[未校訂]またがしはならぬみやこの八重櫻
けふみてあすはかへし玉われ。
信貞
七月石砂ふりし後次第に穀物高値にして諸人難儀なり砂降前、麥貮石三四斗より七八年迄も致しけるに石砂ふりしせつ、早速買し人は壹石五六斗にも買けるに日ましに引上け八九月頃は壹石貮斗、霜月十二月頃は壹石貮斗位正月頃は壹石閏正月頃は九斗位、夫より段々引上げ八斗に成七斗に成、二月の頃は六斗に成三月に入ては五斗四五升より四斗六七升〓引上けけるなり、卯九月末つかたの頃なりしが諸穀高適にして、村上百姓いと難儀なりしも所々にて穀物買置けるもの有りしめ賣いたし又は酒屋菓子やにて多くの米を賣しける故也。この者共打潰し穀物下〓に致べきよし、張札抔諸々に有りければ村々にて困窮の百姓、渡りに船と騷ぎ立、九月廿九日碓氷郡〓部村粂助三次郎宅を打潰し、夫より求馬方へ押寄せけるを明日より穀物下〓に賣すべきよし詫ければ大勢の者、是を承知し歸りける、晦日に五料村傳兵衞を打潰し、新堀村藩七郎、孫七郎松井田大野や吉太夫菓子や安中宿駒屋市左衞門先や助六菱やといへるを打つぶし、其〓板鼻宿には御普請かゝり御役人衆五六人も御旅宿被成しかども手前共御用筋格別の儀なれば此騷ぎに相構筋無之抔〓口上又御續所大竹村、鷺宮村などには遠藤岡右衛門様御手代衆御泊り被成段々徒當の御法度嚴敷被仰付御代宮所にては百姓共壹人も出すまじきよし夕方迄被仰付しに海〓〓大勢騷立、不〓の村々へは火をかけ燒拂ふ杯〓々にのゝしりければ御代宮衆も先の言葉に引かへ此筋の儀は村役人共可然様に斗ふべき抔被仰しと也、朔日夜〓鼻宿福田屋儀左衞門、田中や十一屋打潰し、夫より磯部村へ出求馬方へ押〓ける是は一昨夜穀物下直に賣出すべきよし詫言いたしのがれしに翌日所々より人々穀買來りけるを亭主高崎へ用事有りて参りし故留守にてはかなひ難き由断り、一切賣出さゞれば、約束相違也迚、兄弟三人質屋酒屋店共に打潘し酒は桶のたがを切、質物は庭へ取出し燒捨店も在郷に珍ら敷店なりしを一色ものこらず、切散しやき捨ける、纔成相場の損を悲しみ約を違へ大きなる損毛なり、八日には安中裏の在々へ引、最寄の富家へ言付食事をたべ、晝寢して居たり、暮方には妙儀へ參り大黒屋と申を潰し町方より人出されば大勢にて色々の事共言ののしりける故、氣味わるく思ひ家々より立出、手つだい夫より大手を下り、夜の九つ時宮崎村十一屋十藏といへる酒やを心當來りける、此十一屋上方者にて緑野郡鬼石村に本店有、所々出店高崎藤岡邊以上十壹ケ所にて酒を造り〓を取絲絹を買繁昌しける店なりし、宮崎十一屋は大家〓右衞門迚絹運上騷動の節潰され、普請出來ずして有りしを十一屋に本宅藏共に貸〓普請いたさせ酒も千石余も造り外商等もいたし、にぎわしく暮しける、其〓絹を買入商ひの爲、信州へ行しを米の買値に参りしといゝ出しける者有しゆへ打潰べきよし大勢來りける、町内にてもひゐきしければ人々出迎ひ〓譯合言詫ぬれど聞いれずして入離れ、本〓藏〓も打〓し、諸道具衣類はのこらず燒すて酒桶も五六尺共に切崩しければ藏の内酒にて海の如し、穀藏には新酒米あれど手も入れずこくものしつらいならざるを第一とす少ハ薛家へ持行たかせみなみなくひけるとなり、其処町方にてものそみ次第食事は澤山に〓をくわせける、此邊の人は去る運上騷動にて村々こりし故人出すとて北筋の者妙儀より高田や川の人少しかりあつめ來りしなり夫より一の宮へ下り、酒や文次郎米屋彌兵衞を潰すべきよし沙汰有りしゆへ寺院町役人を頼み殘すべき迚、其用意して居たりしが右頭分の者來り此度は當家ものがれざれば用心いたし可然といふ何卆其許の御了簡にてのがれ可申や左あらば御禮は急度差出し可申とたのみければ成ほど此度の一件手前存寄次第也。