[未校訂]信州淺間山大燒の次第
頃は天間三癸卯の年の變或るに五月十八日より信烟淺間山焼初りて灰降り其頃〓の最中にて桑を川にて洗ひあたへる〓も半々成りそれより續々燒けつゞき六月二十九日に灰ふり又七月二日に灰ふり同六日に砂石三寸程降り村々にて御地頭所へ御注進をいたすべきかと相談專り成り然る所又同七日に砂石おびたゞ敷降りにて晝八つ半時より日暮れ、やみ夜と成り家々にてあんどうをつけ或るは寢る人もあり然る所に晝七つ半時とも覺し頃少しあからみ夜明けの心地にて砂石もおたやみければ日は七つ半時なり夫より夜に入りて稻妻しきりにはなって雷電つよく成りひゞき砂石次第に降りつのり夫より夜八つ時共覺し關震動して稻妻雷電つよく誠に山も崩るゝ許りなり音にまじはりて大地にひゞき戸はめはゆるざ鍋釜もわれるが如く人々あわておどろきけり斬々思ひ付臺所に折立碓或は味噌樽杯をまはりに置き其中へ家内集り大念佛を申し、所の鎭守は申すに及ばず日本國中の神々様中にも當國一の宮妙義榛名峠の權現様命を御助けこひ給ひ嵐をしづめ給へやと祈らぬ人はなかりけり漸々と七日の夜は明け、しかれども砂石はいまだ降りやまず折々晝の四つ時より灰砂石ともにおにやみければ人々ほつとためいきをつき、こわい夢を見てさめたる心地して表に出て田畑四方山々を見るに青い物とては少しもなし著作砂にうづみ立毛皆無と収りて難儀至極の次第なりしかれども不思議やは石草様御本太刀所々に有り誠に淺間近き所は火石の火尾さめず火の雨ともなりぬべきを神々達あはれみ給ひて御防ぎ遊ばされ候と後々の評判なり。
夫より同八日の朝砂石に尺を立て見るに深さ一尺二寸之れ有り坪胡をして足を見るに六尺四方にて砂七石二千之れ有り候天より村々の御役人中砂降りの御注進、櫛のはを引くごとくなり。是もだに又北大笹の川通りにては淺間山ふもとよりは九間或は十間餘りの火石ぬけ出て川を〆切り村々へどろ水あげ家ぬけて流るゝ事其数限りなし。虎かん原にて家数百八十軒程ねぬけ男女ともにたて流るし又大前にても八十軒程ぬける同まきや村にても三十間ぬける天より段々家ぬけ或はどろにおされ砂にうづみ候村々を承はるに羽根尾村羽入村坪湯根古や川原畑河原湯松尾岩下三嶋とつとふ郷原川田金井原町岩井伊勢町青山植野、市域なく田村上小泉五丁田おのこ四つ嶋、姥嶋川嶋なく白井川西中村八木原半田漆原川原川東八崎横壁箱田田口開根凡八十三ケ村夫より段々と利根川筋屋のむね、見へぬやうにどろ一丈四五尺も又は二丈餘もどろにうづみ或は川中に、たては九間横四五間高さ一丈四五尺の火石留りて其後へ家諸道具流れ來りて先の火石よりもえあがり川中に火事出來る事おびたゞ敷御座候と後々の評判なり。男女牛馬戰ふ聲暮合に蚊のなくごとく承はる。水の出さぬ村よりの人々川邊に川の兩村は皆出て竿を継ぎて差出し、或は荷繩をつないでなげるも有りいろ/\といたはれども其かひとては少てもなし。流れて死ぬる男女も有り火石にもえる牛馬も有り目もあてられぬ次第なりと後々にての取沙汰なり。此邊にて猶急ぎて御注進いたし、村役人之れ無き村は隣村よりの御注進、家人々流れ候村々なれば御見分も早速と承はる。七月二十日まへに利根川筋大笹川邊へは御見分として。
御代官、遠藤兵衞門様、同断原田清右衞門様、
御廻村遊ばされ候其外の村々へも御見分として御地頭様方より御兩人様方御廻村遊ばされ候へども御恵みの御沙汰はなし。砂取〓付の御許〓も之れ無く人々途方にくれてたたり居たり、か程の大〓を何として片付べき家諸道具を打すてゝ何國へ成りを〓〓行くべきか又はかいはつをいたすべきがと〓〓思〓〓もなり。然し折累御普請御奉行様方御廻村遊ばされ候。
