝ
る大変にて気根を〓めしのみならず、其夜を都合五
度まで逃去る度母に包を抱ひ親の病気をいたわりて
は心を労し、地震鳴動するたびごとに如何はせんと
立つ居つすこしの間さへねむりもせず、神輿安置の
かたはらなる麥由の中に野宿して漸く爰に帰りても
我家に入ること能はずして、今日も終日荷物を背負、
風呂敷包を抱ひては逃さること都合大変、食事は素
より平日の菓子果物も給すして、〓く爰に〓〓と
定めしかども今にも水のおし来らば荷物〓其侭置
捨て、逃のび行ん心の用意守護の箱とろうそくと、
ありあはせたる当百銭是れなる三品は其方に預け
る程に譬此上異変起り逃去ることのあるときはい
かなるかたへ逃行くとも、なくてかなはぬ品なり
とて言聞かせられ、合〓して風呂鋪包をかたかけ
に背負しまゝに草履をば紐にて碇とくヽりつけ、
其侭小屋の〓に寄添ひ届ねむりして居たりける。
漸く年は九つのぐわんぜなき身のこのありさま不
更なること何にとてたとへんやうもあらざれども、
かヽる天変不思議なるときに臨みてせんかたなし、
こヽろよわく是時に狼狽てこそ害あらめと其侭に
寐らんとすれども風はます/\つよく火勢はいと
ヾありけ立火の子は空によこたはり十丁有余のそ
の先きまで吹まくり/\屋根の瓦の落る音、竹は
はじけて其響き耳をつらぬき魂を飛ばし雨はしき
りに吹きかけ吹きつけ恐しら苦しさなか/\あげ
て数へがたし、漸くめしも出来ぬれど何はどこや
ら、かしこやら前代未聞のありさまなれば手あた
り次第とり集め、飯をよそひておきならべ、菜は
漸く生味噌も箸にはあらで、かんざし、ようじを
もつて。つきまはし、口のはたまでよすれども、
心根いたく悩乱し、〓〓〓〓〓
てぬかもはなれぬ、ふすぶれ飯、ひと箸だにも咽に
とほらず、すヽめすかして漸くちいさなものにはん
もりをうのみにしてぞ其侭にまた倒れ伏す悲歎の泪、
おりしも風のはげしくなり、さつと降りくる夜の雨、
厭ひ凌ぐに便りなく、元より屋根なき小屋なれば、
みな/\立いでふすま板戸をならぶれどすきま/\
を吹きこむ雨さし傘かざしてうづくまり徐く膝腰か
らめつのばしつ唯このうへのなり行こそいかなるこ
とになるならんと、地震鳴動する度ごとに地ひれ伏
して一心稱名居ねむる間さへなきうちに東雲いつし
か晴わたり、廿六日の晴天西山の峰々を照し給ふ
とおもふほどもなく、だれといふともなくそれ水の押
し来るぞといふまゝに、もとより拾ひし命なれば人
気の騒立実にもつとも、早ひやうし木しきりにうて
ば、木よ/\とうろたひさわぎ、人をつぎぬけ払ひ
ぬけ、小児を抱ひ、老人を背負逃去る人々眼たヽく
間に本城はせ越高土手辺すこしも小高き所には人を
以て山をなし狂気の如く驚怖して讒に五尺の身のう
へをおき所さへなき有様、〓水をふみ、匁を渡る心
地こそ地獄の苦痛も、かくこそと拙き筆には尽し難
し、徐く騒動も落付きぬれば、それ〴おのれが小
屋に帰り朝の喰事の用意をなせども水も不自由、小
桶さげろく/\そのふてあらざれば、手水たらひ
に水を入、菜種の青葉むしりとり、洗ひし心地に
不浄のまぎらし落し味噌にて是を煮焚し漸く半盛
一盛をむね撫さすりて喰事をしまへ、小屋かけな
ほす用意にかゝり、縄よ杭よと心を配れど市町は
一圓焼きうしなひ徐く残る新田石堂焼失焼残りたる所は前の図を以て
知るべし是も家々倒れ潰れ殊更大火の類焼を恐れ皆逃
げさりて一人だに家にあるものあらざれば、買ひ
もとむべきやうもなく漸々手寄を頼みあひ縄調て
小屋掛のもやうにこそはかヽりけれ、是にまた山
中にては山抜崩れしその場所の数多ありて土砂磐