達て頼とあらばよろしく斗ひ申べしとて〓金受取又彌兵衞方へ行宮崎にても右の通申〓金取しと也彌兵衞方にても此節の事なればたのみ入と有り此者彌兵衞方に居ける内大勢來りける處へ彼者立出此家はけして買置等無之體也、みな/\ろうぜきいたすまじ手前の申處背くにおゐては其通りに成ず此度の頭は我也と廣言大聲にのゝしりける一通りは是に恐れ扣へけれ共究竟の者共來り此度の頭といふは何者ぞかふりものをとらせ面を見よ迚、立かかりけるいきほひに恐れ彼者逃出しけるを追欠行ければ人の内へ逃こみかくれしを大勢参り引出し何者なれば此度の頭などといへるに〓せつ頭取の頭のと言者なし只百姓穀物高値にて暮し方難儀なればとの賣いたしける悪者を打潰す事也紛敷奴哉と大勢立掛り棒にて打石をうら付忽打ころしけるを町内の有立出言けるは此者定て死可申死骸は各仲間の事なれは片付給るべし町内のやつかひに及ひけるは迷惑なりと断ければなる程是は我等何れにも斗ふべし此者は盜賊なれば打殺も苦しからず川原へ引出し捨べし迚足へ繩を付大勢にて引行、むくの木の欠へ落しける此騷にて潰し事も相やみ大勢立歸りける此者後に沙汰有しは藤岡在矢場といへる所の山伏也其節は其村より参り死骸の番などして六ケ敷體にしかけけれ共か〓るべき方もなければ夜ひそかに死骸持行しやほり込けるやかたつけしなり翌日瀬下惣右衞門をつぶしけるよしさたありて當人町方共に心を勞し居たりしが仕合にのがれし也是はうし年絹運上騷動のせつ潰れたり。下仁田にても高橋其外五六人も潰す者有之よし沙汰有しゆへ荷物抔仕舞用心して居たりしが是へもまいらず又其夜入山の者騷出、坂本へ参り四軒つぶす、山口次左衞門、清水屋源五、肴や平助、米や文五郎是は御關所有之けるゆへ横川より下は出す小勢にて打潰し天より信州へ來りしが兼て申合せけるにや佐久郎一同に騷出、輕井澤追分岩村田野澤邊迄穀物賣買しける人を不殘打潰す信州は谷々村々より一同出し故上州より人数夥しく何萬人と言程の人の手にあらく動き小諸領へ出手分にて狼藉いたし、上田領へ出在邊を潰し御城下へいらんと押参りしを嚴しく御防被〓手負死人等多く出來し故皆逃散ける是は十月十四五日頃の騷ぎなり其〓打潰されける人々には佐久郡高坂村與右衞門、同村丹次郎、同利兵衞、志賀村半右衞門、同半次郎、同理右衞門、同徳次郎、同代次郎、内山村善右衞門、同村萬吉、岩村田布袋屋市右衞門、山城屋角兵衞、近江屋常右衞門、嶋や久七、平野村宇兵衞、平三郎、同彦右衞門、同佐源太、下中込日月院、同條右衞門、野澤和泉屋、同藤藏、同木や彌右衞門、同甚右衞門、同七左衞門、金太等、〓井村政右衞門、同太兵衞、同市之允、同勇八、同伊せ屋燒失、同久右衞門、下市村宗吉、岡傳右衞門、同勘三郎、同七郎右衞門、同半四郎、右者十月二日夜より三日九ツ時迄九ケ村家数三拾八軒上州にても下方十月十日頃より騷立、下野とち木あしかゞ邊迄余程打潰しける其砌岩村田小諸上田御家中方江方より一ノ宮通り御國へ御登り被成候事毎日也。御公儀よりも〓町御奉行所より同心方數多御出し被成、在々より罷出、何哉取來るもの又はおもたち働らきし者を御間立なされ召とられ御領方にて〓御領内へ同心衆御出し被成、風聞あしきものを御召取御吟味の上極罪の者は御奉行所へ差出、猶又御吟味之上歸村いたしける者あり牢死しける人多がりし右騷動ゆへ穀物買置しける人も皆賣出しけれども値段は天性なる事にて格別の下りもなく米は六斗位、麥は石壹斗位にて霜月迄賣買あり、其篩そうどうには衣類家財は不殘打くだきやき捨ぬれど穀の分は決て手も付ず差置し故御公儀への聞へもよく卯十一月中御觸書の寫左の通り。
水野出羽守様より被仰渡候御書付の寫、
武州上州信州村々當七月中淺間燒にて田畑泥入并に石砂降候場所取片付の儀私領分は其領主地頭より申付儀は勿論の事に候併壹統難儀の趣に付此度堤、川除の外私領内郷用悪水路道橋等も御普請被成下其土地難儀の輕重に隨ひ村々給合せ右御普請致候て御料所一同當時農業手透の時節御故の爲仕立方被仰付候間右除邊は田畑起返等出精可致候銘々段々知行村々へ可被申渡候。
卯十一月
右の通り被仰出惣御頭として根岸九郎左衞門様澁川に御旅宿被遊後に肥前様と御改名ありて御勘定奉行町奉行〓勤被成、道中御奉行御兼命御下役御見分〓〓〓〓御普請〓〓〓〓〓〓〓〓〓被仰付、〓〓〓りの〓所〓〓〓〓らへ〓〓〓川除等其外道橋御普請被仰付、當所一ノ宮黒川〓〓〓〓原神〓小林信原邊中〓御〓〓〓〓〓御〓入り〓〓〓〓〓御下〓御普請方〓〓佐〓兵衞〓下妻郡〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓動〓ありて、砂の厚き爲村〓〓〓〓の御普請被〓〓御金子澤山いただき村方の〓にも有り又所に〓〓〓事勘定しければ〓、安心〓の割