支配御〓兵播爪領助様
御勘定御吟味〓役篠山十兵衞様
諸色御〓〓御代官遠藤兵右衞門様
御手代稲垣玉四郎様
御廻村遊ばせられ候其外の村々へ〓御見分右の御方様卯九月十八日に宿所御旅宿にて村々より砂取片付の御〓の〓上げ申候へして我々は砂取片付の見分には廻村せず所々營〓一通りの儀に廻るなり砂片付の儀は其村々の御地頭方へ〓へべしと。仰せられ然る故いよ/\人々ちからをおとし罷在り候。秋作皆蕪に相成り申し候へば惣穀共に高直に相成り申砂降りまへは惣穀下直にて砂降り後盆前相場銭五貫七百文わり穀色急に引あげ。
大麥兩に貮石八斗大麥兩に壹石八斗
小麥兩に壹石三斗小麥兩に八斗五升
白米は七十八升白米は六斗四升
糯白は六斗八升糯白は五斗八升
大豆は壹石三升大豆は八斗八升
小豆は壹石五升小豆は七斗貮升
ひへは四石ひへは貮石八斗
錢五貫五石入れり八月九日に成り候てはいよ/\惣穀高値に相成り。
大麥分に貮斗六升(分く。とは壹分のごくなり)小豆分に壹斗三升
白米〃壹斗三升小麥〃壹斗九升
大豆〃壹斗九升糯白〃壹斗壹升
錢五貫六百文わりひへ分に三斗六升
右惣穀ともに段々上りに相成り甲候へば人々の心そゞろに成り砌りに村込み悪者のなすわざにや候やらん。穀屋が爰をしめ〓りにいたす故に此儘上るものならば人々は飢え死するより外はあるまじと穀屋を一紀にうちつぶし或は火をかけ燒拂ひ當國にても七十軒程、信州にても三十軒餘つぶし候沙汰聞え申候。かせいに出づる人々は後々にての難儀なり又くはわらぬ人々は後々の仕合なり猶末世に至りても、ととう徒黨、ごうそ強訴はつゝしむべし。あら立つ友があるならばいけんをくわへしづめべし。諸作砂にうづもれて難儀のうへに又穀を燒押ひ彌〓惣穀共に高直に成り卯十二月に成りては
大麥分に貮斗貮升小麥分に壹斗五升
白米〃壹斗一升糯白〃壹斗
大豆〃壹斗六升小豆〃壹斗壹升
錢五貫六百文よりひへ〃三斗貮升
卯の年の秋葉は大あたり、そばには蟲が付て五六分なり。御慈悲として藁餅の御觸書出るもち藁の根を四五分に切、水にてあくを出して能くほしあげ、石碓にてひき粉少々米成りと麥粉なりともまぜてもちにいたせば大こうぶつなり。ほうろくにているなり。藁の粉に少し麥をいりてひきまぜこがし体にもよし。わらのいり粉を食にいたし、くふ人もあり。所々御普請卯の十二月初る。
人足御用水御普請金右の金子百五兩五ケ村へ下置かれ候。
西上磯部村
東上磯部村
下磯部村
水口村
大竹村
柳澤さらい御普請金右金子三拾七兩貮分三ケ村へ下置かれ候。
西上磯部村
東上磯部村
下磯部村
武州
上州御普請惣御掛り方。
信州
御普請惣御用掛り
御勘定奉行御勝手方
五百石松本伊豆守様御勘定御組頭三百五十俵金澤安太郎様
御勘定御吟味改役並
富安八左衞門様御勘定方瀧赤右衞門様
御勘定方大竹政次郎様
右者江戸表御用掛り
御勘定普請御掛り國々御出役左の通。
上州群島郡澁川村御旅宿
御勘定御組頭根岸九郎左衞門様同断御吟味改役田口五郎左衞門様
御普請役元〆甲州富三郎様御吟味方下役吉澤佐七郎様
御普請役大西永八郎様
諸色改役遠藤兵右衞門様
御手代矢部市三郎様同断清水惣吉様
右同郡半田村御旅宿
支配御勘定橋爪領助様御普請役岡野龍四郎様
御普請役町田長三郎様
右同郡前橋郡旅宿
御勘定方野田文藏様御吟味下役重野伴之丞様
御普請役若田記内様同断永持武兵衞様
改色請役遠藤兵右衞門様
御手代長池良七様
新田郡平塚村御旅宿
御勘定吉岡金次郎様御普請役關根市三郎様
御普請役櫻井甚兵衞様
諸色改役遠藤兵右衞門様