石樹木と共に川中におし埋、是がために家蔵を押
倒し人及牛馬夥しく命を失ひ田〓を損ふこと前代
未聞の大変なり、そも/\犀川のあら浪をば一心
稱名を唱へて渡船すること遠国〓隔る人といへど
も誰かこの大河を知らざるものあらんや、しかる
に上流にて水湛て渡船の場所一滴の水なし、もし
上流の一時に破りて押しなば如何なる災害の発す
べきや人こヽろひとつとして、〓かならず、闇夜
に路頭を踏み迷ひ、大海の浪に漂ひがごとし、か
ヽる陰陽の変化なれば不時に大風を起し、また雲
雨を発す地は一尅に六七度震ひ、焼亡水災莫大に
す地水火風空をもつて五体を保〓、地水火風空を
以て五体を悩まし、臥しては五尺の身を置くといへ
ども立時は讒に一尺の地を踏む事かたし、一身の置
処なく二十七八日に及ても幾千万の死骸をこゝかしこ
に倒れ、或は三人または五七人、頭を並べて伏しま
ろび乳よりうへを焼失ひ足腰を焼損ひ、死人山をな
すといへども是をとりかたづくる人力もなく見渡せ
ば茫々たる焼跡に燃残りたる死骸、味噌、漬物、雜
穀の匂ひ鼻をうがち、わるくさきこと晝夜言語に絶
てやむことなし。貴賤男女の差別なく尻をまくり小
屋の辺りに大小便を心にまかせ、年盛りなりといへ
ども髪を撫あげ、歯を染まむることもさらになく、帯
〆めなほし、ちりを拂ふの心をいさヽかなく、夕べ
にはざうりに紐つけ、わらじをはきてふし、朝には
ひしやくより手に水をうけて顔を流し、そこかしこ
に穴をほりて薪水を入れ、鍋にて飯を焚き、やくわ
んにて汁を煮、その日〓の成行こそ実にあさまし
きありさまなれ。かゝる歎きのおほかりしもきのふ
とすぎ、けふとなること矢よりもはやしとかや、思
ひもよらぬ大災もはやくも廿五日廿六日と過ぎ行き
けれども誰ありてか小屋がけといふものもなく見知
りもせざる、わらしごと女童はも打変はりて苫を編み
縄なふことも自然とおぼえ、晝は終日うろ/\とな
れぬことゝて小屋掛をあうもしたなら都合もよしや、
あヽもせはやと心を配り、梅花の薫りうせはてゝ
あらひし髪をみたせしごとく、日毎に磨く粧さへ、
白きにあらば焼跡の砂やほこりに穢れはて、男女
の差別もさらにわからす、晝の疲れもこのうへの
水災いかにと安すからす、草履に紐つけ、わらじ
を不离、うづくまりては夜を明かし夢うつゝにも
水の音、耳そばだてゝ是を聞けば幾千万の変化の
人々さぞや苦痛に絶果てなん、この上いかヾなり
行くものと時の鐘さへあらざれば寂滅為楽滅も
実に生滅のあぢきなく、更け行く夜半に聞ゆるも
のは秋にあらねど夜嵐の音のみ、すきまに吹き込
みて、焼残りたる犬の遠ぼえ、圍へのすきま見渡
せば〓りほらりと小屋々々のあかりも自然と心に
つれ淋しさこはさを語りあひ、隣家はもとより裏
家もなく、表もはなれし田甫中、こ〓にひと小屋、
かしこもひと小屋、思ひ/\に逃去りて仮居定め
しことなれば、明け行く空を待ちわびて居たりけ
る。
爰にまた感涙の袖を絞りし一義あり。そのあら
ましを記すに幾千万の横死一人として苦痛せざる
ものなし。その苦痛さこそとおし量りて見るとき
は、たれか愁歎の涙を催さざるべき。然れどもか
ヽる災害を身にうけて、いまだ風雨を凌ぐべき小
屋さへあらざれば、おのれが心に唱ふる念仏だに心
苦のために、ういすておきぬるもまた理りなり、爰
におなじさとに住める栄屋平吾といふ人何かのたし
にもせよとて金子百匹を見舞として心にかけられま
〓〓屋新之助といふ人よりも百疋を送り見舞くれら
れたりけり。我思ふに此大災を身にうけてもはや五
六日を過すといへども雨風をしのぐのたよりもなく
また市町の焼失ひたるありさまをおもひまたは家倒