合にて賃〓いただきし村も有り一同には〓〓〓〓御かゝり〓〓人におよ〓〓〓〓吾妻利根川〓、中山道筋福敷御金子も下りけるよし坂本、輕井澤兩宿へは潰家流家〓〓金〓外〓〓の入用、馬飼料、馬代、金〓一〓へも一軒何〓つゝ被下通、御傳馬助郷へも馬飼料として〓〓に付貮〓宛被下置御拜借いたし御傳馬の〓も色々御願ひ申上〓〓〓御〓〓之〓度〓相〓〓〓尤此節の〓に候へば可成丈ケ出精致し、其上の儀は〓外に不厚とも被仰付御普請方坂本宿〓〓中宿板鼻其最寄/\に御旅宿被成、御金子御度破遊候處付澁川にて御代〓〓藤兵右衞門様御手代衆より御渡し、御料所は御私〓よりも百姓仕合せ、壹統御扶持も被下置〓又前にしては聊の事なれ共大勢の暮しにては数月余程の助に相成よし其外物継代御貸し御普請も年内出來〓候處は壬正月迄もかゝり〓なり御手傳細川越中守様へ被仰付、是〓〓〓〓〓〓〓〓〓五拾四萬石也。夥敷御物入御渡人方大勢倒〓〓成、右の御普請所へ貮〓づつ村々へは御金子被下置〓出來〓〓分公儀よりも相濟壬正月十日限り御〓府被遊卯年は御年貢上納成兼し趣を御訴訟市上し〓〓〓〓〓〓不勘定にて小作金も六七分燒盡は延になり人々寄穀物相應に持し者は安心、〓〓を越け〓〓〓〓麻〓にて大體取あげし事故金錢つまりといふにもあらず〓儉約にて物入無之年なり小幡〓〓分田方御見分被遊〓にて村々は内見被仰付村役人毛付いたし〓〓〓五厘も〓殘り春立にて帳面差上御奉行様御代官様御下役人共に拾五人にて御檢分〓〓御升入〓刈も有之候得共出石もなくして御歸り御領分被召出此度村方當田の檢見いたす所内見に相違も無之、尤早〓は相應に取も可申付所、當年からの自己御慈悲を以て内見通り出石御免被成候然るにならと見る所に御領分明年の種不足に候へは村役人勘辨を以、麥豆等の内にても少しも有之分は改め増石を差出すべし種無之村かたへ御貸し被成候と被仰付村々増石差上り分は籾にて御取翌年の種に御貸被遊候御領分にて壹萬三千餘俵数有之處不納にて御上にも御難澁御家中へ御引被仰付百姓も難儀御家中方御難義なり畑方は大方五厘永方御上納被仰付正月〓一統に年頭も〓止め歳暮遣合も不敷餅も法度に申合せける、尤暮にはもち米百丈に七八合なり粟は壹粒もとれず大難氣也、表向は麥喰と申合けれ笑内々にて三ケ日は半喰位に致しいはひし也。穀物も極月廿日頃より段々引上麥壹石程になりよつて來春は買出しにも出來兼べきと心得皆人支度しける故歟、次第にあがり九十位迄に成、大豆も本宿九斗小豆も八斗稗四石五斗豆も買しを石八九斗にて、ぬかばかり也。信州も別て實入あしき故也。上州になき物ゆへ買取爲にくはせける夫より春になり次第/\に高値也、山方は男女共にかづらところ杯堀暮しけれど里方は是も出來嫌〓ゆへ難義也、縫年穀安くして暮し方心易き故作不精の者取分け行つまり中にも無油断出精し麥も年送りにたべし百姓は大きに金取いなし身上をあげし者も村々にあり、石安き内は出精なる人を笑ひ、命に限りある者なる心歎深き杯いかもに一夜の夢の闇に變して二月にいたり出替りに成、以前とは、相違して奉公人難儀なり尤卯七月頃よりも子供は扶持斗にて五年季七年季にも人をたのみ邊すくつきやうの者半金心下り、縫兩貮分〓也、女は貮三分壹兩下にてめしたき杯かゝへ〓也、其外年寄子もち杯択持斗にて遺者あるを仕合として仕なるひやう取りは秋の頃は開談にてもつかいける人もあれと思も五拾文、四拾文北方より参りしものは三〓貮文にて助る砂厚き所は開發及かね、口〓に參りして有り又吾妻信州邊より夥敷參りし故猶又日毎安く其後とね川筋御普請始り人歩掛りし事故北方へ行けるもあり、卯年冬より雨雪一向ふらず二月にいたりてもしめりなく麥の生たちあしく見えけるゆゑ、日増に高値にて又こやしの値段も高値也、酒は造らず少々づゝつくり支度したる人も色々〓札等いたしける故、一向につくらずして酒粕はなし荏草は取れずしてゑ玉は八九百目有し玉壹分に八つ位也、安き時分は六拾より七拾も賣買致しける也、其外ほしかふもくず迄高値也、夫ゆへ麻も作り兼漸貮三分蒔付し也麻種も地種は壹分に貮升其後所々より渡りたね來り下遜になり漸春になりいしひる其外少しも葉出けれはたんぽゝあざみおんばこ等堀りて食菜に致し、小前ちいさき百姓は麥はけしてたべる者なし、麥花ふすま粉ぬか等麥出し色々仕方ありてたべし也、此春は村々にて盗人多し夜中穀櫃をあけ又は穴をくり拔きしを入れ、盗どり又かべをくづし俵に入ありしをさしを入れ取し也、其外作道具鎌ぐわ風呂釜等盗み取し也、夫より三月に至り度々雨もふり麥もほき立〓しく見えし也、去年秋〓不作故粗畑に迄もためをかけ精出し作を念入し故〓何年にもなき體なり是にてほ麥も〓け心きよふに時人おもいけれど一切下げ〓して、三月末四月に入〓れは麥さしを〓らがたもたべし〓。