御手代内海新次郎様同断岡瀬平様
御普請役山李又助様同断〓黄月定次郎様
諸色改役遠藤兵右衞門様
御手代坂本又藏様
武州榛澤郡深谷宿並在り方御旅宿
御勘定篠田五郎左衞門様同断三宅原兵衞様
御普請役楯野直次郎様同断永井久三郎様
御普請役仲田珍重郎様同断鶴田卯之助様
御吟味下役小島伊左衞門様
諸色改役遠藤兵右衞門様
御手代小川久兵衞様
右同郡中瀬村御旅宿
御勘定羽倉權之郎様御普請役飯泉秀藏様
御普請役松浦勇吉様
諸色改役御手代其外村より兼帶。
上州郡波郡沼の上村御旅宿。
支配御勘定中村丈右衞門様御吟味下役岩川永左衞門様
御普請役近藤市藏様同断和田繁藏様
諸色改役御手代其外村より兼帶
吾妻郡大笹村御旅宿
御勘定吟味改役古川五郎兵衞様御普請役建見音次郎様
御普請役萩野文吾様
諸色改役御手代御名所不知
右同郡原町村御旅宿
御勘定久保田何十郎様御普請役長岡又兵衞様
御普請役關文次郎様
諸色改役御手代御名所不知
右同郡金井村御旅宿
御勘定萩野伴右衞門様御吟味下役堀田文次郎左衞門様
御普請役村井喜藏様同断田中文藏様
諸色改役御手代御名所不知
那波郡戸谷村御旅宿
御勘定飯塚安左衞門様御普請役石田儀右衞門様
御普請役渡邊文平様諸色改役御手代宇都宮悟一様
碓氷郡中宿村御旅宿
御勘定川勝多四郎様御普請役三谷左一兵衞様
御普請役下妻郡二郎様諸色改役御手代足立倭中二様
右司郡原市村御旅宿組磯部方御掛り
御勘定改役並篠山十兵衞様御普請役仲田藤藏様
御普請役小川喜一郎様同断田中郡吉様
諸色改役御手代河邊右内様
緑埜郡浄法寺村御旅宿
御勘定櫻井徳右衞門様御吟味下役賀藤榮次郎様
御普請役萩野又八様同断屋代文重郎様
諸色改役御手代倉田庄兵衞様
右同郡白井村御旅宿
御勘定栗原祐助様御普請役豐田長岩郎様
御普請役保田藤市様
諸色改役御手代御名所不知
御普請惣御掛り御金子渡假御役所
群蔦郡岩川村御旅宿
御代官遠藤兵右衞門様
御手代金子惣九郎様同断松田其次郎様
右同断稲垣直四郎様同断永田祐次様
御手代布施曹藏様同断中澤治左衞門様
御普請惣御掛り御金子渡假御役所
新田郡平塚村御旅宿
御代官遠藤兵右衞門様
御手代起川喜内様同断御手代下山繁藏様
同断御手代田中那吉様同断御手代内田安平様
御普請出來顔見分
御目付柳生主膳正様御徒目付三宅權七郎様
其外四五人御廻村
御小人目付宮崎和吉様
其外六七人御廻村
御手澤細川越中守様御家中方
澁川村御旅宿
元〆白澤少助様三浦新右衞門様
其外五六人御廻村
右の御方様方閏正月十八日に御出立にて殘らず御御宿遊ばされ候事右は澁川村御金御役所御宿にてひそかに内借致して之を寫す天明四年甲辰正月に至りては古今古き老人も聞き傳へにも覺えぬ飢饉にて所々〓へ死する人餘程之れ有り惣穀共に大の高直に相成り。
白米壹升貮百文大豆壹升百廿文
糯白右同断小豆壹升百八十文
皮麥壹升百拾六文小麥壹升百四十文
錢五貫六百文百文に付ひえ壹升八合
折節安中傳馬飼料として百石に付金貮兩づン。
御上様よりもの仰出桑原伊藤守様より御拝借之有り候并御地頭様より御すくひとして百石に付て金貮兩づゝ下置かれ候同百石に付金貮兩づゝ御拝借右の閏正月に相成り候ては少々惣穀もたるみ候處に又二月三月に成惣こくともに大きにあがり人々も露命つなぎかねていかゞはせんと大なんぎに存じ候
つき粟壹升貮百文麥はな百文に壹升六合
白米壹升貮百廿八文ふすま百文に貮升五合
糯白壹升同断あめかす右同断
皮麥壹升百廿四文
くすのすそめ百文に三升五合
小麥壹升百六十四文大豆壹升百廿四文
小豆壹升貮百文そばめ壹斗貮升
錢五貫六百わり干菜壹連
