[未校訂]淺間山自燒老人先見の事
上野國碓氷郡姥島村といふところ有、此村に一人の老翁あり、天明二年寅歳の事なりしに、淺間山の麓より硫黄おびたゞしく出ると云ひければ、彼翁近隣の者両三輩伴ひて彼所に至り見れば、小き山に半分は殘らず硫黄にして草木枯倒れたりし有さま常に變りて見えければ、翁是を見て云けるは、吾つら/\思ひ見るに、淺間の烟りは常よりおびたゞしく、此枝山も殘らず硫黄と變じ、草木枯稿せしは是唯事にあらず、此地にあらたに火氣あつまりしと見えたり満山の火氣強く常よりも百倍せる様子也、寶永年中吾幼若の頃なりしが、父なる者の云へるは、何れ山近く住居なさば心得なくんばあるべからず、其土地變ずる時は大地ゆるぎ、満山の草木枯れ雷鳴するは、是其先證也、富士山の燒けし時も斯の如く鳴しと云へり、當山の本大小となく此時にして枯るは子細なくて叶はず、いか様一二年の内に變こそあらんと物語して、彼翁は他國へ居をうつし、親しき者にも此事を云傳へけれども、土民多く疑ひ信ぜずして是用ひず、後におもひあたりしとかや、淺間山自燒の事
抑信州淺間山自ら燒出たるを考れば、頃は天明三年卯七月四日の事なりしが、彼地震動おびたゞしく、戸障子までびり/\として御村の人民居を移さんとせし事度々なりし所に、いよ/\震動つよく家まがり建具などゆがみける故、萬一梁落て屋根崩れ怪我も有つらんなればとて、人々廣き野巾或は林を楯となし、延菰など以て屋根を葺さしかけをなし、又地さけん事も計がたければ、竹林を切すかし住居をかまへ幼をおひ老たるを助け、家財雜具など東西に持運び、上を下へと混乱す、村長は支配の百姓散乱せん事をうれひて是を制すれども、只一統にさわぎ立て、更に耳にも聞入れず、村長もせん方なく、後にはおのれもおなじく住居を移す事にはなりぬ、心あるものは此騒動唯事にあらずと思ひ、父母妻子を上州武州の知者の方へ立退せたるもあり、同五日夜九時より晝夜となく大地震動して、小家はひしひしと倒れたり、爰に於て怪我人数多あり、老若男女大に驚き、足にまかせて二三里も迯行しが、中々二三十里四方は一統の事なれば、何方にても同じ事にて、今や天地も打かへすかと泣叫び、何國に行たりとても助るべき方なしとて歎きかなしむこゑ村々にひゞき渡り、寔に目もあてられぬ有さまなり、川付の村々には大日の朝忽然として大水押來りて窪地の民家崩れし儘にて押流さる、此時に小さき砂石のふる事おびたゞしく、淺間の方を見れば満山一面に黒雲黒烟りにて、物のおひろも見えざる中より青く赤くほそき炎何方となく立のぼり、震動ます/\強く、人々是を見るよりも、こは何となりなん事ぞとあきれ果たる所に、何とはしらず淺間の方だうだうと音して黒雲覆ひ來り、山谷林樹をかくし、何の別ちも見へざる所に又も忽ち大水張り出る程こそあれ、人々大に泣叫び、やれ今度は水にはあらで湯が流れ來りしぞ、あつや/\と半死半生にて流れ來ること引も切らず、是によって小高き所へ迯るもあり又は本の上へはひあがり命を助るもあり、又おそき者は湯に足を燒れ四ツばひに成て迯るも有、老人子どもの類は多く此湯に燒れ命を矢へり、其上大木大石彼ほのふに燒、大木は根よりぬけ二ツ三ツに折れて空中より降下るに依て、又此大心五體をこがして迯るもあり、四方一面に眞暗となりたれども、大石大木の燒下る時は白晝の如く、人民鍋釜の類を頭にいたゞき此火をさけ退けども、襟懷に火入りあつさにたへず、さる故に衣類を脱すて赤裸になり走り行けども、東面一面知れざる事なれば、かへつて燒出る方に迯行死するもあり、後には黒煙の中目にさへぎるものは炎のみて、面をむくべき様もなかりき、此時又一ツの雖儀なるは、かゝる騒動故家々にて牛馬を引出すべきいとまなければ、打捨追ひ放したりし故、あまたの牛馬彼燒石にうたれ、死もの狂ひになり、かけ廻り、當るを幸ひとけちらし、或は角にて觸れまはりたる故、是にも又多く死するも有、しかのみならす深山幽谷より熊猪狼猿鹿狢の類其外年を經たる名もしれぬ異形の獸あまた出來り、煙につゝまれ火に打れき負たる事なれば、常にすら人を見て害をなすものなるに、いはんや此時に至つてはいかり狂ひ人をけたをし或は喰付、是が爲にまた死する者数をしらず、人々前後に途を失ひ、却て淺間の麓をさしてゆけば、此所は方一丈もあらん大岩一面に火となりて降下る事夥しく、是にふるゝ者は一言もなくたゞちに命を落す、斯て先達し者より聲々にやれむかふは燒るは取て返せと云程こそあれ、上を下へと混雜し、或はふみ倒し突ころばし、死へも又多く有し、迚も叶はぬ事ならば一足も先へ迯よとて、暗きに紛れ三四里も走りたりければ、漸く沓掛宿までからうじて迯のびける、此所にてもひと一人もなく、燒石は少なければ、我家人の家いづくいかなる所もしらず、泣叫ぶ聲すさまじく、爰も助るべきにあらざれば、又江戸の方へ行や/\と走り出したれども、木の根につまづき堀川へ落入り死するも又多かりき、一門〓類も手を負たるや何者が死たるか更にしれず、子は親を呼び妻は夫をたづね、平押に江戸の方へ赴もあり、又信州へ行も有、是に目もあてられぬ次第なり、以上三四日の間は晝夜となく人心もなく、古今ためしなき變なり、猶末代にもあるまじき大變にてぞありける、村民爭喰の事