十四五日より〓へ〓あげ仕日には富岡市へ新麥出しき也新麥五十五文〓麥は賣きよし麻跡は壹及四西餘もありしと也、小麥も賣へよし、信州麥不作にて信州へ買上し〓置段引上風前壹〓〓次の宿場也、米も江戸表へ上方より入船致し段々不通となり是を買とりける前代咄傳へにもなき美濃尾張其外〓國の米高崎藤岡へ参りし城盆前四本位にて富岡市にて賣しなり是も冬春は江戸より外國へ出す事御停止にて商人も骨董、荷物の體になし樽へ諾參りし也、酒も信上共に造らずして泡酒なく伊〓味噌其少上酒斗りにて壹升三百三十貮文位より四百文五百文の酒〓り也、是も所法度にて賣せざる村多し、三四月頃よりは内々にて賣場有り蠶は春の内〓ふらずして砂にうたれし後より粟のすはひ出けれど大方立木にても多く枯し故半分位のつもりにて種とりしが桑の芽時分漸貮三分にも見へし故種を神社佛閣へかけ少々づゝはき立けるに一同違ひ、ならし貮三分の取にてすくなき桑を人々殘し、下仁田谷より買手來り壹駄五百文位にて買ける也、左あれは繭絹の直段高直にて有べきと思ひの外諸國つまりし故歟京大阪江戸共に呉服物うれ兼任入方不精故糸絹類年より下直也まゆは近年高直にて上物兩に七百め位賣買也しが此度はいよ/\高直なるべきに、いと直段壹兩に貮百匁め〓致しけれはまゆし上〓めにて〓百め壹貫め程致しける、麻の種は高直位、こやしを高直なれば漸く貮三分蒔けるに何年にもなきあたりにて餘分の貫は有りし也、田方程あしく百立義御座主方へ申上げれば籾たね御買出し被遊、半夏前迄御貸し被成しを貮三度宛蒔、やう/\値付所によりて蒔付にしけるもあり是は買に砂有し故水が〓りいかゞとおもひての事なり然れ〓半夏蒔分は水出にて押流し掘ちあき水か上り土用まですゞしき年にて速うへの分はほきあしく早植は大體なり出穗時分目和績、土雨より、残暑強くして實入よろしく諸國ともに豊作の沙汰にて江戸も盆前には八斗位に成、信州も何年にもなき穂先故、買置其外からひ來、實出しければ大きに下り、八九斗にて小諸岩村田野澤邊賣買のよし小うり壹升貮合にも盆前は賣と也。出羽奥州も信州同様の直段にて悉く餓死の有様と也、北國節は百文に四五升にては高直也とおもふ所百文に五合四五勺にては大難儀也、辰の秋作國々満作にて京大阪も日増しに下直に成、江戸へも六月末には貮合半領より新米出し故武家町人其日暮しのもの迄もゆるやかに成、田舍迄もやうやく、あんとの思ひをなし、過し春の事はむかしかたりとなりぬ。
穀物高直にして暮しかね、家をあけ、あるひは年寄病身の者殘し置、砂降うまき場へ参りおたすけ貰ひを名付け袖乞しける人多し。
碓氷郡増田村、土鹽、新井、高梨子、後閑、秋間、甘樂郡妙儀、下〓行田、八城邊より多出けるし也、増田村より此邊へ参りし商人有り此人の在所の小名をくものかいといふ、家数惣八軒有し内四軒殘り外拾四軒みな/\妻子を引連、袖乞をして出しと也其後彼冏人のかたりけるをしるしぬ。
日増しに諸國ともに穀物高直にして、うゑ人あまた有りし、越後信濃上野三國入合の地にしてたて九里程もありて秋山といへる万拾八ケ村有り、月藤といへる万十八ケ村、双方にて三拾六ケ村家数壹千軒餘もあり、誠に山家にして多く木を伐、積置、火を付、其灰をこやしとして粟を作りけるのみ、米麥もなく、女なちゞみを織りていとなみけるが、卯年の秋、作育のらずしてほとふる儘に辰としの春になりぬれば、うへ人あまたあり信州飯山の城下より、五里程ありて其拾八ケ村の内に白鳥といへる村あり、飯山の商人折々絣ちゞみ買に行ていと念頃なる人あり、行度毎に立寄り寒暑を凌ぎくれぬればやどりていとしだしかりき又ある時其人のもとにとひければ戸をさして人の住める氣色もなければいとあやしみ、元來したしかりければ、立よりやうやく戸を押あけ入見るに納戸にてかすかに人の聲あり、立寄り見れば親子四人共に枕ならべて伏居たりこわやもふにふしぬるやいかにと尋ぬれば、あるじいへらく、いゝつきぬればせんすべなくともに死なん事を忍ひはや十日あまり、ゆ水さへ呑み侍らず、かの商人もとよりしたしかりし人なればいとあはれに思ひ予の辨當に持しむすび有り是を参らすべし迚、出しければ、こは難有そんど候得共又是を食し侍らば二度思ひの種ならん、とても覺悟の上なれば、はやく死出の旅路にいそき侍らんとて、くわざりければ商人のいへなく死はやすく、生はかたしかへす/\も死なん事を思ひやめたもふべし、先此むすびを食し給ひ予が持居たる金子あり是にて米をもとめ養生し信州善光寺にてう八人たすけの寫、かゆのせつたい有りかの地へ行、諸人のたすけをうけ、うへを凌ぎ給ふべしとありければ各々かんるいに袖をしぼり誠にありがたき御ことの葉いつの世にかは忘れ侍るべき、君は再生の父母なり、仰にしたがひ、此金壹兩拜借して養生をくわへしばらく、此家を離散して命をながらへ侍らん迚、かのむすびを食し其金にて米穀をもとめ身をやしなひ、よふやく善光寺邊へ渡り諸人のたすけを請、命ながらへ後に古郷へ立歸り出精して、狩〓〓〓かに番しける、かい商人のあかりのある人來りて語りぬるを顔出して〓さ侍り〓る。
其瀬〓ゆもりをくひを又あま〓〓〓風土用に出りぬれば、から〓まきと〓〓〓〓をにも、〓〓もの〓にうぢ蟲屍て、そうなさん〓〓〓づしに〓〓〓〓を寫ひ難く露の命を消え〓たり、箔屋にて〓〓〓を〓ひけるもの多しやもあ群れ様、わらをなた〓にて打、〓しをさけて、こまやかにきざみ、殻いれて〓〓にて〓粉になし米の粉に〓に〓小麥粉にて〓少し麥〓、〓〓だんごにし食も〓をとなり。
砂降前下仁田にて〓米七〓斗八升、砂〓に迄〓〓三升百文に付五合をはいへど四合五匁也、此邊〓甫にて四合をいふ相場あり、餅米砂前は下仁田七〓三四升、砂〓〓三斗位酉亥に付右に〓断六麥、〓し石にて貮石三四斗、砂〓四斗六合〓文に付八合小麥〓井にて石三四斗、砂〓四斗鹽〓廿百文と合六〓砂前壹石二四斗、砂〓五斗二三升〓文に八合五〓小〓〓砂前壹石貮三斗、砂〓三斗五升百文に六合、〓は下仁田壹石七八斗、砂〓九〓四五升、ふすま砂前蒔に五斗八七俵也、砂〓百文に〓升、麥花粉砂前七升〓〓八升位、廿〓海笞百文に壹升四分、米糠雨に五俵米〓〓六俵、砂〓百文〓月八合、消〓兩に八〓俵百文に四〓目〓、〓は伊丹〓〓升百六十文より〓百七八十文三百五拾文、新六束〓原市杯にを砂前百拾六文也、増〓本六〓にて百五拾文〓續に苔を〓、〓水斗〓〓にて山方のもの難儀なり、等〓壹編五百文、大根干葉以前は百文に成れん次第/\に〓〓になり、砂〓〓〓んに拾〓文さし、〓午〓〓〓〓十成文さしいもなら畑に〓おきしをあみ〓し也、百文に〓〓にひの葉蕪〓〓も相葱の錢になりし、根岸〓〓左衛門様御普請がかり葱〓頭ともと〓川に御旅宿あり、其頃何ものかよかける。
淺間山根岸の死が押出して
川邊返りは丸師左衞門。
川原田村原田清右衛門様御〓り貮百八拾石の村也、呉へ公義より御普請金〓足六〓貮拾〓被下置、人馬多く流し故人数少く入金被下置、村中〓ひけるとなり、右原同様〓公儀前不首尾のよし足は金は多く下り、譜〓は〓相にて〓、石を取のけ〓の廻りへ出しける故不作なり、其後大身なる氏は〓尺を土を堀、川に近處に無支所は廻の廻りへ出し〓の土を入かへ作ける、泥砂の色黒く出しける故おもく燒石は石厘にわらせ出とける原田様卯か々り其外れ向百姓來り渡れざる所天文をいささ、藩事被仰越〓儀の場所へは金子多く下さる長野原様〓く多少被下し也、とね川筋都扶〓〓のせつ正直なる者ありて、ある人來り其元も此節御扶普〓た出給へと進められ人足に出かける、此儔下請したる人報へ程と被りあ〓なる者なればかはりを勤めさせけるげ暮れ方に成、人足に小殘賃錢渡しけるに其錢のこりと故はたをいたし其人の歸るを待居たりしにあるへをはしは皆人歸りしがいかなれば歸らざるべしをか、此よし悟りぬれば其人事ければ其錢は〓〓〓とからずと〓〓〓故持歸りけるに誠貫八百文有翌日も人來るすゝれけれどきのふの詮議もあらばよしなき事なり、〓にて澤山なりと不参よし。