五十文より八十文まで
芋の葉壹俵百五十文より四百五十文まであざみの干葉壹連三十貮文より三十八文までうみ草こんぶ、あらの、わかめ、ひじき其外あらゆる草木の葉にくはぬものなし。皮麥を粉ひきはり壹升用るところへ麥の粉壹升にて間にあはせくらし申候皮麥壹升にてひき紛壹升壹合あるものなり。並こうせんめし杯とて皮麥をいりひきめしにいたす人もあり。そばから杯を五分程に切り、ほうろくにていり紛にしてなめる人もあり候惣をかんりやくはわれましにいたし申候閏正月之れ有り候ゆへか六麥の出來は格別はやし三月廿四五日より青からし出來申候て人々夢のさめたる心地にてあやうひ命をひろいし事誠に天の方便とて人々よろこびかぎりなし。惣作砂にうづもれ皆無に相成候故物種直段高直にて
大豆壹升百五十文きび種壹合十二文より二十四文まで
小豆種壹合十三文より廿四文までひへ種壹合十文
大角豆種壹升百五十文本綿種壹升三十貮文
粟種壹合十六文より二十八文までゑ種壹合十六文
籾種壹升百十二文其外なすとからし
芋種壹桶貮朱にんじん大こん種高直に候
辰の年蠶もあたりなれ共桑燒かれ申候故はたても少々成る故に二三分通り金錢も差支ひ申候大麥あたりなれとも、かいほつおこたり申候故取入すくなし。わせ大豆土地になれぬ故か二三分通り、おく大豆九分、大角豆三四分、小豆六七分、粟ひへ九分、猶は十分、八重〓が出てあたりなれども飢人成る故にかい發おこたりしつけ少々成る故に二三分なり辰の畑方御年貢砂敷四分御引六分の御取立辰田方御年貢砂敷四分御引立毛御検見にて御引き遊ばされ少々の御取立なり右惣穀何れも取入すくなし故に又々惣こく上り申候。
玄米壹兩に七斗八升大麥兩に九斗
糯米兩に六斗八升小麥兩に七斗八升
大豆〃八斗六升小豆〃六斗八升
錢六貫百文わりひへ〃貮石
辰の年の秋〓蟲付候て皆無に成り、そばも蟲付き皆無になり辰十一月十二月に成り候ては中より下の人々は木の實をひろいくふ人餘程之れ有り候。ならの木實、かしの實、くの木の實なり碓にてつき皮をとり水にふよかしあくをとりほしあげてひき粉にして大麥の粉をまぜ料にするなり麥粉を六分木の實を四分。
天明五乙巳年正月に或穀相場
白米兩に七斗八升大豆兩に九斗五升
糯米〃六斗八升小豆〃七斗
大豆〃壹石壹斗小麥〃九斗貮升
錢六貫四百文わり。ひへ〃貮石四斗
大麥草をひ十分或る所に四月雨つよく麥ほ少々くされ七八分なり小麥も七八分砂降りの後かれ殘の桑にめとの蟲出來して又若葉もかれて蠶のはたて少々成候處に大はづれにて蠶三分通り田方開發出來いたし候分は〓殘らず仕付け申候大豆は蟲付花うぢなり枝なりの内くひきり畑へすき込む人もあり又こきほす人も之れ有り候漸々大豆三四分通りになり小豆大角豆ともに同様なり秋菜そばには蟲付きて皆無になり菜は立歸り四五分なり巳の畑方御年貢の義砂敷三分の御引七分の御取立なり田方も右同断に御座候段々世間もゆるみ候三ケ月の御姿直成を〓して。
月はすなを穀のたるみに世のゆるみ。
巳の冬句
老眼に筆の歩行も千鳥あし。
砂降りの年は時ならぬ八月に至り木々に花さき桑のめもしやうじ蠶杯も出申候よく年は木々に花實をしやうぜず漸く己の年に至り草木共に花實をしやうじ萬物共にゆるかはしく相成申候に付
午の年歳旦
三味線に歌乘り初や午の〓。
彌午の彌生の頃に相成候へば草木にも花咲き人の心もゆるかはしく相成り申候を詠め侍り上巳句
人も木も三年こへて花の春。
卯月八日句
民の氣も延行く藤や夏けしき。
大正元年十二月群馬縣碓氷郡東上秋間村石井泰太郎所蔵の原本より謄寫す。
此記の著者與左衞門民は泰太郎五世の祖なりと云ふ。