れ潰れたるありさまをおもひ、横死の人の苦痛おも
ひあはすれば悲歎やるかたなし。そのうへにも晝夜
幾度となく地を震ひ、不時に大風を起し、雨を催し、
雲起ること一つ/\身にこだふるも常にかはれり。
かヽる不安心もひとつは苦患に命をうしなひし、
幾群の亡霊此土にさまよひ悲歎山よりも高く海より
も深きがいたす所ならんか、その迷ふもまた理りな
り、これによりてかの見舞の懇応黙しがたく請置た
りし金子貳百匹を種として霊魂菩提のため仏事供養
せば俄に発する所の悪風鳴動もやみて安心なること
もやとおもふも下俗凡夫のあさましき考へ、他の笑
ひも多かるべきか、我れ煩に悩み心痛より発する所
の愚痴にまかせ、思ひあたるこそ幸なれ、横死の人
々、一七日もちかければとて懸志なる助右衛門性理
といふ人を頼みて、おなじさとなる普済寺巨竹和尚
に参りて遠夜追善のため大施〓〓を乞い願ふに早
速に承引し給ひけれども、かゝる変災にて法衣を
はじめ仏具だに揃ふことなしつかにも用意を整ひ
て回向すべし、かゝる変化においてはやく行ふ所
もつとも功徳格外なり、布施物はあらずとも是畢
竟僧分の願ふ所なり、さりながら功徳にもなるこ
となれば香の物ばかりにて苦しからず、遠方より
も和尚たち参るべくあひだ一飯供養給はるべしと
ていと懇ろに伝え聞かせられければ暫時も急きて
仏事執行せはやと思ふほどにその用意にかゝると
いへども仏具をはじめ、膳椀だ〓もあることなし、
一汁一菜といへども何とて買もとむべき家もなく、
漸々便りを得て、野菜、乾物を調度して、明け行
く翌をぞ待ちける、四月朔日の東天晴渡り、向暑
堪がたし、小屋は素よりせまければ野中に疊を舗
き並べ、仏前に香花を備へ、何ひとつ、とりそろ
ふこともなく、最早和尚の來り給ひべしとて、出
迎ひけるに案に相違し、法衣といひ供廻り美々し
くながえをさしかさゝせ随ひ僧衆七八人引連れ何
れも一寺の和尚と見ゆれど導師の跡に随ふと見え
たり、來臨し給ひて麁茶粗菓子を参らせ、天より
直に施我鬼修行始まりける所〓の圧死したる親族
種々さまざまの品を携ひ来りて回向を頼むにまた
廣田屋仁兵衛といふ人来りて手伝ひし戒名俗名を書
留めて仏前にさし出し回向を乞ひける。
是等のことども後に見聞するときは他の誹謗も尤
も多かるべし、去ながら幾千万の諸人横死苦痛の難
堪事魂は此土を去りぬといへども死骸はいまだ街に
さらして満々たれば、おのれが心にて己が心を惑は
すなるが施我鬼中ばに至る頃まで晴渡りて向暑なり
しを戌亥の方より黒雲大風暫時に起り、さつとひと
時雨大風とともに吹きまくり、仏前に餝りある所の
香花其余のしか〴壇上より吹落しければとりてあ
ぐればまた吹落す、それを備ふれば吹き落し/\つ
かみさらはんありさまにて、諸人の親族は尚さらに
ありあふ人々地にざして感涙に袖を絞りつゝ悲歎を
してぞ拜しける、程なく、勤行すみければ実に誠と
かきけす如くに晴れ渡りぬ、時にして小時雨大風雲を
起し、時至りて雲散じ快晴になりたるにもあらんこ
とを物々しく、爰にしるせしなど見る人の心により
ては笑ふおともあらんなれども時に臨みいぇ心気に通
ずるところの感涙実に幾千万の人々圧死のかばねを
爰に止むること恐るべし憐むべし。
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 802
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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