前轉の御用〓〓火石桿入、出ざらへとして〓〓人御出御扶費〓あり八〓一日に〓百八百文〓〓せり子供も五四〓文を臆けるよし夏は〓を残〓〓何程と〓切し故〓山にとおしと送〓江〓〓人足〓〓出る砂降の蒔極付の〓に〓〓もあを賣はるが廿八文位なればいと/\安きものなり迚ひさ/\足を買けるに〓々見れば中ゝきらずをいれしに、〓〓は門松も大松は立す小松也、首にて備へものを買もちもつか〓人多しつき付る人も青せざる様にひそかにつき付〓也正月のいわひを三日程也、此年正月閑あり〓年の時ならはじゆん月なを其元日なりとて又も餅をつきいわふべなれどそうにのかわりに小麥粉にてつみ込みをして歳押へ默しける。
所々市場を行見るに、くひものと古道具杯の賣買のみなり宮崎市杯は盆前極月の重ならでは大勢の人出さりしに市毎に物前の市の如く也。中にはかわ麥壹升買ける人もあり。米を壹合位、買入もあり、やきもち杯買と恥し共忍はず南中をくひながら行人多くあり、もの賣やき餅賣澤山にもちは三文五文拾文也、米より粟てち迄あり中には雜穀を入もち草を交うりけるものあり焼餅も米小麥三文五文八文あづきかけ水のやうなるき拾四文也、もち賣やきもちうり九十人百人位づゝならび居ければ所々見廻り少しも形大きなるをゑらみて是を買し也、又古物賣買皆家々の諸道具也、書物、掛もの、ふる本、屏風、膳、後、腰の物杯持出し賣代なしもちやきもちを買ひ呉外〓麥等かいけるなり中には出物、とものもの杯にはいと安さもの多し、此中かいをしける人は悉く金錢をもふけし也又米賣の所へ行壹段を聞一つかみづゝとりて口へ入けるを米うり立腹しのゝしりけれとをはや口へ入し後なれはせんかたもなく、少しづゝにても大勢の人なれば其類なくさんありて米賣もなん儀也、又富家なる人も米壹駄貮駄づゝ買ける事ならずして近所にて心安きものを頼、貮米壹分づゝ水買にかいける〓米壹駄も馬に付來りしをば何國へ行〓なりとせんぎし、大或のかひける米なればわれら餅蒸しける程の重なり窯〓新水取ははる掛かり〓可中〓いへる取〓込ありければ皆米をかくしがい也〓にて、つゆまたとくら〓へる海華ろ〓〓なり、〓ら、め杯の〓篏暮も方に徳用也とてほしぼ、〓〓外へ入、にたて其中へ一寸なにと〓ぎ〓〓〓する〓いれくいける又ころせんめを、豆うどん色々〓〓を〓〓くひける、まめうどんと甲は小麥粉へ大豆の粉を入うどんにしける也、殊の中にやきもの也中にもひえ食こそ難儀也、かぶのありとかきだ入し内はくびよけれど三月頃になりて、華の葉の居も置たるなど入てはくひにくき者也、其盛の事露守りも思べからず寫家食家にかぎらず麺類杯しける時はゆでたる湯の中へ味噌を入煮たて其中へ干葉か又野菜の類か入てそばうどんを入れてひける也、ゆでたる湯の冷ざる事を〓一とす又山かたにくかつらところを掘りてくひける也、くずの仕方〓木にて罷くたゝきくだき水に箸を入しぼり底にしづみしをとり、何にとも粉を交くひしなり、本方の仕方にてはなし、ところも桶へ水をいれ、其中へ打込みあくを出し、七日八日置てよし、足を挽粉にして小麥粉に米の粉を交てたべし也。
かしの實も是に同じ仕方なり。
長の春、森の子、ゑなくしてみな死たり。砂降後獣もの皆やせおとりへ〓、出かるを打毀し悉く市へ持出しのはたべ〓ると也。いつか、國々までものへ人多し江戸にても當家の人は〓ひ/\に施行しける也。三河口三右衛門へいへる人〓も諸人越ざる内朝毎にむけで貮三百位づゝ持出、芝品川の方迄、うへ人た〓れ忍たる者貮の〓つづゝあたへける也。此事と間に建し御公義より御ほうび被下しと也。かゝるきゝんの折からなれど一村に貮軒三四軒づゝは暮しかたの難儀をもしらざる人あり足は常に農業を出精しける故也。