爰に上州吾妻郡碓氷郡群馬郡の村々ならん、人数三四十人或は七八十人万三百人斗の者共手負を肩にかけ手そ引合などして、安中板鼻根木井出高崎倉賀野辺の村々へ充満して押來り、人家へ押入り食を乞たり、されど此辺とてもいかゝならんも知ざれば、〓々敷のみにて上を下へとかへし、聲々に罵りうか/\として砂に埋られたは叶ふまじ、何れ立退んにはとさわぎ立たる中へ、彼ものども問屋本陣の大家を見かけて食物を乞けれども、右のさわぎの最中なれば中々耳にも聞入ず、却て非人同前に呵り付たる所に、飢人等大にいかり、今は是非なし食せざる事三四日に及ぶ、此所を一足も放れ行事ならず、餓死せんよりは此所にて食をからんにはと呼はりて富家へ乱入し、大音にいへるは、各かくの如く貯へある身の我々を見殺にし給ふは情なし、所詮食すばこゝにて死せん身なり、非道とばし思ひ給ふな、米穀のこらず借る所也、足手達者の人々は先の宿にて借給へと云捨てつゝ、理不盡に米大豆麥何に依らず殘りなく持出、大釜をさがし出し田の中に据え飯を焚き、集り者食せひかば、次第/\に人数まし、後には跡より來りし者も是を學び、大小の家々に乱へし奪ひ取事なれば、男女の泣聲は天地にひゞき、所の若者共は手に手に棒乳切木を持、白晝に盗取こそ狼藉なれ、悪き奴の振舞哉と数百人田の中に食せし最中追取かこんで打てかゝる、飢人是を見るよりもあら仰山なる人々かな、とても死ぬべき命ならばと一ト足より來れる飢人ども是もおなじく力をそへ、所の者を真中に打かこんでさんざんにたゝき合へば、田の中烟の中一面人となり、何千萬といふ数をしらず、同志打するも多く宿中の人々数多く打殺され、其外半死半生にて迯ちり、漸く日暮に騒動しづまりける故に、みな/\明家/\へ押入り、食物をたづね小家をこわしかゞりを焚て、二三日ぶりにて心よく伏たり、宿の者ども彼震動はさのみの事ならず、此騒ぎには家々安居しがたく、金銀持たるは江戸へ迯出、其外は不殘吾家吾家を捨又宿なしとなり、ともに食を乞ふ身の上となりたるぞおかしき、扨も此騒ぎ無程静りたる頃、生のびたる民どもには其程夫々に上より御救下し置れければ、魚の再び水辺にかへる心地して怡びあへり、かくの如く國恩誠に天地にひとしくありがたかりし事どもなり、近郷へ雨る砂石の事
板橋蕨浦和大宮(此所灰砂交り少しづゝふる)鴻巣熊谷(砂二寸程ふる)深谷本庄(砂三四寸程ふる)新町(砂七寸田畑一向見えず)倉賀野(砂一尺小砂交り)高崎板鼻(此所赤黒の砂、其外泥小石ふる)安中(砂一尺五六寸)坂本(砂二尺程ふる)輕井沢(大石火になりて降しゆへ家々燒失)沓掛(輕井沢と替る事なしと云、されど火石少き故燒失二百餘軒)追分(砂一尺五寸程)川原、畑村川原湯村三嶋村岩下村岩上村原町村、右六ケ村流失し又は燒失し、人家一軒もなし、此外拾二ケ村にて人家二百軒餘の病人数拾四人程助りたれども、是とてもまんぞくなるはなし、殘りの人々はいかゞなり行けん知らず、此餘また利根川筋萬座山此所殘りなく崩れ落て、吾妻川萬座川利根川へ押流したる故、右川付の村々四ケ村といへるものは人家田畑少しも不殘押流し、其跡はびやう/\たる泥の海の如く一面に野原とはなりたりけり、淺間山自ら燒出て竪二拾五厘横七八厘が間は一物もなく燒失たり、前書泥押の場所凡長三拾五六里幅拾五六町より一里程有之、村数百二拾三ケ村其外流出死失等の分左の通り、
泥入荒高一萬二千四百八拾八石程
流出泥入家数二千三百拾一軒
流死人別千四百拾一人
死馬六百五拾二疋
砂降りの場所砂厚く多く取除不申候ては難成分、凡長三十里横平均三里程、其外荒高村数等左之通、
御料
荒高九萬四千四百三十九石程
内三万二千三百三石六斗余田方七万二千四百三拾五石七斗余畑方
御料
村数二百七十二ケ村
右者此度廻村中村々にて及見聞候所、書面の外にも品々難澁之村方も御座候得共、数多之村方故先重立様子書記候儀に御座候以上、