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項目 内容
ID J0300871
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(西暦一八二八、一二、一八、)越後國地大ニ震ヒ、神原、三島兩郡震害多シ、就中三條・燕・見附・今町・與板等ニテハ家屋ノ倒潰夥シク、特ニ三條町ハ全潰シ、死者四百人ヲ出シ、且ツ全町燒失セリ、見附モマタ全潰・全燒ス、震災地全般ヲ通ジテ潰家九千八百八戸、燒失千二百四戸、死者千四百四十三人、負傷者千七百四十九人ニ及ベリ、
書名 *〔兎園小説拾遺〕○滝沢馬琴著
本文
[未校訂]文政十一年戊子冬十一月十二日、越後州大地震の風
聞あり、その事を板して巷を賣りあるきたり、長岡
は城も聊破損して、死せしもの疵をかうむりし士族
凡百九十餘人なりしとぞ、この事公儀へ御届の人數也と云、この他三條、
村松、新津、燕、今町、與板辺、凡十里四方、この
地震によりて廬舎倒れ、人死すること三千餘といふ、
三條に本願寺の掛り所あり、この邊殊に甚しく、本
堂十二間に八間、庫裏轉倒し、剰失火してければ、一宇も殘
らずとぞ、予が相識なる鈴木牧之は、越後魚沼郡鹽
沢の里長也、聞くに鹽沢辺は忝なし、當時地震も甚
しき事なかりといへり、
この十一月十二日の地震は、江戸も朝辰中刻頗震へり、
婦幼等が驚き立程に鎮リにき、越後は本日朝辰の比
より未牌まで震ひしといふ、しかのみならで
十一月初旬より折々地震あり、終に十二日に至て甚
しかりけるとぞ、
文政十一年戊子冬十一月十二日
朝五時越後長岡領地震之記
一、長岡町、潰れ家十八軒、半潰廿三軒、横死四人、
土藏壁落三百八十宇
一、長岡北組村々〔三十三ヶ村〕、潰れ家千八十五軒、
半潰四百十五軒、怪我人百四十五人、横死百八十
六人、寺院十一ヶ寺、馬五疋、長屋廿四軒、深山
御藏、
一、〔長岡栃尾組村々〕椿沢、家数百三十軒有之處、
建家纔に六軒残り、横死二十四人、
一、〔同〕田井村、同二十軒有之處、建家三軒残り、
横死十七人、
一、〔同〕棚野村、同百三十軒有之處、不残潰れ、横
死三十七人、
一、〔同〕太田村、同六十軒有之處、建家三軒殘り、
横死十七人、
一、〔同〕栃尾町、此栃尾町は潰家も有之候へ共、格
別の事無之候、乍去城山大疵入候間、抜落候はゞ
可及大變とて、栃尾總町小家共轉宅大騒動之由、
一、見附町、總潰家の上、失火にて焼亡いたし、やう
やく五六軒殘り、横死人、怪我人甚多、未その數
を知らず、
一、今町、建家不殘潰れ、残り候家五六軒に不過候、
是も半潰れ也、
一、三條町、潰家二千九百十八軒、右潰れ候上失火に
て大抵焼亡、殘る所二三の町少し殘り候へ共、是
も半潰也、但三四十軒殘り候よし、横死八百六十
人、怪我人は數を知らず、本願寺掛所、四坊皆潰
れ且焼亡畢、
一、脇野町、潰家五十七軒、横死人は無之よし、此處
は輕し、
一、與板町、潰家三百五十軒、半潰九十軒、横死三十
五人、
右與板より長岡迄在々、潰家無之は稀也、枚擧に遑あ
らず候、
加茂、芝田、新津、水原等は無難の由、乍然土藏の壁
は大かた揺落し、庇等はいたみ候へ共、他處よりは輕
く御座候、
一、拙家の入魂、三條の小道具屋小高屋宅右衛門と申
者の忰、商ひに參居候處、右地震にて早速下船仕
候、然所、同人の家も潰れ且焼亡、土藏も壁落候
に付、直に火かゝり、鍋一つ出し不得仕合に御座
候、此小高屋は北越第一の小道具屋にて、珍敷茶
器刀剣掛物等致所持候處、不殘燒失、其上地震後
雨雲に成候故、立はも無之罷在候に付、御堂の潰
れかゝる大門先に一夜あかし、寒さに不堪候得ど
も、翌日に至り一飯を贈るものもなく、只失火の
處へ近付候て、火にあたり命から〴〵凌候よし、
三條は越後の中央にて、金銀融通よく、富家多く
候處、一時に灰燼となり、良家の女房、娘、平生
家綺羅に候へば、その絹布の上へ雨雪を受、無是
非菰俵を身に覆ひ、兩三日路頭にさまよひ候事、
古今未曽有の珍事に御座候、家の潰れ候下では、
やれ助けてくれ/\と叫び、或は泣さけび候有樣
あはれなりし事のよし、種々承り候事も有之候へ
ども、筆紙に盡しがたく候、父子夫婦の間、眼前
に横死の有様を見候得ども、いたし方もなく、貴
賤となく家毎に、五人三人焼死し候へども、葬を
助るものもあらず、銘々焼跡の畑などを穿て、そ
のまゝ埋め候もあり、或はその死骸知れず、辛じ
て骨を拾ひ候も多し、家は潰れ候へども、手傳ふ
て片付るものもなし、土中は大かたわれ候て、泥
をふき出し候間、往來も自由ならず、その混雑愁
嘆、可被成御察候、鹽澤邊は當時何事も無之、無
難に候へ共、度々小地震に困り入申候、今朝も一
度、晝夜も一度地震にて、火難も氣づかはしく、
家内のもの一統におそれ申候、亂書御判じ御高覧
可被成下候、
十二月三日 鈴木牧之拜
此狀己丑□月廿八日、江戸新大坂町足袋商人二見
屋忠兵衛持參被届之、依之その許なることを得た
り、則こゝに追書す、牧之は予が𦾔友越後鹽澤の
里長なる事前にいへるが如し、典物鋪にして且半
農なるものなり、
文政十二年端月念九 著作堂主人錄
追加
越後魚沼郡市の越といふ村の村山に、船山といふ
山あり、いかなる故にこの名あるや、知るものな
かりしに、右の地震の比、この船山の澗間崩れて、
長さ丈許横四尺船石出現出しけり、これ自然石に
て凹て船の如し、宛も石工の手に成れるに異なら
ず、この儀神子の口よせにて、同村の鎮守の社頭
へ曳着たりと云、壬辰の夏鈴木牧之が狀中にこれを告らる、即便誌于此、
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 270
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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