富所寺田といへる所に臼田某(喜兵衞と云ふ)の元に初孫出生し孫いわひ有り、親類隣家の人々をむかへ蕎麥振舞あり又豊年の時ならば米もしらば迄吟味してつかふべきを麥のこわいひをしていわひける也。其家へ袖をしける、うへ人來りていへるは御大家にては何かいわひ事と見うけ候得共御慈悲にそばゆを一盃ふるまひ給はれかしといふ、下男こたへけるは此湯は馬に呑せ侍るといへるを居合ける中にはなさけある人ありて湯ならはふるまひ遣すべし迚かの蕎麥湯を振ひければ限りなく悦び五六盃呑みて歸りける、其事聞つゝら八人共あまた來りゆを乞のみける、其亭よ北筋へ度々商ひ行し故共中にはしる人もありておまへの御宅は是なるか杯喜て如斯の仕合となりしなど、語りける者にはかの、きふのこは喰を振舞ければ、餓虎の羊の子を見付けたる思ひをなし悦ひて食しける又春は辛たねの中より疵有るをゑらみ、きぬかぶり迚土をそゝぎたるのみにてゆで、家毎にて朝夕くかける、又ほじき年てわいへるたり、其いものかわをはきためなりつかに捨置けるを、うへ人來り皆々ひろひ取りてくひける也、思へば/\あはれ也し世の中の有さま也。うへ人あまた有りて諸所に行たふれし者数多し、當所杯にも酒屋にて貧家の人をあはれみ麥杯をくばり又酒粕をつかわし能々ひとなりし人には金子がも貸しけれど其中には二三年の内越濟しける者もあり、いつまでも返濟なき人も有し也、是はもより/\に世話人をたて其人より又度々に渡し貸付ける也。尤無利足にて返濟なきをば其通り捨算と也、凶年の春高崎にて夕暮かたに来賓に來りける人有り四文錢壹貫匁棉ひ米をかますへはからせ持出けるあとにてあらため見れば皆みと錢なり、米やもおどろき其人よびかへさんと立出る處へさせるを落しけるやと立歸りければ米や申は四文錢にはあらず、みなみゝしろの錢也とありければ其者をおどろきし體にて、こはそそう也面目もなき事なれど只今買置してたくはへし錢也。質屋の間遺或べきいくざとりかへ参るべし、此米預りだまへと其米かますをあづけ置、其錢持行し儘其者來らず、米やはこめを預り置し故心安く思ひ居たりしが、何程過ても來らざれば、其かますを改め見れば、米にはあらで、淺間やけ砂なり、是も皆暮し兼ける者のたくみける事なりと語りけるを聞きて此所にしるす。
此春は國中大饑饉にて有しが別て奥州人死多し、伊達家にてうへ人にかゆを下されしと也、其所迄行付すして途中にてたふれ死又米など馬に村通りしを亂坊に奪ひ取しとなり、金持杯も金はあれど買ふべき米なければ同様に難儀なり。
白米やの番頭奥州のある町問屋らしき處に立より戸たゝきし故、戸を押開立寄見れば、ばゝひとり居し、彼番頭申けるは何卒食事致し度よし申ければ、かのうばの申は此處には無さ是より壹里斗り隔りし所に御座候と申ゆへ其所へ行、壹分に米貮升買來り、たき、うばにもたべられよと申ければ、難有候へ共はや二三日もたべ不申只今たべたり共所詮死すべき覺悟なり、子供に被下候へ、と娘弟貮人にたべさせ扨拙者に此兩人の子供衆被下かしと言ければ、しんぜ申べし、拙者證文したゝめべし判をすへられよと申ければ、奥へ行、ちいのきんちやくより判取出し押ける也、夫より貮三里行、やうやく駕籠を取り乘せ参りしとなり。天明三卯年淺間燒石降候ゆへ秋作皆無にて、翌春は飢饉にて餓死者も多く、粗食いたし候哉、夏氣に成、病人夥しきに付、御公儀より藥法の御粥、時疫流行の節此藥をもちひて其煩ひきのがるべし。
其藥法にいはく。
一大粒なる黒大豆の能煮と壹合せ草壹匁水にてせんじ、とき/\呑とよし。
一葛荷の根と葉をつき碎き汁を取呑てよし。
一牛蒡を打碎き汁をしぼり茶碗に半分づゝ呑て其上桑の葉を壹握り程よくあぶり黄色に成たる時茶碗に水四盃入貮盃にせんじ一度にのみてあせをかきてよし若葉のなき時は枝にてもよし。
一ねつ〓の外強く氣ながひの如くさわぎくるしむには芭蕉の根をつき碎き汁をしぼり呑てよし。一切の食物毒にあたり又色々の草木のみ、熱、鳥、默杯喰煩ひに用ひて真死なのがるべし。
但し草木の葉を喰て毒にあたりたるにいよ/\よし。
一むね苦しく根強く痛むには苦參を水にてせんじ呑て食を吐出してよし。
一大豆の粉こふばしくいりて湯にて度々呑てよし。
一口鼻より血出てもだへ苦しむにはねきをせんじいく度ものむべし。
一大粒なる黒大豆を水にてせんじいく度も用ひてよし、魚にあたりたるには、いよ/\よし。
一赤小豆の黒燒を粉にして、はまぐり貝に壹つ程水にて用ゆべし。獣もの毒にあたりたるによし。
一木のこを喰て、あてられたるには、忍冬のくさ葉共になまにてかみ、しゑを呑みてよし。
右の藥法、凶年の節、邊土の者、雜食の毒にあたり。又凶年の後、疫病流行あり、其爲に簡便法をゑらむべき旨、依被仰付、諸晝の内より、致吟味出也。
望月三英
丹科正伯
砂降後は不幸の恨舞も中通りの百姓家にて、素麺又は半食、其下は麥喰、詩家は村の者、呑くみなく世話いたし、菩提寺他所より見送りに來りし人に何か物入少なき品をかんがへ振まひ、〓々ひんなる者死去には、五人組親類にて拾疋づゝも持らせ寺〓布施其外入用まかない遺ひける。右は當村方杯のいたし方也。村により是よりあしき場處もあり又よき處もあり、此麥米をつかひけるは拾軒の内壹軒もあるやなき也、壹所にてある人、二男を隣村へ人の婿に遣しけるに此人相應の見上なれば、親の追善供養にもせまほしくとありて、白米壹駄持來りける故其師米を遣ひければ、米を六俵くひけるとなり、其時米四斗の相場にて二男より出したる米共に代金六兩也。常に中通りの不幸にては、五兩より六兩にて諸事勘定相済也。米外りにて、諸色のかかりにかけ合しなり、其頃は無雷〓なし、村中より〓慮なる人は、より合手傳ひければ、今時よりも人数余分也、又米も珍ら敷故六食もしけるにや、六儀の米をくひしなり、其後村中六組に別る無常〓と名つけ、大組切より合せ話しはるなり、其節寺院方にても不幸布施倹約致し御事は皆のべになり、小作金は春表所六七分にて、又其内不納方〓〓、うへ人は與なれば幾態もあらんと百姓家をりも多く来り、大難儀なり、當所にて母をや一人有りもつね/\孝心なる人あり、此母親病の床にふしぬる事年ひさしかりしを、かしるきゝんの春なれ度珍めしき〓のを調へ、〓事も進あける、折からはら茶をこのみわる故とりあへずたきける盛大豆をいり皮をきり、臺所へすとおきしに、〓八人來り見付け、此豆のかわ、われらに給り候へかし、あるじいふ、安き事也と答へければ、其皮をのこらず拾ひ寄はきよせくひける也。
國々〓絶〓程にて困窮するといへ其、別所奥〓南部甚人死多く〓〓〓仙臺御領にて、八百五十軒程〓し村にて人拾三人のこし皆〓へ人死いたしける。其後、日本廻回の行者、やすみかたりけるをしるす。是らの説、このましからぬ事と也、江戸杯にては小屋かけ、うへ人共あつめ置、御公儀より食物被下置しとなり、八百五十軒の人拾三人となる迄、御領主様御きゝに、たつせざる事はあるまじきものとは思へ共、遠路の事なれば、實説そ知らざれ共、あまり異なるはなしなれば、此處にのせ侍りぬ、此節いかなる繁花の地迄も、人々難澁いたし、米少しに、きらずをもに、かきまぜくひける中に、上方より出店しける人あつて、下々に、もちをつきくわせべしといふ、番頭いへるは、此せつ高直なるものなれば、御損ならんといふ、くるしからず隨分餅をたべさせ見べしとありて、餅をつき朝夕/\毎日くはせけれは、初めに多くいえけれども、後にはたべ兼、是も徳用なるしとかや、天に付考思ふに、田舍にてもこうせん食徳也迚、三日くひければ、又素麺のにつけ徳なりと、是を二三度くひければ、大豆うどんがよきといふ、立大豆うどんをしてくふ、彼是と少しも徳用の品ありやと、うろたへ、たび/\品をかゝくひける故、徳陽の品さらになも、百姓家にしては、幾度もひえ食をのみくひて、此節懸命をつなぎたば、〓餅よりも徳用なるべきか、當國邊は秋作は皆無にしても、春山内ばかりの飢饉にて、四月は麥作出來ぬれば難儀少し、夏作できずして秋作ばかりの國々は、秋迄の〓〓んなれば数人餓死の者多かりしもことはりなりし、辰の暮より穀物下直には成ぬれど、金錢拂度也、善光寺、大顔寺血脈、三月朔日より施しに出る悉群集也、辰の十月頃よりは麥相場、石成三斗、霜月頃、石壹斗位の取引致し、己の春に成り、差丈高直にも成らず、尤小賣貮家、壹分の賣買には〓朱に貮斗四升位にて正月頃は市相場もありて、次第に市をどりに三斗五升あり、二月末には五年に或六斗に成、高崎杯は十五日上麥石八升なり〓石迄で三月二十五六日頃は麥相場を又高直に成、二十七日富岡市にては分に三斗二升、雨に石年位、米も少々列上付、三月十四五日頃本宿八年四五升七八升位、少々あげ八年三四升三月二十九日相場也、水油高直にて五百五十位、辰年麻〓愈く澤山にをれし故、医の春油にしめし也。
六升〆〓八九合位出る。種殘百文に付五升位賣しなりとの春諸作に又荏薄の如くなる虫付、此虫晝七ツ時より出、夜中翌朝五ツ時迄ぐらひ、矢より土に入見へず、又出る事、右に同じ、五月下旬より八月下旬迄出、諸葉不殘くひしなり。
文政四辛巳秋月寫之
宇田邑
臼田永〓郎信貞